アブダリ・フチャの戦い
女真討伐軍の総司令官・楊鎬は、軍勢を四つに分けて各方面に進発させた後、予備兵力だけを手許に置いて全軍を指揮監督していたが、西路軍および北路軍壊滅の報を受けるや、南路軍と東南路軍に撤退を命じる伝令を飛ばした。
さすがに彼も、残る二軍団だけで金国軍を倒せると考えるほど愚かではない。
遼陽から清河を経由するルートで進軍していた南路軍の将・李如柏は、長らく遼東の地を統括してきた李成梁という武将の次男であり、兄の李如松と共に朝鮮で小西行長の軍と戦ったこともある。
父親の李成梁は、遼東の地を治めるにあたって、女真の各部族の対立につけ込み、互いに争わせた。
そして、李成梁の支援を受ける中から、力をつけてのし上がったのが、ヌルハチに他ならない。
元々慎重に兵を進めていた李如柏は、撤退命令を受け取るやすぐに行動に移した。
しかし、すでに敵地の奥深くまで進攻していた東南路軍には、撤退命令が届くことはなかった。
劉綎が率いる東南路軍は、朝鮮軍1万と合流して丹東付近から北上し、シャンギャンハダの戦いがあった3月2日には、ヘトゥアラ南方で金国の守備部隊を打ち破った。
「くそ、もうそこまで来ていたか。意外に脚の速いことだ」
その報を受けるや、ヌルハチは北路軍の残敵を掃討していた兵たちを招集し、急ぎヘトゥアラに帰還する。
「ダイシャン、そなたに命じる。漢人どもを討ち果たせ」
ヌルハチは次男ダイシャン率いる主力部隊を派遣。両軍は3月4日、ヘトゥアラ南方のアブダリで遭遇した。
劉綎は倭寇討伐で功績を挙げた劉顕の子で、南西の少数民族の反乱を鎮圧したり、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際には朝鮮救援に派遣されるなど、武功を重ねてきた。
また、杜松に輪をかけた剛力無双で、120斤(およそ80kg)の大刀を得物とし、「劉大刀」の異名を取る剛の者でもあった。
金国軍と会敵するや、劉綎は即座に陣を固めたが、ダイシャンは弟ホンタイジと古参の将フルハンにそれぞれ別動隊を指揮させて、劉綎軍を三方から攻撃。
劉綎はご自慢の大刀を揮って勇戦するも、力尽きて討ち死に、麾下の部隊も壊滅となった。
この時、劉綎軍の後方には朝鮮軍1万がいた。
時の朝鮮王は第十五代光海君。後に廃位に追い込まれたため、諡号は無い。
彼は新興の金国を恐れ――あるいはその脅威を正確に認識し、派兵には否定的だった。
しかし、文禄・慶長の役、朝鮮でいうところの壬辰倭乱に際して明が援軍を送ってくれた恩義に報いるべきという名分論に押し切られ、しぶしぶ姜弘立という将を送り込むことを決めた。
出兵に先立ち、光海君は密かに姜弘立を呼び寄せ、直々に命じた。
「やむを得ぬ場合は無理をせず、女直どもに降伏せよ」
「よ、よろしいのですか、殿下?」
「兵を出すことで大明への義理は果たした。兵たちの命を無駄にするな。もちろん、そなたもだ」
「承知いたしました、殿下」
姜弘立は明の東南路軍に付き従いつつも、密かに使者をヘトゥアラに送り、今回の朝鮮の出兵は本意でなかった旨を伝えておいた。
劉綎の部隊が壊滅した時、朝鮮軍は明軍の後続部隊と共に、南のフチャという地にいた。
これに対し、ダイシャンはホンタイジを先鋒に立てて攻め寄せる。
姜弘立は長槍隊に護衛させた鳥銃隊を前衛に立て、金国軍を迎え撃とうとした。
しかし、折悪しく強風が吹きつけ、鳥銃斉射による黒色火薬の白煙が朝鮮軍の視界を遮ってしまい、そこへ金国軍の騎馬隊が殺到、前衛を打ち破った。
乱戦の中、朝鮮軍はその半数近くの兵を失い、また明の東南路軍後続部隊も壊滅。
ダイシャンは生き残った朝鮮軍5千に対し降伏勧告の使者を送り、姜弘立は王の言いつけ通り降伏した。
残る南路軍の将・李如柏は、総司令官からの撤退命令を受け取るや、素直にそれに従い兵を返そうとした。
しかし、この時金国の斥候20名あまりが、山に登り法螺貝を吹き鳴らした。金国軍が攻撃を仕掛けようとしていると見せかけたのである。
まだ敵影も見えぬのに撤退することを不審に思っていた兵たちは、これに驚き我先に逃げようとし、南路軍は大混乱に陥った。
「ば、馬鹿者! あれはただの脅しだ。この近くに敵などおらぬ!」
李如柏ら将たちが押しとどめようとするのも空しく、南路軍は千人近い死者を出した。
本拠地の鉄嶺に戻った李如柏だったが、朝廷では彼の失態をあげつらう者たちが続出し、挙句の果てには、父・李成梁とヌルハチの関係から、如柏が金国に内通しているなどと言い出す者まで現れた。
「おのれ、小人どもめが!」
翌年、李如柏は北京に召喚されることとなり、抗議の自殺を遂げた。
かくして、敵に数倍する兵を動員した女真討伐は、見るも無残な結末を迎えたのであった。
神蔵(旧・和倉)眞吹さまの「朝鮮王朝、創作こぼれ話」第12話「『王様』って呼ぶの、実は失礼なんです!?」(https://ncode.syosetu.com/n8607do/12/)によると、朝鮮王に対する敬称「殿下」の発音は、「チョナ」ではなく「チョーナー」と伸ばさないと失礼に当たるのだそうです。
訂正いたしましたm(_ _)m
ちなみに、何故「陛下」じゃなくて「殿下」なのかというと、宗主国たる中華王朝に対する配慮です。