明軍迫る
太古より、人類は大小幾万もの戦いを繰り返してきた。
その中には、それ以降の歴史の流れを大きく変え、時代を画す分水嶺となった戦いも数多い。
これは、それらの中でも最も劇的なものの一つ――。建国間もない金(後金)が明の大軍を撃破し、後に国号を清と改め中国全土を征服する端緒となった、サルフの戦いの物語である。
果てしなく広がる青い空。
壮年の偉丈夫が一人、じっと空を見つめていた。
頭髪の大部分を剃り、後頭部の髪だけを長く伸ばして三つ編みにした辮髪姿。
顔には無数の古傷が残り、彼が過ごしてきた歳月の過酷さを物語っている。
「こちらにおいででしたか、父、いえ、汗」
彼を探しに来た若者が声をかける。
男の名はヌルハチ。中国大陸東北部に割拠する半農半猟の民・女真族を統一し、金国を建国して汗、すなわち王に即位した。西暦1616年、明の年号で万暦44年のことである。
かつて宋を南に追いやり華北の地を支配した完顔氏の金とは同族であるが、これと区別するため、一般的には「後金」と呼び習わされる。
そして彼を呼びに来た若者は、ヌルハチの八男・ホンタイジ。
八男でまだ二十代の若者ではあるが、いささか勇に偏るきらいのある兄たちと比べ、思慮深く冷静沈着な性格を父から高く評価されている。
「ホンタイジ」という、本来は皇太子、王などを意味する普通名詞である名で呼ばれていることも、父の期待のあらわれであろう。
「明の軍勢が迫りつつあるとの知らせが入り、長老方が集まっておいでです」
金国の汗、と言っても、この頃はまだ部族連合の盟主と言う方が実情に近い。
そもそも、彼ら女真族(「女直族」とも)は、漢民族の「夷を以って夷を制す」政策に乗せられ、いくつもの部族に分裂して互いに争ってきた。
その中でも最も西側、明の領域に近いところに暮らしていた建州女直の一派の中から台頭し、時に武力、時に婚姻政策によって女真の大部分を統一したのがヌルハチであったが、各部族の長たちの意向を無視するわけにはいかない。
ヌルハチの本拠地であり、金国の建国とともに都と定められたヘトゥアラ(現在の撫順市南東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村)の王城。もっともらしい造りの玉座に座り、ヌルハチは群臣たちを見降ろした。
(ふん、どいつもこいつも怖気づきおって)
腹の中で、ヌルハチが吐き捨てる。
ヌルハチは金国の建国と同時に、明と真っ向から対立する姿勢を露わにした。
明の女真族に対する基本方針が、分裂させ相争わせるというものである以上、女真の大半を統一して大勢力となったヌルハチを、黙って見過ごしてくれるはずがない。
それならばいっそ先手を打とう、というのがヌルハチの考えだった。
ヌルハチが定めた元号で天命3年、西暦1618年。
ヌルハチは明に対し「七大恨」という檄文を突き付けて、その非を鳴らした。
その内容は重複している部分が多く、無理矢理七つ数え上げている感があるが、要点を言えば、ヌルハチの父と祖父を殺害したこと、ヌルハチと敵対する部族に肩入れし対立を煽ったこと、などを責めるものだ。
父と祖父の死に関しては、明の将の下で他の部族を攻めた時の事故のようなもので、ヌルハチ自身、そのことで明に対し恨み骨髄、というわけではなく、有り体に言えば、明を敵として女真を纏め上げるための口実である。
この檄文を掲げ、ヌルハチは遼東における明の拠点である撫順に侵攻、これを攻め落とし、周辺の城市を荒らし回るだけ荒らし回ってヘトゥアラに引き揚げた。
これに対し、明は遼東巡撫の楊鎬という人物に女真討伐を命じた。
この楊鎬という男、豊臣秀吉が朝鮮に攻め込んだ慶長の役において総司令官に任じられるも、加藤清正軍に惨敗したにもかかわらず勝利と偽ったことがバレて解任されたといういわくつきの人物である。
楊鎬は、ヌルハチによる統一をよしとせず抵抗を続ける海西女直の一派・イェヘ部や、朝鮮国にも出兵を求めた。
そして楊鎬は全軍を四つに分け、南北各方面からヘトゥアラへ進軍させて、これを包囲殲滅せんと目論んだ。
その総兵力、号するところ45万。金国の人々を震え上がらせるのに十分な数字であった。
「どうなさるおつもりですか、汗! 漢人どもは45万と号する兵を動員し、こちらに迫ってきております。かたや我が軍は、最大限集めても6万程度。とうてい敵うものではありませんぞ!」
「そうです! 元はと言えば、汗が明朝に喧嘩をふっかけたことが原因ではないですか!」
部族長たちが口々に言い募るのを、ヌルハチは黙って聞いていた。
部族長や兄たちの下位、末席に近い席に着いていたホンタイジが、つとめて冷静な口調で口を挟む。
「45万と言っても、あくまで“号する”というやつですし、実数はその半分もいればいいところ。おそらくは三分の一程度かと」
「だとしても、我が軍よりも圧倒的に多いではないか!」
そこで、それまで黙していたヌルハチがはじめて口を開いた。
「漢人の愚将弱卒が何十万集まろうと、所詮は烏合の衆。諸将は何を恐れているのか」
(父上も大言壮語なさるものよ)
ホンタイジは内心面白がりながら、顔色は変えずに父である汗を窺い見た。
たしかに、兵の練度という点では女真に圧倒的な利がある。しかし、明にも優れた将はいるだろうし、そして何より、明軍は強力な火砲を大量に有しているのだ。
かたや金国の側の主兵装は弓矢。中原の兵が引くものよりもずっと強力とはいえ、不利は免れない。
「ですが……」
なおも抗弁しようとした部族長を一睨みして黙らせ、ヌルハチは言葉を続けた。
「それに、だ。45万、いや、おそらくは20万程の敵兵が一堂に会し、それと真正面からぶつかるとなれば、さすがに少々手強かろう。しかし、細作の報告によれば、やつらは兵を分けた」
「そ、そうです! このままでは、南北から挟み撃ちにされることに……」
分進合撃というやつだな、とホンタイジは内心呟く。
上手く嵌まれば、部族長たちが恐れるとおり、金国軍は多正面作戦を強いられた末に、挟撃され包囲殲滅されてしまうだろう。
ただし、あくまでも上手く嵌まればの話である。
実を言えば、ホンタイジの見るところ、ここ最近の父は常になく表情が硬かった。
さすがに、明の大軍を相手取ることに不安を覚えていたのだろう。
しかし、先ほど青天の下で見た父の眼差しに迷いは無かった。
明軍の詳細について細作から報告を受け、勝機を見出したということか。
「首をすくめて座り込んでおったなら、そういうことにもなろう。されど、我らの馬の脚は漢人どもよりもずっと速い。やつらに囲まれる前に、その出鼻を挫く!」
ヌルハチは立ち上がり、高らかにそう宣言した。