【練習番号H】出来心と、3人目の新入部員
<前回までのあらすじ>
母親の影響で、小学生からトランペットを吹いていた高城沙織は、進学した高校でも吹奏楽部に入部した。
実力を認められ、吹奏楽部の新入生勧誘演奏に一年生の新入部員ながら参加した沙織。
最初は新入部員の一年生が部活の勧誘活動に参加することに難色を示していた沙織だが、体力の限界まで演奏し切ることを決意した。
勧誘演奏が終了し、ギャラリーから大絶賛を受ける吹奏楽部。
だが、大勢の他校生が、ほとんどコンクールでの実績名がないF女吹奏楽部の演奏を聴きに訪れたのか?
そして、新入生勧誘演奏の思わぬ副産物とは?
勧誘演奏の本番が終わった安堵感に浸るのもつかの間、その影に隠れていた様々な問題が表面化していく。
《トランペット吹きの休日》の2度目の演奏を終えた沙織は、満足していた。
衰えを知らぬギャラリーの熱狂に応えて、急遽《トランペット吹きの休日》をアンコールで演奏することになった。
ぶっ続けで《休日》を吹くことは想定外だったが、勧誘演奏は沙織にとって久々の本番だったし、「ああ、本番てこんな感じだったな」と、練習では得られない、人前で演奏したときにだけ得られる充実感を彼女は思いだした。
「この感じ、懐かしいな」
沙織がそう独りごちた時、部長が沙織の所にやって来た。
「沙織。この喝采は、全てあなたに送られているのよ。さあ、もっと前に来て、みんなに挨拶して。2、3度お辞儀するだけでいいから」
沙織は部長に促されて指揮台の前に行くと、言われた通りお辞儀をした。
「みなさん、一年生の新入部員に、盛大な拍手をお送り下さい!」
部長がそう観客を煽ると、会場からの喝采はさらに激しくなった。
沙織は、それ以上の挨拶はせず、すぐに自分の位置に戻ったが、会場の熱気は醒めることを知らないようだった。
「それでは、3日間に渡ってお送りしてまいりました、吹奏楽部の新入生勧誘演奏は、これにて終了になります。みなさん、ご清聴、どうもありがとうございました! 3日に渡って聴きに来てくれた新入生もいるみたいだけど、今度は是非、入部届を持って部室に来てくださいね!」
部長は最後のマイク・パフォーマンスをそう締めくくった。
演奏を聴いた興奮冷めやらぬ中、解散していくギャラリーたち。
「それじゃあみんな、ここの使用時間はとっくに過ぎているので、速やかに撤収作業を行って下さい」
部長は演奏メンバーに向かってそう発破をかけた。
予定にはないアンコール演奏をしたお陰で、この場所で許可された時間は5分ちょっと押していたのだ。
これを口実に、来年また、生徒会が吹奏楽部の新入生勧誘演奏を妨害してくるかもしれなかった。
しかし、生徒会によってもし来年の勧誘演奏が中止になったとしても、今年のコンクールで良い成績を収めれば、きっと来年は優秀な新入生が集まってくるだろう。
それに、来年は、あの生徒会長はもういない。
もっとも、来年この場にいられないのは、自分も同じだったが。
「そうか、新入生勧誘演奏、今年で最後だったんだ」
それが、部長が勧誘演奏をすることに拘った理由の一つでもあった。
「後悔したくなかったのね、私」と、部長は一瞬そのことにある種の郷愁を感じたが、その郷愁に浸っている訳にはいかなかった。
「それから、今、生徒会と美化委員にお願いしている交通整理を受け継ぎますので、クラリネット、フルート、そして低音から2名づつ出してもらえるかしら? 各パートのパートリーダーとセクションリーダーお願いします」
部長が、セッティングの指示をするために勧誘演奏の会場に着いた時、既に校門外には少なからずギャラリーが集まっていた。さすがにそのままにしておく訳にはいかなかったので、ダメ元で生徒会長に協力を願い出ると、意外にも、すんなりと人員整理要員を例年よりも増員してくれた。
部長が、各パートから選ばれた人員整理要員を連れて生徒会役員と交代しに行こうとすると、在校生でごった返した中から、生徒会長がやって来た。
「部長さん、うちもライヴ配信を見とったけど、勧誘演奏は大盛況やったみたいやね?」
まさか生徒会長が出張ってくるとは思っていなかった部長は、驚きを隠せなかった。
「そう驚かんでもええやろ? 校内でのイベントを認めた以上、その管理もうちら生徒会の役割りでもあるのやさいかい」
部長の驚きを察したのか、生徒会長はそう言ってニヤリと笑う。
「ええ・・・それはそうかもしれないけど、まさか、生徒会長直々に様子を見に来るとは思わなかったから・・・」
部長は困惑した表情でそう答え、「あなたたちは先に行ってて」と吹奏楽部の人員整理要員に指示を出す。
「それには、ちょっと理由がありましてな」
生徒会長は、部長から視線を外し、校門の外に集まっているギャラリーの方向を見て言った。
「理由? それは、どういう・・・」
部長は、生徒会長からどんな事を言われるのか身構えたが、その内容は意外なことだった。
「それは、今回、部外者のギャラリーがこれだけ集まった理由や」
生徒会長が部長を真正面から冷ややかな視線で見つめる。
そんなことに、理由があるのか。
まあ、あるとしても、吹奏楽部のSNSなどでの広報活動が功を奏しただけではないのか。
「部外者のギャラリーが集まった理由・・・」
部長は、生徒会長の言葉を心配そうな表情で復唱した。
「実はな、高校の吹奏楽部で有名な情報交換掲示板に、ある書き込みがあってな」
その掲示板は、「ああ、あれか」とパソコンやネット情報に疎い部長でも知っているくらい、この界隈では有名な掲示板だった。
「うちがその話を聞いて、それを見たときには既に削除されていたさかい、詳細は分からないのやけれど、うちの学校の在校生が吹奏楽部員の知り合いから聞いた話として、『今年新しく入部したトランペットの一年生が凄すぎて、三年生があっさりとトップの座を奪われたらしい。明日、校門の外側からでも演奏が聴ける校内の広場で行われる勧誘演奏にも出るらしいから、興味ある人は聴きに行った方がいい』とかなんとか。内部情報てんこ盛りやったらしい」
生徒会長のその話を聞いて、部長は血の気がサッと引くのを強く感じた。
「まさか・・・そんな・・・」
部長は生徒会長から無意識に視線をそらす。
「まあ大した情報ではないさかい、リーク元の調査とかそな野暮なことはしいひんけど、一応あんたの耳にも入れとこう思てな。もっとも、これがエスカレートして、最悪の場合、今後重大な機密情報がリークされひんとも限らへんし」
確かにそうだ。
考えたくはないことだが、この情報のリーク元が、もし吹奏楽部員だったりした場合、何もお咎めがなければそれに味をしめて、今後、頭に乗ってもっと重要な情報をリークしかねない。
「分かったわ。どうもありがとう、生徒会長。この件は、私の方で何とかしておきます」
「その方がええと思う。ほな、あとはよろしゅう」
生徒会長はそう言うと、踵を返し、生徒会室の方に歩いていった。
彼女は、本当にそのことだけを伝えにここに来たようだった。
「“大した情報じゃない”? 重大なコンプライアンス違反だし、吹奏楽部にとっては大問題よ。あんただって、そう思ったからわざわざここまで来たんでしょうが」
部長は、相変わらず掴みどころのない生徒会長の態度に嫌気が差しつつも、正に寝耳に水の話を聞かされて、しばらくその場に立ち尽くしていた。
そうしていると、ある「仮説」が頭をよぎった。
「まさか、そんなはずが・・・」と、一旦はその仮説を却下しようとしたものの、彼女にはそれ以外に情報のリーク元に心当たりがなかった。
ギャラリーの方は人員整理要員に任せることにし、自分の「仮説」を確かめるため、部室に戻ることにした。
部長が音楽室に入ると、そこは昨日以上の新入生が訪れているようで、見たこともないような混雑ぶりだった。
勧誘演奏から戻ったメンバーの片付けと、新入生の対応をする部員とが入り交じり、音楽室はごったがえしていた。その混雑は、通常の空調の能力も越えていたようで、4月上旬のこの時期にそぐわず、冷房が入れられていた程だった。
勧誘演奏メンバーが、新入生の勧誘で校舎に散らばれば、少しはこの混雑も抑えられそうだったが、見学に訪れる新入生の数を考えると、それも一時的か、焼け石に水のように思われた。
もっとも盛り上がっていたのはトランペットが説明を行っているブースで、高城沙織の回りに人だかりができていた。
相変わらず他人との交流にあわあわしている沙織を横目に、この混雑状態を何とかしなければいけないと思いつつも、速やかに解決すべき課題を抱えていた部長は、そのまま部室に入って行った。
部室では、一人、副部長がパソコンに向かって作業をしていた。
吹奏楽部のウェブ・ページや、SNSでの広報活動や動画サイトに投稿された動画の管理は、副部長に一任してある。
F女は、文科省から「SSH指定校」となっており、情報技術教育に力を入れている。副部長は、選抜された生徒の中でも、トップクラスの成績だった。
副部長は、部長が部室に入ってきたことに気づくと、
「部長! ちょっとこれ見てよ。今日の演奏のライヴ配信のコメント。ほとんどが高城さんを絶賛するものばかりだけど、うちの吹奏楽部がこんなに上手い演奏だと思わなかったっていう意見もたくさん」
副部長は、そう言って手招きする。
部長が近くに寄っていくと、コメント欄は文字でびっしりと埋まっていた。
「最大同時視聴者数8200件越えよ。こんなの、うちらの動画の中で桁違いの断トツ。これ、本当にアーカイヴ残さなくていいの?」
副部長は興奮が抑えられない様子だった。
「そうよ。アーカイヴは残さない。だって、演奏をライヴ配信すること自体異例だし、新入生の勧誘活動を目的としたライヴ配信だから、アーカイヴ残すのは目的外使用になって学校の規約に違反するから。そんなこと、あなただってよく分かってるでしょう?」
どうしても、咎めるような口調になってしまう。
「そうですね、すみません。つい、調子にのってしまって」
副部長は軽く謝罪したが、部長はそのままにはしておかなかった。
「実はね、ある掲示板に、今回の演奏のことで、ちょっとした書き込みがあったのよ」
「掲示板に書き込み、ですか・・・」
副会長の態度がみるからに一変した。
「あの・・・、その話、どこで?」
副会長が俯いて部長に尋ねる。
「さっき、生徒会長と会った時、知らされたわ。あの人、いろいろなところに情報網があるみたいだから」
「あの生徒会長が・・・」
その表情と態度から、副部長は明らかに動揺している様子だった。
「そうよ。しかも、その掲示板の書き込みは、この吹奏楽部の関係者しか知らない内部情報込みだったようよ。『吹奏楽部員の知り合いから聞いた』ってことで、情報元はボカされていたようだけど」
パソコンの画面を見たまま微動だにしない副部長。
「そのことについて、あなた、何か心当たりない?」
部長からそう訊かれ、部長はそのまましばらくはパソコンの画面を見つめていた。
「吹奏楽部の部外者の生徒が、部員の知り合いから聞いた話まで、私は管理できません――」
しばらくすると、副部長はパソコンのモニターから視線を外し、目を伏せてボソッと言う。
部室内は、すぐに音楽室の喧騒が薄く広がるだけになった。
「そりゃ、確かに吹奏楽部員以外の行動に制約はかけられないわ。でも、その掲示板は、私も知っているくらいだから、高校の吹奏楽部員には有名だけど、そうでない生徒には存在すら知られていないはずよ。そんな掲示板に、部外者がライヴ配信の視聴者数を稼ぐような書き込み、わざわざするかしらね? どう考えても、その書き込みはうちの吹奏楽員よ」
そう言われても、副部長は相変わらず黙ったままだった。
パソコンの画面には、一次保存された新入生勧誘活動のライヴ配信の動画が再生されていた。
「そのことについて、あなたは、どう思う?」
いつまでもだんまりを続ける副部長に対して、部長は少し語気を強めて言った。
「私――それ、答えなきゃダメなの?」
副部長はそこまで言ったが、その先が続かなかった。
「答えたくなければ、答えなくていいわよ。この件については、生徒会長も深くは追求しないと言っていたし、対応は私に任せてくれたわ。私も、大事にする気はないのよ。でも、内部情報をこういう形でリークするのは、いけないことよね。情報には、公にして良いものといけないものがあるのは、私よりもあなたの方がよく知っているはず。もし、こういうことが続くようであれば、最悪、動画配信も含めて、吹奏楽部だけでなく、学校側から全ての部活のSNSでの広報活動は禁止されるかもしれないわ」
「それは困るわ!」
部長のその言葉を聞いて、副部長は困惑した表情で訴えた。
「だから“もし”の話よ。これからは、部員全員に、部活動で知り得た事柄は、友達とか親とか、親しい間柄でも公開が許された情報しか公言しないように徹底しなくちゃ。副部長、悪いけど、そのことについての通達、作成してもらえないかしら。次の役員会議で内容は詰めるけど、部活からの許しがなくても公言できる情報とそうでない情報の具体例を考えつく限り挙げてもらえる? もちろん、SNSや掲示板への書き込みも含めて」
「それだけで、いいの?」
副部長は、やはり部長とは視線合わせず、パソコンの画面を見つめながら呟いた。
部長には、その言葉だけで副部長の言いたいことは分かった。
「だから、今回の掲示板への書き込みの件は、深くは追求しないし、大事にもしないって言ってるでしょう? 」
「私は、ただ・・・」
「だから、この件はもういいの」
部長は、副部長の言葉を遮るようにして言う。
「いいえ、よくないわよ! だから、言わせて、部長!」
副部長はそう言うと、堰を切ったように話し始めた。
「私は、どうしても今回のライヴ配信をたくさんの人に見てもらいたかった。高城さんの演奏はとても素晴らしいし、特に今までF女吹奏楽部のことをとやかく言っていた人達に、うちの吹奏楽部が生まれ変わった姿を示してやろうって。そして、一年生には、誇りを持ってうちの部活に入ってもらいたかった。今のままでは、『F女の吹奏楽部? 微妙じゃね』なんて揶揄されかねないわ。私たちは、今年が最後のコンクールだし、三年生だけでなく、来年、再来年がある下級生たちのためにも、F女の吹奏楽部の良さをたくさんの人に知ってもらって、良い部員を集めて素晴らしい演奏をして、その結果、コンクールで良い成績を納める部長の夢も叶えたくて・・・それから、それから・・・」
副部長はそう言うと、感極まってボロ泣きし出した。
部長は、その副部長の姿を見ると、彼女の頭を抱きかかえ、髪を優しく撫でながら言った。
「分かった分かった。だから、もうそれ以上言う必要はないわ。あなたが今までしてくれたことには、感謝しているわ。パソコンに強いのは部活であなただけだったから、ずっとあなた一人に任せっきりだった私も悪かった。でも、あなたは本当によくやってくれたわ。いつも最後まで残って、編集作業やコメント返信なんかをしていたのも知ってた。ホント言うとね、あなたがアクセス数が上がったとか、視聴者数が去年よりどのくらい増えただとか、嬉しそうに言う姿を見て、私も喜しい気分になったわ。だから、今回の件で、自分をこれ以上責めるのは止めてね」
副部長は、部長がそう言っている間、部長の腕の中で泣いていた。
部長が副部長の頭を放し、頬に手を当てて「大丈夫?」と訊いた。
「大丈夫よ。取り乱したりして、ごめん・・・」
副部長は泣き止み、部長と見つめ合う。
すると、音楽室と部室を隔てるドアからノックをする音が聞こえた。
楽譜係の二年生が、回収した勧誘演奏で使った楽譜の束を抱えて入ってきて、びっくりした顔をして言った。
「ふ、副部長、どうしたんですか? 眼、真っ赤ですど・・・」
「いや、何でもないのよ。ちょっと、花粉症でね。朝つけた目薬の効果が切れちゃって」
「なんだ、びっくりしました。泣いてたのかと」
楽譜係の二年生はそう言うと、部長をチラ見する。
「何よ、私が副部長をイジメてたとでも?」
「いえ、別にそういう訳では・・・」
楽譜係は、楽譜の束を抱えたまま直立不動になった。
「その楽譜、ファイルするんでしょ? 気にしなくてから、作業やっちゃって」
「はい。それでは、失礼して・・・」
楽譜係の二年生はそう言って、彼女たちの前を通り、部室の奥にある楽譜保管場所に行く。
「じゃあ、副部長は、さっき言った書類を金曜日までに纏めてもらえる? 私は、新入生の集まり具合を見てくるので」
部長はそう言うと、音楽室に入って行った。
「勢いで来ちゃったけど、どうしよう・・・」
今年、F女に入学した一年生瀬川奈緒は、帰りがけに校門の近くにある広場でやっていた吹奏楽部の新入生勧誘演奏を聴き、その素晴らしさに感動し、その感動を抱いたまま音楽室の前にやって来た。
音楽室の入り口では、制服の紐帯の学年色から二年生と分かる部員が、繁華街の呼び込みよろしく声を張り上げて新入生を勧誘している。
あそこまで行ってしまったら、もう戻れない。
その50メートル手前くらいで躊躇し、窓から外を眺めたりしてウロウロしていた。
中学では一年生いっぱい、吹奏楽部に所属していたが、二年生になると退部してしまった。
吹奏楽部は、顧問が新しくなってから、コンサートでなく、マーチングに力を入れるようになったからだった。
部員たちの間では、教えられる顧問が何年間も不在で、部員も毎年のように減っていくバトン部が廃止されるに当たり、運動部の応援が寂しくなるとの理由から、吹奏楽部をマーチング・バンドに替えて、その賑やかしにした、という話が実しやかに噂された。
しかも。
コンサートとマーチングを両立している学校もあるが、夏の吹奏楽コンクールには出場せず、秋に行われるマーチング・コンテスト一本に絞るということだった。
オーケストラが、教会やオペラ・ハウスで合唱やオペラの伴奏をする室内楽団として生まれたのと対象的に、吹奏楽は、もともと、軍隊の行進の伴奏やセレモニーなどで演奏する軍楽隊から生まれたもの。
だから、どちらかと言えばコンサートよりもマーチングの方が本職である。
オーケストラは、ベートーヴェン以降、教会やオペラの伴奏から離れ、一般市民向けのコンサートを行うようになっていく。例えばウィーン・フィルは、もともと帝国王立宮廷歌劇場(現・ウィーン国立歌劇場)の座付きオーケストラだが、19世紀中頃からコンサート・ホールで定期的なコンサートを行うようになる。
その辺りになると、「序曲」や「行進曲」も、その本来の意味から離れ、具体的なオペラ作品のない「序曲」や、軍隊の行進の伴奏ではない、コンサートで演奏されることが目的の「行進曲」も現れてくる。その頃になると、「ウィンナ・ワルツ」でさえ舞踏会ではなくコンサート・ホールで演奏される曲になっていき、「音楽ジャンル」のクロスオーヴァー化が進んでくる。
同じ頃、ベルリオーズやワーグナーなど、吹奏楽用の楽曲を書くクラシック音楽の作曲家も現れてきて、近代では吹奏楽専門の作曲家さえ出てくる。
だから、今や吹奏楽は決してオーケストラの代用品でも、コンサート・ホールで演奏する軍楽隊でもなく、弦楽四重奏やピアノ独奏と同じように、れっきとした独立した音楽ジャンルなのだ。
少なくとも、奈緒にとっての吹奏楽とはそういうものだった。
その吹奏楽部改め、マーチング部の新しく顧問になった先生は、マーチングの世界では有名な大学のマーチング部の主将を務めていたためか、新設直後からメキメキと頭角を現し、奈緒が三年生の時のコンテストでは都道府県大会を突破し、支部大会出場という栄誉を勝ち取った。奈緒が卒業した今年は、支部大会の突破もするのではないかと関係者の間では言われている。
しかし、奈緒がやりたかったのは飽くまでもコンサート・バンドであり、マーチングではなかったので、部活を辞めたことは後悔していなかった。
吹奏楽部を辞めてからは、隣県の市民吹奏楽団に入って、吹奏楽生活も満喫出来ていたからだ。ゆくゆくは、オーケストラでも演奏したいと思っており、マーチングは最初から方向性が違ったのだ。
だから、先の勧誘演奏で、一年生だと紹介されていた生徒のトランペットの演奏は、奈緒の心、いや、魂までを強く揺さぶった。
彼女といっしょに演奏したい。
奈緒は、強くそう思った。
しかし、逆説的ではあるが、奈緒がここで吹奏楽部に入部するのをためらっているのは、その彼女の演奏が巧すぎたからでもあった。
彼女のように巧い奏者が他にもいた場合、出場人数に限りのある吹奏楽コンクールの舞台に全員は乗れない。オーディションをして、そのオーディションでいくら巧く演奏しても、それ以上の演奏をした人が別にいれば、レギュラーとして採用されない可能性がある。
しかし、奈緒が気にしているのは、そんなことではなかった。
その一年生の演奏は、確かに巧い。そして、その演奏が自分の琴線に触れた。それは間違いない。
だが、彼女の演奏は、なんとなく技術偏重に聴こえたのだ。
音楽というのは不思議なもので、ギターでもピアノでも、超絶技巧を駆使して速くて難しいパッセージをパラパラと淀みなく演奏できればそれでいいのか、というと、必ずしもそうではない。
そこに音楽はあるのか。
奈緒にとっては、それが一番大事だった。
簡単なように見える楽譜を、極めて音楽的に表現した演奏にも、そういうった超絶技巧を駆使した演奏以上の感動はあるのだ。
例えば、トランペットでいえば、普通に演奏される音の2オクターヴも3オクターヴも上の音域を自在に吹きこなす「ハイノート・プレーヤー」がいる。
それはそれで素晴らしいのだが、必ずしも高音を吹き鳴らすのだけがトランペットではない。
さっき聴いた一年生の演奏は、奈緒には、どうも前者のように感じられた。
とはいうものの。
こんなところでグダグダしていても仕方がない。
奈緒は、仮入部して、それで自分の感性と部活の雰囲気が合わなければ入部届をださなければいい、それだけの話だ。彼女はそう決心して、音楽室に向かって歩いて行った。
入り口で待機していた二年生に案内され、トランペットのブースの方を見ると、彼女がいた。
確かに、さっきの勧誘演奏に参加していた一年生だ。
その彼女の回りには、人だかりが出来ている。
聞こえてくる話し声は、どれもさっきの演奏を称賛する言葉ばかりだった。
その中心にいる“彼女”は、褒められることに慣れていないらしく、何かオロオロしているようで、自分の姿を見ると、話題を変えるチャンスとばかりに、話しかけてきた。
「あ、あなた、部活見学に来たの?」
「うん、そうだよ」
答える奈緒。
「そうなんだ、えっと、希望の楽器ってあるのかな? 初心者で楽器がまだ決まってないんだったら、向こうの方で三年生がいろいろ説明してくれるから、聞きに行ってね」
それだけのことを言うのに、彼女は大げさな身振り手振りで話しているのが面白かった。
「大丈夫よ、楽器、決まってるし、経験者だから」
奈緒がそう伝えると、彼女はやや安堵した表情になった。
「そうなの!? どの楽器?」
一年生なのに何故か勧誘活動をしている“彼女”におかしさを感じつつ、
「私は一年B組、瀬川奈緒。希望楽器は、あなたと同じ、トランペットよ」
奈緒は自己紹介を交えて、希望楽器を伝えた。
「えー! あなたもトランペットなんだ! 凄い、トランペットに経験者が三人も。ちょっと待ってね、部長に伝えてくるから」
沙織が、周囲をぐるりと囲んでいる人だかりを避けて部室に向かおうとすると、部長がこちらに向かってくるのが見えた。
「何よ、この人だかりは。希望楽器が決まっている一年生はその楽器のブースへ、そうでない一年生は出入り口の方で楽器相談やってるから、速やかにそっちに行ってちょうだい。そこのあなたも・・・」
部長が奈緒に話しかけようとすると、沙織がそれを遮った。
「部長、この子の楽器はもう決まってます。トランペットで、経験者だそうです!」
部長は、沙織のその言葉を聞き、驚きを隠せなかった。
「まあ、そうなの!? こんなことってあるかしら。トランペットに三人も経験者が来るなんて、嬉しいわ」
部長が感極まる姿を見て、奈緒は少し驚いた。
「私が中学で吹奏楽部に入った時は、トランペットは人数が多くて、最初にマウスピースを渡されて、音が出た人だけが採用されました。高校って、トランペットの希望者、そんなに少ないんですか?」
奈緒が質問する。
「そうねえ。学校によって違うかもしれないけど、中学でトランペットをやってはみたものの、高い音は出ないわ演奏はキツイわで、思ったより難しいトランペットの演奏に挫折して、高校でもやろうなんて思わない人が多いみたいね。逆に、中学でそこそこのレベルまでいった場合、もっと高みを目指そうと、強豪に進学する。そんな感じで、うちの学校みたいに偏差値も吹奏楽部の実力も中途半端な学校の吹奏楽部は、人材が薄くなるのよ」
部長が説明し、沙織がうん、うんと頷く。
「へえ、そういうもんですか。私は、隣県の市民吹奏楽団に参加しているので、高校で吹奏楽やるかどうか考えず、偏差値だけで決めちゃったんで、学校。そんな感じでも、大丈夫ですか。今日も、たまたま外の勧誘演奏聴いて、部活見学してみようかなって思ったので、楽器持ってきてないんですけど」
「あ、そうなんだ。市民吹奏楽団に所属してトランペット吹いているなんて素敵ね。それじゃあ、音、聴かせてもらってもいいかな? ここにある楽器、どれでもいいから。マウスピース、Bachの3Cと5Cしかないから、合わないかもしれないけど、とりあえず、ね」
部長はそういって、机の上に並べられた楽器を指差す。
「あ、それなら大丈夫です。私、3Cなんで」
Bachの3Cのマウスピースは、比較的大きめのマウスピースなので初心者向きではないが、癖がなく、低音から高音までまんべんなくなく出せて、吹奏楽にもオーケストラにも通用するオールマイティーなマウスピースだ。
「それなら良かったわ。あ、ちなみに楽器は何を使ってるの?」
部長が訊く。
「楽器は、Bachの180MLです。新品なんてとても買えないので、中古ですけど」
「180MLかあ。良い楽器使ってるわね」
「はい。今、アマチュアで一番使われてる楽器です。他の団員との音のバランスも考えると、やっぱり、楽器はオーソドックスな方が良いと思って」
奈緒は、少しだけ得意そうな口調で言った。
そして、奈緒は、沙織の楽器を見た。
「えっと、あなたの楽器、チューニング管に支柱がなくて、スチューデント・モデルにも見えるけど、どこのメーカー?」
今まで部長と話していた奈緒が、突然自分に話を振ってきたのであたふたする沙織。
「え、私の楽器? 私の楽器は、シルキーだけど」
「し、シルキー!? シルキーって、えらくお高い印象しかないけど、支柱がない分、音色が明るくて反応も軽く、どちらかと言うとジャズとかポップス向きの楽器じゃないの?」
奈緒が突っかかってきた。
「確かにシルキーは抵抗が少ないわ。その分、Bachに比べれば明るめの音色だけど、楽に吹けるよ。楽器も軽いし。私、もともと暗めの音質だから、Bachだと音が落ち着き過ぎるの。その代わり、マウスピースはBachの1 1/2Cにして、豊かな響きと深味のある音質にしてるから、音色が明るすぎて音が浮いちゃうことはないよ。それに、どうしても音色を他のメンバーと合わせたければ、他にYAMAHAのシカゴ・モデルがあるから、それ吹くようにしてるけど。今は、学校ではシルキー、家での練習はシカゴ・モデルで使い分けてる」
沙織が説明する。
「ちょっと待って。シルキーの他にXenoのシカゴ・モデル持ってるとかいろいろツッコミどころあるけど、あなたのマウスピース、1 1/2Cなの? そんな大きいマウスピースで、さっきの演奏したって訳? 私、てっきり小さくて浅い高音が出やすいマウスピース使ってドヤってるって思ってた」
またもや突っかかってくる奈緒。
「そう、だけど・・・」
「信じられないわ。あなた、どこまで高い音出るの?」
奈緒が頭を左右に振りながら言った。
「とりあえず、highGくらいまで、かな・・・」
沙織は、この音楽室に始めて来た時、奈緒と同じ立場だった際に部長と同じやり取りをしたことを思い出した。
「は、highG!? 」
奈緒は、目をまんまるく見開いて驚きの表情を見せた。
「うん、ほら」
沙織はそう言って楽器を構えると、highBbから半音ずつ上がっていって、highGを吹いてみせた。そして、それ以上も出せそうな気がしたので、そのまま上がっていくと、ダブルhighBbにまで到達した。
「ね?」
沙織のこのパフォーマンスを見て、奈緒だけでなく、部長やその周囲の人々も唖然とした表情をしていた。
特に奈緒は、眉間にしわを寄せて、「ね? じゃねーよ」みたいな表情だった。
「何よ、ダブルhighBbまで吹けるじゃない。しかもそんな軽々と」
奈緒は吐き捨てるように言った。
「でもまあ、この音じゃ、演奏には使えないけどね。ただ出るってだけで」
さすがに沙織のこの発言には、一同から総ツッコミが入りそうだった。
その突っ込みを奈緒が代表して発言した。
「何言ってるのよ。そもそもその『ただ出るだけ』ってのが出来ない人が大半なのに。『演奏に使えるか』とか『音色』だとかは、『ただ出るだけ』をクリアした上での、次の次元の課題でしょ? 『ただ出る』って域にすら達してない人は、どうすればいいのよ」
奈緒のその口調には、諦めに近いものがあった。
「といっても、高音が出る出ないなんて、トランペットを吹く上でそんな重要なことじゃないでしょう? クラシックだと、マーラーの交響曲とリヒャルト・シュトラウスの《アルプス交響曲》とかにたまにhighDが出てくるだけで、ほとんどはhighC止まりだし。マーラーの8番には、一箇所highE♭が出てくるけど、他では見たことないわ」
リヒャルト・シュトラウスの《アルプス交響曲》は、ファースト・トランペットに4回highDが出てくることで、オーケストラのトランペット奏者に恐れられている。
「それは“パンがなければケーキを食べればいいじゃない”的な、『その域に達している人』の言い分。今あなたが言ったように、実際、highDが出てくる曲はある訳でしょう? highCだって、学生には“高嶺の花”だし、highBbですら、練習のときに単発で奇跡的に出ても、曲の中でちゃんと出せるかどうか不安で眠れないってのに。そんな人に、楽譜に自分の出せない高い音が書かれていた時の絶望感は分かるはずないわ。いくら練習頑張っても高い音が出る気がしてこない“一般庶民”には、嫌味でしかない」
奈緒は、早口でそうまくしたてた。
その時、「そろそろ」と部長が割って入った。
「議論が白熱しているところ悪いんだけど、高い音の話は、私たちトランペット吹きの永遠の課題で、『とにかく練習する』ことでしか答えに近づくことは出来ないんじゃない? だから、その話はこのへんにして、そろそろ瀬川さんの音、聴かせてもらえない?」
今の話で、一番とばっちりを受けたのは沙織だった。
部長は、沙織に助け舟を出したのだ。
部長にそう諭されて、奈緒は「すみません」と言って、机の上から楽器を取って、音を出した。
いろいろ言ってきただけのことはあって、奈緒の音色は倍音が豊かに響き、コルネットのような柔らかい音質だった。
「それじゃあ、Bb、C、D、Es、Fの長音階をやってみて」
部長がそう指示を出すと、奈緒は「はい」と言って、それぞれの音階を吹いていく。
さっきの話で、「奈緒は高音が苦手なのかな?」と沙織は思ったが、彼女の音は、低い音から高い音まで音色や音質が変わらず、即戦力として十分に通用するクオリティーだった。
「素敵な音色じゃない。この感じなら、どのパートでも行けそうね」
部長が嬉しそうに言い、「ね?」というような表情で沙織に目配せした。
「何か言え」ってことかな?
沙織はそう感じ、感想を述べた。
また反論されそうだけど。
「そうですね。自分の楽器やマウスピースじゃないのに、ウォーミングアップなしでここまで吹けるのは、いつも楽器を吹いている証拠だと思います。瀬川さん、いつもどこで練習しているの?」
沙織は、恐る恐る奈緒に訊いた。
学年は同じだが、“怒りん坊”の奈緒をあまり刺激したくなかったのだ。
「練習? 練習は、いつも自分の部屋でやってるわよ。サイレント・ミュート付けて。両親は共働きで遅くまでいないけど、なるべく大きめの音で吹きたいから、ご近所迷惑だし。ミュート付けないで吹けるのは、市吹の週一回の練習のときだけ」
「サイレント・ミュートって、ベルに付けるとほとんど聞き取れないような音量になるやつね。それなら、部屋で吹いてもご近所迷惑にならなくていいわね」
沙織が言った。
「そうだけど、あなたはどこで練習しているの? それだけ吹けるようになるには、相当な練習量が必要だと思うけど。それとも、あなたは天才だから、音出しは部活の練習時間だけとか?」
どうしてか、奈緒の沙織に対する態度は、こうも皮肉交じりになるのか。
「私は、家に防音室があるから。もともとはお母さんが作りたがっていたのだけど、私がトランペットを始めるってことになって、家族で二人、トランペットを吹くんだったらコスト・パフォーマンスも良いからって、作ることにしたらしくて。だから、メインの使用者はお母さんなんだけどね」
沙織は、極力マウント取りにならないように気を使い、飽くまで「母親が必要だから作った」という部分を強調した。
「防音室・・・。って、あなた、お母さんもトランペット吹いてるの?」
この話も以前した気がしたが、伝説の“トランペット・クィーン”についてもう一度話をした。
「私のお母さんは、この部のOGなの。プロになるために音大に行ってトランペットやってたんだけど、学生結婚して主婦になってね。今は保険会社で事務の仕事してるけど、瀬川さんみたいに、今は市民オーケストラに参加して吹いてるわ」
沙織のこの話を聞いて、奈緒は驚いた表情になった。
「えー、あなたのお母さん、プロのトランペット奏者目指してたの?! じゃあ、トランペットもお母さんに教えてもらってるのね? それじゃ巧い訳よ。ちなみに、いつからトランペット吹いてるの?」
この質問も、今まで何度されたことか。
「小学校3年生」
奈緒は、この沙織の言葉を聞くと、その顔は驚きから愕然とした表情に変わった。
「マジで!? そんなの、敵う訳、ないじゃん」
奈緒はそういって、部長を見る。
部長は奈緒の視線に気づき、「でしょ?」というような表情。
そして。
「それじゃあ、瀬川さんもこの部活に入部してくれることだし、今、入部が決まっている一年生を紹介するわね」
そういえば、瀬川奈緒が一番最初に自己紹介しただけで、沙織も茉莉奈も名前すら言っていない。
「じゃあ、私からね。私は、この部の部長でトランペット・パートの三年、仲里久美です。そして、瀬川さんと話しているこの子は高城沙織さん。で、向こうで他のメンバーと話しているのが、西条茉莉奈さん」
部長に名前を呼ばれたことに気づいた茉莉奈は、部長に促されて「西条茉莉奈だ。よろしく」とだけ奈緒に挨拶し、上級生との談話に再び戻っていった。
「え、あなた、高城沙織、さんって言うの・・・?」
瀬川奈緒は、さっきよりも驚いた表情で沙織の名前を確認してきた。
「うん、そうだけど」と沙織。
一瞬、呼び捨てにされそうになったのは気にしないことにした。
「あの、もしかしてだけど、さっき言ってたあなたのお母さんて、高城麗奈さん?」
沙織は、奈緒の口から自分の母親の名前が出て、驚いた。
「うん、そうだけど・・・? 瀬川さん、何で私のお母さんの名前、知ってるの?」
当然の質問だ。
始めて会った他人が、自分の名前を聞いただけで、母親の名前を当てるなんて、どんな超能力者だ。
「何でも何も。高城麗奈さんは、アマチュア楽団のトランペット吹きの中では超有名人よ! プロ並の演奏で、数々の楽団の窮地を救ってきた、究極のハイパー・エキストラ。うちの楽団は、まだお世話になったことないけど」
それは沙織にとって初耳だった。
“伝説のトランペット・クィーン”の次は、“究極のハイパー・エキストラ”か。
お母さん、どんだけ渾名あるのよ。
「あ、そうなんだ。私、それ、始めて知った」
お母さん、いろいろなところに顔が広いのは知っていたけど、そんな有名人だったとは。
なんだ、私って、お母さんのこと知ってるようで知らないんだな。
「私、分かったわ。あなた、いえ、高城さんが何故あんなに巧いのか、納得できた。良い先生に良い練習環境。練習量も半端なかったと思うし。私は、純粋に音感だけ、演奏技術だけで音楽ができるとは思ってない。私は、あなたが自分にたまたま天性のセンスがあって、ぱっと見、巧い演奏が出来てるってだけなのに、それを鼻にかけてるんだと思ってたけど、それは違ってたみたいね。今まで、多分、失礼なもの言いしてたと思うから、謝罪するわ」
この、自分と同い年のトランペット吹きが、沙織が自分の演奏に対して抱いている不満に対して、何曲かの演奏を聴いただけで、そこまで言い当てたことに驚きを隠せなかった。
「いやいや、そんな、謝罪だなんて。私、ぜんぜん気にしてないし」
沙織は謙遜したつもりでそう言ったが、逆にそれが嫌味に聞こえなかったか心配になった。
「はい、それじゃあ、そこまでね。あと一時間ちょっとで最終最終下校時刻になるから、続きは明日ということで」
部長は沙織と奈緒にそう言うと、いつものように「伝えます」と言って、音楽室にいる部員と部活見学の一年生に片付けと、最終下校時刻までの完全下校を促した。
「そういうことだから、あなたたちも片付けして、早く帰るようにね。来週は実力テストがあるから、帰ったらちゃんと勉強もするのよ。それじゃ、お疲れ様でした。私は、残務処理があるから部室に戻るわね。それじゃあ」
部長はそれだけ言い残すし、部室に向かって行った。
その時、「あっ!」と素っ頓狂な叫び声を上げる沙織。
「どうしたのよ?」
その声に驚き、思わず尋ねる奈緒。
「来週実力テストあるの、忘れてた!」
愕然と肩を落とす沙織に、奈緒はかけることが見つからなかった。
つづく。