【練習番号F】新入生勧誘演奏<準備編>~対立
<前回までのあらすじ>
高校に入学して吹奏楽部に入った高城沙織は、実力を認められて新入生の勧誘活動の一貫として毎年行われている「新入生勧誘演奏」への出演を、部長から打診される。
いっしょに吹奏楽部に入った友人の石神井恵美と西条茉莉奈は乗り気だったが、沙織は釈然としない気持ちに苛まれていた。
そんな気持ちのまま参加した合奏練習で沙織は・・・。
――新入生勧誘演奏二日目
「私たちが、ですか?」
高城沙織は、吹奏楽部部長の意外な提案に驚き、目を白黒させて、本人にバレないように石神井恵美を恨めしそうな目で見た。
「私たちにも、この吹奏楽部のために、なにか出来ることありませんか?」
恵美は、確かにそう言った。
部長のこの提案は、恵美のこの言葉に応えた発言だったからだ。
結果的に、部長からその提案を引き出すことになった発言をした当の本人である、石神井恵美は、
「それは、当然のご提案ですわ。さすが部長殿、ご名案です」とでも言いたげな、いつも通りの自信たっぷりな表情をしている。
恵美のその表情に、沙織はちょっとムッとした。
石神井さんはいつもそうだ。
独断専行。
そして、承認欲求が満たされれば、どんなことでもすぐに受け入れてしまう。
少しは、それに付き合わされる私の身にもなって欲しいもんだ。
「ええ。今日の演奏が終わったら、皆んなで合わせるから。これ、練習しておいてもらえる? あんまり難しくないから、すぐに出来るようになるわ」
部長は部長で、「そうでしょ?名案でしょ?」と恵美の心の声?を受信でもしたかのように、私たちの返答を待つ間もなく、あたかもそれがすでに決定事項でもあるかのごとく、話を先に進めていく。
「一年生の私たちが、新入生勧誘演奏に参加なんかして、大丈夫なんですか?」
沙織が部長にそう訊くと、
「あなたたちは入部届出して、もう正式な吹奏楽部員なんだから、大丈夫よ。ね?」
部長はそう言って、最後の「ね?」の部分で恵美に視線を送る。
いやいや。
そっちに訊いたって、恵美は有頂天になって安請け合いするに決まってる。
もちろん、ある程度それを期待しての目配せなんだろうけど。
そんなの、談合じゃん。公正取引委員会が黙っちゃいないぞ。
案の定、部長に視線を送られた恵美は、まったく動じずに、
「そりゃあもう、演奏しろと言われれば、なんでも喜んで演奏致します。そのために、みんな、マイ楽器持参で吹奏楽部の門を叩いたのですから」
恵美の言う“みんな”とは、恵美、沙織、西条茉莉奈のことだ。
「そうよね、沙織? 沙織だって生徒会を論破して、吹奏楽部が新入生の勧誘演奏できるようになったこと、嬉しかったわよね? その勧誘演奏に参加できることになったのよ、こんな光栄なこと、他にはないでしょ」
今更、私に振らないでよ。
昨日の出来事に、こんな“おまけ”がついてくるなんて、まったく想像してなかったな。
吹奏楽部のために何かする、なんて聞いてないもん。
沙織は、恵美の視線を無意識に背けると、自然と茉莉奈の姿が目に入った。
茉莉奈は茉莉奈で、沙織と恵美、そして部長とのやり取りを完全に無視して、もう楽譜を見ながら指使いの練習をしている。
あの、茉莉奈さん、まだ、ポジション分けしてないけど・・・。
もしかすると、私たち三人の中で、茉莉奈さんが一番ストイックに、音楽や楽器演奏に取り組んでいるに違いないな。
それまで、技術一辺倒だった私が、自分の演奏を見直すきっかけを与えてくれたのが、茉莉奈の演奏だった。
だから、沙織がストーカーぎりぎりの行為をするようになるまで、茉莉奈を好きになったのも、彼女のそういう音楽に対する真摯なスタイル故と言える。
「そうだね・・・。練習時間少ないけど、できる限りの演奏を――」
ああ、またやっちゃったな。
安請け合い――。
私もか。
沙織は、部長の勢いと恵美のゴリ押しに流され、安易に引き受けてしまった。
沙織の、新入生勧誘演奏への参加表明を聞いて、
「例年通り、こうして勧誘演奏が出来るのも、沙織さんと石神井さんのお陰だし。感謝しているわ」
部長さんは、そう言い残し、勧誘演奏に出かけていった。
「沙織、西条さん、とうとう私たちの吹奏楽部デビューね。入部して、こんなに早くお鉢が回ってくるとは思わなかったわ。あの部長、良い人ね」
何言ってんだこの娘。
そもそもこの本番は、私たちのような新入生が出場するステージじゃないのを、貴女がいらぬ首突っ込んで、成り行きで決まったものじゃないか。
それに、この娘にとって、自分の自尊心を満たしてくれればみんな「良い人」なんじゃないだろうか?
「石神井さん、本当に勧誘演奏、出る気?」
沙織は、部長に評価されて爽快な表情をしている恵美の顔を、横から覗き込みながら言った。
「そりゃそうよ。楽譜までもらっちゃってるし、今更キャンセルなんて出来っこないでしょ」
「それは、そうだけど・・・」
「何よ、沙織。もしかして、演奏したくないの?」
当然、演奏自体がしたくない、というわけではないし、今日楽譜を渡されて、明日本番、というシチュエーションに戸惑ったわけじゃない。
なんていうか、こういう「特別待遇」的なのが苦手なのだ。
確かに、小学生からトランペットを吹いている私の演奏は、他の人から、上手いといわれることが少なくない。そんなに複雑な曲でなければ、今楽譜を渡されて「はい、本番」と言われても、恥ずかしくない演奏をそれなりにこなせる自信はある。
でも、本来は二・三年生の上級生だけで、新入生の勧誘のために演奏するステージに、「特別枠として一年生の経験者に登壇していただきます!」みたいなノリで参加するのが、こそばゆいのだ。
やっぱり、私、お母さんが言うように、引っ込み思案なんだなあ。
こういうときに、ノリノリで参加しちゃう、石神井さんみたいな“いい性格”が羨ましい。
「そうなんだ。というか、前から思ってたけど、沙織って何でそんな自己評価低いのよ。もっと自信持ちなさいよ。なたには、それだけの実力はあるんだし。沙織は、目標とする水準が高すぎるのよ。普通の高校生が到底達し得ないくらいのね」
恵美は、そう言いながら沙織の髪を優しく撫でる。
「そうだぞ。私が思うに、沙織は目標と現状でクリアしておくべき水準をごっちゃにしている。現状でクリアしておけばいい水準が目標に達していないのは当たり前だから、お前がしているのは単なる“無い物ねだり”だ。それに、特別扱いとか言ってるが、部長も出来る人に出来る事を頼んでるだけだ。人手は多いほどいいからな。ただ、それだけだ」
珍しく、茉莉奈が意見した。
楽器のピストンをカチャカチャしながら。
「うん、分かった。石神井さん、茉莉奈さん、ありがとう」
沙織はそう言って、深く深呼吸した。
「沙織がやる気になったみたいだから、上級生が戻ってくるまで、個人練習がんばろう。失敗は許されないわよ」
石神井の号令で、三人はそれぞれのパートのブースに分かれて個人練習を始めた。
部長から渡された、勧誘演奏の曲は、三曲。
《展覧会の絵》《星条旗よ永遠なれ》《トランペット吹きの休日》だ。
《展覧会の絵》は、クラシックではよく知られた名作で、ロシアのモデスト・ムソルグスキー作曲。もともとはピアノ独奏曲だが、フランスの作曲家で、「管弦楽の魔術師」と呼ばれたモーリス・ラヴェルがオーケストラに編曲して、オーケストラでも頻繁に演奏されるようになった作品だ。
今回は、組曲の中から最初の「プロムナード」と、最後の二曲「バーバ・ヤガー(ヤガーお婆さん)の小屋」と「キエフの大門」の三曲。
吹奏楽版は、基本的にはラヴェル編曲のオーケストラ版をアレンジしたものだが、オーケストラ版も様々な編曲があり、吹奏楽版も色々なバージョンがある。
今回演奏するのは、ラヴェル版に基づいた編曲のようで、冒頭のフレーズはトランペットの朗々としたソロになっている。
クラシックを演奏するトランペット奏者なら、必ずといってもいいくらい腕試しで吹いたことのある有名なフレーズだ。もちろん沙織も、何度も吹いたことがあるし、楽譜も記憶している。
《星条旗よ永遠なれ》は、アメリカのマーチ王、ジョン・フィリップ・スーザの作曲。アメリカでは第二の国歌として親しまれている。アメリカのマーチらしく、派手で親しみやすいメロディーが繰り返され、アンコールで演奏されることも多い。
《トランペット吹きの休日》は、こちらもアメリカの作曲家ルロイ・アンダーソンの曲。アンダーソンは、クラシックとポップスを融合させたライト・クラシック的な作品を多く残し、この曲の他にも《タイプライター》《そり滑り》などの作品でも知られている。
この曲は、“休日”とは名ばかりで、事実上、三本のトランペットが活躍する一種の協奏曲だ。
「じゃあ、ポジション分けは、私がセカンドで、そっちがファーストで良いよな」
茉莉奈はそう言いながら、沙織にファースト・ポジションのパート譜を三曲分差し出す。
沙織はそれを受け取ると、茉莉奈に質問する。
「やっぱり、私がファーストなんだ。茉莉奈さんがさっき練習してたのは、セカンド?」
「いや、サード。下パートは音量が必要だからな。高校から始めて、まだまる一年しかトランペットを吹いていない二年生じゃ力不足だ」
確かにそうなのだ。
トランペットで高音を出すのは難しい。
しかし、低音も、それと同じくらいに難しい。
倍音の関係で、低音のパートがしっかり支えてくれれば、高音パートも音が出しやすいので、下のパートだからといって技量が劣る奏者が吹くわけではない。
「それに、今ファーストを吹いている三年生も、セカンドならパートの異動もしやすいだろうしな、いろいろと」
「茉莉奈さん、もしかして三年生にセカンド吹かせる気?」
沙織が怪訝な表情で茉莉奈に訊いた。
「いや、別に私がどうこうするつもりはないぞ。でも、お前の演奏を聴いた三年生は、どうするかな?」
茉莉奈がニヤリとして答える。
「多分、今の二年生と三年生の技術的なバランスを考えると、元々は部長がファースト、もう一人の三年生がセカンド、二年生の二人がサードとフォースっていうパートの割り振りになってんじゃないかと思う。要するに、今ファーストを吹いている三年生にとって、そのパートは相当荷が重いって感じてるはずだ。だから、少し助け舟出してやれば、喜んでセカンドに回ってくれるだろうよ」
沙織は、茉莉奈がここまでの策士だとは思いもよらなかった。
「茉莉奈さん、私、そこまでしてファースト吹かなくても良いんだけどね。別に、どのパートでもトランペットを吹ければ私はそれで・・・」
沙織がその先を続けようとすると、茉莉奈がバッサリと遮った。
「甘い! 甘いぞ、高城沙織! この世界はな、弱肉強食、強いものが上に立つ。それが当たり前なんだよ。特に音楽の世界はな。技術的に優位なものが上に立つ。いや、そうあるべきなんだ。そして、沙織、お前には、その資格がある。いや、義務と言った方がいいか。ここでお前が下に回るということは、その資格を有していながら、義務を放棄することになるんだぞ。お前がそうすることで、バンド全体の評価が下がったら、どう責任を取るつもりだ? バンドのためにも、いっちょガツンとファースト・パートでカマしてやれよ!」
長台詞をしゃべり終え、「疲れた」と言う茉莉奈。
“資格”、“責任”、“義務”、“放棄”、いくつか大げさな単語があったけれど、沙織は、茉莉奈の言いたいことは概ね理解できた。
「分かったわよ。茉莉奈さんがそこまで言うんだったら、やってやりましょ。私も少し、面白くなって来たわ」
茉莉奈のアジテーションにまんまと乗せられる沙織であった。
「そうそう。その意気だ。部長の言うように、この三曲は技術的には難しくはないし、お前にとって『展覧会』は馴染みがあるだろう。それ以外の二曲だって、吹奏楽部員なら何度も吹いてる定番曲だ。気楽にいけばいい」
茉莉奈はそれだけ言うと、自分の練習に取り掛かった。
さすがに、自分からサード・パートを吹くといい出しただけあって、茉莉奈の低音は十分な音量で豊かに響いた。いつ練習を聴いても半音階の練習を欠かさない茉莉奈らしく、三本の指をまんべんなく駆使する指使いも、実に軽快で自在であった。
沙織は、茉莉奈の演奏に満足すると、中学の時から何度も吹き、見慣れたパート譜を眺めた。
茉莉奈がいみじくも言っていたように、沙織にとっては、『星条旗』や『休日』よりも、『展覧会』の方が馴染みがあった。
「『展覧会』かぁ・・・。この曲は、吹奏楽ではあまりやらないけど、お母さんのアマチュア・オーケストラの練習に付いていったとき、お母さんの演奏、散々聴いたなあ。あの時のお母さんの演奏、凄かったな。よもや、私がその曲を始めて演奏するのが吹奏楽だとはね。まあ、私がお母さんみたいな演奏が出来るはずはないけど」
沙織は、懐かしさとともに、母親の演奏を思い出した。
個人練習ではない、本番を想定したオーケストラでの合わせ演奏。
あの時の母親のトランペットの音の迫力は、改めて思い出しただけでも、ぞくぞくしてくる。
沙織は、かつての母親の演奏を思い出しながら、《展覧会の絵》の冒頭部分、「プロムナード」のソロを吹いた。
すると、それまで新入生の勧誘の呼び声や楽器の説明などでざわついていた音楽室の喧騒がピタッと止み、沙織の吹くトランペットの音だけがその空間を満たしていた。演奏をフレーズの途中で止めるわけにはいかないので、沙織はソロの箇所を一通り吹き切ると、音楽室にいる人達の視線が全て自分に向いていることに気づいた。
「え、な、何かマズイこと私、やっちゃいました? まだ曲の音出しとか、しちゃダメなんでしたっけ?」
沙織がそう言って場を取り繕ろうとすると、それぞれ個々に話しをし始めた。
「ねえ、あの人、一年だよね? なんであんな音するの?」
「あのトランペットの音、ヤバくね? CDで聴くプロの演奏と同じ音色じゃん」
「あんな綺麗な音、本当にトランペットで出せるの?」
「よくあんな良い音であんなに大きな音出せるよね? 今まで、うちのラッパであんな大きな音聴いたことない」
沙織は、それぞれの話が同時に聞こえたので、何と言っているかその詳細までは分からなかったが、どうやら怒られるようなことはしていなそうだったので、安堵した。
すると、そこに副部長の大野がやって来て、
「高城さん、その・・・あなたの演奏、今、始めて聴かせてもらったんだけど、あなたって、本当にプロの演奏家じゃないのよね?」
早口で興奮気味に言った。
沙織は、「はい、そうですけど・・・」と答えるのがやっとだった。
副部長は、続けて
「高城さん、本当にうちの吹奏楽部に入ってくれるの? っていうか、他の学校の吹奏楽部からも誘われていたんじゃない? 高城さんみたいな演奏をする人が、うちの吹奏楽部員だなんて、私、ちょっと信じられないんだけど――」
彼女が心配そうに言うと、その後ろの方から石神井恵美が近づいてきた。
「副部長さん、ご心配には及ばなくてよ。沙織は、まぎれもない、列記としたF女学院の吹奏楽部員ですわ。それは私が保証いたします。我々新入生一同、沙織を筆頭に、この吹奏楽部の発展に寄与するため、今後とも猛進していく所存ですわ。この石神井・・・」
その先を続けようと、大きく腕を振り上げようとした恵美を、茉莉奈が横から静止する。
「ええい、その政治家の立候補演説みたいな煽り止めれ! そういう大事なこと、一人で決めるな!私達三人は、明日の勧誘演奏で自分のできる限り全力の演奏をする、それだけだ。それよりお前、『星条旗』のパート、ちゃんと指回るようになったか? 今までバス・クラのパートしか吹いたことないだろうが!」
売り言葉に買い言葉。
茉莉奈がそう言うと、恵美は俄然反論してきた。
「あります~。マーチングではバス・クラじゃなくベー・クラ吹いてたし! それより、あなたこそ、沙織の音量を支えられるだけの低音出せるのかしら? 沙織の足引っ張るようなことしたら、この私が・・・」
「ちょっとちょっと、お二人さんはそこまで! ここでそんな言い合いしたって仕方がないでしょう。もうすぐ勧誘演奏のメンバーが帰って来て合奏するから、心意気は演奏で示してちょうだい!」
副部長の真っ当な意見に、二人とも沈黙するしかなかった。
「それより」
二人の言い合いが一段落した所で、副部長が再び口を開いた。
「石神井さん、《星条旗》で『今までバス・クラのパートしか吹いたことがない』って、どういうこと?」
そこ、拾う?と思った沙織だった。
その副部長の言葉に一瞬たじろぐ恵美。
そこへ、茉莉奈が口を挟んだ。
「そうなんですよ副部長。こいつ、クラリネットの経験者とかいって、中学ではバス・クラのだったんです」
副部長は、茉莉奈のその言葉にちょっと驚いた表情を見せた。
「石神井さん、それ、本当なの?」
副部長にそう直接問われては、恵美も説明せずにはいられない。
「え、ええ。確かに、中学での担当楽器はバス・クラでした。でも、オーケストラではバス・クラは基本持ち替えですし、バス・クラでもベー・クラは基本ですから、ちゃんとベー・クラの自主練習もしてました。だから、これからは、少しずつバス・クラからベー・クラにチェンジしていこうと思っていて・・・」
恵美のその必死な弁解を聞いて、副部長はフフフと微笑んだ。
「フフフ。良いのよ。バス・クラは、ちゃんと担当者がいるし。今は勧誘演奏に出てるけど。バス・クラに回す気なんてないわよ。それに、あなたのベー・クラ、結構良い音してるわよ。さっき見てたら、指の回りも滑らかで無駄がなくて、良い感じ。必要な時には、バス・クラのお手伝いしてもらうかもしれないけれど。バス・クラも出来るクラ吹きは、吹奏楽では貴重だわ」
石神井恵美は、副部長のその言葉を聞きいて、少し安堵した表情になった。
やはり、いつも自信満々な恵美も、担当楽器を替えられるのは堪えるのだろうか。
それからしばらくすると、勧誘演奏に出張っていた殆どのメンバーが戻ってきて、合奏の準備が始まった。
とはいっても、まだ入部と部活見学の新入生の受け入れのため、音楽室全体を使うわけには行かなかったので、音楽室の三分の一ほどのスペースで立ったままでも演奏になる。
立ったままでの演奏は、やはり演奏スペースの限られている勧誘演奏でも同じだった。
合奏の準備が終わると、同じくらいのタイミングで、勧誘演奏の片付けをしていたメンバーも合流して、いよいよ本番さながらの合奏練習が始まった。
「みんな揃ったわね。では、これから合奏練習を始めます。知っての通り、明日は勧誘演奏最終日です。明後日からは、フル・メンバーでの通常の勧誘活動になりますが、SNSでの広報活動も功を奏し、見ての通り、例年以上に新入生の集まりは良くなっています。そこで・・・」
部長は、少しもったいぶった素振りを見せた後、勧誘演奏に飛び入り参加する新入生三人を指揮台の横に並べて、紹介していった。
「今年はテコ入れとして、入部したばかりではありますが、特別に経験者の新入生三人に助っ人として勧誘演奏に参加してもらうことになりました。右側から、クラリネットの石神井恵美さん、ファースト・トランペットの高城沙織さん、そして、サード・トランペットの西条茉莉奈さんです」
紹介が終わると、三人は部長に促されて、合奏メンバーたちの中に入っていった。
それぞれのパートには、部長が事前に話を通してあったのか、三人は挨拶もそこそこに、定位置に付いていった。
「では、最初は合わせに時間がかかりそうな《星条旗よ永遠なれ》から始めます。昨日も今日も、テンポに乗り遅れ気味のパートが目立ってました。その上、リズムも歯切れが悪く、音符のニュアンスの統一感もイマイチでした。その辺りを意識していきましょう」
部長が指揮棒を振り下ろすと、一斉に演奏が始まった。
しかし、しばらく曲が続くと、部長は演奏を止めた。
「はい。導入部は悪くなかったですが、三小節目からの上昇音形、ここはクレッシェンドせずに、均一の音量でお願いします。また、縦型のアクセントが付いているので、長くならないように、一つひとつの四分音符を明確に切り離して下さい。そして、主部に入ってから少し音量を落とし、5小節目と11小節目の一小節間のクレッシェンドの方を強調し、その上で5小節目から12小節目に掛けて、段階的に音量を上げていき、13小節目のピアニッシモでグッと音量を落とし、音量にメリハリをつけるように。それから、第一テーマの四分音符、八分休符、八分音符のリズムは、四分音符の後の八分休符を意識して、四分音符に付点がついているみたいになって、リズムが跳ねないように気をつけて下さい。もちろん、二分の二拍子のアラ・ブレーヴェなので、八分の六拍子の八分音符、八分休符、八分音符のリズムにもならないように。では、最初から」
沙織は、部長が思いの外細かな指示を出しまくるのに驚いた。
高校生の学指揮(*学生指揮者のこと)は、ここまでやるのか。
中学の時とは、エラい違いだな、と。
また演奏が再開され、しばらく演奏が続くと、部長はまた止める。
「うん、さっきよりだいぶ良くなってきてます。音符にもニュアンスにも、メリハリが付いてきました。次は、もう少し、アクセントやスタッカート、そしてスラーが付いている音符と、何も記号が付いてない音符の吹き分けを明確にしてください。ただし、何も記号が付いていない音符は、スタッカートまでいかないにしても、短めでお願いします。中でも33小節目と34小節目のシレソーファラドファーラの、音符二つづつに付いているスラーは、トリオに入るまでのこの曲で唯一のなだらかなニュアンスの印象的な箇所ですから、特に気をつけて」
部長は、ずっとこの調子で演奏を整えていく。
そしてついに、この曲でトランペット奏者の力量が試される箇所に到達した。
「高城さん、最後から18小節前、どうする?」
来た!
この曲を演奏するトランペット吹きなら、多くの奏者が悩む部分だ。
部長の「どうする?」という問いだけで、誰でもがピンとくる。
要するに、この箇所の音を1オクターヴ上げて吹くかどうか、という話だ。
一瞬、昨日までこのソロ・コルネット(*楽譜の指定はトランペットの親戚のコルネットだが、昔の軍楽隊はコルネットを使っていたからそう指定されているだけで、今では普通にトランペットで吹く場合が多い)を吹いていて、沙織が加わったことで下パートに回った三年生が、チラッと自分の方を見たのが沙織には分かった。
「オクターヴ上げでしょうか?」
沙織が確認すると、やはりそうだったらしく、部長が頷く。
「ええ。無理強いはしないけれど、もし、可能ならってことね」
部長の言う通り、その言葉には、強い強制力のようなものは感じられなかった。
しかし、彼女の表情は期待に満ち、その言葉とは裏腹な印象を沙織は受けた。
また、その口調は沙織に対してというより、下パートに回った三年生に対する気遣いのような気もした。
だから、部長のその問いへの答え方には、ひと工夫必要だった。
「そうですね。まあこの部分は楽譜通りでも問題ないと思いますが、それでは、経験者で、吹奏楽部に入ろうとしている新入生がどう思うか・・・。それを考えると、オクターヴ上げた方がバンドのアピールにもなると思いますので、頑張ります」
沙織は、一応そう答えた。
本音を言えば、「楽勝」なんだけど。
これが、もし恵美なら、自信満々で
「もちろん出来ますとも! ここでオクターヴ上げなければ、新入生に対して示しが付きませんし、バンドのレベルも知れるというもの」
などと宣うに違いない。
しかし、それでは技術的にオクターヴ上げられない人はどう思うだろう。
別に、オクターヴ上げて吹ければ偉いとか、演奏が巧いとか、そういうレベルの話ではないのだ。
「そう。あなたがそう言うのなら、それでお願いするわ。ソロ・コルネット・パートは、楽譜通りだとずっと吹きっぱなしだから、目立たない部分では適当に休んでね」
まあ、それも一つの方法だが、沙織のスタイルとは異なる。
他の目立たない箇所で休んでまで、楽譜とは違うオクターヴ上げはしたくなかったのだ。
他の箇所で休まなければオクターヴ上げ出来ないのなら、オクターヴ上げしなければいいだけの話。
なんなら、沙織はトリオの中間部、低音パートの動きの後の「合いの手」や、モルト・マルカートの部分も、オクターヴ上げで吹くつもりだった。
そして、最後に通し演奏をして《星条旗よ永遠なれ》の合奏練習は終わった。
オクターヴ上げて吹いたのは、部長に言われた一箇所だけだったが。
すると、音楽室にいた生徒たちから大きな拍手が沸き起こった。
単なる練習で拍手とは。
しかし、沙織は曲が終わってすぐ、下パートに回った三年生が「結局全部吹いてるじゃない」と吐き捨てるように独り言を言ったのが聞こえ、その方が気になった。
「では、次、《展覧会の絵》に行きます。本番では、ここでマイク・パフォーマンスが入るので、10分休憩」
休憩に入ると、トイレに行く者、楽器にスワブ(主に木管楽器で使用する、楽器の中の湿気を取る布)を通したり、合奏で部長に注意された箇所をパートで振り返りをする者、部活見学に訪れた新入生を気遣う者、それぞれ思い思いに散っていった。
沙織が楽器の水抜きをしていると、恵美が近づいてきた。
「沙織。あなた、やっぱり思った通り、やるじゃない。前にいると、あなたのシルキーの素敵な音がビンビン伝わってくるわよ。明日が楽しみだわ」
沙織は、もともと楽器の演奏を褒められても有頂天になる性格ではなかったし、母親から「上には上がいることを知れ」といつも言われているので、恵美の言葉にも、自信満々な反応をすることが出来なかった。
もちろん、下パートに回った三年生への気遣いもあった。
「今日は、ちょっと調子が良かっただけよ、石神井さん。それに、他の人達は本番終わったばかりで、疲れてるし、余分な練習だから・・・。明日は昼練で通し演奏するっていうし、せめて足を引っ張らないように頑張らないと」
そんな沙織の言葉に、さすがの恵美も何かを察したらしく、珍しくフォローを入れる。
「まあそうね。バンドはアンサンブルだから、誰か一人の力でどうなるものでもないし。次の曲でも、沙織の演奏楽しみにしてるからね。じゃ!」
恵美は、自分の言いたいことだけ言い残し、片手をチョップのようにして顔の前まで上げると、クラリネット・パートの位置まで戻っていった。
沙織が茉莉奈の方を見ると、「まったくあいつは」とでも言いそうな表情で恵美を見ているのが分かった。
休憩が終わる頃になると、それまで散っていたメンバーが元の位置に戻ってきて、合奏練習再開となった。
「みんな揃ったみたいだから、始めましょう。さっきも伝えたように、次は、《展覧会の絵》ね。トランペットのソロから入るけど、高城さん、大丈夫?」
大丈夫も何も、まだ一曲吹いただけだし、このソロは吹きやすい音域が中心に構成されているから、何の問題もない。
「はい、大丈夫です」
沙織がそう答えると、部長は「分かったわ。じゃあ、このテンポで行くから」と言って、譜面台を指揮棒で軽く叩いてテンポを取った。
曲中、何度か現れる《展覧会の絵》の「プロムナード」は、絵の展覧会を訪れた人(作曲者)が、一つの絵を見終わって次の絵に歩いて行く様子を描いたものだとされている。だから、テンポは遅すぎず速すぎず、といった感じが沙織は好きだった。今のこのテンポが、正にその速さだった。
「うちの本番はいつもそうだけど、空振り(*演奏のテンポ感を指揮者と楽団と合わせるために、一般的に演奏が開始される前に一小節分余分に指揮棒を振ること)しないから、すぐに入ってきてね」
部長はそう言って、指揮棒を振り上げた。
つまり、その指揮棒が下がったらすぐに、演奏し始めるということだ。
だから、沙織は、部長が指揮棒を振り上げるそのタイミングに合わせてブレス(*息継ぎのこと)をした。
物事を始める際、タイミングを合わせるとき「息を合わせる」というが、指揮者と演奏者はこうして「息を合わせる」のだ。
部長が指揮棒を振り下ろしてから振り上げる動作に移る直前、沙織のトランペットは響き出す。
それは、正に「音が出た」というよりも、「音の響き」それ自体が音楽室の空気を震わせ、音楽室全体を包み込んだような感覚だった。
その瞬間から、指揮をする部長の表情が徐々に変わって行く。
それと同時に、「プロムナード」では、ずっと後から演奏し始める、前の方にいる木管楽器のメンバーたちは、あからさまに後ろを向くことは出来ないので、顔半分だけ振り返って沙織を見ようとしていた。
誰がこのトランペットを吹いているのか、確認せずにはいられないといったように。
西条茉莉奈を除き、沙織の横にいる三年生や二年生も一斉に彼女を見た。
しかし、そのすぐ後には自分たちの出番があるので、彼女たちは慌てて楽器を構える。
音楽が進むと、次第に楽器の数が増えていき、最後には全部の楽器が参加して来て大音量になるので、沙織も楽器の数が増えるに従って、音量を上げていった。
演奏時間一分半を少し越えるくらいの「プロムナード」が終わると、最終音の響きがいつまでも聞こえるくらい、音楽室は雑音の類の音は一切なかった。その響きも消えてなくなると、そこは完全な静寂に包まれた。
しかし、それも束の間、次の瞬間、音楽室は拍手の嵐となった。
沙織には、別に今の演奏で拍手をするような心当たりはなかったので、さすがの「鈍感沙織」でも、その絶賛が自分に向けられているのだろうことはなんとなく推察できた。
この状況は沙織にとっては本日二度目だが、歓迎演奏に出る合奏メンバーまでもが拍手をしていることに驚かされた。
お前らもかよ。
部長は、指揮棒を持った右手を腰に当て、左手はいつか見た昔のテレビドラマの警部のキメ・ポーズの如く、考え事をしているように額に当て、顔だけを横を向けて指揮台に佇んでいた。
しばらくの間、沙織がその絶賛に戸惑っていると、部長が正面を向いて、「パン!パン!」と柏手を打つように両手を叩きながら、
「はいはい、みんな静粛に! 気持ちは分かるけど、練習再開するわよ。後は、練習が終わってからね!」
そう言って騒ぎの収拾を行った。
「それじゃあ、どこからにしようかな。えっと・・・ソロ・トランペット・・・はプロムナードではもういいわ。それ以外で、三小節目、金管が和音で入るところ。特に低音、もう少し大きな音で。昨日も今日もそうだったけど、外で吹くと低音の響きは拡散しちゃうから、大きめを心がけてね。では、三小節目、二度目の四分の五拍子のところから」
それから部長の指導が続き、次の「バーバ・ヤガーの小屋」になった。
この曲は、一言で言えば「山奥に棲む魔女に追われて逃げる人間」を描いたもの。
ホラー映画のBGMにしてもおかしくないような音楽で、中間部の静かな音楽は、魔女から逃げ切れたと思って安堵する人の気持ちが表現されているようで、再び最初の音楽に戻って、また魔女に見つかって追われるという、ホラー映画ではお決まりのパターンが音楽でも聴けるのが面白い。
トランペットは差し当たって大変な箇所はないが、木管楽器は忙しい。
石神井さん、頑張ってね。
続く『キエフの大門』は、この組曲の最後に相応しい壮大な音楽だ。
「では、続いて『キエフの大門』に行くけど、まずは練習番号104の、木管と金管低音の16分音符のところね。今日の演奏でも若干ズレていたから、もう一度やってみるわね。特に、三小節目から入ってくるユーフォとテューバ、遅れないように」
聴いてみると、確かにそれぞれ16分音符を演奏する速度が、運指の難易でチグハグになっている。
何度か合わせてみて、最初よりも少しは合うようにはなったけれど、それでもまだ十分ではないようだ。
「それじゃ、ここは四っつ振りにして、少しテンポ遅くします」
部長がそう言ってテンポを妥協し、少し遅めにしたら、なんとか「合っている」というレベルにまでには来ることができた。
「では、この速度で行きましょう。音楽的にもそれほどおかしくはないし、『縦の線(*リズムのタイミング)合わないからテンポ遅くした』って思う人もいるでしょうけど、合わない演奏を聴かせるよりマシだから」
その時、「部長!」と、沙織の隣にいるトランペットの三年生が手を上げて
「ここを遅くしてそのテンポにすると、次の練習番号105番のメノ・モッソの指示と合わなくなりますが」
そう言って自分の意見を言った。
「メノ・モッソ」というのは、「その前の箇所よりテンポを遅くする」という指示だ。
おそらく、普段その部分を演奏しているテンポは、新しく練習番号104番で設けたテンポより速いのだろう。
「メノ・モッソ」からは、トランペットが大音量の高音での伸ばしが曲の最後まで続く。
沙織は、テンポが遅いとトランペットが保たないから、いつもは速めのテンポで演奏しているんじゃないかと思った。
「言いたいことは分かるけど、仕方ないでしょう。それに、『メノ・モッソ』とは書かれているけれど、105からはテーマの一つひとつの音符は倍の長さになっているから、敢えて『メノ・モッソ』にしなくても、テンポは遅く聴こえるわ。実際、ここでテンポを上げる演奏もあるし」
部長が応戦する。
「ですが!」
この三年生も負けていない。
だが、ここで沙織はハッと気づいた。
練習番号105番からを、楽譜の指示を守って「メノ・モッソ」にし、いつも演奏しているより遅いテンポでやったとして、その影響をモロにかぶるのは、ファースト・パートを吹いている自分だけだ。
セカンドのパートの音は、トランペットにとって音を出すのがキツくなり始める五線譜より高い音は出て来ない。
その音域なら、いくらテンポが遅くなっても、唇が疲れて音が出なくなるなんてことにはならないだろう。
言ってみれば、「安全圏」からそういう事を言っている訳だ。
「だったら、受けて立とうじゃないの」
沙織は心にそう決め、部長に伝えることにした。
「部長っ!」
沙織が手を上げると、部長は意外そうな顔をして返事をした。
見ると、前方のメンバーのほぼ全員が振り返り、沙織を見ている。
ただ一人、石神井恵美を除いて。
そして、西条茉莉奈も、知らぬ存ぜぬで自分の楽譜を見ている。
「はい、高城さん。今、あなたの意見を訊こうと思ってたところよ。『メノ・モッソ』以降ののテンポのこと、よね?」
やっぱりだ。
部長が、「メノ・モッソ」からのテンポをいつもの演奏より遅くすることを躊躇っていたのは、私を気遣ってのことだった。
「私は大丈夫です。いくら大音量の高い音が続くと言っても、所詮は音域内のhiBbまでです。どんなに疲れたって、hiBbくらいなら出なくなることはありませんし、ちょっとだけですが、108から休みもあります。それに、その後hiBbは一度出てくるだけで、上のFとかGとか、高い音には入りませんから。どれだけ遅いテンポでも問題ありません」
沙織が正面にいる部長の顔を見ながら、意識的に嫌味ったらしくそう言うと、右側にいる三年生が髪をかきあげ、ムッとしているのが分かった。
部長は、「そ、そう? あなたがそう言うなら、そうするけど、本当に良いの?」
再び部長が心配そうな表情で訊いてきた。
「はい。高い音しこたま延々と吹かされた挙げ句、最後の最後でオクターヴ跳躍してhiCをロングトーンで決めさせられるマーラーとか、hiDが何度も出てくるリヒャルト・シュトラウスに比べれば、『展覧会』程度どうってことありません」
嫌味の追加。
沙織は「こりゃ嫌味が過ぎたかな?」と思ったが、事実だから仕方がない。
「分かったわ。それで行きましょう。具体的なテンポは、私の方で設定します。秋月さん、それで良い?」
部長が意見した三年生に確認する。
あ、この三年生、秋月って言うんだ。
沙織は、「そういえば、この三年生はずっと勧誘演奏に出ていたから、自分が吹奏楽部に入ってから一度も話したことがなかったから、名前知らなかったわ」と思い返した。
秋月さんは、「ええ、まあ・・・。それならそれで構わないけど・・・」と煮え切らない返答を部長に返した。
「じゃあ、『バーバ・ヤガー』から、最後まで通すわよ」
部長はそう言うと、全員が楽器を構えるのを待って、指揮棒を振り下ろした。
演奏が一通り終わると、やはり最後の音が「ジャン!」と鳴り、響きがなくなるまで音楽室は静寂に包まれた。
今度は、拍手こそなかったが、「フーッ」というため息とも緊張感から開放された安堵の吐息とも判別し難い呼吸音が、そこかしこから聞こえてきた。
そして、沙織の耳には、秋月の「あり得ないわ。この曲で、なんで最後まであんな音量が続くの? まだ一年なのに・・・」という独り言が届いた。
沙織は敢えて聞き逃そうとも思ったが、あんな嫌がらせして来るくらいだから、この先もどんなことをされるか分からない。ここは一言ビシッと言ってやることにした。
自分がそうしなければ、茉莉奈がするかもしれないし、もし、恵美がその気になったら、何を言い出すか分からない。だから、自分でするしかないのだ。
「秋月先輩。私は小学校三年生からトランペットを吹いています。プロのレッスン(お母さん、だけどね。言わないけど)も受け、時間さえあれば、それこそ一日八時間でも十時間でも十二時間でも、自分でも呆れるほど練習して来ました。クラシックなら、普通に演奏される作品であれば、ほとんど全てさらっています。だから、部活動で演奏したりその合間にちょっと個人練習したくらいの、どこにでもいる普通の高校生とは、比べ物にならないほど年季が入ってるんですよ。もちろん、いくら練習量が多いからといって、必ずしも『巧くなる』とは限りません。実際、そこにいる西条茉莉奈さんの方が、私なんかより全然巧いです。つまり、どんな条件でも『上には上がいる』っていうことです。ただ、年季が入っている分、自分が人より劣っている部分をカバーして、巧く聴こえる最低限の要件は満たすよう努力してきた自信はあります。けど、『自分が巧い』だなんて、少しも思ったことはないですよ。だって、『上には上』がいるんですもの。そういう人達の、練習量やそれで得た技術では到底到達できない『上』の領域があることを知ったら、『自分が巧い』だなんて天と地がひっくり返ったって思えやしません。結局は、自分の出来る範囲内でしか、出来ることはないんです。だったら、常に全力を出し切って演奏し、それが出来たかどうかで自分を評価するしかないじゃないですか。他人との比較ではなく」
沙織の言葉を聞いて、呆気にとられる秋月。
しかし、そんな秋月には構わず、茉莉奈が口を挟んできた。
「よう、沙織。大演説ぶってるとこ悪いんだけど、もう少しで次の曲の練習、始まるぞ」
そう言われて、沙織が指揮台の方を見ると、部長が指揮台に座って指揮棒で遊んでいる。
「部長、良いですよ」
そう言う西条茉莉奈の声が聴こえると、部長が立ち上がって、沙織を見た。
「それじゃあ、良い? 《トランペット吹きの休日》。本番では、三人とも前の方に出て吹いてもらうけど、今はそのままで良いわ。で、この曲は、ソロのトランペット三本のアンサンブル、特に和音構成が重要よ。ほとんど全ての箇所が、ドミソの主要三和音かその転回形で構成されているから、特に長い音符でその響きを十分に響かせること。例えば一番最後の伸ばしは、主和音の第一転回形で、ベース音が真ん中に来て軽い感じの響きが特徴ね。それから、真ん中の三度音程を低めに取ることを忘れないでね」
部長は、ソロのトランペットたちにそれだけ指示を出すと、演奏を始めた。
確かにこの曲は、ソロの三本のトランペットが別々に動いているようで、「和音」という枠で一まとまりになっている。
曲の出だしからして、三本のトランペットが順番に入ってくるが、三本出揃うと、同じ音形を三度違いで吹くことになる。つまり、そのフレーズ自体が主要三和音を保ちながら進んでいくことになる。そして、続く第一テーマは、主要三和音の第一転回形。ドミソのベースのドが一番上になり、ミソドになる。部長が話していた通り、音楽の軽快さが和音構成でも強調されているのだ。
この曲でも、沙織の演奏は喝采を浴びた。
この日、吹奏楽部の見学に来た一年生はラッキーだった。
いや、本当にラッキーだったのは、吹奏楽部自体か。
沙織のように見事な演奏を聴かされて、吹奏楽部に入らないなんていう選択肢があるだろうか。
いや、ない。
しかし、後で聞いた所によると、沙織の演奏を聴いて吹奏楽部に入ることを決めた一年生の多くは、沙織が上級生だと勘違いしていたらしい。曰く、「『憧れの先輩』が見つかったので入った」ということらしいのだが、同学年と知って面食らったそうだ。
勧誘演奏の練習が終わると、楽器を片付け、各々帰宅していった。
しかし、ここにある問題を解決しなくてはならない人達が集まっていた。
「それで? さっきのアレは何な訳?」
部長が問い詰める。
いや、“問い詰める”と言ったら大げさかもしれない。
部長は、ただ真実が知りたいだけなのだから。
問われた秋月美保は、重い口を開いた。
「私は、ただ、音楽的な疑問を呈しただけです。『メノ・モッソ』と書いてあるのに、それより前の箇所よりテンポが速くなるのはどうなのか、と。ただそれだけです。それ以外の意図は全くありません。というか、どうすればそれ以外の意図が読み取れるんですか?」
秋月美保が、険しい表情で聞き返す。
「だって、あなただって分かってるでしょう? 『メノ・モッソ』以降のテンポを遅く演奏したら、トランペットがどれだけキツいか。そもそもあの箇所の楽譜は、アラ・ブレーヴェ(二分の二拍子)で書かれているのだから、そんなに遅く演奏しなくても良いのよ。メトロノームの速度が書かれている訳じゃないし。それに『展覧会』の原曲はピアノ独奏でしょ? 長音符をそんなに遅い速度で演奏したら、音楽が途切れ途切れになってしまうから、本来、そんなに遅い速度ではないはず」
美保の表情が、険しい顔から困った顔に変わった。
「ですから、私はあの箇所の絶対的な速度に対して意見した訳ではありません。繰り返しますが、『メノ・モッソ』という相対的な速度標語があるのに、むしろ『ピウ・モッソ』になるようなテンポ設定はどうなのかと、ただそれだけなんです」
部長は美保から視線を外し、沙織と目を合わせた。
「あなたは、どう思った? 美保のあの発言を聞いた時」
いきなり話を振られて戸惑う沙織。
「えっと、あの、『メノ・モッソ』をどう捉えるかということですか? 私は、楽譜を演奏者判断で恣意的に変えることには反対です。確かに、テンポ設定については、メトロノームの数字で明確に指定されていない場合は議論の余地があるかもです。でも、グレン・グールドのように、誰もが『そんな速度じゃないだろ』と思っても、演奏が素晴らしかったら、バーンスタインのように「違う」とそこまで言い切る自信はありません。けれど、『メノ・モッソ』ですとか『ピウ・モッソ』ですとか、『リタルダンド』ですとか、相対的な指示に関しては、作曲者の意図は明確ですから、できる限りそれを守って演奏したい、というのが本音です」
「そう。それは分かった。で、美保のその発言に対して、『裏の意図』があるとは感じなかった?」
困った。
本当の事を言うべきか。
「正直申し上げて、『裏の意図』はあると思いました」
沙織のその発言に、秋月は「そんな・・・」というような表情を浮かべた。
「どんな風に?」
部長が食い下がる。
「それ、どうしても言わないとダメですか?」
質問に質問で返すのはよくないが、秋月美保が「裏の意図はない」と言っている以上、自分の自意識から来た妄想を話して、事を荒立てたくなかった。
「恐らくだけど、私と同じこと感じたんじゃないかと思ってね。だとしたら、今後のためにも、話をつけておこうとしたんだけど、高城さんが秋月発言の『裏の意図』を今後一切問題にせず、思い出しもしないと確約するのなら、『裏の意図』は無かったってことにするけれど、本当にそれで良い?」
「私はそれで構いません」
沙織はそう言って、秋月美保を横目で見る。
「そう。それならいいわ。私も同じようにする。二人別々にだったけど、この前言ったように、パートリーダーの高城さんと、三年生の美保には、お互い協力しあってトランペット・パートを引っ張って行ってもらいたいのよ。もう一人の一年生の西条さんは、まだ正体を掴みきれていないのでいいとして、二年生二人は初心者で入ったからまだまだ発展途上だし、あなたたち二人に頼るしか道はないの。美保も、それで良いわね?」
秋月美保は、部長の話をじっと聞いていた。
「部長の話は、分かったわ。でも、万が一、私が一年生の高城さんに対して引け目を感じているだとか、あまつさえ妬んでいると少しでも思ってるのだったら、それはとんだお門違いよ。はっきり言って、あんなプロ並の演奏聴かされて、対抗心や劣等感を抱くと思う? 聞けば、小学校三年生からプロのレッスンつけてラッパ吹いてるっていうじゃない。そんな次元の違う人間と自分を比べて、いちいち落ち込んでたら、何も出来なくなるわ」
よかった、少なくとも人間としては認めてくれてるんだ。
茉莉奈さんには、“マシーン”って言われたもんな。
沙織は、変なことを思い出してニヤけそうになったが、舌先を軽く噛んでギリギリ平静を装うことが出来た。
「それじゃ、もうお開きにしましょうか。もう遅いし」
やっとのことで部室から開放され、沙織が音楽室に入ると、窓の外は暗闇が支配していた。
沙織が時計を見ると、18時を回っていた。
「ふう。今日は、あと三・四時間は練習出来そうね。合奏練習って、練習時間の割に、吹ける時間が短いから、個人の実技に関しては実はそんなに練習になってないんだよね。まあ、明日は久々の本番だし、ロングトーンとリップスラー程度にしておくかな」
沙織がそう独り言を言いながらスワブを通したりして楽器を簡単に掃除し、片付けていると、秋月美保が話しかけてきた。
「なに、あなた、家に帰ってからもまだ練習するの?」
振り向くと、呆れたような表情をした美保が立っていた。
「は、はい。一応家に防音室あるので、いつでも練習出来ます」
沙織がそう言うと、美保は「そうじゃない」とでも言いたげに、首を左右に振った。
「練習もいいけど、勉強も、ちゃんとしているんでしょうね? うちの学校、赤点が一教科でもあったら、部活禁止よ。補修受けて、追試で八割以上の点数とらないと、次の試験が終わるまで部活には出られないから、本チャンの試験で赤点とらない方が効率いいわよ。大丈夫なの? 来週の実力テスト」
出来れば聞きたくなかったなー、そういう話。と沙織。
そういえば、そんなこと言われたっけ、実力テストがあるって。
高校入ったら、中間テストまで試験ないと思ってたのに、誤算だった。
てか、赤点が一教科でもあったら部活禁止だなんて、そんな話、初耳だ。
「えーと、はい・・・頑張ります・・・」
はっきり言って、入学式の日に渡された教科書すら一ページも読んでいない沙織は、そう答えるのがやっただった。
「ふー。あなたにそんなウィーク・ポイントがあったなんてね・・・。冗談抜きに、それ、本当にヤバいからね。私は今年から受験勉強本格化して、部活との両立に精一杯で勉強教えてあげたくても出来ないから、自分でなんとかするしかないわよ。少なくとも今の練習時間の半分以上は勉強に当てたほうが良いわ」
秋月美保は、そう言って音楽室から去っていった。
「ふへー。『勉強してない』がマウントになるは、小学生までよー、か・・・」
訳の分からない独白とともに、沙織は後片付けを再開した。
楽しみを満喫するには、楽しくないことも同じくらいしなくてはならない。
人生、常にプラ/マイ・ゼロなのか。
いや、プラスにマイナスを掛ければマイナスだ。
ということは、人生、常にマイナス――?
「勉強すれば、その答えも見つかるのかな」
しかし、今の沙織にとって、勉強はそんな人生の難題を解くことよりも、部活動を続けるために重要なものとなった。
それだけは、今の沙織にも確かなもののように思われた。
それが分かっただけでも、満足することにしよう。
つづく。
本文で取り上げられた作品
(直接リンクしませんのでコピーしてアドレスバーに貼り付けてください)
■《星条旗よ永遠なれ》(ソロ・コルネット パート譜付き)
https://youtu.be/9bjfWdIDz0Y
■《展覧会の絵》(管弦楽版)
「プロムナード」(映像付き)
https://youtu.be/P77O8L5itGU
「プロムナード」(音声のみ)
https://youtu.be/I2tUCUCeqkE
「バーバ・ヤーガの小屋」~「キエフの大門」(映像付き)
https://youtu.be/P77O8L5itGU?t=1411
「バーバ・ヤーガの小屋」(音声のみ)
https://youtu.be/tb5vTqxRYeU
「キエフの大門」(音声のみ)
https://youtu.be/zfaOqh2gaVw
■《トランペット吹きの休日》
https://youtu.be/1RVr7STuV-o