【練習番号E】プレリューディアム~入部
母親の影響で、小学生からトランペットを吹いていた高城沙織は、高校に進学してからも、部活動は吹奏楽部にしようとしていた。
そんな時、吹奏楽部に降り掛かった“難題”を、まだ入部する前から解決した沙織。
吹奏楽部へ入部してからも信頼され、まだ一年生なのにトランペットのパート・リーダーに任命されてしまう。
そして、新入生勧誘活動の二日目、部長からある提案を言い渡される。
成り行きで、その提案を受け入れてしまう三人。
そのことが、彼女たちの今後の吹奏楽部での活動を運命づけてしまうことになろうとは、
誰も予想だにしていなかった。
やっと放課後が訪れた。
正式な授業がないのに、放課後というのは違和感あるけど、オリエンテーリングや校内設備紹介も学校の正規の活動なので、放課後で間違いない。
今日は、朝イチから大変なことがあったから疲れたけど、吹奏楽部のためにやったことだと思うと、気分は爽やかだった。
そして、これから、その吹奏楽部への入部手続きのために、部室に行く。
朝のことを茉莉奈さんに話したら「ふーん」という軽いリアクションしかもらえなかった。
別に、大袈裟なリアクションは求めてなかったけど、ちょっと淡白すぎないかい?
茉莉奈さん的には、自分の知らないところで、私が朝から石神井さんといっしょに何かしていたのが気に入らない様子だけど。私の自意識過剰かな。
「やあやあ、お二人さん」
ざわついていた教室が、一瞬静寂に包まれる。
何やら賑やかな人が教室に入ってきたな、と出入り口の方を見たら、案の定、石神井さんだった。
それにしても、別のクラスにも平気で入ってくるんだな、この人は。私なんか、いくら友達がいても、別のクラスにこんなにも陽気に入っていける気がしない。
「二人とも、ちゃんと楽器、持って来た?」
部活の初日に楽器を持ってくる、というのは、石神井さんの提案だった。
「初日から、楽器吹くの?」と訊くと、「万が一、別の楽器に回されたら嫌でしょ? カモがネギ背負って来てるんだから、楽器吹けるところ見せれば、そうそう別の楽器に回したりしないでしょ」というのが石神井さんの理屈だった。
でも、朝の一件で、私と石神井さんは吹奏楽部の部長と副部長、上級役員に借りを作ったので、希望楽器を言えば、二つ返事でOKじゃないかな。
ねえ、石神井さん。一応確認するけど、その「カモ」って、まさか私達のことじゃないよね。
そういえば、希望者が大勢来たパートって、どうするんだろう?
経験者、その中でも“マイ楽器持ち”が優先なのは分かるけど、全員経験者だった場合は、オーディション? 他の楽器になって部活辞めるとか言い出した人は? とか、気になり出したら切りがないが、毎年なんとかなってるのだから、今年もなんとかなるだろう。
吹奏楽部は、主に音楽室で活動をする。
F女学院には、音楽室が2つある。それぞれ第一音楽室・第二音楽室と呼ばれているが、両方とも、普通教室があるのと同じ校舎にある。そして音が出るという性質上、ちょっとした短い渡り廊下を渡って行かなければならない。もともとそういう構造だったらしいが、私の所属する1-Aの教室が最も遠くにあるのが玉に瑕だ。
とはいえ、運動部は、本校舎からは校庭を横断しないと行けない部室棟に部室があったり、やはり本校社からは離れた場所にある体育館で活動している。そういう運動部からすれば、雨が降ろうと嵐が来ようと、普通に歩いていける場所に部室があるのは、恵まれているだろう。運動部の皆さん、お疲れさまです。
音楽室に向かおうとして1-Aの教室を出ると、そこには各部活の勧誘部隊が待機していて、出入り口のドアを開けた途端、「入る部活決まってる?」とか「是非、うちの部に見学を!」とか「途中で帰ってもいいから、見るだけ見ていかない?」とか、声を掛けて来たり、チラシを渡してきたりする。
もちろんどの部活も、新入生の勧誘には全力を尽くして取り組む。
部員が5人以上いないと予算が出る“部活”として認められないこともあるが、部の予算は部員数とも関連しているということもあって、レギュラーが5人のバスケット・ボール部や6人のバレー・ボール部でさえ、一人でも多くの部員を確保したいのだ。
しかし、吹奏楽部にとって“人数”は死活問題だ。中学からの経験者だけだと人数が足りないし、楽器編成も偏ってくるから、一人でも多くの初心者に入部してもらう必要がある。
吹奏楽部が4月からの一年間の活動で、最も精力を注ぐ「全日本吹奏楽コンクール」の一校当たりの出場枠は最大55人。聴き映えのある演奏をするには、やはり最大人数で挑みたい。
初心者狙いのキモは、吉美のように、帰宅部を決め込んでいる生徒や、入りたい部活がない生徒を、いかに多く取り込めるかにかかっている。だから放課後になったら、なるべく早く勧誘活動を開始しなければならない。そうしないと、既に帰ってしまうからだ。そうならにように、一年生の各教室前に勧誘員を配置して、ホームルームが終わって教室を出てくる人を片っ端から勧誘しているのだ。
廊下を歩いて、もうすぐ音楽室というところまで来ると、外から吹奏楽部の演奏が聴こえてきた。
「始まったわね、沙織」
私の左側を歩いている石神井さんが、私の肩に手を置いて言った。
「そうね」と私。
私は、楽器が入ったケースを右手で持っているので、石神井さんは、自然と私の左側を歩くかたちになる。
私の楽器ケースは、<ダブル・ケース>といって、トランペットが二本入るタイプだ。茉莉奈さんが持っている一本入りの通常のケースよりも、横幅が広い。トランペットのケースは、楽譜とかミュートとかの小物も入るようになっていて、縦にも長い。一見、連泊用の旅行カバンのようにも見える。
電車に乗るとか、楽器を外で持ち運ぶには、ソフト・ケースが軽くて便利だ。けれど、ソフト・ケースは、文字通り柔らかい素材で出来ているので、簡単に潰れそうで怖い。むしろ、ハード・ケースが外用で、ソフト・ケースが、学校内での移動とかの室内用、といった感じだ。
石神井さんとの短いやり取りで、今朝の顛末が思い起こされる。
吹奏楽部の勧誘演奏が無事に始まったことで、本当の安堵が訪れた。
この勧誘演奏を間近で聴いてみたいとも思うけれど、石神井さんにそう言うと、「私達、吹奏楽部に入るの決まってるに、なぜ勧誘演奏を聴くの?」と言われそうな気がするので、言わないことにする。
後ろを歩いている茉莉奈さんはどうなのかな、と思って振り向くと、澄ました顔で歩いている。
私と目が合うと、「どうした?」と言って来た。
はぐらかすのもおかしいので、
「茉莉奈さんは、吹奏楽部の勧誘演奏、聴きたい?」
茉莉奈さんにそう訊くと、「うーん・・・」といって、一瞬間が空いた後、
「どっちでも」と答えが返ってきた。
<どっちでも>かあ・・・。
<聴きたい>と言うと、「じゃあ、これから聴きに行こうか」となり、音楽室に行くのが遅れる。かといって、<聴きたくない>と言うのは、これから吹奏楽部に入ろうという人にとって、どうなのか。
「聴きたいけど、音楽室には早く行きたい」というのが茉莉奈さんの答えだと、思うことにする。
吹奏楽部の演奏を聴きながら音楽室に向かう。そんな幸せなひとときを、これから仲間になる二人と共有できる喜び。それを味わうことが出来ることだけで、よしとしよう。
――その15分前、第一音楽室
「それでは、これから新入生の勧誘活動を開始いたします!」
吹奏楽部部長の鶴の一声により、各自配置につく吹奏楽部員たち。
吹奏楽部は、三学年揃えば50人を越える大所帯になる(はず)。何かの行動を開始する際、号令は不可欠だ。その意味で、主に号令を掛ける役目になる部長は、旅行代理店の添乗員に似ている。
「遊撃部隊はこっちに集まって!」
「機動部隊はウォーミングアップとチューニングなる早でね! 時間の5分前になったら、昇降口に移動します!」
「迎撃部隊は、音楽室のセッティングよろしく!」
それぞれの<部隊>のリーダーがそれぞれの部隊員に号令をかける。
この学校の吹奏楽部でいう<遊撃部隊>とは、一年生の各教室を回り、声を掛けて勧誘活動をする部員。<機動部隊>は、校内の公の場で実際に勧誘演奏をするメンバー。三年生と、二年生の選抜部員で構成される、勧誘活動の主体となる部隊だ。<迎撃部隊>は、音楽室に直接部活見学しに来た生徒や、入部届を持ってきた楽器経験者を中心とする、最初から吹奏楽部に入部する気がある生徒を出迎え、逃さないようにする部隊だ。
女子校の吹奏楽部で、なぜ軍隊用語なのかは分からない。私のお母さんの時代からそう呼んでいたそうだ。別に、うちの学校の吹奏楽部が戦前からあったわけではない。最初の顧問の先生が、軍楽隊にいたのかな。まあ、勧誘活動が大切なのは、吹奏楽部も軍隊も変わらないし、吹奏楽部は、昔は楽隊と呼ばれていたし、軍隊用語とも相性がいいのか。そういえば、英語で吹奏楽のことをMilitary Bandと言ったりするし。
「部長、副部長、遊撃部隊、行ってきます」
そう挨拶するのは、遊撃部隊のリーダー、三年生の奥山咲。人当たりがよく、常に笑顔を絶やさないコミュ力の権化とも言われる奥山が遊撃部隊のリーダーになるのは自然の流れだった。去年も、遊撃部隊のメンバーの中で、最も新入生の勧誘数が多かった実績がある。
声掛け勧誘のコツは、第一印象を良くすることだという。一年生は、上級生から部活の声掛け勧誘があることを分かっているし、街中のキャッチセールスじゃないんだから、と思うけれど、実績を上げている人が言うのだから説得力がある。
「咲ちゃん、去年は勧誘数ナンバー・ワンだったよね。今年も期待してるから。遊撃部隊のお世話、咲ちゃんに一任しちゃって悪いけど、よろしくね」
遊撃部隊のメンバーは、咲が選んだ選抜メンバーだ。
部長にそう言われると、咲は満面の笑みで
「いやぁ、部長。私、背が低いから、一年生に親近感持たれるだけっスよ。先輩っていうより、友達感覚で音楽室付いてきて、つい入部しちゃう、みたいな?」
彼女のこのフランクな感じも、下級生に好かれる原因の一つになっている。
咲は、楽器の第一志望はトロンボーンだったが、スライドの一番遠い第一ポジションまで腕が伸びないということで、第二志望の打楽器になった。打楽器は、シンバルやスネア・ドラム、バス・ドラムなど、様々な楽器を扱うので、いろいろな楽器を経験できて嬉しいとのこと。なかでも、スネア・ドラムがお気に入りらしい。
迎撃部隊のリーダーは、副部長。
「遊撃部隊が勧誘から戻ったら、私は迎撃部隊に加わるけど、それまで少人数で大変だと思うけれど、よろしくね」
副部長は、部長からそんなねぎらいの言葉をもらい、驚いた。
「今更、なによ。皆んな、一年生の扱いは心得ているわよ。部長の方こそ、あんなことがあったお陰で、昨日の夜から大変だったでしょう?」
吹奏楽部の、今年の新入生勧誘演奏の中止は、昨日の夕方の帰りがけに、生徒会長から電話があって伝えられていた。その時は、怒り浸透で頭の中が真っ白になった。その場でその決定に抗議しようと生徒会室を訪れたが、正式な通達は明日で、その時にならないと申し立ては出来ないという。そもそも、新入生勧誘演奏が翌日行われるため、正式な規約通達前にその内容を知らせる異例の判断を生徒会がしただけだからと。もっとも、自分にとってそんな重大なことを聞かされてすぐでは、ろくな主張はできそうになかったから、翌日(つまり今日)の朝にミーティングを行うということを承諾した。結果的に、それがよかったのだけれど。
「それより、来るのよね、あの子たち」
「朝は、そう言ってたわね」
「あの子達がやってきたら、よろしく言っておいてね」
「分かってるわ。経験者かどうか分からないけど、あなたが帰ってくるまで、引き止めておくわ」
そろそろ時間だということで、機動部隊は音楽室を出ていった。
遊撃部隊と機動部隊が出払い、迎撃部隊しか残っていない音楽室は、普段より広く感じる。三年生が卒業し、新たな二・三年せいだけになって最初の全体ミーティングの時も、音楽室は広く感じられたが、それ以上だ。しばらく後には、ここに新入生がやってくるのだ。勧誘活動解禁初日は、何人くらいの新入生が集まるのか。去年より、部員数を増やすのが目標だ。
「私、ちょっとサイト更新してくるから」
副部長は、迎撃部隊にそう言い残すと、音楽準備室に入っていった。
音楽準備室には、部の備品であるデスクトップ・パソコンが置かれている。
F女学院高校では、学校のポータルサイトに、各部活がそれぞれウェブ・ページを持ち、部の活動報告、例えば運動部なら、練習試合の実況動画など、様々な情報を発信している。
学校に入学すると、一人ひとりの生徒にログインIDが付与され、在校生なら誰でも見ることが出来る。どの部活でも、新入生の勧誘活動では、フル活用されるツールだ。もちろん、吹奏楽部のページもあり、勧誘ポスターやチラシのQRコードから、簡単にアクセスすることが可能だ。吹奏楽部全体だけでなく、各楽器の紹介動画も既にアップされている。
副部長は、アクセス解析から今日だけで200近いユニーク・アクセスがあったことに満足した。去年の初日は、100程度だったから、倍増していることになる。ユニーク・アクセスだから、一人で何度も見ればそれだけアクセス数は上がるけれど、それは去年だって条件は同じだ。今年の新入生の吹奏楽部に対する興味は、去年より上がっているということだろう。
その理由は、明らかだ。
去年は、20年以上前、吹奏楽部強豪校と言われていたF女の吹奏楽部が、顧問が変わって以来、突破したことのない地区大会を、再度顧問が変わってから始めて制覇し、ブロック大会に進んだ。そのブロック大会でも、次の支部大会には出場出来ない、いわゆるタダ金とかダメ金とか言われている金賞となる。昔の強さを知らない世代には、「ブロック大会初出場(本当は違うのだけど)で金賞を勝ち取った奇跡のF女」と言われ、昔を知っている世代には「不死鳥F女、堂々の復活」と話題になった。
副部長業務とは別に、部のホームページの管理をしている副部長は、
<○時○分より、校門エントランス付近で、吹奏楽部が新入生勧誘演奏を行います。入る部活が決まってない新入生はもちろん、部活に入るかどうか決めていない新入生も、是非聴いていってください>
そのような文言をウェブ・ページの「新規情報」の欄に書き込んだ。
これで、新入生が一人でも多く、吹奏楽部に興味を持ってくれればいいけど。
新入生が、音楽室に部活見学に来るかどうかは、最終的には本人次第だ。誘拐同然に、強引に引っ張ってくるわけにはいかない。
正直言って、この部活の練習は、一時期に比べると格段に厳しくなった。どの部活も、練習はある程度厳しいだろうけど、「自分で部活を選んだ」「自分で入部を決めた」という意識がないと、すぐに辞めてしまう。それでは、部にとってはもちろん、本人にとっても不幸だ。
副部長が音楽室に戻ると、すぐに外から演奏が聴こえてきた。
「やっぱり、時間、ぴったりですね」
ホルン・パートの二年生、近藤貴美が話しかけてきた。
「そりゃ、時間厳守にうるさいあの部長だもの。遅いのはもちろん、早すぎるのも、ないわ」
副部長は、背伸びをしながら答える。
「最初に来るの、どういう子ですかね」
知らんがな、と思ったが、そういう思考実験は嫌いではない。考えてみる。
「そうね、吹奏楽部に入りたくて、ホームルームが終わるの、今か今かと待ち望んでいる子、かしら」
そう言ってから、ちょっと違うな、と思い直し、
「吹奏楽部、いや、楽器の演奏が三度の飯より大好きな子、かな」
その考えを聞くと、
「そんな女子、いるんですか? 私も、楽器の演奏は好きですけど、三度の飯の方がもっと好きですね」
貴美の発言に副部長は「あー」となり、
「そうだよね。実は、それ、私も。残念ながら、楽器の演奏は、三度の飯についで、二番目」
二人して「あはは」と笑う。
新入生が音楽室にやってくるまで、迎撃部隊の仕事はないので、気楽なものだ。
すると、音楽室の一般教室がある方の出入り口が開き、ドアの外で待機していた、音楽室にやってくる新入生を出迎える迎撃部隊の<入り待ち要員>が、
「新入生三名、ご案内お願いします!」と、音楽室全体に響き渡る大きなソプラノで、新入生がやって来た合図を送ってきた。
さて、いよいよ仕事にかかりますか――。
そう思いながら、出入り口の方を見た副部長、副部長の視線は、いま入ってきた新入生に釘付けになった。
「ごめん、さっきの、訂正させて」
副部長が貴美に言う。
「何を、です?」
貴美は、狐につままれたような不思議な顔をして、副部長に訊き直す。
「三度の飯より楽器演奏が好きそうな子、いたわ・・・。しかも、三人もいっぺんに」
自分たちの教室を出て5分。
途中、何度も声を掛けてくる部活の勧誘を、ノラリクラリとかわしながら歩いて、沙織、茉莉奈、石神井の三人組は、やっとの思いで音楽室前にたどり着いた。
はいはい、カモがネギ背負ってやって来ましたよ、と。
石神井さんに訊いたら、「当たり前でしょ。タヌキよりはマシじゃなくて?」と冷たくあしらわれたので、自分たちが「カモ」であることを素直に受け入れた沙織であった。鴨南蛮がたぬき汁になったところで、本質は変わらないけどね。
音楽室への出入り口付近には、新入生の出迎えと思われる二年生が待機していた。
その二年生は、制服のブラウスの襟元に結んでいるタイの学年カラーで私達が一年生であることが分かると、一気に笑顔になって声を掛けてきた。
「一年生ね。吹奏楽部にようこそ。自由に見学していってね。いつ帰ってもいいから」
その声に、私達三人は「ありがとうございます」と例を言い、音楽室に入ろうとすると、ドアを開けてくれた。彼女に軽く会釈をし、音楽室に一歩踏み入れると、その二年生が背後から大声で音楽室内に向かって叫んだ。
それは、ファスト・フード店で注文した時に、厨房に向かって声を掛けるような感じだった。
その声に一同驚き、一瞬立ち止まる。
外での、吹奏楽部の新入生勧誘演奏の音だけが私の耳に入る。
音楽室の中側を見ると、一人の三年生が立ち上がり、私達の方に足早に近づいてくる。
あ、今朝、生徒会室にいた吹奏楽部の上級役員の人だ。
「あなたたち、本当に来てくれたのね!」
そう言って、私と石神井さんの手をがっしりと握りしめ、ブンブンと激しく上下に動かす。
部長さんか副部長さんか知らないけど、その表情は、親友と何年ぶりかに再開したように、泣きそうになっている。
「あなたたちのお陰で、ほんとうに助かったわ! 吹奏楽部の命の恩人よ!」
ああ、数年ぶりに再開した親友から、命の恩人に一気に格上げされた。
そりゃ、そんな顔にもなりますわね。
石神井さんは、自信たっぷりの表情で
「吹奏楽部入部希望者として、当然のことをしたまでですわ! 困った時は、お互い様ですわ」
なんか、偉そう。
っていうか、今朝のは、いささかお互い様の押し売り感満載だったけどね。
私には、石神井さんの台詞が「もっと褒めてくれてもいいんですよ?」と聞こえるのだけれど、気のせいだろうか。<命の恩人>以上の褒め言葉って、何だ。神様か。
「でも、本当の功績者は、ここにいる高城沙織さんですのよ! あの切り札を見つけ出したのが、沙織さんなんですから」
石神井は、沙織の背中を副部長に握られていない左手の手のひらでバシバシ叩く。
その叩かれている箇所だけ、血行が良くなり、熱くなっていくのを感じた。
「そうなの?!」
副部長は、沙織の目を潤んだ瞳で見つめた。
同性に見つめられても、ちょっと恥ずかしい。
私の頬が、石神井さんに叩かれている背中のように、熱くなっていく。
「いやあ、その、まあ、そんな感じです」
どうも、私には、石神井さんのような自信たっぷりな反応は苦手だなあ。
音楽室の中にいる吹奏楽部員は、いつもは冷静・沈着な副部長を「こんな副部長、初めて見た」というような、ぽかんとしたような顔をして見つめていた。
そんなやり取りをしていると、後ろの方から清らかなソプラノが聞こえてきた。
「あのう、副部長? 後ろが詰まってるんで、この辺で次の新入生の受け入れしたいんですけれど、大丈夫ですかね?」
廊下を見ると、一年生が五人くらい、並んで待っている。
ああ、この人が副部長さんなのか。すると、朝いた吹奏楽部の上級役員のもう一人が、部長さんてことか。
副部長は、ソプラノの持ち主にそう答えると、
「あれれ、これは失礼。どうぞ、順次入ってもらって」
と言い、
「あなたたちとは、奥で話するから、どうぞ、奥まで入っていって」
と私達三人に言って、私たちは彼女の後ろに付いて行った。
「さっきは、つい感情的になってしまって、ごめんなさいね」
副部長さんは、私達にそう謝罪すると、茉莉奈さんの方を見た。
「こちらの子も、入部希望? 朝は、いなかったけど」
茉莉奈さんは、突然、自分が注目されたので、ちょっと居心地悪そうにしている。
やっぱり、知らない人に話しかけられるのは苦手なのかな。
それを察したのか、石神井さんが助け舟を出そうとすると、
「はい。是非、入部しようと思って来ました」
茉莉奈さん、やおら、そう力強く答えた。
昨日は、「吹奏楽部には入らない」とか言ってたのに。
「まあ、嬉しい!」
副部長は、制服のリボンタイの前あたりで両手を合わせ、小さく拍手した。
「そうしたら、希望する楽器は決まっているのかしら?」
副部長さんにそう訊かれると、三人声を揃えて「あります」と答える。
「それは素晴らしいわね! ということは、もしかして、三人とも、経験者?」
質問攻撃。
「そうですわ。三人とも経験者ですわ」
今度は、三人を代表して石神井さんが答える。相変わらず、偉そうなのが気になるけど。
「助かるわ。経験者が一気に三人も。ちなみに、何の楽器なのかしら」
副部長さんは、「あなたは?」といって、まず石神井さんに担当楽器を確認する。
「私は、クラリネットです」
得意なのはバス・クラ、よね。今は言わないんだ。
そして、今度は私の番。
「私は、トランペットです」
私がそう答えると、
「いいわね! トランペット。うち、なかなかトランペットのなり手がいなくて」
副部長さんは、「うんうん」と納得したように首を上下に動かして、満足そうにしている。
この分じゃ、茉莉奈さんの答えを聞いたら、飛び上がって嬉しがりそうだ?
「で、そちらは?」
相変わらず、茉莉奈さんは私と石神井さんの影に隠れてもじもじしているので、副部長さんは、少し身を乗り出すような格好になって茉莉奈さんに訊いた。
「トランペット、です」
「まあ、トランペットの経験者がもう一人! よく来てくれたわね」
そう言って、副部長さんは、少し離れた場所にいる茉莉奈さんの方に歩み寄り、茉莉奈さんの手を取って両手で握り、激しく上下させる。
「どうも、恐縮です・・・」
茉莉奈さんは、一昔前の芸能レポーターみたいな返事をし、照れ笑いをしている。
私達三人と副部長さんが、そんなやり取りをしていると、続々と新入生がやってきて、音楽室の中に入ってきた。
「では、人も多くなってきたから、自分の楽器の場所に行って、パートの人の話を聞いてもらえるかしら」
私達は、「はい」と言って、机の上にそれぞれの楽器が置かれている各パートのブースに向かった。
気がつくと、外での勧誘演奏は、もう終わっていた。
私と茉莉奈さんが、トランペット・パートのブースに着くと、二年生の先輩が二人、ニコニコ顔で待機していた。
二人とも、さっきの副部長さんとのやり取りを聞いていたのか、
「部活見学初日から、二人も経験者が入部しに来てくれるなんて、驚いた。二人、同じ中学で吹いてたの?」と訊いてきた。
今日は、よく質問される日だ。
それにしても、この学校は、そんなにトランペットのなり手がいないのかな。ということは、この先輩たち、二人とも初心者で入部したという可能性もあるけど。
私が、
「いえ、私はM中で、この子は北M中です」
「北M中は、ご近所さんよね。去年のコンクール、結構良いところまでいったのよね」
「はい、お陰様で」
「M中は、どの辺りなの?」
茉莉奈さんが答えると、
「あら、学区の外れの方じゃない。ずいぶん遠くからなのね」
「30分くらいで来れますから、大した距離じゃないです」
「そうなんだ。私、学校から歩いて七分くらいだから、それでも十分遠く感じるわ」
ああ、この先輩も学校の近くなんだ。私より少し離れているけれど、帰る方向が同じだったとしたら、帰りはほとんど一緒って可能性もあるな。優しそうな人だから、いいけど。
もう一人の二年生も、通学に30分くらいかかるそうだけど、茉莉奈さんとは逆の方向だ。
しばらく、その二年生と茉莉奈さんとの電車通学談義があった。
その最中、音楽室の出入り口のほうがいやに賑やかになってきた。一年生が集団でやって来たのかな、と思っていると、勧誘演奏から引き上げてきた<機動部隊>のメンバーだった。
音楽室内にいる、<迎撃部隊>の部員が口々に「お疲れさまでした!」とねぎらいの言葉をかける。
しばらくして、一際大きな叫び声のような声が上がった。
「え、来てるの!? どこどこ?!」
副部長さんに、私達が来ていることを告げられた、部長さんだった。
副部長さんが、
「クラ1人、ラッパ2人」と言うと、
部長さんは、まずクラリネットの方を見て、石神井さんと目が合った。
すぐ、部長さんは石神井さんの方へ早足で歩み寄り、
最敬礼して「今朝は、どうもありがとうございました」と言った。
この事態に、クラ・パートは「え、なになに?」となり、みな、お互いに目を合わせたり、首を傾げたりしている。
部長さんは、そんなことはお構いなく、
「で、もう一人の子は?」と石神井さんに言うと、
すぐに「あ、トランペットね!」
と気付き、こっちの方を見た。
瞬間、私と目が合い、「いた!」というような顔になった。
部長さんは、さっきと同じ様に早足で私の方にやって来て、
「今朝は、本当にどうもありがとう。やっぱり、トランペットだったのね」
そう言って、さっき私がケースから出したばかりの楽器をまじまじと凝視した。
「生徒会室に持って来てたの、このトランペット?」
私が「はい、そうです」と頷くと、
「ケースが、普通のより大きかったから、違うのかなと思ってたけど」
さすが吹奏楽部の部長さん。遠目にちょっと見ただけで、トランペットのケースだと見破るとは。
いつもは、旅行かばんと間違えられて、中学の時なんか、持ち歩いていると「どこ旅行に行くの?」とよく言われたものだ。
「はい。楽器が2本入るダブル・ケースなので、普通のケースより横幅が広いんです」
私は、足元に置いてある自分のトランペット・ケースを指差して言った。
「そうそう、これこれ。そうかあ、ここに楽器が2本入るのね」
部長さんが、中を見せてくれ、とせがむので、机の上に置いて、ケースの蓋を開ける。
「あ、もう一本ちゃんと入ってるわね」
もちろん、ダブル・ケースなので。
私は、外に出る時は、いつも楽器は2本持ちだ。
その習慣で、つい2本学校に持ってきてしまった。
「はい。もう一本の方は、C管なんですけど」
通常、吹奏楽で使われるのはBb管。指揮者が見る、全ての楽器のパートが書かれているスコアや、トランペット・パートの楽譜は、Bb管で音符が書かれているのが普通。
C管は、主にオーケストラで使うトランペットだ。オーケストラでは、Bb管も使うけれど、どちらかといえばC管が主流。微妙な差だけれど、Bb管は、木管楽器と合わせる時に、音色が合いやすい。C管は、Bb管よりも響きの質感が固めだ。他の楽器との融合より、トランペットらしい、大きく鋭い音して、音が目立ちやすい。オーケストラは、大編成になると百人以上の奏者が一斉に音を出す。トランペットのパートが演奏する時は、トランペットの音が聴こえて欲しい場面であることが多いので、Bb管よりも都合がいいのだ。
でも、どうしてもトランペットだけが目立ってはほしくない箇所もあるので、私はC管とBb管の二本持ちにすることにしている。
どうせ、オーケストラのトランペット・パートは、吹奏楽のようにBb管だけで譜面が書かれている訳ではなく、要所要所でEb管やF管に持ち替えるよう指定されている場合があるから、何管を使っても構わない。
「へえ、C管まで持っているのね。実物見るの、初めて」
部長さんは、目を輝かせて言った。
「実はね、私もトランペットなの」
なんと。
ああ、だからすぐにケースだけ見てトランペットだと分かったのか。
「楽器のメーカーは、どこのを使っているの? YAMAHAのちょっと古いタイプのように見えるけど」
さすがよくご存知で。
「これ、シルキーなんです。今のYAMAHAは、BACHの形に近いですけれど、昔はシルキーのトランペットを参考にデザインしていたそうですよ」
「で、そちらの一年生は?」
「私のは、ストンビです」
「ストンビ?」
あー、さすがの部長さんもこれは知らなかったかあ。
「スペインのメーカーだよね」
「うん。モーリス・アンドレが使ってたの。楽器が軽くて吹きやすいのに、響きが豊かで好き」
ああ、茉莉奈さんがストンビ吹いてるのは、そういう理由だったのか。
確かに、私もBACHは楽器を持った時、楽器の先端の方が重く感じて、吹いていると常に重量がかかっているように思える。
後から聞いたら、お母さんが、「子どもにはBachよりYAMAHAの方が持ちやすいから」ってことで、私は最初からYAMAHAをずっと使ってたからかもしれないけど。
もちろん、茉莉奈さんがずっとストンビを吹いているのは知ってたけど、理由までは知らなかった。これはいいことを聞いたぞ。
「沙織、驚いた? 私がこの楽器使ってる理由までは知らなかったって顔だなあ。あ、メモとかするなよ!」
やばい、茉莉奈さんに心の声を聞かれてしまった。
うん、大丈夫だよ。メモなんて取らないよ。脳みそにしっかり叩き込んだから。
「そしたら、ちょっとC管の音聴かせてもらっていい?」
この部長さんも自分の欲望に正直な人だな。吹奏楽でC管なんて吹かんのに。
言わないけど。
「わかりました」
部長さんの要望に素直に応え、楽器を取り出す。
「へえ、Bb管に比べてずいぶん短くて、細身なのね。比べなくても、見ただけで『短かっ!』『細っ!』ってなるわ」
部長さんの瞳が、急に輝き出したように見えた。
「そうですね。チューニング管の部分が短くて、細いベルが長く伸びてますからね」
「なるほどね。ベルの直径は同じくらいだけど、チューニング管が三番スライドと同じ長さしかないのね」
「C管は、Bb管を全体的に小さくした感じなのかなと思ってたけど、リードパイプからベル先までの長さは同じなんだな。チューニング管のBb管より短い部分がちょうど一音分てわけか」
茉莉奈さんが加勢した。その通りだよ。
部長さんと茉莉奈さんの前で、吹いてみせる。
「まあ、Bb管と音色が全然違わね。すごく明るい音」
「はい。Bb管でも、バックボアがコンマ数ミリ違っただけで音色が変わりますから。これだけサイズが異なると、音色だけでなく、吹き心地も全然違いますよ。吹いてみますか?」
私はそう言って、楽器を部長さんの前に出す。
「いいの?」
部長さんは、両手を胸の前で合わせて、嬉しそう。
「大丈夫ですよ」
楽器を部長さんに渡す。
部長さんは、楽器を持った瞬間、驚きの声を上げた。
「軽っ!」
C管は、Bachの楽器が重く感じるのとは逆に、前の方にあるチューニング管が短くて、楽器の重量が手で持った部分に掛かるバランスのせいか、実際の重さより軽く感じるのだ。
「マウスピースは、Bb管用のでいいの?」
「はい。人それぞれこだわりがありますが、大丈夫です」
部長さんは、ブレザーのポケットからマウスピースを出し、楽器につけた。
金管プレーヤーの習慣だな。
楽器に付けたままだと、マウスピースがすぐに冷えちゃうので、しばらく吹かない時間があるときは、ポケットに入れて、保温する。
吹くと、
「あれ? Bb管と全然息の入り方が違うし、指と音がちぐはぐな感じがしてうまく音が当たらないわ」
「それは、もう慣れるしかないですね」
「あの、私も吹いていい?」
茉莉奈さんが言った。
「もちろん。私の、C管用のマウスピースあるから・・・」
全部言う前に、茉莉奈さんが私の言葉を遮って、
「いい! 自分のマウスピースで吹くから! スキ見せるとすぐこれなんだから!」
はいはい、失礼しました。
「冗談だよ。へへへ」
「あんたのは、いちいち冗談に聞こえないのよ!」
私と茉莉奈さんとのやり取りに、部長さんは「へ?」みたいな顔をしている。
そんな部長さんにはお構いなしに、茉莉奈さんは楽器を吹く。
「あ、確かに、音のツボっていうか、音のハマりどころがBb管と全く違う。でも、Bb管より、音の出る反応が良い感じがするし、息を入れても抵抗が少ないから、吹きやすい。これ、好きかも」
管楽器奏者にとって、楽器そのものの音色はもちろん大事だが、拭き心地も楽器選びの重要な要素となる。吹いていて、抵抗感のある方が良いという人や、その逆に抵抗感が少ない方が良いという人など、それぞれだ。いくら音色の良い楽器でも、吹き心地の悪い楽器は吹きたくないものだ。
茉莉奈さんは、Cスケールをやって、
「当然だけど、Bb管のドレミファの運指で、Cスケールになるのか。私、絶対音感ないけど、Bb管のBbスケールの指でCスケールの音っていうか、Cスケールの音のハマる感覚がするのは、ちょっと変だな」
うん、それも慣れるよ。
「沙織は、C管とBb管持ち替えて吹いて、全く違和感ないのか?」
「うん、平気。C管持った瞬間、C管の頭にスイッチ変わるから、どっちもおんなじだよ」
「すげー。慣れってのは恐ろしいもんだな」
わーい。茉莉奈さんに褒められた! 今日は「茉莉奈さんに褒められた記念日」だな。後でカレンダーに印付けとこ。赤丸ででっかく。
茉莉奈さんは、しばらく音出ししていると、もうコツを掴んだのか、音がスムーズに出てくるようになってきた。
「それから、ちなみに、沙織さんは、高い音はどこまで出るの?」
部長さんが恐る恐る訊いてきた。
もちろん、高い音が出れば巧いという訳ではないのだが、トランペット奏者にとって、どれだけの高い音が出せるのかは気になるところ。
「そうですね、私は、hiGですかね」
「そうなんだ。私は、hiDだな」
と茉莉奈さん。
それを聞いて、部長さんはポカンとした顔をしている。
「っていうかさ、二人共――」
はい、何でしょう、部長さん。
二人して部長さんの顔を見る。
今まで見たことのない真面目な表情になり、「こういうこと言うのもなんだけど」と前置きして。
「二人とも、すっげー上手くね?」
「二人とも、本当に先月まで中学生だったの?」
え、ええ。紛れもなく。正真正銘、先月、中学卒業したばかりであります。
「ねー、副部長! 副部長!」
部長さんは、大声で、まだ音楽室の出入り口のところで部活見学にくる一年生の対応に追われている副部長さんを呼んだ。
「なになに、どうしたの?」と、すっ飛んでこちらにやって来る副部長さん。
気のせいかもしれないけれど、なんだか、この副部長さん。部長さんに対して、すごく従順な感じがする。
「あのさ、今部活見学しに来てるトランペットの一年生なんだけど」
ああ、今朝お世話になった子と、もうひとりの子ね。彼女たちが、何か?
「二人共、楽器すっごい上手なのよ! どうしよう?!」
「そうなんだ。それはよかったじゃない」
副部長さんは、何か問題が起こったと思って心配していたので、「なんだ、そんなことか」とあっけらかん。
「ねえ、あなたたち! 本当に、うちの部活入ってくれるのよね?!」
そういう部長さんの質問に、「はい、そのつもりです」と私と茉莉奈さん。
「ありがとう、本当にありがとう!」
部長さんは、今にも泣きそうな勢いで私達に何度も礼を言った。
「実はね、あなたたちのどちらかに、お願いがあるんだけど」
部長さんは、私と茉莉奈さんの目をじっと見つめて言った。
「お母さん?」
部活が終わり、自宅に帰ると、珍しくお母さんが私より先に帰宅していた。
外回りの出先から、直帰したそうだ。
「どうしたの?沙織。今日、部活の初日だったんでしょ?」
うん、そうなんだけど、と、私は先を続けた。
「私、パートリーダーになった」
パートリーダーって、トランペットの?と。
そうですよ、もちろん、トランペットですよ。
私がトランペット以外の楽器に回されたら、まず、話題はそっちが先だろう。
「三年生、いないの?」
「いるけど、部長さんで。パートの面倒をみる以外にも、部全体の仕事がたくさんあって、パートリーダーと兼任すると、どっちも中途半端になっちゃうからって」
お母さんは私からそう聞くと、
「そうねえ、パートリーダーの仕事も、意外とたくさんあるからね。トランペットだからって、トランペットのことだけ考えてれば良いってわけじゃなくて、他の金管楽器のパートリーダーともコミュニケーションしなきゃいけないし、木管楽器との合わせがある時は、そっちの動きも把握してなきゃだからね。部長は部長で、各パートリーダーとの連絡係みたいなこともしなくちゃいけないし。F女、なんでも生徒の自主性に任せてるから、普通の学校で顧問がやるような仕事も部長がやらないといけないし」
とはいえ、お母さんはパートリダーでも部長でもなかったはず。
「私は、音大の受験で忙しかったからね。パート・ーダーや、あまつさえ部長なんて、とても出来るようなスケジュールじゃなかったのよ。ピアノと聴音が、小さい頃から音楽やってる子達より不利なの分かってたから、どうしても楽器演奏で上位にならないといけなかったからね」
そのお陰で、お母さんは、他のトランペット受験者と比べて断トツの成績を収めたと。
それで、なんでプロにならなかったのか。
まあ、その辺の経緯は、私がトランペット始めてから何度も聞かされて、耳タコなんだけど。お父さんとののろけ話がウザいというおまけ付きで。
「それで、どうするの? パートリーダー」
「もう決まったことだから」
「パートリーダー会議とか、パート練習の音頭取りとか、大丈夫なの?」
あんた、楽器を演奏している時以外は声も小さいし、引っ込み思案で、自分から積極的に発言するタイプじゃないじゃない、だと。
お母さん、私のこと、そんな風に思ってたんだ。ショック。だけど、本当のことだ。それは、自分がよく知っている。
でも、今朝の一件で、あの生徒会長に言う事言ってやって、ちょっと自信ついたかも。
「それは、自分でも変わっていかなきゃと思ってるし、みんな、音楽ちゃんとやって行こうっていう意欲あるから、友達と一緒に頑張っていこうと思う」
お母さんは、私の決意みたいなものを聞くと、驚いたように目を見開いた。
「あんた、もう友達できたの!?」
私の決意表明ほっぽって、そっち?
ええ、出来ましたとも。一気に二人も。そのうち一人は、押しかけ友達みたなもんだけど。私の。
「へーえ。中学の時は、幼馴染の吉美ちゃん以外、夏休み過ぎても一人も友達出来なかったのに?!」
せーちょーしたのね、なんて笑ってる。
「だったら、ちゃんと部長さんをサポートして、逆に部長さんの仕事が増えないようにしないとね。パートリーダーは、楽器が上手なだけじゃ務まらないからね」
はいはい。偉大なるOG様の忠告、しっかり肝に銘じておきます。
この後、この“偉大なるOG様”の意外なる真実が明らかになる。
――翌日
学校に行く一時間前に起きて、日課の楽器練習。
高校からは、朝練があるので、音楽室に行ってすぐに曲の練習ができるように、ウォーミングアップが中心になる。でも、私は「ウォーミングアップのためのウォーミングアップ」はしないから、傍から見ると普通に基本練習しているように見えるだろう。
気がつくと、もう学校に行く時間。楽器を吹いていると、時間の経つのが速い。
もっとも、私の家から学校まで、普通に歩けば十分かからなから、朝練が出来る時間ギリギリまで吹いていられるけど。
本当、私の生活って、楽器中心だなあ。というか、楽器の事だけしか考えてない。
こんなんで、本当にパートリーダーとか務まるのかね。一年生とは言え、部の運営にも関わっていくわけだし。
なんなら茉莉奈さんもいるし、なんと言っても、石神井さんという心強い味方もいる。なるようにしか、ならないっしょ。
学校に着くと、石神井さんが校門の所で待っていた。校門の支柱に寄りかかり、片足を掛けて立っている。
「来たわね、パートリーダー。早速、部長出勤とはね。相棒は、もう音楽室入ってったわよ」
なんつって、右手の親指をSNSのいいね!ボタンのように付き立て、音楽室のある方向を指し示す。
部長? 相棒? 相棒って、茉莉奈さんのこと?
何に影響されて、そんな口調になってんだ、このお嬢さんは。
というか、開口一番、それ? 朝の挨拶が、いつからそんな軽口言う習慣になったんだ、この日本は。
二人並んで歩き、部室に向かう。
昨日は、校庭を横切って生徒会室に向かったが、今日は、校舎に沿って歩いて行く。
「ここで、こうしてあなたと会うのは、昨日以来ね。朝練、ずっとあそこで待ち合わせしてく?」
「いいけど、部に変な噂たったらやっかいだから、普通に入っていこうよ」
私がそう言うと、石神井さんはキョトンとした表情で、
「変な噂? 私と沙織が付き合ってるとかって?」
私が黙っていると、
「別に、良いじゃん。私は、構わないわよ。試しに、本当に付き合ってみる?」
隣を歩いている石神井さんの顔が、近づいてくる。
顔、近すぎ。
なぜか、頬が紅潮して来る感覚をほのかに感じる。
なに、照れてんだ、私。
いくら美人とはいえ、同性だぞ。意識すんの、おかしいだろ。
私は、その恥ずかしさを石神井さんに悟られないように、茶化し返す。
「はいはい、冗談はさておいて、早く音楽室行かないと、朝練の時間終わっちゃうよ」
石神井さんは、「ちえっ、しょうがないわね」なんて、外国人みたいに両手を広げて、諦めのジェスチャー。
「あなたの恋人は、当分はトランペットね。そういうことにしといてあげるわ」
なんで、上から目線なんだ。
もっとも、このお嬢様は、いつも上から目線だけどね。あの、生徒会長に対しても。
ただ、石神井さんのそういうところ、助かるな。
お母さんが言ってたように、トランペットを吹いているとき以外、私は引っ込み思案で、自分から積極的に発言するタイプじゃない。だから、石神井さんのような友達――パートナー――が近くにいてくれると、それだけで色々上手く回ってくれそうな気がしてくる。
しばらく歩くと、音楽室に着く。やっぱり、校門から遠い。明日からは、もう少し早く家出るか。
もちろん、石神井さんと鉢合わせしないように、ではない。
昨日の部活見学は、一般生徒が出入りする出入り口から音楽室に入ったが、今日からは、部室がある「裏口」の方からだ。
私がいつも吹いているシルキーは、部室に置いといて、家での練習は、予備のYAMAHAだ。
“Xeno アーティストモデル”で、元ニューヨーク・フィルの副主席トランペット奏者、ロバート・サリバン氏をコンサルタントとしたもの。YAMAHAの楽器の中でも、割とシルキーと吹き心地が似ている。お母さんが、同じ“Xeno アーティストモデル”の、シカゴ響奏者をコンサルタントにしたモデルなので、お母さんとも合わせやすい。もっとも、お母さんは、ニューヨークの方は、シカゴより息がたくさん入るような気がして、音を纏めにくいとかなんとか。お母さんは、吹いた時、もう少し抵抗感がある方が好きということで、シカゴの方にしたらしい。
部室の楽器棚からシルキーを下ろし、音楽室に入ると、茉莉奈さんがリップスラーの練習をしている。
茉莉奈さんの横の椅子に座り、楽器を吹く準備をする。
「おお、来たな。どうだ? シルキーとの一晩ぶりの再会は」
私としては、楽器より、茉莉奈さんとの一晩ぶりの再会の方が待ち遠しかった。
言うと、またキモがられるので、言わないけど。
ということは、石神井さんが、わざわざ校門のところで私を待ってたのって・・・?
いやいや。
思わず、反対側の壁の方で、リードを咥えながらクラリネットを組み立てている石神井さんの方を見る。
石神井さの方は、なにかの気配を感じたらしく、楽器から目を話し、こちらを見る。
自然と、私と石神井さんと目が合う。
右手を上げて、ピース・サインを私に送る石神井さん。
リードを湿らせるため、口に咥えているから、食事中のハムスターみたいになって、全く様になっていない。
なに、やってんだか。
すると石神井さんは、すぐに、リードを口から離し、リガチャーにセットする。
そこで、なんとなくバツの悪くなった私は、茉莉奈さんにしょうもないことを語りかける。
「茉莉奈さん、練習の最初は、いつもリップスラー?」
これは、中学時代の「調査」では調べきれなかったことだ。
「うん。だいたいそうかな。時間がないときは、音階とかやっちゃうけど」
え、知らなかったの?という顔。
「そうなんだ。私は、タンギング」
「へえ。いきなりタンギング練習するんだ」
「そう。ウォーミングアップと通常の練習を区別するのにね。そのキッカケをタンギングで感じるの」
「じゃあ、ウォーミングアップの最初は?」
「それはね、ベンディングとリップトリル」
「ベンディングかあ。やり方は知ってるけど、私はあんまりしてないね。効果あるの?」
私は、大きく頷いて、「もちろん」という合図をする。
「結局ね」と、私の悪い癖がはじまろうとしている。
訊かれてもいないのに、解説を始めてしまうのだ。
「結局ね、トランペットの演奏は、口の中での微妙な舌の使い方で決まるのよ」
「ほう?」と茉莉奈さん。
口の中で舌、その音を出すのや、演奏をするのに適切に使わないと。
「リップスラーも、舌の位置を変えて音を上下するんだし、音の高さも、その音の高さに合った舌の位置って違ってくるから」
リップスラーを、タングスラー(舌のスラー)と言う人もいるくらいだからね。
ああ、だから、同じ指で舌の位置を動かして音の高さを変える「ベンディング」と、「タンギング」なのか、と茉莉奈さん。
「さすがはパートリーダーだな。いろいろ考えてやってんだ」
そこへ、近くでウォーミングアップをしていた部長さんがやって来た。
「ねえねえ、さっき、リップトリルって言ってたけど、それってどうやるの?」
「あ、リップ・トリルはですね、速いリップスラーです」
やってみせる。
「ええ・・・。なんでそんなこと出来るの?」
「ゆっくりからやれば、大丈夫ですよ。私も、最初は全然でしたし」
「ちなみに、沙織がリップトリル最初にやったのって?」
茉莉奈さんだ。
「小学校五年生」
茉莉奈さんと部長さん、顔を見合わせて、
「説得力ねー」
「ちょっと待って。小学五年生って・・・。それじゃあ、沙織さん、いつからトランペット吹いてるの?」
「小学校三年生です」
部長さん、呼吸を忘れたかのように、大きく息を吸ったまま、もう声すら出せずに、驚いている。
無言で、茉莉奈さんにゆっくり視線を向ける。
まさか、あなたもなの? というような表情で。
茉莉奈さんは、それを感じ取ったようで、
「いやいや。私は中学に入ってからですよ。こんなトランペット・マシンといっしょにしないでいただきたい。こいつの母上が、ここの吹奏楽部のOGで、プロになるために音大に行ったんだそうです」
“トランペット・マシン”はいいとして、母上?
茉莉奈さんと話すようになって気づいたけど、茉莉奈さんは、ときどき古風な言い回しをする。
それにしても、母上って。江戸時代か。
「そう・・・。沙織さんのお母さん、ここのOGなんだ。今、おいくつ?」
「37です」
「そう――。えっと、ちょっと待っててね」
そう言い残すと、部長さんは急ぎ足で部室に入っていった。
「お前のお母さん、ずいぶん若いな。私の母親は45歳だぞ」
うん、学生結婚だからね。
茉莉奈さんと雑談していると、しばらくして、部長さんが音楽室に戻って来た。
部長さんは、右手に持っていた本のようなものを開き、私に見せた。
沙織さんのお母さんて、もしかして、この西野麗奈さん?
部長さんが、部室から持ってきたのは、吹奏楽部の歴代の写真が収まったアルバムだった。
部長さんは、そこに貼り付けられていた、吹奏楽コンクールが終わった時に撮られた集合写真の右上に写っている人物を指差して、私に訊く。
部長さんが指差したその人物は、かなり若作りだけど、たしかに私のお母さんだった。
高校生なので、若作りなのはあたりまえだけど、今とは違うショート・カットで、陸上の選手みたいに見える。
でも、あんまり、私には似てないかな。その髪型のせいかもしれないけど。
そういえば、昔から、お母さんは私のことを「お父さん似」だと言ってたけど、若い頃のお母さんを見ると、たしかにそう言えるかもしれない。
「はい。そうです。今は名字が替わって、高城麗奈ですけど」
ええ、うそ?!信じられない。
部長さんは、右手の平で口元を隠して、悲鳴とも驚きとも取れるような、素っ頓狂な声を上げた。
「西野麗奈さん、いえ、西野先輩は、この吹奏楽部の、伝説の“トランペット・クイーン”よ」
伝説の“トランペット・クイーン”?!
なんだ、それ。
お母さんにそんな渾名あったなんて、初めて聞いたぞ。
もっとも、そういうのは自分で言うもんじゃないし、なんといっても、そんな渾名じゃ、自分の娘にゃ恥ずかしくて言えないな。
(お母さん、これでも、高校の吹奏楽部時代は“トランペット・クィーン”って言われてたのよ)
そう自慢気に私に話すお母さんを想像すると、声を上げて笑ってしまいそうになった。
「私も、たまに部室に見えるOGからちょっと聞いただけなので、詳しくは知らないけど。在学中から、習っているトランペットの先生に誘われて、プロのオーケストラにエキストラで参加したりして、相当な腕前だったそうよ」
え、そんな話し、聞いたことない。
“トランペット・クィーン”云々はおいといて、その話しは、して欲しかったな。
「それにしても、『此の親にして此の子あり』って訳ね。そうかあ、なかなかトビからタカは生まれないものなのね。それにしても、西野先輩、いえ、沙織さんのお母さん、プロにはならなかったの?」
ええと、それ言われるとちょっと辛いんだよね。
「はい。音大在学中に学生結婚して、私が生まれたので。父は、遠洋航海の見習い航海士で、長い間日本にいないので、人生設計見直したんです。プロといっても、オーケストラの団員になるだけが、プロではありませんし。子育てが落ち着いたら、レッスン・プロになるのもいいかも、とか思ってたらしいです」
ああ、それでお母さん、お若いのね、なんて。
たしかに、晩婚化の進む日本で、二十代半ば、それも学生結婚て珍しいかも。
「そうだったのね。それじゃあ、レッスン・プロとしてのお母さんの一番最初の弟子が、あなたって訳ね」
“一番最初”といっても、私しかいないんですけどね、お母さんの教え子。
部長さんは、突然、思い出したように、音楽室正面の黒板の上に付けられている時計を見た。
「あ、いけない。もう、こんな時間」
部長さんは、そう言って、慌てて朝練中の部員たちに向かって号令を掛ける。
パンパンと、神社にお参りするように二度手を叩いて皆んなの注目を集め、
「伝えます! そろそろ時間ですので、速やかに撤収に入ってください。今日も音楽の授業はないので、セッティングはこのままで大丈夫です。いつもどおり、昼休みも音楽室は開放していますので、自主練したい人はどうぞ。以上!」
この部活では、部員に何かを伝える際、こうして自分に注目を集めてから、伝達事項を伝えることが原則になっている。昔は、そのあと、大きく「はい!」と全員で返事をすることが義務だったらしいけれど、今では伝える側が一方的に伝えるだけになっている。
「そういう訳なので、私達も、そろそろ片付けましょう」
今まで、自分のことは、あまり話さなかったような気がする。
そりゃ、高校生なので、積もり積もった身の上話があるわけでもない。
でも、小学生の頃にトランペットを始めたことや、お母さんの話しなど、これまで訊かれなかったので、ほとんど他人に話したことはなかった。
でも、今日はお母さんの“秘密”を知れたし、結構楽しかった。
家に帰ってからの、お母さんとの話しの“ネタ”も出来た。
お母さんに、このことを話したら、どういう顔をするだろう。
そう考えると、今日一日、楽しく過ごせそうだ。
それにしても“トランペット・クィーン”て。
思い出しただけで、ニヤニヤが止まらない。
――昼休み
石神井さんが、私達の教室に来て、「いっしょにご飯食べましょう」と言う。
今日は3時限目まで課題考査、4時限目にロングホームルームがあった。この後、昼食をはさんで5時限目に部活紹介がある。私たちは、もう部活に入っているので、完全に消化試合だ。
私と茉莉奈さんは、早く音楽室に行って練習したいからと、購買でパンでも買って、軽く済ませようとしていた。でも、石神井さんは、それじゃあ栄養が偏るし、お昼ごはんくらいゆっくり食べたって、バチは当たらないでしょうと言うので、3人連れ立って学食へ行くことにする。学食は、新造された校舎の一階にあるので、音楽室にも近いし、「まあいいか」ってことで。
F女の学食は、公立校とはいえ、都心にありそうなカフェテリアみたいな感じの、なかなかおしゃれな創りだ。なんでも、少子化が進んで廃校になって、老人ホームとかに転用されてもいいように、とかなんとかで。老人ホームとなったこの建物で、私も余生を過ごすことになったりして。
食事のメニューは、私はA定食、茉莉奈さんはB定食で、石神井さんはスペシャル・カレーうどんセットを注文した。
見事に、三人バラバラ。
気が合うのか、合わないのか。
それにしても。
石神井さん、この白い制服に、カレーうどんは危険よ。
今日は4月中旬に入ったとは思えない程とても暖かなので、石神井さんと茉莉奈さんは、ジャケットを脱ぎ、チェックのスカートに、白いブラウスとサマーセーターという、中間服姿に既になっている。
石神井さんに、カレーうどんの危なさを警告すると、「大丈夫よ、このハンカチ、汁よけに使うから」と言って、スカートから大判のハンカチ、というかスカーフのような布を出し、ひらひらさせる。っていうか、そのスカーフも、お高いんじゃ?
石神井さんが、空いている場所を目ざとく発見し、「あっち空いてるわよ」と号令をかけ、私と茉莉奈さんが隣同士、石神井さんが私達の正面に座る。
石神井さんが、ハンカチを胸の上に置き、食事する準備が出来上がる。ハンカチの上の方を、襟の中に入れなくても落ちないとは、羨ましい。
「ところで」
石神井さんは、割り箸を割りながらそう切り出す。
「朝練のとき、あなたのお母さんの話しで、トランペット方面は盛り上がってたみたいだけど」
“トランペット方面”て。
ていうか、あの話し、聞いてたんかい、あんた。
しおらしく個人練に集中してると思ってたのに。
「私に、一つ提案があるんだけど、いいかな?」と石神井さん。
いいよいいよ。なんでも自由に言ってみんさい。
「あなたのお母さんに、金管セクションのトレーナーになってもらえないかしら?」
意外な提案。
考えたこともなかった。
茉莉奈さんも、おお、それはいい考えだ、と珍しく石神井さんに同意。
でも、それはちょっとむずかしいかも。
「お母さん、土日は所属しているアマチュア・オーケストラの練習があるし、お父さんが長く家を空けている分、会社と家の仕事で手一杯だからなあ。私も部活で、家の仕事今までみたいに手伝えなくなりそうだし」
そっかあ、と二人ともあえなく撃沈。
それ、私もいい考えだと思うけど。
「分かったわ。私の単なる思いつきだから、気にしないで」
意外にも、素直に引き下がる石神井さん。
「でも、外部のトレーナーって、コンクールの強豪校ではお願いしてるんだよね」
私が疑問を投げかけると、
「多少は、そうしてるんじゃない」と石神井さん。
「だったら、お母さんに良いトレーナーさん知り合いにいないか、ちょっと訊いてみるね」
お母さんの知り合いなら、レッスン料、ちょっとは勉強していただけるかも、なんて。
まあ、その前に、部長さんに相談しないと、だけど。
こんな大切なこと、昨日入部届だしたばかりの一年生だけで盛り上がるとか、ちょっとやりすぎだ。
部には、部の方針てやつもあるかもしれないし。
もちろん、困っているんだったら、お役に立てそうなことは少しでも役に立ちたいとは思うけど。
食事が終わって、学食から音楽室に直行する。
部室の前まで来ると、音楽室の中からは、賑やかなサウンドが漏れ出していた。
石神井さんは、いちいち楽器を持ち帰っているので、準備室には入らず、直接音楽室に向かう。
私と茉莉奈さんは、朝と同じ様に、楽器棚から楽器ケースを下ろして、そのまま音楽室に入る。
見ると、部長さんが、特進クラスの早朝学習のため、朝はいなかった二年生二人といっしょに練習している。メトロノームに合わせ、リップスラー。
二年生は、二人とも、高校から未経験者でトランペットを始めたので、トランペット歴はちょうど一年。
演奏を聴いたところ、初心者という感じではないけれど、個人練習はまだこなれていないようで、部長がサポートしているそうだ。まあ、先月まで高校一年生で、先輩から指導を受けるだけの立場だった訳だし。二年生になり、後輩が出来たとはいえ、いきなり「“先輩”として独り立ちしろ」というのは無理な話だ。
彼女たちの練習の邪魔にならないように、少し離れた空間にパイプ椅子を置き、茉莉奈さんと隣同士になって、楽器を吹き始める。
トランペット、というか金管楽器は、その日始めて吹く時はもちろん、しばらく音を出していない場合、マウスピースだけで少し音を出し、その後、マウスピースを楽器に付けて吹き始めるのが一般的だ。
でも、今日は朝吹いたし、私も茉莉奈さんも、マウスピースだけでの音出しはやらない。
マウスピースだけの音出しは、全くの無意味ではないのだけれど、最近は、プロの間でも「マウスピースだけの音出しはしなくても良い」という意見が多くなって来ている。
特に、朝練とか昼休みの間の昼練は、ただでさえ練習する時間が少ないから、マウスピースだけの音出しから始めると、最悪、それだけで練習終了の時間になりかねない。それは極端な例かもしれないけれど、マウスピースで音を出すのと、楽器で音を出すのとでは、なにもかもが違う。全くの別物だ。マウスピースで綺麗な音が出ていても、それで楽器に付けた時に良い音にはならないし、マウスピースで音が鳴らず、マウスピースの先から息が出ているだけの状態で楽器に付けると、音が鳴るという現象は歴然と存在する。
さすがに、朝起きた立で、身体中の血流が弱まっている状態でいきなり楽器を鳴らす、ということはない。そんなの、「マウスピースだけで音出しするかしないか」以前の問題だ。金管楽器は、唇が振動する音が拡声されて音になる。唇が振動してない状態であれば、マウスピースであろうと楽器であろうと、音は出ない。
だから、私の場合、ちょっとバズィング(唇だけを振動させ、音を出すこと)してみて、ちゃんと唇が振動することが確認出来たら、もうすぐに楽器を吹いちゃう。普通なら、ここでマウスピースだけでの音出しが来るのだ。でも、唇なんてすぐに振動するようになる。もし、なかなか唇が振動してくれないのであれば、そこでマウスピースを付ければあら不思議、唇が自由自在に振動してくれる、なんてことはない。結局、金管楽器の演奏は、唇それ自体が振動してくれるか否かが全てなのだ。
だから、唇さえ振動してくれれば音になるので、あとは楽器から出る音を聴きながら調整していけばいい。マウスピースだけで音出ししたって、楽器でどういう音になるか分からないからね。
部長さんに、「沙織さんて、マウスピースで音出ししないで、いきなり楽器吹くんだ」と訊かれ、そのように答えた。まあ、トランペット・クィーンからの受け売りですけど。
部長さんは、「ふ~ん」というように、私の話しを聞いていたけど、納得してくれたかな。まあ、個人個人やり方は違うし、「私はそうです」というだけだ。儀式的というか、最初にマウスピースだけで音出しした方が、スムーズに楽器での音出しに移行できるというのであれば、私はそれを否定するつもりはない。楽器演奏は、気分で左右される部分も少なくないからだ。
昼休みの練習の時間は、朝より少ない。だから、メニューを限定する必要がある。私は、リップスラーを、茉莉奈さんは、半音階の練習をみっちり行なった。
朝と同じように、部長さんの号令で昼練終了。
――5時限目終了
これで、やっと待ちに待った放課後だ。
尤も、正式な授業はまだなく、5時限目は部活紹介で、様々な部活の代表が自分の部のアピールをする時間だった。といっても、50分で全ての部活を紹介しなければならないので、1つの部活につき3分の持ち時間しかない。吹奏楽部は全一年生の前で演奏が出来れば良いのだが、そんな時間では無理なので、部長が簡単な活動内容の紹介と、「放課後に行われる勧誘演奏を聴きに来てください」と言った程度だった。
吹奏楽部は、この部活紹介で十分なアピールが出来ないため、三日間の勧誘活動には、自然と力が入る。
昨日と同じ様に、石神井さんが私のクラスに来て、茉莉奈さんと三人、連れ立って音楽室に向かう。
音楽室に行くと、ちょうど勧誘演奏へ向かうブリーフィングの最中だった。部員のほとんど全員が集まり、ごった返す音楽室。私達の1年A組のクラスは、多分、ここにいる人達の中で、もっとも音楽室から教室のある場所が離れている。だから、同じ時間にクラスを出ても、到着は一番最後になってしまうのだ。
しばらくすると、部長さんが手を叩いて皆んなの注目を集める。
「伝えます。それでは皆さん、そろそろ担当部署に別れたかしら? 昨日の勧誘演奏は、大盛況のうちに終わり、新入生も予定より多く集まっています。ウェブ・サイトの動画閲覧数も、昨年の三倍近くになりました。これも、皆んなの頑張りのお陰です。ありがとう。知ってのとおり、勧誘演奏は、今日を含め、あと2回です。中日の今日も、皆んな力を合わせて一丸となり、頑張っていきましょう!」
部長さんがそう言い終わると、どこからともなく拍手が沸き起こる。
「では、勧誘活動、スタート!」
一同「よろしくお願いします!」
一糸乱れぬ統制感。
これには、石神井さんも関心したようで、
「凄いわね。それにしても、あの部長さん、格好いいわね」
「石神井は、ああいう女性に憧れるのか?」と茉莉奈さん。
「石神井さん、割と年上好みなのかもね」
ついでに私も石神井さんをいじってみる。
「何言ってんのよ。部長になったら、あなたもああいう風にするのよ、沙織」
ちょっと待った。
何、決定事項のように言ってるんだ。
私が部長?
部長は、石神井さんでしょ。
「私は、部長にはならないわよ。特進クラスに行くし、部長業やる時間なんて、物理的にあるもんですか」
石神井さん、特進クラスに行くんだ。まあ、そうだろうな。入試トップの成績だし。
「だから、私なの?」
「あなた以外に、適任者がいるとでも?」
いやいや。そりゃ石神井さん、私のこと買いかぶりすぎでしょ。そんなこと言われても、私が部長に相応しいとは到底思えないんだけど。一年生で、他にも部長に相応しい人、後で入ってくるかもしれないじゃない。
「私も、そう思う。未来の部長は、沙織だ」
おいおい、茉莉奈さんまで。茉莉奈さんまで、石神井さんの茶番に付き合うこと、ないんだよ?
「大丈夫。パートの方は、私に任せておけ! 心当たりあるから、来年は、巧い部員集めて来るし、全力でサポートするぞ」
う~ん。茉莉奈さんが、そこまで言うなら・・・・。
って、おい。つい乗せられてしまうところだったじゃないか。
「何、その“心当たり”って」
石神井さんが茉莉奈さんに質問する。
それ、私も気になった。
「私が通っているレッスン教室の後輩や、中学の後輩、またはその知り合いなんかだな。幸い、この学校は偏差値もあまり高くない割に、進学校としてのカリキュラムも整ってるから、誘いやすいんだよ。それに、公立校だしな。唯一のネックは、女子校ってことくらいかな」
へえ。茉莉奈さんて、意外に、顔、広いんだね。さすが、私の“ヒロイン”。
「オヤジギャグ」と石神井さん。
一方、茉莉奈さんは、
「別に、私は、お前のヒーローにもヒロインにもなったつもりはない!」
そういって、私の脳天に空手チョップ。ベシッ!
わーい。茉莉奈さんに突っ込まれた。今日は「茉莉奈さんに突っ込まれた記念日」だな。
私は、ニヘラした緩んだ顔をしながら、茉莉奈さんにチョップされたところを無意識にさする。全然、痛くなかったけどね。
「とりあえず、今年の中学三年生では、ホルンとバスボン、オーボエの巧いやつ知っている。特に、オーボエは優秀だぞ。超オススメ物件。そいつの知り合いに、ダブル・リード繋がりでファゴットの巧いやつもいるそうだが、音高に行きたがってるみたいで、取り敢えず保留中」
「中三なら、早くツバつけとかないとね。進路希望の第一志望、F女に早めに変更させないと」
石神井さんが、茉莉奈さんの提案にノリノリだ。
「おうよ。そのへんは抜かりないぞ。そのオーボエの子はな、私に借りがあって、それから私の崇拝者になってるんで、呼び出せば、すぐに話し聞いてくれるぞ」
人の弱みに付け込むのは良くないと思うけど、茉莉奈さん、割と腹黒なところがあるんだな。
それにしても、崇拝者って。私だけじゃなかったんだな。
「分かったわ。そっちの方面はあなたに任せる。沙織は、そういうのないの?」
私に振られてもなあ。
「私には、そういうのないけど、一つ言えるのは、今年のコンクールで良いところまで行けば、志望者は増えると思うよ」
「そうね。それが正攻法かもしれないわね。実際、今年も、去年のコンクールの成績が良かったから、志望者、増えているみたいだし」
でしょう?
「まあとりあえずは、今年の新入生ね。私達にも、なにか出来ることないかしらね?」
石神井さんがそう言うと、後ろの方から声が掛かった。
「あるわよ!」
部長さんだ。
「昨日、副部長とも話したんだけど、あなたたち、明日の勧誘演奏、参加してもらえないかしら?」
「私達が、ですか?」
「ええ。今日の演奏が終わったら、皆んなで合わせるから。これ、練習しておいてもらえる? あんまり難しくないから、すぐに出来るようになるわ」
部長さんは、そういって、三曲分のパート譜を私達三人に手渡した。
「例年通り、こうして勧誘演奏が出来るのも、沙織さんと石神井さんのお陰だし。感謝しているわ」
部長さんは、そう言い残すと、勧誘演奏に出かけていった。
「やったわね。これって、もう部員として認められたってことよね」
石神井さんは、パート譜を見ながら嬉しそうに言った。
そうと決まったら。
「それじゃ、後は練習して、合奏だな」
茉莉奈さんのその言葉を合図に、私達三人は、楽器を出し、練習を始める。
練習をし始めて、しばらくすると、新入生がぽつぽつやってくるようになった。
――エピローグ
今日、クラスで、噂を聞いた。
入学式で、新入生代表の挨拶をした石神井様が、吹奏楽部に入部したという。
私は、入学式で石神井様をひと目見て、ぞっこんになった。
私も、中学時代は吹奏楽部だった。
けれど、高校に入ったら、吹奏楽部に入るつもりはなかった。
吹奏楽部は、なんだかんだ言って練習量が多く、多かれ少なかれ、勉強に影響が出る。
しかし。
石神井様が吹奏楽部に入ったのなら、話は別だ。
昨日の帰り際、校門近くのちょっとした広い場所で吹奏楽部が演奏しているのを聴いた。帰宅してから学校のホーム・ページを見たら、動画が上がっていて、何度も繰り返して。
吹奏楽部に入るつもりはなかったのに、まだ、少し未練があったのかもしれない。
自分で言うのも変だけど、中学時代は、結構巧いと評判で、先生にも、吹奏楽部の強豪校に行くと思われていたくらいだ。後輩にも、かなり慕われていたと思う。
でも、高校に行ったら、学生の本分である勉強一筋で行くと決めた。
だけど、その決意も半年で揺らぐとは。
それは、もちろん、石神井様と同じ部活に入りたい気持ちからというのはある。
けれどそれよりも、F女の吹奏楽部の演奏が、意外にも上手かったのが衝撃的だったという方が大きい。入学式のときの演奏も含めて。
中学時代には、F女の吹奏楽部の良い話は、あまり聞いていなかった。そういえば、「昔は凄かったのに、今はレベルが下がった」などと、一時期の吹奏楽強豪校時代との比較が主で、今の演奏レベルについてはあまり話されていなかった気がする。でも、なんとなく、入部して、勉強を犠牲にするほどの価値はない
と思っていた。
そこで、自分で調べてみると、去年のコンクールはかなりいい成績を収めていて、三年くらい前から次第にレベルが上って来ているのが分かった。
クラスの担任に訊くと、新入生も去年よりは集まりが良くなっているそうで、それなりに注目も集めているようだった。
音楽室に行くと、出入り口の前に二年生が待機していた。
「すみません、入部希望なんですけど」
二年生にそう言うと、「楽器は、決まってる?」と訊かれたので、「はい、中学の時と同じクラリネットです」と告げる。
「それなら、音楽室入って、そのまま正面に進んで。クラリネット・パートのブースになってるから」
「ありがとうございます」
私は、その二年生にそう礼を言い、音楽室の中に入っていった。
すると。
なんと、石神井様がクラリネットを吹いている!
小説じゃあるまいし、こんな偶然て。
運命の出会いはあとになってから分かるというけれど、これって、まさに運命?!
そう思うや否や、私は石神井様のところに歩み寄り、無意識に話しかけていた。
「石神井さ、ん。クラリネットだったんだね!?」
あやうく“石神井様”と言い掛けてしまった。
「ん? 見てのとおりだけど・・・。あなた、見た記憶ないけれど、私の知り合いだったっけ?」
「いやいや。初対面だけど、入学式で。いけなかった?」
「いえ、いけないことはないけれど。そっちねのルートね。部活見学?」
「もう入部すること決めてるんだ。クラリネットで。まだ、枠は空いてるかな」
「経験者なら、優先して配属されるから、大丈夫じゃない? まだ、二日目だし」
「そうなんだ。よかった。じゃ、石神井さん。いっしょのパートになる――かもしれない――杉山です。よろしくね」
「ええ、よろしく」
こうして、私の高校生活は、入学早々、バラ色に彩られた未来が約束されるはずだった――。
なのに、なぜ、あんな・・・。
これは、ちょっとした“策”が必要かもしれないな。
つづく。