【練習番号D】陰謀
入学式。
学校行事の中でそれは「儀式的行事」に分類され、「学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活の展開への動機付けとなるような活動」と定義されている。
とはいえ、本来その主体である新入生にとっては、正直どうでもいい儀式である。
何度もリハーサルを重ねてやっと行われる卒業式とは違い、入学式はただそこに座っていれば良いのだから、楽ちんなのだが、「退屈」この上ない。
むしろ入学式は、どちらかといえば、新入生を新たに迎え入れる側である学校にとって、意義の大きい行事だといえる。
F県立F女学院高校の生徒会長、藤原歩美は在校生の代表として、入学式で紹介だけされることになっていた。
在校生の始業式は、入学式の前日に行われた。彼女にとって既に一学期は始まっていた。
始業式と入学式が連続で行われるのは、準備と片づけの手間が一度ずつですむからだ。
生徒会執行部は、学校で行われる行事の全てを取り仕切る。三学期の終業式から卒業式、そして新年度の始業式と入学式は、生徒会執行部がイニシアティブをとってそれぞれの実行委員会を立ち上げ、準備してきた。
この入学式は数日後に予定されている「新入生歓迎会」での挨拶を除けば、彼女にとってこの年度替わり前後の忙しい時期最後のお務めとなる。後は、会場の準備や片づけだけだ。
一部在校生のボランティアは、午後に学校に集まり、会場の片付けを行う予定になっている。
朝9時、入学式が始まった。
吹奏楽部の行進曲の演奏をバックに、クラスごとに纏まって新入生が入場してくる。
吹奏楽部の演奏は、入学式のリハーサルでも聴いていたが、音楽に疎い藤原にとっては、楽曲中程のメロディーに聞き覚えはあるものの、なんだか騒がしい曲だなという印象しかなかった。
それよりも藤原には、この入学式で確かめておきたいことがあった。そのことに気を取られて、吹奏楽部の演奏は殆ど耳に入ってこなかった。
藤原が気がかりだったこと。
それは、入試トップの成績だった新入生、石神井恵美のことだった。
新入生代表として、彼女は挨拶をすることになっている。
石神井恵美が、そこで何を言うのか。
それが、歩美最大の、そしてこの入学式唯一の興味だった。
歩美は生徒会執行部顧問の教師に、石神井恵美の願書を見せてくれと頼んだが、個人情報保護の観点から見せられないと言われ、彼女の顔すら分からない。
新入生のクラス分けが記された掲示板は、校舎のエントランス横に掲示されている。
その掲示板を制作したのも生徒会執行部だったから、石神井恵美のクラスは分かっている。
一年生のクラス分けは、基本的にはランダムだが、石神井のC組だけは、入試の上位成績者が集められている。
二年生からは、理系と文系に分かれ、完全に成績順のクラス分けになる。英語の学習に特化した特進クラスもある。
F女学院は、偏差値としては中堅だが、近年ではカリキュラムも充実して、大学への進学率も徐々にが上がってきている。だから、高偏差値の私立高の滑り止めとしても重宝され、それなりに優秀な学生も一定の割合で入学してきている。
だから、偏差値ギリギリで入学してきた生徒と、余裕で入試をパスした優等生とのギャップを緩和するため、上位成績者を集めたクラスが用意されているのだ。
藤原が石神井恵美に着目した理由も、そこにある。
入試トップ成績者として、有名大学に進学して学校の名を上げることはもちろんだが、将来の生徒会長候補として育てていきたいと考えていたのだ。
F女学院の生徒会長は、伝統的に強い権限を持っている。
20世紀後半の管理教育が批判され、いわゆる「ゆとり教育」が広まっていく一貫として、F女学院が掲げたのが「生徒の自主性」だった。とはいえ、今まで学校や教師に言われたことを言われたままやっていればよかったのに、いきなり「自主性」を重視と言われても、生徒たちはどうしたらいいか分からなかった。
そこで、生徒会執行部主導によって、生徒が徐々に自主性を育める環境を整えるため、生徒会執行部を纏める生徒会長がイニシアティブを取れるように、権力を集中させていったのだ。
といっても、生徒会選挙で生徒会長になって、いきなり全ての事柄を任せられても、大したことは出来ないだろう。だから、生徒会長は、少なくとも二年生から生徒会執行部で仕事をしてきた役員から選ばれるのが慣習になっており、生徒会選挙では、生徒会長が指名した次期生徒会長候補の信任投票になるのが常であった。
藤原は、石神井恵美を一年生から生徒会執行部役員として迎え入れ、生徒会長になるための“英才教育”と施したいと思っていた。
今、二年生の副会長に不満があるわけではなかったが、事によったら、次期生徒会長候補として指名することもやぶさかではなかった。
二年生、三年生と、二期連続での生徒会長は前例がないが、生徒会規則で禁止されている訳ではないので、そのことも視野に入れていた。
この入学式では、石神井の素性を確かめ、今後の作戦の参考にするつもりでいたのだ。
ネットで調べたり、チャットAIで出てきた定型文をただ組み合わせただけならその程度、独自の視点や主張が組み込まれているなら、それなりに「考えて」行動できる素性の持ち主であるだろう。
もちろん、藤原が求めている人材は後者である。
入場してくるC組の入場列を「どの生徒が石神井なんだろう?」と思って見ていた藤原は、一人の生徒に眼が釘付けになった。
校則に抵触しない程度の、少し長めのセミロングヘアーを結ばず背中に下ろし、前髪を厚めにとって、サイドとバックの毛先にシャギーを入れた整えられた髪型。そして、頬から顎先にかけてのスラッとしたラインが印象的な、色白の透き通るような肌は、彼女がアウトドア派ではないことを示していた。
「えげつない美人やな」
藤原はそう心のなかで呟いた。
全新入生が着席すると、教頭の司会で入学式が始まり、いよいよ新入生代表の挨拶になった。
教頭が「一年C組、石神井恵美、前へ」とアナウンスすると、「はい!」という石神井の返事が聞こえる。
返事の後、立ち上がり前に進んでくる彼女を見て、藤原は「勝ったな」と思った。
“えげつない美人”こそ、石神井恵美その人だったのだ。
しかし、石神井恵美の挨拶を聞いて、藤原は漠然と不安を感じた。
石神井が挨拶の中で言った、「本校での生活が、人生をより豊かなものになるよう、学業はもちろん、それ以外の価値ある活動にも全力で取り組み」という部分が気になったのだ。
“学業以外の価値ある活動”が、生徒会執行部での仕事でないだろうことは予測できた。
その“価値ある活動”が何なのか。彼女がこの高校生活で学業以外のどのような活動に価値を見出しているのか、藤原にはそれが分からなかったからだ。
「こら、すぐに行動を起こさなあかんな」
藤原は、この後、自分が新入生に紹介されて簡単な挨拶をすることはどうでも良くなり――そんなこと最初から度外視していたが――、入学式が終わってから何をするべきかをずっと考えていた。
――生徒会執行部準備室(生徒会室)
「今戻ったさかい」
藤原歩美は、生徒会執行部役員の仕事場となっている一室に戻ると、中で待機している執行部役員たちに声をかけた。
「お疲れ様でした、生徒会長」
副会長をはじめ、庶務係や会計係まで、準備室にいた二年生の役員全てが、揃って藤原に労いの言葉をかける。
三年生の役員は、始業式と入学式の会場となった体育館の片付けが始まる午後からの登校になる。
藤原が自分の席に座ると、副会長がやって来た。
「それで、いかがでしたか? 入学式は」
副会長にも自分の考えは一応通してあるので、新入生代表が優秀そうであれば、次期生徒会長の座が回ってくるか不安な副会長は、思わず藤原に声を掛けてしまったのだ。
「問題発生や。ロングホームルームが終わったら、一年C組に出張って行くよって」
藤原のその言葉を聞いて、副会長は軍人のように直立不動の姿勢になって、藤原に訊き返した。
「どうされたのですか? そんな予定はありませんでしたけれど」
会長自ら、下級生の教室に出張って行くというのは、これまでの彼女の行動パターンからはなかったことだ。
副会長は、あまりにも珍しい事態がこれから起こりそうだと感じ、思わず反射的に訊いてしまった。
しかし、言った瞬間、それが愚問であったことを後悔した。
「問題発生した言うたやんな。予定ちゅうものは、状況次第で変わるもんどす」
藤原は副会長の愚問を、容赦なく切り捨てる。
「そうですね、余計なことを言いました。それで、C組に行って、どうするのですか?」
副会長は藤原にたしなめられ、直立不動の姿勢のまま半歩下がってそう尋ねた。
「石神井恵美を引っ張ってくる」
石神井恵美。
生徒会長候補として、藤原がずっと目をつけていた生徒だった。
やはり、彼女がらみだったか。
しかし、生徒会長自ら石神井の教室にまで行って、彼女を直接引っ張ってくるのは、性急すぎる気がした。
もちろん、いくら強引な生徒会長といえども、嫌がる石神井を無理やり連れてくるようなことはしないだろうけど。
「もう執行部に勧誘するんですか」
「そうどす。事は早いほうがええ」
副会長は、素っ気なく答えた藤原に対し、それ以上話を続ける気が起こらなかった。
藤原は、一旦言い出したことは余程のことがなければ撤回することがないからだ。
すると、庶務係の二年生が発言した。
「石神井は、新聞部の取材が入ってます。本人にも、既に通達が行っていますので、ロングホームルームが終わったら、新聞部の部室に直行します」
「分かっとる。新聞部には、ここで取材させたらええ。どのみち、打ち合わせでここに来るんやしな。うちはホームルームが終わるまでC組の教室の前で待機するさかい、新聞部にはここで待つように言うとくれやす」
「分かりました」
副会長と庶務係が同意する。
「それから・・・」
藤原がゆっくりと話し出した。
「勉強以外に、学校活動で価値があることといったら、何があるんやのん?」
藤原が、自分たちに意見を求めてくることは、副会長の記憶にはなかった。
珍しいこともあるもんだと思ったが、考えてみれば、それは当然かもしれなかった。
思うに、藤原の興味、というか、彼女が学校活動で価値を感じているのは、勉強と生徒会活動だけだ。
だから、そんな藤原にとって、その二つ以外に他人がどのような価値観を持っているのかは、ほとんど未知の領域と言ってよかった。
「そうですね、勉強以外でいいえば、校内なら部活か委員会、校外ならボランティア活動といったところでしょうか。まさか、アルバイトって訳にはいきませんからね。うち、バイト禁止だし」
勉強以外ということであれば、普通の女子高生の持つ興味なんて、その程度だろう。
もちろん、勉強以外には何も興味がないというガリ勉タイプもいるかもしれないが。
「ほな、部活かボランティアの二択やな・・・」
「はい、そうですね。でも、ボランティアなら・・・」
「生徒会執行部が統括してるよって」
「はい、ボランティアをやりたいのなら、執行部に入るのが近道です」
庶務係が口をはさむ。
「海外では、ボランティア活動を必須単位にしている学校も多く重要視されていますが、日本では、一生徒単独では難しいかと。それなら、むしろ生徒会執行部に入って、ボランティア活動を活性化させる委員会でも立ち上げて、実行委員長にでもなった方が、充実した活動が出来るかと。また、生徒会長になれば、執行部のリソースや活動方針を、自分のやりたいことに集中させる提案を出すことも可能ですから」
「それなら、尚更、執行部に入らないっちゅう選択肢はないわけや」
歩美が同意する。
「とはいえ、その人の言う“価値ある学校活動”が、生徒会執行部の役員になることの可能性もある訳で・・・」
副会長が希望的観測を述べる。
「うちとしては、そうしてもらえるとありがたいのやけど、人間、どうしても自分に都合の良い方向に考える癖がある。予断は禁物や。物事は、最悪の事態も想定しておかないとあかん」
歩美は、おもむろに椅子から立ち上がる。
「ほな、うちはこれから職員室に寄ってからC組に行くよって。後のことはよろしゅう頼みます」
「分かりました」
副会長がそう言うと、藤原は生徒会室を出ていった。
「生徒会長、どうしたんだろうね? いつになく、焦ってる感じだったけど」
書記係の二年生が副会長に尋ねる。
「知らんわ。けど、会長が気にしてた、入試トップの一年生がらみであることは、間違いないわね」
「石神井恵美ですね。会長が執行部に入れるって言ってた」
「そう。会長候補だってさ。会長、いろいろ生徒会長令出しまくってるから、その効力をずっと引き継いで、自分の影響力を継続させていきたいんでしょ」
「あはは。あの会長ならあり得る。で、その一年生を出待ちまでして執行部に勧誘したいってことは、入学式で見て、相当気に入ったんだろうねえ」
「だとしたら、かなりの逸材よ、その一年。よっぽどのことじゃない限り他人を好意的に評価するなんてことしないあの生徒会長が、もし、本当に気に入ったのだとしたら、実力者としてのオーラが出ていたか、かなりの美人・・・」
「――え? 生徒会長って、そっち系だったの?」
会計係は驚きのあまり、座っていた椅子の背もたれが折れるんじゃないかと思うほどのけぞった。
「いや、知らんけど。美人は誰だって好きだろ」
「なんだよ、驚かせるなよ。まあ、会長にどういう趣味があったとしても関係ないけどさ」
「あの会長が愛してるのは、権力だけでしょ。管理教育から抜け出すため、生徒の自主性を重視して生徒会執行部の権限を強くした結果、学校を自分の好きなように管理しようっていう、生徒会長みたいな人が出てくるんだから。物事ってのはうまく回らないものね」
「人間はさ、二つの種類に分けられると思うんだよね。支配する側と、支配される側。支配する側は、それが楽しいし、支配される側は、それが嬉しいし、何といっても楽ちんなんだよ。自分で考える必要がないからね」
「なるほどね」
「現に、私たちだって、会長にあれやれだのこれやれだの言われて、今までその通りにやって来たじゃない。みんな、自覚してないけど、そうやって会長の権力のおこぼれを貰って、他人を顎で使って何不自由なく高校生活を謳歌して来た」
「正に“虎の威を借る狐”か」
「本来、他人を支配するオーラもスキルもない私たちが、虎の威を借りることで支配する側に回れてるんだからさ、会長様々ってことよ」
「その生徒会長に、あんたも後数ヶ月もすれば選ばれるんだからさ、いつまでも虎の威を借りてばかりもいられないんじゃないの?」
「うーん、それなんだけどさ――」
「どうしたのよ?」
「なんか、雲行きが怪しくなって来たのよね」
「雲行き?」
「そう。どうも、今度入った石神井恵美っていう一年、かなり優秀そうなのよね」
「優秀って、そりゃ入試トップ成績者なんだから、勉強は出来るだろうね。でも、勉強が出来るのと、生徒会執行部の運営を巧く回していくのは、また別次元の話でしょ?」
「確かに、それはそうなんだけどさ。それになんつーか、私って本当に生徒会長になりたいのかっていうと、微妙なのよね。むしろ、生徒会長はその一年に任せて、三年になっても私は副会長のままでもいいかなって」
「おいおい、何弱気になってるのよ。今まで、あの生徒会長の下でずっと頑張ってきたんじゃない。そりゃ、生徒会規約的に一年が生徒会長になることも可能だけどさ、前例はないし、うちの執行部はやること多いから、一年でいきなり生徒会長やったって、とても務まらないよ」
「んまあ、うちの生徒会役員選挙は6月だからね。一年生には不利よ。それに、生徒会長は選挙で選ばれたって、その役職に就くこと自体は次年度で、会長のサポートしながら会長業務学んでいくんでしょ」
「モラトリアム期間。はっきりいってその制度自体、いびつなんだよね。まあ、三年生の生徒会長にとっては、生徒会執行部の関わる学校行事が乱立する二学期後半から、実務はそのサポートに任せて、受験勉強に集中できるってメリットがるのは分かるんだけどさ」
「もうずっと昔からその制度だからね。受験戦争華やかなりし頃、三年生を受験勉強に集中させつつ、生徒会執行部の活動も充実させるってことで変えられたっていう」
「当時の選挙は、全生徒強制参加だったしね。成人年齢が18歳に引き下げられた今は、実際の選挙に合わせて自由参加になったし、電子投票だから、選管の仕事量は昔ほどじゃなくなって、投票締め切り時間の直後に結果もでるし」
副会長たちが生徒会役員選挙談義をしていると、新聞部の部長がやって来た。
「こんちわー。あれ? 生徒会長は?」
新聞部の部長は、出入り口のドアの所に突っ立って、洗いざらしのワンレンのショートヘアをかき分けながら、準備室をぐるりと見回して言った。彼女の胸元には、チェーンを掛けた度の入っていないブルーライト・カットの眼鏡がぶら下がっている。
「会長は離席中です。それから、会長の意向で一年生のインタビューはここですることになりましたので、その辺に適当に座ってお待ち下さい。一年生は会長が連れてくるみたいです」
「たく・・・。ホント、彼女は自分勝手よね。こっちの都合も構わず。しかし、会長直々に、一年生を連れてくるのか。ふーん、まあいいわ。それじゃ、入学式のレポート記事書きながら待たせてもらうわね。後、予定の変更、部員に連絡するから、ケータイ、いいわよね?」
新聞部の部長は、大きな広角レンズを付けたフルサイズのデジタル一眼カメラとノート・パソコンを持ちながら準備室を横切り、会議用の大きなラウンド・テーブルの端にちょこんと座ると、ケータイをスカートのポケットから取り出し、電話を掛け始めた。
「うん、そう、予定変更。私的には、部室に戻る手間が省けたし、こっちは私一人で大丈夫。だから、そっちで待機してる必要ないし、私はインタビュー終わったら部室戻らずにこっちから直帰するから、もう鍵閉めて帰っていいわよ。いやいや、本当に大丈夫だって。ボイレコもあるし。それより、明日の風紀委員への取材、準備出来てるわよね? ――え? ああ、それは去年と同じで良いわよ。校則や学校生活上の規律を一年生に周知させるための、本当は取材なんてしなくても良いくらいの毎年恒例の広報記事だもの。それより、彼女たち時間にはうるさいから、くれぐれも時間厳守で。いい? じゃあ、そういうことで。お疲れさん」
電話を掛け終わると、新聞部の部長はノート・パソコンの横にタブレットPCを置いて簡易的な編集環境を作り、ブルーライト・カットの眼鏡を掛けて、取材の内容を確認しながら記事を書き始めていった。どんな環境でも記事を書けるのが、彼女のモットーだった。
むしろ、彼女は部室以外の場所で記事を書くのが好きだった。新聞のネタはどこにでも転がっているので、様々な場所で記事を書けば、部室に籠もって記事を書くより、情報が入ってくる可能性が高くなるからだ。
ワーカホリック。
副会長は、新聞部部長のその姿を見て、生徒会長と同じだな、と思った。
「ねえ、新聞部の部長さん。勉強以外で、学校の活動で価値があることといったら、何が思いつく?」
新聞部の部長は、パソコンのキーボードを打ちながら「勉強以外で?」とだけ言葉を返した。
そしてエンター・キーをパシッと押して書いていた文章を確定させると、椅子の背もたれに身体を預けた。
「それは、人それぞれだよ。私の場合は部活、と言いたいところだけど、正直、部活は夢を叶えるための一段階にしか過ぎないわ。私、将来は出版社に入って、取材記者になりたいの。叔父が、旅行雑誌でルポライターやってるのね。で、その記事を読んでいると、聞いたことも見たこともない場所の景色が、まるで現地に訪れたように、目の前に広がってくるの。文章に、それだけの力があることが分かってからは、私もそういう“魔法”を使えるようになりたいなって、思うようになったの。人それぞれ、それまでの人生で経験してきたことが違うから、何に価値を見出すかも、当然人によって違ってくるのよ」
副会長は、ブルーライト・カットの眼鏡を弄びながらそうそう答える新聞部部長のその話を「そんなもんかねえ」と思いながら黙って聞いていた。
「例えば、今日の入学式で新入生代表の挨拶をした石神井さん。えーと、『中学2年のある出会いが、私の勉強一筋の考えを改めさせ、今に至る人生を豊かなものにしてくれた』と言ってたわ。この一年生、確かに以前はガリ勉タイプだったらしいんだけど、副会長が質問した“勉強以外で価値ある学校での活動”に目を向けさせたのが、その出会いだったみたいね。彼女にどんな出会いがあったのか、それは挨拶では話さなかったから今の時点では分からないけど、お陰で今日の取材で彼女に訊くことはてんこ盛りよ」
新聞部の部長は、石神井恵美が挨拶で語った言葉の文字起こしのメモを読みながら言った。
確かにな、と副会長は思った。
自分だって、ある意味、生徒会長である藤原との出会いによってそれまでの価値観に変化があったように思う。もっとも、勉強に対しては、相変わらず価値を見いだせていないのが玉に瑕だが。
藤原歩美が職員室で用事を済ませ、1年C組の教室の前に着くと、ホームルームはもうそろそろ終わりそうな雰囲気になっていた。
教室の中から、「それでは、今日はこれで終わります。みなさん、帰り道はまだ通い慣れていない経路ですので、気をつけて帰宅するように。また明日、みんな揃って元気な顔を見せてください」
C組の担任教師と思われる声が漏れ聞こえてきて、その直後に教室前後のドアが開き、生徒が一人、また一人と次々に出てきた。
これが2、3年生だと、「生徒会長!?」みたいな表情をされて驚かれただろうが、まだ自分の顔が周知されていない1年生は、自分の前をそのまま素通りしていった。
逆に、歩美には、それが新鮮でもあった。
歩美が教室の前のドアから教室に入り、担任に話を通すと、担任は「石神井さーん!」と恵美の名を呼び、「はい!」と返事をした石神井恵美が近づいて来た。
「何でしょう?」と石神井が尋ねると、担任は「こちらの生徒会長が、あなたに話したいことがあるんですって」と言って、会話を誘導してくれ、そのまま教室を出て職員室に帰っていった。
「生徒会長・・・ああ、入学式で」
「そうどす。そやけど、こうして直接会うのんは始めてどすなぁ。よろしゅう」
「関西――いや、京都弁なんですね、生徒会長さん」
「藤原歩美や。藤原でええどすえ。京都市山科区出身や。高校でこっちに引っ越してきたさかい、京都弁がなかなかぬけしまへんのや。それはそうと・・・」
歩美はゆっくりと話しを切り出した。
「実はな、あんたに生徒会執行部に入ってほしい思い、話をしにきたんどす」
その言葉を聞いて、石神井はあまりにも唐突な申し出にただでさえ大きい眼を更に見開いて、驚きの表情を見せた。
「私が、生徒会?」
「そうどす。この学校の生徒会執行部は活動が旺盛やさかい、やりがいのある学校活動やで。特にあんたのような優秀な生徒には、学校をより良くするために、是非力を貸してもらいたいんや。恐らく、中学でも生徒会長やったんやろ?」
「ええ、まあ、藤原さんのおっしゃる通り、中学では生徒会長でしたし、F女の生徒会執行部の話は、中学の生徒会でも話題になってました。けれど、私は高校では生徒会には入らないことに決めたんです。せっかくのお誘いですが、お断りしたいと思います」
「なるほど。少なくとも、入学式の挨拶で言ってた『勉強以外で価値のある学校活動』が、生徒会での活動ではなかったということやな」
「はい、そういうことです。それで、私、これから急ぎでやらなければいけないことがありますので、この辺りで失礼させてもらってもよろしいでしょうか?」
「急用やって?」
「はい。ちょっと、個人的な要件で捜し物をしないと・・・。ですので、決して話を切り上げるための口実じゃありません」
「そんなことは思ってへん。そないしたら、その要件済んだら生徒会室に来てもらえしまへんか?」
「あの、実はこの後は新聞部からの取材の申し出がありまして、新聞部の部室に行かないと・・・」
「そのことやったら話は済んでます。取材は生徒会室で行います。今頃、新聞部の部長は、生徒会室で待機してる思う。で、どのくらいで要件は済みそうどすか」
「そうですね、30分・・・いえ、20分で」
「そうどすか。ほな、後で生徒会室で」
「はい」
石神井は、それだけ返事をすると、踵を返して教室を出ていこうとした。
しかし――。
「ところで」
生徒会長が石神井を呼び止める声が後ろから聞こえた。
石神井が振り向くと、
「参考に訊かしてほしいのだけど、あんたが勉強と生徒会活動以外で、価値を見出した活動とは何どすか?」
「吹奏楽部です。私は、これからの三年間を、吹奏楽部に捧げるためにこの学校に来ました。では!」
石神井は、生徒会長に何を言われても立ち止まらないと決め、走り出した。
「吹奏楽部――か。こりゃ、一つ手を打たなければいけまへんな」
生徒会長が生徒会室に戻ると、新聞部の部長が作業をしている姿が目に止まった。
「なんや、もう来とったんどすか」
「ああ、生徒会長。やっと戻ったのね。このまま放置されたらどうしようかと思ったわよ」
「そないな事するわけあらへんやろう。そやけど、石神井恵美はあと30分は来やしまへん。それまであんたに根っこが生えなええんどすけど」
「ははは。ここは居心地が良いからねえ。それよりも生徒会長、ずいぶんと石神井恵美にご執心のようじゃない。御自ら、石神井を迎えに行くなんて、珍しいじゃない。その真意を詮索するつもりはないけど、彼女に個人的に訊いておきたいことがあるなら、訊いておくけど?」
「あんたが何を勘違いしてるのか知らへんけど、特にはあらへんな。彼女に個人的な興味があるわけではあらへん」
「ふーん。まあ、そういうことにしておきましょ。じゃ、石神井恵美が来たら、勝手に始めちゃっていいよね?」
「好きにすればええどす。執行部役員はこれから打ち合わせに入るさかい、立ち会うことは出来ひん思う」
「相変わらずお忙しいことで。生徒会室に新聞部の出張所置こうかしらね。人数少ないから難しいけど、それだけの価値はありそうだし。新入生の勧誘、今年は頑張っちゃおうっかなー」
「執行部のゴシップ狙っても無理どすえ。執行部で部活の統制も行っていることをお忘れなく。学校新聞として価値のない記事を連発したら、何とでも理由つけて、生徒会長令で活動範囲を制限することも可能なんどすえ」
「おお怖。生徒会長は、歴代の生徒会長の中で、生徒会長令発布数断トツだからねえ。でも大丈夫よ。ゴシップなんて低俗なネタで人気とろうなんて考えてないから。私たち新聞部が目指しているのは、刹那的だったり即物的でなく、有益で価値ある情報を読者に提供する、飽くまで中立な立場での正統派ジャーナリズムなんで。学校新聞コンクールでも、毎年良いところまでいってのよ」
「それは頼もしいことどすな。実績上がったら、予算も上がるさかい、精々おきばりやす」
「へいへい。それに、部員数も予算と関連してるんでしょ? 予算上がったら、有名なジャーナリストとか小説家のセミナー、受けてみたいのよね。そこいくと、吹奏楽部は良いよなあ。人数が多いのはもちろん、新入生の勧誘の為に、文化部だけでなく、全ての部活で唯一、公の場でのパフォーマンスが認められてるんだからね。毎年、文化部連名で抗議書出してるけど、うん十年無視され続けてるし。運動部は一年生に纏めて声をかけられるからって、黙認決め込んで頼りにならないけど。そもそも、この既得権益、ちゃんと生徒会規則で認められてるんでしょうね? 生徒会執行部と吹奏楽部との間に“癒着”や“談合”でもあったら、それこそ記事にせざるをえないんですがね」
「もともとは、生徒会長令で『特例措置』として許されたものらしおすな。ただ、今年はうちが生徒会長になった以上、トラブルの元をそのままにしておくつもりはないよって」
「え!? それって、今年は吹奏楽部の新入生勧誘演奏はないってこと? 公式見解? そういう重要なことは、事前にプレスリリース出してもらわないと・・・」
「それをこれから決めるんどす。うちらはこれからミーティングに入るさかい、立ち話はこのへんで。ほな」
藤原は素っ気なくそう言うと、「ちょ、ちょっと! 生徒会長!」という新聞部部長の必死の呼びかけも虚しく、「これからミーティングや。役員は、みんな集まってな」と役員に招集をかけ、自分のデスクに戻っていった。
「チッ! 無視しやがった。それにしても、吹奏楽部の新入生勧誘演奏が生徒会長令で中止ともなれば、吹奏楽部が黙っちゃいませんな。これは一波乱ありそうね」
茶色いブルーライト・カット眼鏡のレンズの奥で、新聞部部長は目を細めた。
執行部役員が自分のデスクの周囲に集まったことを確認すると、藤原は話しを切り出した。
「みんなに急に集まってもらったのは、これからうちが出す生徒会長令の承認をしてもらいたいからどす」
藤原のその発言に、集まった役員たちに、困惑の表情が浮き上がった。
しかし書記は、困惑しながらも、議事録を作成するために、すかさずボイスレコーダーを取り出し、録音ボタンを押す。
「生徒会長令?! 新学期が始まってすぐの時期に?」
意見したのは副会長だった。
「そうや。何か問題でも? 生徒会長令は発布してすぐ効力が出るのんどすえ。当事者にもすぐに通知するさかい、明日にも生徒会長令に基づいた行動をしてもらう」
「明日? 明日って、何かありましたっけ?」
「新入生の本格的なロング・ホームルームと、部活動の新入生勧誘解禁」
副部長の疑問に対し、庶務係が答える。
「そこでや。知っての通り、吹奏楽部は新入生勧誘活動に当たり、公の場でのパフォーマンスが認められてます。今年は、生徒会長令によって、その特権を剥奪したい思てます」
瞬時にざわつく役員一同。
「生徒会長。それは、さすがに吹奏楽部が黙っていないんじゃ・・・」
副会長が心配そうな表情で呟く。
「関係あらしまへん。現に、毎年文化部は連名で抗議書を提出してますやろ。歴代の生徒会長はずっと黙殺し続けてきたけど、そろそろその悪しき慣習にメスを入れる時期やと思います。逆に考えてみとくれやす。今、吹奏楽部がそないな特権を執行部に認めさせようと提案してきたら、あんたらは許可するのん? しいひんやろう? 他の部活との公平性も保てへんし、昔は吹奏楽コンクールでもええ成績を収めとったそうどすけど、ここ20年以上、ろくに実績を上げてへん吹奏楽部に、これ以上特権を与えとく理由はあらしまへん」
「確かに。例えば伝統芸能部とか、文科省からも推薦もらってたり、F女は伝統芸能推進のモデル校にもなってます。だから、特例として、部員が少なく部活動として認められる部員を確保できていない年でも部活動として認め、予算も降りています。そんな伝統芸能部を差し置いて、吹奏楽部だけが部員確保のためのパフォーマンスを許されているというのは、公平性に欠けますね」
「まあ、その特権の上にあぐらをかいて、勧誘演奏をすることを当たり前のように思ってる吹奏楽部にも問題がありますね。ここ数年は実績も上がってきてはいるようですが、危機感が足りません」
「そうね。特別扱いをされたいなら、実力でそれを勝ち取るべきよね」
「しかも、人混み整理のために、うちからも人手出してるし。他にやること沢山あるのに」
「どないどすか? 吹奏楽部にこのまま特権を与えとく理由はあるんやのん?」
生徒会長がとどめの一言を発した。
「“今までそうだったから”という以外に、その理由はありません」
副会長が同意する。
「ほな、決を取る。吹奏楽部の新入生勧誘演奏差し止め案に、賛成の人」
役員全員、一斉に挙手する。
「決まりやな」
「はい」
「それではみなさん、只今の決議に意義のある役員はいませんか? ――いませんね。では、このタブレットに署名して下さい」
書記がタブレットPCを取り出し、役員一人ひとりに署名して回った。
「ほな、吹奏楽部の部長には、うちから連絡しとく」
「今、吹奏楽部は多分勧誘演奏の練習中だと思います」
「練習を無駄にしいひんためにも、早いほうがええやろう」
藤原は、吹奏楽部の部室の内線番号を確認すると、デスクに置かれている電話の受話器を取った。
3コール目に、吹奏楽部の副部長が電話に出た。
「徒会長執行部の藤原歩美どす。執行部で吹奏楽部に関する新しい決議採択されたさかい、部長に替わってもらえるのん?」
しばらくすると吹奏楽部の部長が電話に出て、藤原が要件を言い渡す。
「えげつない剣幕や」
受話器を置きながら藤原が呟く。
「でしょうね」と副部長。
「これから吹奏楽部の部長が抗議に来るさかい、みんなそのつもりで」
藤原が役員にそう言い渡した時、数回のノックの後、出入り口のドアが開いた。
一斉に出入り口のドアに注目する生徒会執行部役員たち。
もちろん、いくらなんでもこんなに早く吹奏楽部の部長が来るわけはないのだが、皆、反射的に見てしまったのだ。
「失礼します。石神井恵美です。新聞部の取材で生徒会室に来るように言われたのですが」
石神井がそう言うと、そのドアから一番近い位置に座っている新聞部の部長がすかさず返事をした。
「あー、石神井さんね。私、新聞部の部長の橘孝子です。一年の教室からだと校庭の斜向かい側にあるこんな遠くまで、わざわざ悪いわね。インタビューすぐ始めるから、どこでもいいんで、座ってもらえるかな。まあ、そんな緊張するようなこともないし、気楽に構えてもらって良いから」
「はい、ありがとうございます」
石神井はそう言って、新聞部部長の正面の椅子に座った。
「それじゃ、改めまして、私は新聞部の部長、橘孝子です。よろしくね。で、インタビュー中はボイスレコーダー回すけど、いいわね?」
「はい、大丈夫です」
「結構。ただ、ちょっと誓約書に署名してもらいたいんだ。一応誓約書の内容を簡単に言うと、今から話してもらう内容は、もちろん二次使用はしません。あと、ボイレコのデータは、バックアップのコピーも含め、一週間で消します。安心でしょ? でも、新聞という媒体の性格上、編集アップから印刷まで間がないから被取材者側のゲラチェックは出来ないので、自分が話した内容と違うとか、こちらの編集や構成にクレームがあったら、このインタビューの記事が出てから一週間以内、でね。一週間以内なら、ボイレコの記録と突き合わせて検証できるから。よろしい?」
橘は、用意してあった誓約書を石神井に渡し、一読してもらってから署名を促した。
「はい、誓約書はOKね。では、最初の質問。出身中学と、新入生代表として入学式で挨拶することを伝えられた時の感想を、訊かせてもらえるかな」
「出身中学は、私立女子学園中です。入学式で・・・」
石神井がそう言いかけた瞬間、部長がその先を遮った。
「女子学園中!? この辺じゃ、超名門のお嬢様学校じゃない! でも、女子学園は中高一貫校でしょう? エスカレーター式に高校行けるのに、なぜうちみたいな中級校を滑り止めで受験したの?」
「あはは。それはシンプルな答えです。欲張りすぎて、自分の偏差値に見合わない高大一貫教育の上流校受けて、あえなく撃沈しただけですね。うちの両親は医者なので、医者になるのなら高校も女子学園じゃ不利だからって」
「あ・・・そうなの・・・。それは失礼したわね。まあ、その話はオフレコってことで記事にはしないから・・・」
「いえいえ、大丈夫ですよ。第一志望落ちたのは事実ですし。大事なのは、自分が与えられた場でどれだけ成長できるかで、過去は変えられませんから」
「へえ。ずいぶんと達観してるのね。じゃあ、臆さず突っ込んで訊くけど、滑り止めにしても、うちよりもっと偏差値高い学校で、あなたの偏差値に見合った学校はいくらでもあるじゃない? そこで、なぜ敢えて滑り止めをうちの高校にしたの?」
「F女は、確かに偏差値的には中級ランクですが、カリキュラムは充実していて、進学率は高いですし、それに、私、勉強以外のことにも価値を見出したましたので、F女なら、そっちにも力を割けるんじゃないかと思いまして」
「ああ、それ、新入生代表の挨拶で言ってたわね。で、勉強以外に価値を見出した活動って、何なのかしら?」
「えっと、あの、さっきの質問の、入学式で新入生代表の挨拶をすることを伝えられた時の感想は・・・」
「いやいや、もうそんな形式的な質問はどうでもいいのよ。私は、あなたの内面をもっと引き出したくなったの。で、あなたは、この学校で勉強以外の何に力を注ぎたいの?」
「吹奏楽部です」
「吹奏楽? 部活の?」
「はい」
「そう、なんだ。ということは、新入生代表の挨拶で言ってた、『勉強一筋の考えを改めさせた中学2年のある出会い』ってのも、吹奏楽がらみ?」
橘は、パソコンに入力した新入生代表あいさつの文字起こしを確認しながら質問した。
「そうですね。もしかすると私、中二病だったのかもしれませんけど」
「へーえ。でも、中二で人生を左右するような決定を下させる出会いがあるなんて、なんかロマンチックね」
「そうかもしれませんね。私自身、両親からずっと勉強だけが人生を豊かにする目標みたいに言われて来て、勉強以外のことに価値を見出すなんて思ってもいませんでしたから。でも、勉強は頑張ればいつでもできますが、人との出会いとか、部活動とかは、出来る時間が限られていますから。“期間限定”という意味では、そういうことの方が価値があるんじゃないか?って。そんな風に確信しちゃったんですよ。やっぱり、中二病ですね」
「考えてみれば、私がジャーナリズムに目覚めたのも、中2くらいだったかなあ。なにかの本で読んだのだけれど、いや、ドラマの台詞だったかな。とにかくそれによると、それまで親くらいしか親密に係わることがなかったのが、中2くらいになると、交友関係が広がって視野が広くなって社会性が生まれ、成長期のホルモンバランスとの関係もあって、新しく接する世界が実際以上に素晴らしく思えて、極めて強く感化されちゃうそうよ。あなたにとっては、それが、“その人”との出会いだったのかもね」
「そうなんですね。確かに、中2の時の私は、勉強以外の世界を知りませんでしたけど、その出会いで、勉強以外にも、誠心誠意打ち込む価値があることが存在することを教えられました」
石神井がそこまで話すと、出入り口のドアがノックもなしに突然開き、一人の生徒が入ってきた。
「生徒会長は? 生徒会長はどこ?」
その生徒は、廊下を走ってきたのか、息を切らせてはぁはぁしながら大声で叫んだ。
入ってきたのは、制服のリボンの学年色から三年生であることが石神井には分かった。
「あ、お出でなすった」
橘が誰にともなく呟く。
すると、パーティションの仕切りの後ろから、
「大声でキンキンとやかましおすなぁ。うちはここにいてはるで。逃げも隠れもしまへん」
生徒会長がそう言いながら顔を出した。
すると、その三年生は、ツカツカと生徒会長に歩み寄って行った。
「あ、えっと、彼女は吹奏楽部の部長。あなたは吹奏楽部に入部するようだから、無関係ではなさそうなので教えとく」
「そうなんですか。なんか、ずいぶん怒ってるようですけど」
「まあ、彼女たちの話し聞いてれば分かるわ」
「生徒会長! こういうことは、事前に私たちに相談があってもいいと思うんですけど! もう準備も整ってますし、なんで、こんな直前になって・・・」
「ここではギャラリーもおるさかい、向こうで話し合いまひょ」
生徒会長が吹奏楽部の部長をそうたしなめると、今まで見えていなかったものを発見でもしたような表情で、吹奏楽部の部長が石神井たちの方を見た。
「分かったわ。そうしましょう」
吹奏楽部の部長が同意すると、二人してパーティションとなっているカーテンの向こう側に消えていった。
「ふう。この様子じゃ、しばらくは五月蝿くてインタビューにならないから、事情だけ話しておいてあげるわね」
橘は、ここで聞いていた生徒会執行部役員たちのミーティングの内容を石神井に話した。
「それは酷いじゃないですか」
そう言う石神井の表情から、彼女が憤っているのが橘にははっきりとわかった。
「吹奏楽部視点からは、当然そうなるわね。あなたの言いたいことは分かるわ。でもね、吹奏楽部にそのような特権があることが、文化部のパワーバランスというか統率を乱しているのも事実。生徒会長としては、その事実を看過しておくわけにはいかないのよ。特に、この生徒会長はね。執行部役員メンバーも、今の生徒会長のイエス・マンばかりだし。どお? 吹奏楽部もいいけど、生徒会執行部に入って反旗を翻し、今の体制を覆すってのは。なぜだか知らないけど、生徒会長はあなたに興味があるみたいだし。ここは執行部に取り入るチャンスじゃない?」
「いえ、私には吹奏楽部に入ってやることがあります。そのために、この学校に来たんですから。生徒会長の独善は許せませんけど、まずは吹奏楽部のこの窮地を救って、生徒会長の鼻をへし折ってやりたいです」
石神井は、一点を見つめながら厳しい表情でそう言い放った。
「おお、威勢のいいこと。でも、どうすんの? 生徒会長令は絶対よ。取り下げさせるにも、生徒会長本人が納得するか、役員全員の署名付きの取り下げ要求出すしかないわ」
「なら、生徒会長本人を納得させるまでです。役員全員を説得するより効率的ですから」
石神井は、パーティションのカーテンの方を厳しい目で見て言った。
「確かにそれはそうだけど、生徒会長本人を納得させるったって、それこそ無理よ。生徒会長令は、即時的に効力を発揮するとはいえ、明日行われる吹奏楽部の新入生勧誘演奏の中止要求でしょう? いくらなんでも性急過ぎるわよ。このタイミングで生徒会長令を出してくるってことは、生徒会長には、何か魂胆があるのよ」
「魂胆?」
石神井の眉間に、一筋の皺が寄った。
「ええ。表向きはさっきも言ったようなことだけど、吹奏楽部の活動に制限を与えることで、生徒会長にとって他に何かメリットがあるんだわ。要するに、一石二鳥って訳」
「裏の目的を達成するために、こんな急に吹奏楽部の勧誘演奏を中止する生徒会長令を出したって言うんですか?」
「恐らくは」
「裏の目的・・・吹奏楽部・・・私を生徒会執行部に入れる・・・私は執行部ではなく吹奏楽部に入りたい・・・」
「どした? 何か閃いた?」
橘がデスク越しに石神井の方に見の乗り出す。
「分かりました。多分、これしかありません」
「ほほう。さすが優等生。私にゃチンプンカンプンだけれども」
新聞部の部長が両手を広げて、「降参」のジェスチャーをする。
そのとき、パーティションの裏側から吹奏楽部の部長が出て来ると、振り向きざまに
「それでは、これから部員と話し合って、明日の朝、正式に抗議文をお持ちします。明日がダメでも、残り二日、いや、一日でも、勧誘演奏はさせていただけるようにしますから。では」
そう言って、一気に出入り口のドアまで歩き、生徒会室から出ていった。
「タイムリミットは、明日の朝ね。勧誘演奏は、三日間、フルでやらせてもらうから」
彼女のその姿を目で追っていた石神井は、厳しい顔をして独りごちた。
新聞部の部長は、石神井のその表情を黙って見ていたが、その顔は、「こりゃ面白くなってきたぞ」という期待感で仄かに紅潮していた。
――エピローグ
「あー、いい天気」
新聞部の部長・橘孝子は、前日に行った石神井恵美へのインタビュー記事の編集が一段落付いた合間に、休憩がてら、バルコニーに出て、外を眺めた。
孝子は、ここからの眺めが好きだった。
F女は、この辺では少し高台にあるで、本校舎側からだと、市内の街並みが一望できる。
本校舎の丁度裏手にある文化部の部室棟からは、市内はあまり見えないが、都市開発から取り残された、自然豊かな田舎の風景と、隣県との境に流れている河川、そしてその河川に架かる鉄道橋が一望できた。
「橘先輩、橘先輩ってば!」
その鉄橋上で、白い列車と茶色い列車が交差するのを見ていた孝子は、背後から自分の名がよばれていることに気づいた。
振り向くと、副編集長の二年生、伊藤琴音が突っ立っていた。
「先輩、一体どうしちゃったんですか? 昨日は、いきなり私たちを先に帰らせて部室には戻らなかったと思ったら、朝、あんな長文の原稿をいきなり入稿してくるなんて。予定の倍くらいあったじゃないですか」
「そうカリカリしなさんなって。企画には、次号に回しても良いのや字数を減らして良いものもあるし、紙面の工面は何とでもつくから」
「そういうことを言ってるんじゃないんです。私は、紙面全体のバランスのことを言っているんです。これじゃまるで、新入生代表の挨拶をした石神井恵美大特集ですよ」
そう難色を示す伊藤に、橘は「あはは」とあっけらかんと笑う。
「そう言いなさんなって。その代わり、記事の内容はバッチリでしょ? 教育的にも有意義な記事になったと思うわ。新入生だけでなく、二年生、そしてとりわけ受験が控えている三年生にとっても、自分の人生や将来を考えるにあたって、意義があるはずよ」
「それは、認めますけど・・・」
うなづきながら、伊藤は橘が首から掛けている、彼女がパソコンを使うときだけ掛けるブルーライト・カット眼鏡を見た。
「それよりさあ、たまにはこうして一旦立ち止まって、周囲の環境に身を任せるのも大切よ」
橘はそう言うと、伊藤から視線を外して向き直り、風景鑑賞を再開した。
「まあ、締切までにはまだ時間ありますし、作業効率を上げるためにも、こまめな休憩は必要ですね」
橘の背中に語りかける伊藤。
「それよりさ、君にもこの音色が聞こえているでしょ?」
「音色? ああ、吹奏楽部の新入生勧誘演奏、ここまで聞こえてくるんですよね」
「そのことについてだが、私は君に、いや、新聞部に一つ、謝らなければいけないことがある」
「謝りたいこと? 先輩が?」
「そう。私は、ある筋から重要なネタを仕入れたのだが、それをもみ消した」
「え、それって、スクープ記事の掲載を自粛したってことですか? いつの話ですか?」
「いつというか、うーん、現在進行形? 時制的には“しなかった”というより“していない”が正しいかな」
「なんですか、それ。だったら、新聞の構成変えて、ベタ記事でも今からどこかにねじ込みましょうよ」
「しないよ。多分、もうその件は、解決したと思うから」
「問題が解決したにしても、そういう事実があったことは確かなんですよね? それなら・・・」
「くどいぞ伊藤琴音。そのことについて、私は謝罪した。それでこの話は終了。それより、君はこの曲が何という曲か、知ってるかい?」
「ああ、なんか威勢の良い曲ですが、知らないです」
「おーい、伊藤。この曲は、スーザの《星条旗よ永遠なれ》でしょうが。行進曲の中では最も知られた曲で、アメリカでは第二の国歌と言われているような曲だぞ。音楽に疎いにも程があるな。確かに受験には関係ない知識だが、勉強が全てじゃない。学校の勉強以外にも、知っているのが当然という知識があるんだ。そういう知識を“教養”という。学校新聞とはいえ、新聞の記事を書いているような人間が知らないのは論外だ。身の回りのことに興味がない証拠だからな。“教養”がないとは、そういうことなんだよ。身の回りのことに常に興味を持ってアンテナを張っておけば、その中から新聞の記事になるようなことも出てくるだろう? それに教養は、人生を豊かにしてくれる」
「すみません。そうですね」
「《星条旗よ永遠なれ》《展覧会の絵》そして、確か《トランペット吹きの休日》だったかな。吹奏楽部が演奏するのはその3曲よ」
「あ、部長。もう吹奏楽部に取材したんですか? でも、おかしいな。次の新聞が出る頃にはもう殆どの新入生が部活決めちゃってますし、そもそも一部活――しかも憎き吹奏楽部――の勧誘活動に有利になるような広告記事は書かないことになってますよね?」
「もちろん書かないさ。てか、さっきも言ったけど、このくらいの有名曲は、聴いて曲名分かるようじゃないとな。“教養”なさすぎ。知らなかったら、記事にするしないは別にして、その辺で吹奏楽部員の誰かつかまえて、曲名訊くくらいのことしないと。3月になってからずっと吹奏楽部は練習してんだからさあ」
「分かりました。覚えておきます」
ちょっと気軽に橘に声を掛けただけなのに、散々教養の無さを咎められた伊藤は、肩を落として部室に戻っていった。
吹奏楽部の新入生勧誘演奏は、既に《展覧会の絵》の最終部分に入っていた。
「どうやら石神井さん、生徒会長の説得に成功したみたいね。どんな魔法を使ったのか知らないけど、かなりの“やり手”のようね。取材対象としてだけでなく、人間としての彼女にも、ますます興味が出てきたわ」
橘孝子は、心地よい音色を耳にしながら、青空に一筋、細く伸びた真っ白い飛行機雲をしばらく見つめていた。
つづく。