【練習番号S】茫然自失! 本番直前のサプライズ
「ねえ、翼・・・。部室に、また知らないおばさんがいたんだけど、誰だか知ってる?」
大崎加奈子は、そう言いながら音楽室に慌てて入ってきて、同じパートの友人・飯島翼に尋ねた。
「何で手ぶらなのよ?! あんた、部室に楽器取りに行ったんじゃないの? それにおばさんて・・・。誰か生徒のお母さんとか楽器屋の営業さんじゃないの?」
翼は、冷静に言って加奈子をたしなめる。
加奈子の勘違いにいつも振り回されている翼は、彼女の言うことは話半分くらいにしか聞かないことにしていた。
「そうかなあ? 誰かのお母さんにしてはちょっと若めだし、営業の人って感じでもない・・・と思う。ねえ、今、部長も副部長もいないから、3年生の責任として、私たちで見に行ったほうが良いんじゃない?」
翼と加奈子はフルート・パートの3年生で、翼がパート・リーダーを務めていた。
パートに指示を出すのは立場的に翼になるが、加奈子は言いたいことがあっても翼に告げ、翼から言ってもらうという、少し翼に甘えたところがあった。
「ええ? 面倒くさいなあ・・・。ってか、その“また”って、伊勢先生のこと?」
「あ・・・ごめん。でも、伊勢先生のときだって、部長も副部長も何も言わなかったんだもん。いきなり知らない人が部室にいたら、びっくりするでしょう? 普通。誰かお客さんが来るんだったら、事前に言って欲しいわ」
加奈子は、一見、ぽわんとした雰囲気の天然系に見えるが、結構口は達者な方だった。
「誰に謝ってるのよ。そりゃ、まあ確かにそうだけど、あんたも声くらいかけてみたらどうなの? 陰から見てないで。高校生でしょ? 最高学年としての自覚が足りないのよ、あんたは!」
「う、うん・・・」
「全く・・・。しょうがないなあ。滅多に変な事件はおこらないでしょうよ。それじゃあ、私が行ってくるから、加奈子はここで待ってなさい」
「うん、ありがとう」
加奈子がそう言うと、翼はいかにも面倒くさいといった風体で部室に向かっていった。
ところが、しばらくすると部室から「ええ!?」と悲鳴にも似た翼の叫び声が聞こえたと思ったら、翼がさっきの加奈子のように慌てふためいた様子で音楽室に駆け込んで来た。
「どうしたのよ翼・・・。そんなにパニクって。翼らしくない」
先程とは逆に、加奈子は持っていた楽器のキーを動かして、フルート特有のパタパタという音を立てながら、翼に冷ややかな口調で話しかけた。
「いやいやいや。これがパニクらずにいられるもんですかって! た、大変よ!」
翼は、よく切り揃えられたボブ・カットの前髪を振り乱しながら加奈子に訴える。
「ええ? 変な事件は滅多に起こらないんじゃなかったっけ?」
さっきのお返しとばかりに、加奈子は翼に嫌味を言う。
「ぶ、部室にいたの、誰だと思う!?」
翼は、加奈子の両肩に手を置き、興奮しながら彼女の身体を前後に揺さぶった。
前後に激しく揺れる身体の動きに合わせて、加奈子のツインテールの毛先が空中を舞った。
「揺らすな~。ってかそんなの知らないよ・・・。翼がそれを確かめに行ったんでしょ? で、誰だったのよ? 部室にいたおばさんは――?」
「聞いて驚くな? 部室にいたのはね・・・」
気分を落ち着かせるように、翼は加奈子の瞳を食い入るように見つめた。
「うん・・・」
翼に見つめられて、思わず恥ずかしくなり、少し赤面する加奈子。
しかし、翼はそんなことはお構いなしに、加奈子が聞き漏らさないようにハッキリと告げた。
「お母さんよ! お母さん! 高城沙織姫のお母さんだって!」
「わっ!! 先輩!? 麗奈先輩じゃないですかっ!」
伊勢杏奈は吹奏楽部の部室に入って来ると、デスクに座っている彼女の顔を見るなり、驚きの声を上げた。
それは高城沙織の母親であり、杏奈が高校時代のときの一学年上の先輩、高城麗奈だった。
「えへへ。来ちゃった・・・」
麗奈は、椅子に座ったまま、はにかんだいたずらっぽい笑みを浮かべ、挨拶代わりに片手を上げた。
「ンもう! “来ちゃった”じゃないですよ。恋人の家に突然現れたみたいに言わないで下さい。いらっしゃるんでしたら、事前に連絡くらい・・・」
杏奈は、相変わらず自由な人だなあと思いつつ、麗奈の横に座った。
旧友が何年ぶりかに会った場合、欧米人ならハグの一つもするだろう。
杏奈は、海外生活は長かったが、どうしてもハグの習慣は身につかなかった。
「うん。そうしようと思ったんだけど、ちょっとね。杏奈ちゃんを、驚かせようと思って。うふふ」
「『うふふ』って・・・。全く・・・。またこんな、高校生みたいなことして。そういうの悪いクセですよ、麗奈さんの。今日は、バラ・フェスの本番なんですよ? 私がこの部のトレーナーになることも、当日まで内緒にするよう部長に根回しまでしてたそうじゃないですか。私、てっきり話通ってるんだと思ってのこのこ部室にやって来たら、部員に怪訝な顔はされるわ、陰で『あのおばさん誰?』とか言われるわで、もう散々でしたよ」
杏奈は、鞄からバラ・フェスティバルで演奏する曲のオーケストラ・スコアと、吹奏楽用にアレンジされたスコア、そして指揮棒を3本取り出す。
紙の楽譜は、多くの楽譜がデジタル化されている今でも、書き込みとページの捲りやすさで、特にリハーサルの時には必需品だ。
「アハハ。傑作。杏奈がおばさんね。でもまあ、お互いおばさんなのは事実なんだし、高校生とは倍以上歳が離れているんだから、しょうがないじゃない。私たち、花のアラフォーなんだから」
麗奈はあっけらかんとした表情をしながら肩をすぼめ《展覧会の絵》のオーケストラ・スコアを手に取った。
「オイレンブルク新版の、ピアノ原曲版付きか」
杏奈は不意に吐息を漏らして片手で黒髪をなでつけ、日本人にしては色が薄くほとんどベージュ色といってもいいヘーゼルアイの瞳で、麗奈を見つめた。
「ふぅ・・・。それで、サーヤはもう来てるんですか? 駐車場には、いつもの車しかありませんでしたけど、娘さんといっしょに来たんですよね?」
杏奈が右手の人差し指で音楽室の方向を指し示した。
「ううん。沙織は、自宅の防音室でウォーミング・アップしてから来るんだって。いつもそんなことしないのにね。やっぱり、親といっしょに学校来るのは嫌なのかしら。反抗期的な? お年頃だし」
麗奈は物憂げにそう言い、残念そうに首を傾げる。
高校生の娘といるせいか、麗奈はこういう細かい仕草に子供っぽさが今でも残っている。
「サーヤに反抗期はないでしょ。誰かさんの教育がよろしいようで。素直ないい子だと思いますよ。ウォーミング・アップなら音楽室でも出来ますけど、静かな場所で気持ちを落ち着かせるためじゃないですか? 彼女、1年生でパート・リダーにはなるわ、ソロ首席奏者にはなるわ――これは私のせいだけど――勉強はギリギリだわで、最近、いろいろ負担掛かってるようですから・・・」
杏奈が沙織の気持ちを代弁するように言った。
「実はね、昨日ちょっと家で沙織とやり合っちゃって・・・」
麗奈は杏奈を見ず、スコアに書かれている楽譜の校訂者の解説に目を落としたまま言った。
「え、麗奈さんとサーヤが、口喧嘩ですか? 意外です」
杏奈の目に、驚きの色が浮かんだ。
「そんなことないわよ。口喧嘩なんて、いっつもよ。女同士、譲れないところはあるものよ。でも、昨日はいつもとなんか違った感じでね。あの子、私が杏奈や石神井恵美ちゃんのことばかり言うするもんだから、焼きもち焼いちゃって」
麗奈はスコアから目を離し、背もたれによりかかって天井をぼんやりと見つめた。
「石神井恵美さん? クラリネットの、色白で茶髪の綺麗な子ですよね。彼女、サーヤとかなり親しい間柄みたいですけど?」
「そうみたいね。だからか知らないけれど、私が恵美ちゃんのこと褒めると、ムスッとするのよね、沙織。それが面白くて、恵美ちゃんや杏奈のこと気にしたりして、あなたたちにことばかり話していたら、切れちゃって」
杏奈が呆れた表情をする。
「そういうところですよ、先輩の子供っぽいところ。自分の娘、煽ってどうしようっていうんですか。対応が冷たくなってきた彼氏焚き付けるために、他の男の話ばっかりするみたいな。っていうか、なんなんですかそれ? 先輩が私のこと気にするって・・・」
麗奈は急に杏奈に向き合い、細めた目で杏奈を見つめる。
「うん? 杏奈ちゃんは女子校生の吹奏楽部指導するの、始めてでしょう? だから、練習やお小言が厳し過ぎて生徒に嫌われてないかとか、子どもたちに無理難題押し付けてないかとか、誰も泣かせていないかとか・・・いろいろとね」
麗奈は、人差し指の先っぽを自分の顎に触れて言った。
「それ、結局全部私のせいじゃないですか。麗奈さん、私がそんな自業自得の理由で私が悩んでないかとか、そんなことホントに気にしてたんですか?」
それがいかにも信じられないという、やや忌々しげな表情の杏奈。
「だって、杏奈ちゃんは私の大切な後輩だし、この吹奏楽部の指導頼んだの、私だし。心配するのは当然でしょう?」
茶目っ気のあるほほ笑みを浮かべて、麗奈が応じる。
「私、アマオケで噂になってるような、そんな鬼コーチじゃありませんよ?」
杏奈は“風評被害だ”とでも言わんばかりに、心外な面持ちで俯き、いかにも苦々しそうに首を左右に振った。
「そうみたいね。沙織も、思ったより優しかったって言ってたし。あと、目が綺麗って」
麗奈はありったけのフォローをしたつもりだったが、それは杏奈にとって、気休めにすらならなかった。
「思ったよりって・・・サーヤもか・・・。先輩、私のことサーヤに何て言ってるんですか?」
杏奈が疑わしげな顔をして麗奈に訊いた。
「ん? 良い先生だからよーく言う事聞いてねって」
「はいはい。そのお言葉、ありがたくちょうだいしておきます」
「ところで――」
麗奈の顔から笑顔が消え、その表情と口調が急に厳しくなったので、杏奈は思わず姿勢を正す。
「はい」
彼女は、これまでの冗談交じりのやり取りが完全に終了したことを十分に理解していたので、その口調に、張り詰めた強い緊張感を感じた。
そして、麗奈は顔を杏奈の耳元に寄せ、囁きをわずかに上回る小声でいった。
「あなた、私たちが高校生のときのこと、沙織に話したわよね?」
耳元をくすぐる麗奈のこそばゆい吐息に、無意識にビクッとなる杏奈。
まずい。
杏奈は、瞬間的に思い出した。
これは、高校生の時、麗奈が後輩に指導するときの口調だ。
「え? あ・・・いや・・・。話したというか、話さなかったというか・・・」
「どっちよ!? 調べはもうついているんだから、誤魔化そうとしない! 昔、私が散々言ったこと、覚えてない? 私の質問に対する答えは、誤魔化そうとするなって」
やっぱりだ。
ヤバいな、麗奈さんの変なスイッチ入れてしまった・・・。
ここは正直になるしかない。
「それが・・・実は、話しました。でも、ちょっとだけですよ。彼女たちの緊張を和らげようと、私の知っていることだけ・・・」
麗奈は、杏奈の横顔をしばらく見つめていたが、やがて案じがちに言った。
「言い訳はいいわ。事実を確認したかっただけだから。でね、そのこともあって沙織、いろいろ勘ぐっちゃてるようなのよ」
「は、はぁ・・・。それは申し訳ありませんでした」
「まあ、別にいいけど・・・怒ってないし」
いや、さっき絶対怒ってましたよね、と杏奈は思ったが、もちろん本人には言わない。
「というか、あなたは、どこまで知ってるの? この話」
それだけってことはあり得ないと、麗奈は考え込みながら言った。
混乱して戸惑う杏奈。
「どこまで、とおっしゃいますと?」
「私が高校1年のときの事件のこと・・・。先輩から聞いて、少しは知ってるんでしょ?」
麗奈は、気だるそうに右腕で頬杖を付きながら、杏奈に言った。
その麗奈の態度とは裏腹に、杏奈に向けられた彼女の眼差しには、相変わらず厳しい色合いが孕まれていた。
麗奈の瞳の奥底には“この件”について知っていることは洗いざらい話してもらう、という力強い意思が横たわっていた。
それはまるで、消費税廃止法案を選挙の公約にかかげる政党や政治家に向けられる疑いの眼差しと、同種のものだった。
「えっと・・・あのですね・・・。私が聞いているのは、本当に断片的なことだけです。コンクールの1ヶ月くらい前、麗奈さんと仲が良かった1年生に変な噂が立った少しあと、その子が突然部活に来なくなって、先輩がその子のことをずいぶん心配してて・・・。それから誰とも親密な関係になろうとはしなかった――。そのくらいです。その他のことは、何も知りません。本当です」
杏奈のその話しを聞いた麗奈は黙って肩をすくめ、しばらく彼女をみつめた。
それは、まるで“話していないことがあったら今のうちに全部言ってしまいなさい”とでもいうような、無言のプレッシャーを杏奈にかけているようだった。
「そう・・・。分かったわ」
そういう麗奈の口調はそっけなく、平然としており「ということは、噂に尾ひれは付いていなかったみたいね。部長に感謝だわ」と続けた。
杏奈は、やっと麗奈の詰問から開放された安堵感から、背もたれに寄りかかり「ふぅ」とため息をつき、天井を見上げた。呆然と天井を見つめる彼女の目は、妙に捉えどころがなかった。
しかし、その安堵もつかの間・・・。
「でもね――」
麗奈のその声に、杏奈は再び反射的に姿勢を正した。
「はい」
大きく目を見開いて、麗奈をみつめる杏奈。
「もうそのことは、二度と口には出さないでね。いい? “二度と”よ」
麗奈は人差し指を立てて、交差するように杏奈の唇に触れた。
「分かりました。迂闊なことを、娘さんに対して、大変迂闊な発言をしたこと、心からお詫びいたします」
そう言って、杏奈はデスクに額が接触するくらい深々と頭を下げる。
「はい! 分かればよろしい!」
麗奈は、顔いっぱいに明るい笑顔を作りって元気いっぱいにそういうと、高校のとき部活の練習後によくしたように、杏奈の長い黒髪を励ますように優しく撫で、言葉を続けた。
「それからさ――」
麗奈のその口調には、砂一つ分の緊張感すらない、暖かくて柔らかなものだった。
「はい、何でしょう?」
「それ、だらしないから、ちゃんとなさいな」
「え?」
麗奈は再び、ゆっくりと落ち着いた口調で言った。
「ちゃんと結びなさいよね、ブラウスのボウタイ」
「あ、ああ、これですか・・・。来る途中、車の中で結ぼうとしたんですけど・・・余裕なくて、まあいっかって」
杏奈は、バツの悪そうな表情をしながらそう言うと、首元から垂れ下がったブラウスの2本のボウタイを左右の指で摘み上げた。
「後でやろうとしたって、大概はそのままになってしまうものよ。人生に“後で”はないのよ。常に“今ここ”しかね。杏奈のそういうところ、高校時代から変わっていないのね。旦那さんがフォローするの大変そう」
「まあ、うちのハビー(hubby)は、私よりそういうところはしっかりしてますから。なんで私にプロポーズしたのか後で本当のこと訊いたら、あまりにも生活感がなさすぎて心配だったからですって! 失礼だと思いません?!」
「確かに酷いわね、それ。あなたの普段の生活が相当酷すぎて、黙って見てられなかったんでしょうね。分かるわー」
言って、麗奈は誰にともなく何度も頷いた。
「だって、食器とか、3日くらい溜めてから一気に洗ったほうが効率良いと思いません?」
「・・・あなたとは、絶対にルームシェアはしたくないわ」
それまで、垂れ下がったボウタイを擦りながら麗奈の話しを聞いていた杏奈が、左右のボウタイを交差させて結ぼうとしたその時。
「待って!」
突然麗奈がそう声を上げて、右手を杏奈の手に重ねて、その動きを静止した。
「はい・・・?」
少しとまどった表情の杏奈。
「そのボウタイ、私が結んであげる」
「先輩・・・? いくらなんでも、ブラウスのボウタイくらい、自分で結べますって。本番のときは、いつもこういう、リボンタイのブラウスなんですから」
「ううん。そうじゃないの。私が結びたいから結ぶの。今回もそうだけど、いつも私の無理難題を聞いてくれる杏奈に、埋め合わせとしてそれくらいさせて?」
そもそも中世ヨーロッパの貴族の女性は、ブラウスやドレスは自分では着なかったものだ。
だから、今でもフォーマルな服は自分では着にくい。
「はあ・・・まあ・・・それならいいですけど・・・」
麗奈は、杏奈のシルクサテンのブラウスを感心の眼差しで眺めていた。
杏奈がブラウスのボウタイから手を離すと、替りに麗奈がそれを指先で摘み、丁寧に結び出した。
「まったく。シルクサテンのボウタイ・ブラウスだなんて、どれだけ気合入れてるのよ」
ブラウスのボウタイと結びながら、麗奈がぼそっと呟く。
「それにしてもこのブラウス、いくらしたの? ずいぶん高級そうな生地だけど」
「それは、多分、聞かないほうがいいです。でも私、スポンサーがついているので、買い取りのときは割り引きしてもらってますので、そんなに負担じゃないです」
「そうなんだ。ふふ。その分では、1000ユーロじゃきかなそうね。それに、車。また新車買ったんですって? 沙織に聞いたわよ。ベンツ? BM? それともヴォルヴォ? あなたのドイツ車好きも大概よね。どうしていつまでもそう、浪費癖が収まらないのかしら。高校のときだって、アレキサンダーのトリプル・ホルンのカスタマイズ・モデルのローンが終わってないのに、ファゴットのマイ楽器買おうとしてたでしょ」
「はい・・・。モデルチェンジする来年まで待てなくて・・・」
「あなたのお父さんの遺産だって、無限じゃないのよ。まあ、私があなたの家の銀行口座の残高、気にする必要はないのだけれど」
「あ、それから、もう一つ約束してくれる?」
「は、はい」
「あなたの車、沙織は金輪際乗せないでもらえるかしら?」
「高城さん、高城さん」
いつものように、高城沙織が石神井恵美と同伴登校し、音楽室に入って来ると、フルートのパート・リーダー、飯島翼が挨拶もせずにいきなり話しかけて来た。
「おはようございます、飯島先輩」
「あ、おはよう」
「どうなさったんですか? 先輩、いつも落ち着いてる感じですけど、今日は違う感じですね?」
「どうもこうもないわ。高城さん、あなたのお母さん、素敵ね! 美人というより、いや、美人は美人なんだけど、どちらかといえば格好いい感じ!」
沙織の母親とは既に面識のある石神井は、その横で満足そうに頷いている。自分のことじゃないのに。
「は、はあ。ありがとうございます。でも、なんで飯島先輩が私の母のこと・・・?」
「何故って・・・。さっき、そこでお会いしたから」
「そこでって・・・ああ、学校の近くとかですか?」
未だに要領が掴めていない沙織。
「違うわよ。“そこ”って言えば、場所は決まってるでしょ!? うちらの部室!」
翼は、沙織があまりにも要領をつかめなくてじれったかったので、そう言いながら部室の方向を指差して、腕先を鳩が歩くときの首のように前後に動かして強調した。
「ぶ、部室?! もしかして、お母さん、来てるんですか? ここに!?」
このやり取りを聞いていて「まあ!」とかいって何故か喜んでいる石神井。
「石神井さん、ちょっとこれ持ってて!」
「ちょ、ちょっと・・・沙織!?」
沙織は慌てた様子で石神井にスクバ(通学用カバン)を預けると、石神井の制止など聞かず、即効で部室に向かっていった。
「あ、あれ? 高城さん、お母さんが学校に来てたこと、知らなかったの・・・かな?」
翼が首をひねると、石神井が呟いた。
「そのようで」
「お母さん!」
沙織は、音楽室に入るなり大きな声で叫んだ。
「高城さん、挨拶は?! 部室に入るときは、お辞儀をしてから“失礼します”でしょ!」
沙織を叱責する部長の叫び声。
「あ、すみません。失礼します! おはようございます!」
部室の奥側からは、明らかに女子校生ではない、落ち着いた艷やかな声の笑い声。
「笑い事じゃないわよ、お母さん。部活行くなら行くって言ってよね! 私、てっきり仕事で家を出たって思っちゃったじゃない。どうりで、いつもより1時間以上前に家出たわけだよ」
「ごめんごめん。沙織が防音室で真剣にウォーミング・アップしてたから、話しかけちゃ悪いと思って。それに、私だってこの部活のOGなんだから、いつ来たっていいでしょ?」
「それはそうだけど・・・。でも、何か用事でもあったの? 私が知る限り、今まで一度も部活に顔出したことなんてないし」
「そうねえ。取り敢えずは、表敬訪問。手土産の一つも持ってこなくて、ごめんなさいね。でも、忙しい杏奈を慣れないことに付き合わせちゃった張本人だもん、いつかは様子見に来なきゃって思ってね。もちろん、今日のバラ・フェスは聴きに行くけれど、野外だし、その前に一人娘の雄姿を間近で見たかったしね。最終リハーサルの合奏。まあ、本気100%では吹かないだろうけど、やるんでしょ? これから」
「はい。私たちの本番は午後ですので、楽器をトラックに積み込んだ後、出発は昼食後ですから。午前中、少し」
部長が答える。
そのとき、部室の出入り口から「失礼します。おはようございます」と澄んだソプラノが響いたが、そのすぐ後、その声が突然黄色い声に豹変した。
「まあ! 素敵! 伊勢先生、素敵です!」
その声の主、石神井は物凄い勢いで杏奈の元へ走り寄って来た。
「そのシルクサテンのブラウス、本番用の衣裳ですか? 私そういう服、大好きなんです。良いなあ。ブランドものですか? フランス製? イタリア製?」
石神井は目を多く見開いて両手を叩き、沙織の前以外では珍しく喜びを表に顕にし、無邪気にはしゃいだ。
そういえば、部屋着もシルクサテンのチュニックとかナイトシャツだったな、こいつ、と沙織。
「まあそうだけど、一応、オートクチュールの・・・ドイツ製」
「ドイツ製なんですか! へえ! パフスリーヴがカワイイ!」
「はいはい、石神井。そういうのはお昼休みにやってくれな。そろそろ合奏の準備しないと、おっかないパート・リーダーに雷落とされても知らないよ? さあ、行った行った!」
副部長にそう急かされ、石神井は「はーい」とかいう不満そうな返事を残し、しぶしぶ部室を出ていった。
「さあて。五月蝿いのがいなくなったことだし、そろそろ本題よ」
そう言ったのは杏奈だった。
“五月蝿いの”って。
伊勢先生の中でも、石神井さんてそういう認識だったんだ・・・と、沙織は石神井がほんの少しだけ哀れに思った。
それにしても、本題?
本題って、まだ何かサプライズが残されてるのか?
最近は、そういうのばっかりだ。
みんな、私を心臓発作か何かで逝かせたいのか。
思わず身構える沙織。
「それでは、部長。これはあなたの役目よ。みんなには、最終リハ前に私から伝えるけど、沙織さん(*作者註:この場には高城母娘がいるので、どちらか区別するために杏奈はそう呼んだ)には事前に言っておかないと、後でまた煩いから、よろしく」
「分かりました。あのね、沙織さん。今度の土曜日の練習から、金管セクションの特別ゲスト・トレーナーとして、あなたのお母さん、いえ、高城麗奈先生にご指導いただくことになりました」
「ま、まさか! お母さんが、トレーナー? 私たちの吹奏楽部の? それも金管セクションの? そんな話し、一体どこから? そんなこと、聞いてないんだけど、私っ!」
「だから、今言ったじゃない。っていうか、ついさっき決めたし。それで、杏奈や部長、それから副部長に言ったら、あっさりOKもらっちゃって。杏奈は超絶巧いホルニスト(*作者註:ホルン奏者)だけど、基本的にはバンド全体をみてもらいたいから。その上、金管と木管、そして打楽器のセクションごとの分奏を見るなんて、不可能よ。それに、彼女ファゴットも得意なのよ。ファゴットはこの部で初心者から始めたんだけど。大学の指揮科では、楽器の実技授業を2つとらなきゃならなかったそうで、どっちの演奏もフライング・スタートで楽勝だったから、指揮の勉強に時間をより多く割くことが出来てラッキーだったみたい」
「麗奈さん、楽勝ってことはありませんでしたよ。それに、勉強時間が割けてラッキーだったのは、副科のピアノの方です。お陰で、ハンガリーでコンペティの良い仕事にありつけましたし、教会の礼拝でのオルガンや古楽の通奏低音のエキストラのバイトでも、結構稼がせてもらいました」
「っていうことだから。木管セクションのトレーナーは、当面杏奈が指揮と兼任します。これは、もう決定事項だし、あなたがいくらグダグダ駄々をこねても覆りません。事前に伝えておいて良かったわ」
ウソだ、嘘だ、うそだ!
自分があれほど頼んでも、テコでも動かないと思えるような強い意志で、吹奏楽部の指導を拒否してた母親が、トレーナーになるだと? それも自分の意志で。
いや、母親がトレーナーになること自体は構わない。
それが嫌なわけない。
だけど・・・。
やっぱり、自分の直接の頼みが、願いが、母親に直接届かなかったのが嫌だった。
ハッキリ言ってムカついた。
しかし、良く考えたら、こういう話しになった、そもそものきっかけは何だった?
石神井さん・・・。
そう、彼女が「外部トレーナーを頼んだらどうか?」と、沙織が石神井と出会ってまだ間もないあの日、あの学食で言い出したことが発端ではなかったか?
やっぱり、石神井さんに繋がるのか・・・。
そういえば、お母さんは石神井さんのことを、事あるごとに「美人だ」とか「カワイイ」とか言っていた。
もちろん、冗談ではあるのだろうけど。
女子校特有の、あたかも特定の同性に興味があるかのように、やんわりと仄めかして、友達の気持ちをヤキモキさせたり、注意を引いたりする遊び。
聞けば、昔のF女には「先輩や後輩を好きになったり憧れたりするのはいいが、同学年は洒落にならないのでダブー視されていた」らしい。
それに、自分と、自分の好きな同級生、そして母親の三角関係だなんて話し、それこそ洒落にならない。少女漫画や昼ドラにでもなった日には、アホらしくて読者や視聴者からクレーム殺到だろう。
でも、そう考えたら、お母さんの石神井さんに対して好意を寄せているかのように仄めかす発言の数々は、その目的を見事に達成したと言える。
まずい。
このままでは私、お母さんに対してと、石神井さんに対してと、二重に嫉妬してしまうことになる。
お母さんも好き、石神井さんも・・・好き。
あまり冴えているとはいえないが、それを回避するたった一つのやり方・・・。
それはこれしかない。
「分かった。お母さんがそこまで言うのなら、もう、私は部活の方針に従うだけ。私、お母さ・・・いえ、高城麗奈先生のご指導に、どこまでもしがみついて行きます。金管セクションのトレーナー、よろしくお願いします」
しかし、沙織はここで何か一つ忘れているような気がした。
「あれ? それじゃあ、お母さんと杏奈先生との関係は・・・? そして・・・」
沙織の感情のメモリーは、四角関係以上を考えられるほどの容量を持っていなかった。
つづく。




