【練習番号R-2】バラ・フェスティバル前日譚③-2 ~ 過去の呪縛 ~後編
高城沙織の母親、高城麗奈の高校時代のお話。
部活帰りに、学校の近くの公園で友人・弓月真衣から突然の告白を受けた麗奈。
あまりにもの突然の出来事だったので、麗奈はそのとき、返事が出来なかった。
近いうちに返事をしようと心に誓った麗奈だったが、次の日から、真衣は学校に来なくなる。
あのときの、真衣の公園での別れの挨拶が、最後の別れの言葉だと麗奈が気づいたときには、
真衣は既に引っ越しをした後だった。
そしてある日、せめて真衣に最後の別れの挨拶だけでもしたかったと悔やむ麗奈の元に、真衣から小包が届いて・・・。
20年の時を超えた、高城麗奈の高校時代の淡い恋心と、彼女の後輩・伊勢杏奈との関係が織りなす「絆」の物語。
西野麗奈は家に戻り、家族と一緒に夕食を摂って入浴した後、ブラトップ・タンクトップに短パンというラフな格好で自室のベッドの上に寝転びながら、もう一度公園での一連の出来事のことを考えてみた。
まだ梅雨に入って間もないというのに、雨はほとんど降っていないから、湿度もそれほど高くない。
開けられた窓の外から入り込む、初夏の夜風が風呂上がりの火照った身体を優しく撫でて、気持ちいい。
始めての告白。
ぎこちない振る舞い。
ついさっき交わされた真衣の告白が、夜の静寂の中で今なお麗奈の頭の中に響いていた。
そして、自動販売機の明かりに背後から照らされ、自分を斜めに見上げた真衣の上気した表情が忘れられない。
そのとき、真衣から微かに香ってきた彼女の甘い匂いは、子供のころの遠い記憶にある、母親に抱きかかえられていたときの香りを鮮やかに蘇らせた。
まぶたを閉じると、まるで今目の前にあるかのように、そのときの情景がありありと再現される。
入眠幻覚?
まるで、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の主人公みたいだな、と麗奈は思った。
そういえば、吹奏楽部に入部して、最初に自分に声をかけてきたのは真衣の方からだった。
・・・麗奈さんて、トランペットの演奏ものすごく巧いのね――
さっきの真衣の話しだと、彼女はそのときにはもう私のことを・・・?
なぜ、私は真衣の気持ちにどうして気づけなかったのか?
いや、あの状況で真衣の気持ちになんて気付けるわけがない。
だって、私はあれから一言も真衣と話しはしていなかったのだから。
それとも、私は真衣からの視線を、見て見ぬふりをしていたのか。
とはいえ、最初に真衣に話しかけられたときから、彼女のことはずっと気になっていた。
もしかすると、私は真衣のことを無意識に意識しないようにしていたのか。
それは、同性に興味を寄せる自分の気持ちに対する後ろめたさ?
いずれにしても、私が、誰か他の人のことを気にするなんて、それまでなかったことだ。
トランペットさえ吹ければ良い。トランペットを吹くこと、それだけが自分の世界の全てだったからだ。
トランペットを吹くことは、麗奈にとって特別なものだったが、それと同じように、真衣の自分に対する気持ちも特別なものだったのだ。
“記念品”として、私の制服のリボンタイをねだった真衣。
そのリボンタイを手にして愛おしそうに撫でながら見つめて、真衣は言った。
・・・私のことを、一生忘れない?
・・・大切な思い出?
――それって、どういう意味?
それは、まるで別れの言葉。
君は、どこかへ行ってしまうの?
なぜ私の前から離れちゃうの?
君は、私のことをこんなに好きなのに・・・。
君が、私の前から姿を消す理由など、何もないはずなのに・・・。
それは、さっき泣いていたことと関係あるの?
泣いていた・・・!?
そこで麗奈は、ある重要なことに気づき、ベッドから跳ね起きた。
夜風に当たりすぎて、麗奈の身体はすっかり冷めきっていた。
さすがに下着同然の格好で過ごすのはまだ早すぎたようだ。
「ここでお別れね。それじゃ、サヨウナラ」
「まさか、あれは、本当の別れの言葉だったんじゃないか!?」
麗奈は「よし、それじゃあ明日、直接本人に諸々の言葉の真意を確かめてやろう」と心に誓った。
それが、既に手遅れだとも知らずに。
麗奈は気づくのが遅かった、遅すぎたのだ。
この遅れは、生涯取り返しのつかない遅れとして、麗奈の心の奥底に、いつまでも、いつまでも横たわり続けることになる。
その次の日、真衣は部活に来なかった。
そしてその次の日も、その次の日も。
不思議に思った麗奈が部長にそのことを訊くと、部長は衝撃的な真実を明らかにした。
「あら、西野さん知らなかったの? 弓月さん、もう来ないわよ。ご家族の都合で、県外に引っ越しされて。学校も中退したわ」
その話しを聞いて、麗奈は信じられなかった。
余りにも急な話だったし、部活に来なくなる前日、彼女は自分に何も言わなかった。
いや、違うか。
学校に来る最終日だからこそ、彼女はああいう話をしたのか。
これが、彼女の「サヨウナラ」の真実だったのか。
しかし、夏休み前のこんな中途半端な時期に転校?
「まさか、あの噂が・・・」
麗奈は思わず口走ってから、しまったと思った。
だが。
「え、噂? ああ、あの下らない噂ね。でも、それとこれとは関係はないと思うわ。第一、あの噂が出始めたのは2週間位前。そんな短期間で引っ越しの準備はできないし、お父さんの転勤とかだったら、1ヶ月前のは辞令が出ているはずでしょ? それに、弓月さんの転校の手続きだって・・・」
部長の話が本当なら、まあそうなのだろう。
しかし、真衣が学校に来ない理由が例の噂だとして、諸々の手続きが終わっていないのだとしたら、真衣はまだ現住所にいるはずだ。
「真衣の・・・弓月さんの住所か電話番号って分かりますか?」
麗奈が部長に尋ねる。
「ごめんなさい。私は知らないわ・・・。顧問の先生に訊けば分かるかもしれないけど、個人情報だし、緊急連絡網の連絡先は、余程の事情がなければ生徒個人には教えてはくれないわよ。それに西野さん、なんでそんなに弓月さんのこといきなり訊いて来たりするの? 彼女とそんなに接点なかったでしょ? っていうか、そろそろ合奏始まる時間だから、余計なこと気にしないで練習に集中して。コンクールまで、1ヶ月切ってるのよ」
部長との話はそれっきりになってしまったが、諦めきれない麗奈は練習後、1年生全員に真衣の住所や連絡先を訊いてみたが、それを知る者は誰もいなかった。
その次の日の放課後、麗奈が部活に出ると、彼女は部長に呼び出された。
「西野さん、これ。さっき顧問の先生に渡されたんだけど、あなた宛の郵便物らしいわよ」
麗奈が、部長の差し出した郵便物を手に取ると、送り主は、なんと“弓月真衣”とあった。
切手が貼られてないし、リターンアドレスも書かれていないので、どうやら、校舎の昇降口の近くにある事務所に直接持ってきたらしい。
「・・・私は席を外すから、あなたはここでその荷物の中身確認しなさい」
部長はそう言って部室にいた数人の吹奏楽部員に声をかけ、みんなで部室を出ていった。
部室に一人残された麗奈。
麗奈は、既に部室にはいない部長に礼を言った後、デスクの椅子に座って荷物の封を解いた。
すると、B5ほどの大きさの梱包用の袋の中から、紙に包まれてヘアピンが一つ出てきた。
ハート型のアタッチメントの中に、五線譜と音符の書かれた、シックな色合いのものだった。
「真衣・・・」
ヘアピンを包んでいた紙には、真衣のメッセージが書かれていた。
“麗奈へ
突然、あなたの前からいなくなってごめんなさい。
でも、私はあなたに涙を見せたくなかったから・・・。
あの日、あの公園で別れたとき、私の顔は涙でぐちゃぐちゃだったわ。
あんな顔が、麗奈が最後に見た私の顔だなんて・・・あんな顔が麗奈の想い出に残るだなんて、
私は耐えられなかった。あなたの想い出には、私の綺麗なままの顔を記憶してもらいたかったか ら・・・。
最後に――
せめてもの償いと、制服のリボンタイのお返しに、あのときの約束を果たします。
ちょっと早いけど、誕生日プレンゼントよ。
あんまり派手なデザインだと、学校には付けていけないから、少し地味だけど許してね。
というのは表向きな理由。ホントは、あなたがおしゃれをしてこれ以上モテちゃったら悔しいから(笑)
それから、いつか、奇跡的にあなたと逢えたその時、私たちは幾つくらいになってるかな?
もし、よぼよぼのおばあちゃんになってたら、気づかないかも知れないけれど、その時は、
きっと孫に囲まれて幸せな老後を送ってるかな?
それとも、あなたとの出逢いが運命なら、また逢えるかな?
あなたと過ごした数ヶ月間の想い出は、私にとって宝物です。
それは、美しい想い出として私の心に永遠に刻まれることでしょう。
それでは、さようなら。
私の愛した麗奈の幸せを祈って。
「馬鹿だ。真衣は大馬鹿だ。こんなこと今更言われたって、私にはどうしようもないじゃないか」
その瞬間、麗奈の瞳から大粒の涙があふれてきた。
それは、どこにこんなにたくさんの涙が溜められていたのかと思うほど大量の涙だった。
しかし、麗奈はそんなことはおかまいなしに、大きな声を上げて泣いた。
麗奈のその泣き声は、音楽室に待機していた部長や数人の部員たちの耳にも届くほどだった。
「部長・・・」
不安そうに、そう部長に助けを求める部員たちに、彼女は忠告した。
「このことは、ここにいるみんなの間の秘密よ。口外無用。絶対に他の人達にこのことを言ってはダメよ。いい? 分かったわね?」
部長はそう言って、教室棟から音楽室に入ってきた部員には、許しがあるまで部室には入らず音楽室で待機するように言うように頼み、非常階段側からやって来た部員が部室に入らないように見張るため、音楽室を出ていった。
しばらくして、麗奈の様子が落ち着いたことを確認すると、部長が部室に入って来て、麗奈に声をかけた。
部長は、机に突っ伏して泣きじゃくっている麗奈の傍らに置かれた、真衣が麗奈に送ったと思われるハート型のヘアピンを見て、全てを察した。
「西野さん・・・。あなたと弓月さんがどういう関係だったかは知らないけれど、どんな慰めも今のあなたには意味がないでしょうね。だけど、それは弓月さんにとっても同じことだと思う。弓月さんだって、あなたとの別れはきっと辛かったはず」
麗奈にそう語りかける部長の口調は、どこまでも優しかったが、それは慰めとは違う性質のものだった。
「でも、あの子は、真衣は、私と別れ別れになることを告げず、そのことを私に黙って、私の前から消えてしまったんです! 少なくと、私がそのことを知ってさえいれば、真衣に別れの言葉の一つも掛けてあげられたかも知れない・・・。私は、それが出来なかったことが悔しくて・・・寂しくて・・・私に、そうさせてくれなかった真衣を憎いとさえ思っている自分は、もっと嫌・・・」
麗奈は、泣き腫らしてウサギのように真っ赤に充血させた瞳で部長の顔を真っ直ぐ見つめ、叫ぶように訴えた。
「それはね、きっと希望だったのよ。あなたに、別れの言葉を掛けさせなかったのが、弓月さん唯一の希望だったんじゃないかしら? あなたと、また逢えるという」
そして部長は、椅子に座っている麗奈の背後から彼女に歩み寄り、愛おしそうに麗奈の上半身を両腕で抱きかかえ、その耳元で囁いた。部長の吐息が麗奈の耳を柔らかく撫でる。
「そんなちっぽけで不確定なな希望にでもすがらなきゃ、あなたみたいに美しくて素敵な友達と別れなきゃならない勇気
「部長・・・もしかして今、私のこと口説いてます?」
「ふふ。どうかしらね? 部長自ら部内恋愛禁止の部則を破るなんて、部員が知ったらタダじゃ済まないでしょうね。まあ、それはそれでスリルがあって試し甲斐はあるけれど」
麗奈は、左肩に乗った部長の頭を右手で押し退けた。
「ダメですよ部長。人の弱みにつけこんでたらし込もうとするのは」
麗奈の背中から離れた部長は、麗奈に触られた箇所に手を当て、そのままサラッと前髪をかきあげた。
「冗談よ。私、さっき気付いたのだけれど、今日・・・いえ、今日が始めてではないわよね? あれは確か・・・そう・・・確か、弓月さんが部活に来なくなった日からよね? 西野さんが、いつも制服にしていたリボンタイではなく、紐タイを付けて来るようになったのって。そして、弓月さんからのそのヘアピン。私の想像が正しければ・・・いえ、きっと正しいと思うけれど、そんなやり取りをしてるあなた達の間に、私が割って入る余地なんてないわよ。違う?」
麗奈は、部長の言葉を黙って聴いていた。
しかし、最後の問いかけには沈黙して応えず、ただ真衣から送られたヘアピンを握っただけだった。
「まあいいわ。西野さん。今日、あなたはもう部活に出なくて構わないから、このまま帰りなさい。今の状態じゃ、とても部活なんてしてられないでしょう? ああ、気を紛らわすために部活するってのはナシよ。部活は癒やしスポットじゃないし、それは私が許さない。今日、あなたは体調不良だから部活は早退。これは部長命令。ゴネても無理よ。私にはそうする権限があるし、部員にはそれを守る義務がある。確か、西野さんは徒歩通学よね? もし望むなら、昇降口まででも誰か付き添わせるけど、誰かご指名はいる? 私以外で」
「いいえ、大丈夫です・・・。一人で帰れます」
「オーケー。それじゃ、すぐ支度して。音楽室通って行くと他の部員と顔合わせちゃうから、非常階段の方からね。仕方ないから、昇降口までは上履きで行って。あと、酷い顔だから学校出る前に顔洗ってね。非常階段の入り口のところに洗面所あるでしょ?」
「はい。分かりました。今日は、いろいろありがとうございます」
「いいのよ。私にも、身に覚えのあることだから・・・。気休めにしかならないけど、夜はいろいろ考えずに、ちゃんと寝ること。こういう時は寝るのが一番。もし、まだグズグズしているようなら、寝る前に悲しい映画でも見て、十分泣くことね。そうすれば、悲しみの原因をごまかせるわ。一時的だけどね。それで、明日は朝練も昼練も出ないで、午後練にだけいらっしゃい。そのときに、またあなたの調子見てあげるから。大丈夫そうなら、通常運転よ。こういうのは、忘れろってのは無理な話だけど、少なくとも、時間が心を癒やすカンフル剤になってくれるから」
「ありがとうございます。それでは、帰る準備は出来ましたので、今日は失礼します」
帰る準備といっても、スクバ(スクール・バッグ。通学カバン)は部室の出入り口横のスクバ置き用棚にあるので、真衣から送られたヘアピンと、それが入っていた小包の外装を持ち帰るだけだった。
麗奈が帰ろうとして部長の前を通ろうとすると、「ちょっと待って!」と彼女のその歩みをやおら部長が制止した。
麗奈は「はい?」と言って、部長の目の前で静止する。
「あのさ、もしよかったらで良いんだけど・・・」
「はい・・・」
「来年、私が卒業するとき、私の・・・私のこの制服のリボンタイ、あなたがもらってくれないかしら?」
麗奈は、部長の突然のこの申し出に対し、驚きの表情を隠すことが出来なかった。
「え、でも・・・学年色が違うから、私のタイの代わりにはならないですし・・・」
いくら咄嗟のこととはいえ、我ながらなんてピント違いの言い訳なんだ。
「あ、いや・・・。そういうことじゃなくて・・・」
予想外の反応に、発言の意図を説明しなくちゃならんのかと、戸惑う部長。
こういう類の発言の意図を説明しなくてはならないことほど恥ずかしいことはない。
「分かってます・・・すみません・・・。私、今余裕ないので・・・」
真面目に謝罪する麗奈。
「うん・・・。今すぐ答えなくてもいいから。どうせ、後輩たちが寄ってたかってもらいたがりに来るだろうけど、少しの間なら“予約済み”ってことで死守できるし・・・。だから、なるべく早いほうがいいけど、卒業式の日、気が向いたら、ね?」
F女の制服は、普段はブラウスに付けるタイは各自の自由だが、セレモニーの際に限り、リボンタイの着用が義務付けられている。だから、卒業式の前日にあらかじめ渡しておいて、当日は他のタイを付けていくことは出来ない。
「分かりました。考えておきます。それでは、失礼します」
「うん。私、待ってるから・・・」
麗奈は部長のその言葉を耳の奥に残し、部室をあとにした。
その後しばらくの間、麗奈と真衣との関係について、いくつかの噂が流れたが、その噂の的の片一方は既に学校にはいないし、そもそも、麗奈と真衣が部活はおろか、普段も学校内で親しげに接している場面を見た者が皆無ということもあり、それらの噂はすぐに自然消滅した。
部室での麗奈と部長との一件も、麗奈の体調不良と家庭の問題ということで、部長の口八丁手八丁によってなんとか噂にはならずに闇に葬られ、その真相を知るものは当事者だけだった。
しかし、学校から姿を突然消した真衣の存在と麗奈の関連性の裏に、何か深い事情がありそうだという記憶は、吹奏楽部の1年生たちの記憶に深く刻まれることになった。
翌年4月。
昨年の吹奏楽コンクールで、全国大会への出場権のない金賞(タダ金)を19回連続獲得という記録を達成したF女吹奏楽部には、今年も多数の入部希望者が集まっていた。
その多くは、中学から吹奏楽部で楽器を吹いていた経験者で、例年通り楽器決めは困難を極めていた。
中学からの経験者ということは、その楽器で入部し、全国大会を目指す夢を持っていることを表している。
さすがに、1、2人しか必要のない楽器に何人も採れないし、最低限必要な人数が集まらない楽器も出てくる。
だから、編成のバランスを考えれば、希望通りの楽器に配属されない入部希望者も出てきてしまう。
そういう場合、オーディションを行って吹ける順番に採用していくことになる。
そのオーディションが行われた日。
「ホルンに物凄く巧い1年生がいる」という前評判から、基本的にはパートの上級生だけが審査するオーディション部屋は、他のパートの上級生で溢れかえっていた。
今年のホルン・パートの1年生はとても充実していて、誰が受かっても不思議ではないとされていたが、その1年生だけは当確だと思われていた。
しかし、1年生の中から誰か一人が落とされることには変わりがなかったから、残念ながらそのオーディションで落ちた1年生を獲得しようと、みな出張ってきているというわけだ。
ところが――。
「先輩方、非常に申し訳ありませんが、やっぱりホルン辞めます。私、ずっと前から興味のあったバスーン
に転向します。まだ枠が空いているみたいですので、構いませんよね?」
1年生のうちの一人が発言した。
途端にざわつき出すオーディション部屋。
「え? ああ。確かにファゴットは定員割れしているけれど・・・」
ホルン・パートのパート・リーダー、夏目恵子は、驚きつつもそう答えた。
「よかった! それじゃあ、彼女たちは、これからみんなホルン続けていけるんですね!」
「それはそうだけど、よりによってあなたがそんなこと言い出すなんて。考え直してもらえないかしら? もし、この中の誰かがホルン・パートに入れないことを心配しているのなら、他の楽器の人数を調整して、全員ホルン・パートに入れるように検討するから・・・」
これは完全に恵子の独善だった。
「おい! 恵子! 勝手にそんなこと決めるんじゃない!」
当然、他のパートのリーダーからクレームが入る。
「五月蝿い! 彼女がホルン・パートに入らなければ意味ないの! ここにいる全てのホルン吹きの誰よりも巧い彼女が入らなければ!」
夏目恵子がヒステリックに叫んだ。
「いやだなあ、先輩! 私は純粋に、ホルンよりバスーンを吹いていきたいと思っただけです。他のメンバーに席を譲るためとか、私はそんなに優しい人間じゃありませんし」
「でも、ホルンはオーボエに次いで難しいといわれる管楽器。そこまで巧くなるためには、相当努力したんじゃないの? その努力を無駄にして他の楽器に転向し、また初心者からスタートしようだなんて、正気の沙汰じゃないわ!」
「あれ? 誰もホルンを吹くことを辞めるとは言ってませんけど」
「あの、ごめんなさい。あなたの言ってる意味が分からないのだけれど」
「この吹奏楽部でホルンを吹かないというだけで、ホルンを吹くことは続けていきます。個人レッスンも受けてますし、ホルンで音大に行くつもりですから」
「そんな、勝手な・・・」
「勝手でも何でも、私の人生ですから。自分の進路は自分自身で決めます。それに、他の1年生だって同じです。せっかく高校でもホルン吹こうと思って入部したら、全く興味のない楽器押し付けられたりするとか。同じことです」
彼女のこの発言を聞いて、恵子は観念したようだった。
「戸田~! ファゴットの意見は?」
恵子にそう呼ばれた戸田和子は、ファゴットのパート・リーダーの3年生。
「うち的には、ファゴットを吹きたいって1年生が来てくれれば大歓迎よ。それに、ファゴットのこと、バスーンなんて呼ぶ1年、初めてだし。興味ある」
和子は、姿勢矯正サポーターのような、ファゴット特有のゴツいストラップを擦りながら答えた。
「分かったわ。それなら、ホルン・パートのオーディションはこれで終了! 全く、余計な時間掛けさせてくれたわ・・・。次はアルト・サックスだったわね。早川! 次はあなたの番よ。用意して!」
恵子がそう号令をかけると、一斉に引き上げていくホルン・パート一同。
サックスのパート・リーダー、早川が「こんなに早く終わるなんて聞いてないよ、もう」などとブツブツ言いながら急いでオーディション部屋を出ていく。
一年生とのすれ違いざまに、恵子が言った。
「これから違うパートになるし、金管と木管、そして中音と低音と、ほとんど接点がなくなるから、一つだけ訊いておきたいんだけど」
「え? はい。何でしょう?」
「あなた、名前は?」
「伊勢です。伊勢杏奈です」
「そう、分かったわ。良い名前ね。覚えとく。でも、私はあなたのこと、完全に諦めたわけじゃないからね。早川には悪いけど、いつかはあなたをホルン・パートに引き戻す」
「お言葉ですけど先輩。先輩は、コンクールが終わったら引退じゃないんですか?」
「そんなの、関係ないわ。来年でも再来年でも、パート・リーダーに申し送ってでも実現させてみせる」
「そうですか。分かりました。もし、バスーン・パートに希望者が殺到したら、そのときは考えましょう?」
「アレキサンダーのトリプル・ホルン、それも特別仕様のベル・カットモデルか。200万円は優に超える化け物ね。いつかは、その化け物の音をこの学校の音楽室に響かせてみせる」
「分かりました。先輩のその言葉、覚えておきます。それじゃ、ファゴットのパート・リーダーが呼んでるので、失礼します」
「伊勢杏奈か・・・。といっても、この部のレベルじゃ、あの子の音を持て余すかもしれないわね。あの子の音に相応しいレベルにするには、まず、全国大会には出られるくらいじゃないとね。その意味じゃ、あの子がここでホルンを吹くこと辞退したこと、そのことを見越してたからなのかしら?」
音楽室に戻って、恵子が杏奈の方をみると、杏奈は「まあ、これが本物のバスーンなんですね! 思ったより大きくて立派!」とか言って無邪気に騒いでいる。
「ったく。子供か。とりあえず、1年の担当楽器も決まったことだし、こっちもパート練習、始めましょうかね・・・。それじゃあ、ホルン・パートは、パー練教室に移動します。2年は、1年を案内して!」
恵美は、ホルン・パートにそう号令を掛けると、譜面台と楽器を持って音楽室を出ていった。
「ところで神田先輩。トランペットに、無茶苦茶巧い2年生の先輩がいると思うんですけど・・・」
パート練習の休み時間、杏奈がファゴット・パートの2年生、神田亜美に尋ねた。
亜美は、杏奈に専属でファゴットの吹き方を教えてくれていた。
もう一人、ファゴット・パートになった1年生は、楽譜の読み方も怪しいということで、3年生の和子が教える担当になっていた。
「無茶苦茶巧いトランペットの2年生? ああ、西野麗奈ね」
「麗奈・・・、西野さんって言うんですか」
「そうよ。1年の時からうちのエース、最終兵器よ。あなたと同じように、楽器の個人レッスンも受けているようでね、音大に行くんだって。杏奈ちゃんとも、話合うかもしれないわね。私たちじゃ、彼女の話し、難しすぎて付いていけないもの」
「え、そうなんですか・・・」
「うん。でも、何で麗奈なの?」
「あ、そのう・・・。ボーイッシュなのに美人で、それであんなにトランペットも巧いとか、相当人気があるんだろうなって・・・競争率とか、気になっちゃって」
「競争率? ん・・・っていうか、杏奈ちゃん、もしかして麗奈のこと狙ってるの? 杏奈ちゃんて、もしかしてそっち系?」
「特にそういうことはないと思いますけど・・・。ただ、中学までずっと女子校でしたし、そこのところはよく分かりません。でも、麗奈さんには何か、こう、特別なものを感じたのは確かです・・・」
「ふーん。私は女子校は高校からだけど、やっぱ男が周囲にいないと、そんな感じになっちゃうのかねえ。でも、実力行使に出るのはダメよ」
「は、はあ・・・」
「うちの部、部内恋愛禁止なの」
「ぶ、部内恋愛禁止って部則があるってことは、そんな頻繁に女の子同士での付き合いとかあるんですか、高校生は」
「しっ! そんな大きな声で言わないの! 恋愛関係になるかどうかは別として、廊下でも平気で手を繋いだり、腕を組んだりしてる子は多いし。みんなでトイレいったとき、同じ個室に入ってく人もいるし・・・。あ、そこで何してるかは訊かないでよ! 私も入学した当初は、いろいろ驚いちゃったけど、今ではもう何とも思わないわ。それに・・・」
「それに?」
「麗奈は見た目あんな感じでしょう? それに、しゃべり方とか性格も男子っぽくて・・・ハッキリ言って大モテよ。同学年はもちろん、上級生からも結構告白されてたみたい。これから、1年生が学校に慣れてきたら、玉砕する下級生大量に発生するんだろうなって思うと、可哀想になっちゃうわ。彼女、絶対に告白とか受ける気ないそうだから・・・」
「そうなんですか。やっぱり、同性は付き合う対象じゃないんですね」
「誰も本人から聞いたわけじゃないから、それはどうか分からないけど・・・うーん、これ言っちゃって良いのかなぁ・・・」
「えー? 何なんですか? そこまで言われたら、気になるじゃないですか。そんなモヤモヤした気持ちのままだと、私、練習に集中できませーん」
「ぐぬぬ・・・練習を盾にするとは卑怯な・・・。それじゃ、私から聞いたって絶対に言わないでよね?」
「大丈夫です、言いません言いません。私、これでも口、硬いんですから」
「いまいち説得力に掛ける気がするけど・・・。あのね、私たちが1年のとき、ちょっとした事件があったの。学校で変な噂を流された子・・・吹奏楽部の1年だったんだけど、その子が、その少し後に学校辞めて転校しちゃったの」
「転校ですか? それは穏やかではないですね」
「でね、それからしばらくして、麗奈が物凄い剣幕で一年生全員にその子の連絡先訊いて回って。その子、表面上は明るくて人当たりも良かったんだけど、個人的に仲の良い部員なんていなかったから、誰も知らなかったんだけど、麗奈、かなり落ち込んじゃって。先生にも訊いたらしんだけど、なんだかんだ言われて教えてもらえなかったそう・・・。麗奈、異様な剣幕だたから。先生も、麗奈に教えたらヤバいとでも察したのかしら? その後に出回った噂だと、その子と麗奈、結構良い関係だったらしいわ。ほら、学校の近くに小さな公園があるでしょう? 練習終わった後、その子と麗奈がその公園に入っていったところ見たっていう部員がいるのよ。周りは真っ暗だし、あの公園は林に囲まれてて、抜け道にはならないし・・・」
「でも、もしその子と麗奈さんが本当に付き合ってたんだとしたら、ポケベルかピッチの連絡先くらい知っていそうなものですけど・・・。私はどっちも持ってませんけど」
「そうなのよ。だから、麗奈がその子の連絡先知らないってことは、そういうことなんだろうってことで、その噂はすぐになくなったんだけどね」
「人の噂は七十五日ともいいますし」
「そういうこと。それじゃ、私たちもそろそろ練習に戻りましょう」
【エピローグ】
<成田空港第1ターミナル 南ウイング>
「真衣! そろそろ搭乗手続きが始まるから、来なさい」
「はーい! お母さん」
空港のラウンジの窓から、アイス・カフェ・オレを飲みながら外を眺めていた弓月真衣は、声をかけて来た母親の方へ足早に駆け寄っていった。
その直後「スイス国際航空 LX160便ジュネーヴ直行便の搭乗手続きを開始します。ご利用のお客様は・・・」と空港内にアナウンスが流れてきた。
「それにしても、急な転勤で迷惑かけたな。真衣は、お友達にはちゃんとお別れ出来たのかな?」
真衣と母親が待っていた父親と合流すると、父親が真衣に声をかけてきた。
「はい、お父さん。転校は、もう慣れっこになっちゃったから、大丈夫。でも、海外の学校への転校は始めてなので、私、楽しみよ」
真衣の父親は、原子核と素粒子を研究している基礎物理学者で、勤め先の研究所が替わる度に、小さい頃から真衣は転校を繰り返していた。
「そうか。でも、今回の勤務は結構長くなる予定だから、少なくとも高校は向こうのインターナショナル・スクールを卒業することになるはずだ。大学は、日本の大学でもヨーロッパの大学でも、自分の好きな方を受けなさい」
「はい。でも、まだ向こうの雰囲気が分からないので、それは向こうで少し生活してから決めるわ。ただ、せっかくだから、英語と、あと一つくらい第二外国語を極めてから日本に戻りたいって思ってるの。だから、多分、大学も向こうの大学がいいかもって今は思ってる。お父さんみたいに、国際的に活躍する物理学者にはなれないけれど、言葉だけでなく、向こうの大学なら、日本の大学より、もっと実践的な学問を学べるでしょう? それに、楽器のレッスンを受けるなら、断然日本よりヨーロッパだわ」
「そうだな。それにしても、真衣は音楽が好きだな。もし、真衣が私の助手になってくれたら、お父さん嬉しいなあ」
「まあ、あなたったら。本当に真衣のことが好きなのね。あなたの助手、私だけじゃ不十分なのかしら? もし、真衣もあなたの助手になったら、家族全員で同じ研究をすることになるのよ?」
真衣の母親も物理学者だったが、主に陽子崩壊を研究しており、日本では夫とは違う研究所に勤めていたが、今回のヨーロッパ行は、同じ研究所から夫婦一緒にスタッフ研究者として呼ばれ、それが家族揃って一時的にヨーロッパ移住する決め手となった。
「いいじゃないか、それでも。今は、ブラックホールが出来るとか反物質がどうとか、私たちの研究に理解ない批判もあるね。将来的に陽子・反陽子型の実験や、超伝導超大型加速器の実用化も視野に入れるとすれば、私の世代では無理そうだから、次の世代の重要な研究テーマになるだろう。真衣には、その未来を見てもらいたいし、あまつさえ、真衣がその研究に携わってくれれば、本望だよ」
「お父さん、いつもそんな夢みたいなこと言ってるわよね。それに、私、ヨーロッパで研究者になるのなら、お父さんのように高エネルギー物理学だけでなく、天文学や量子力学を学んでもいいって思ってるの」
「量子力学か。今はまだ発展途上だが、21世紀にはそれも、ホットな研究テーマになるかもしれないね。でもね、真衣。いずれにしても科学者はね、夢が研究の原動力なんだよ。フォン・ノイマンだってアインシュタインだって、必要に迫られて研究したというより、彼らの研究が実用化され社会に広く浸透したのはそのずっと後だ。社会の需要に先駆けて画期的な研究を完成させるには、夢がないといけないんだ。その意味じゃ、核融合や超電導の研究も面白いかも知れないぞ。実用化という面では、まだ、ほとんどSFの世界だけどね。ハハハ」
「あなた? それ言うんだったら、真衣には真衣の夢もあるんだから、自分の研究分野ばかりそんなに押し付けたら可愛そうよ。真衣は小学生のときも中学生の時も、数学と物理の成績は常に学年トップクラスだから、期待するのも分かるけど」
「さすがに、私たちの娘のことはあるな。知能の80%が遺伝するだとかなんとか、おかしな流説があるが、真衣を見ていると、もしかするとそれも本当なんじゃないかって思えてくるな」
「あら、あなた。遺伝子工学にでも転向なさるおつもり? 標本数がn=1じゃ、なんの参考にもならないわよ」
「確かにそうだ。ハハハ」
「それにしても、真衣。今日髪に付けてるそのリボン、素敵ね。あなた、リボンは子供っぽいからって、好きじゃなかったんじゃない?」
真衣の母親が、自分の目の前を歩いている娘にそう言うと、真衣は嬉しそうな表情をして振り返った。
「そうでしょ? お母さん。素敵でしょ? このリボンにはね、私の日本での大切な想い出が詰まってるの。今日は私にとって日本を旅立つ大切な日。だから、絶対これ付けようって決めてたの。私と日本との、絆だから」
「おいおい。日本と永遠にさよならって訳じゃないんだぞ。いつかは戻ってくるんだからな」
父親のその言葉に、真衣は小さく「うん」としか応えなかった。
そして「もう、私は日本に戻るつもるはないわ。このリボンは、あの人との愛と美と絆の象徴・・・。日本での想い出は、美しいままにしておきたいから」と静かに呟いた。
真衣のその呟きは、空港の騒がしさにかき消され、両親の耳に届くことはなかった。
つづく。




