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【練習番号P】バラ・フェスティバル前日譚① ~ 不意のカミングアウト ~

ゴールデン・ウィークの最終日前日。

明日、地元の公園広場で行われるバラ・フェスティヴァルで演奏する作品の最終調整練習が行われている。昼休み。部長・副部長・石神井恵美・高城沙織の4人は、首席指揮者兼トレーナーの伊勢杏奈から、昼食会に誘われた。

学校近くのファミレスでの昼食会。

その最中、伊勢杏奈により、吹奏楽部の様々な事情を洗いざらい告白させられる。

そして、話は部長と副部長、そして石神井と沙織の関係にまで及んで・・・。

「ごめんねー。この車、新車だからまだシート固くて」

それが、ファミレスに到着して伊勢杏奈の発した最初の言葉だった。

しかし、その車に乗っていた一同は「いやいや、そんなことどーでもいーです」と心底言いたかった。

そんなことより、あの運転をなんとかせいや!

法令的な交通ルールは一応守ってはいたようだが、とにかく他の車に道を譲らず、突っ込む突っ込む。

ヨーロッパではそれが普通なのかもしれないが、アウトバーンじゃないんだし、日本では普通じゃない。

大型連休初日でサンデー・ドライヴァーが多いし、麗しき乙女が4人も同情してるんだから、少しは自重して欲しいものだ。

学校からこのファミレスまで徒歩で15分ほど。

その道程を来ただけなのに、沙織たちは疲れ切っていた。

部長と副部長は、下を向いて歩いたまま一言もしゃべらない。

「ベ◯ツはもっとラグジュアリー感のある乗り心地なのに・・・。似たような会社の同じドイツ車で、ここまで違うとは。私にはもうB◯Wは無理だわ・・・」

「ねえ、私たち、帰りもこの車乗らなきゃダメなのかな? 石神井さん」

「沙織、帰りのことは考えるな・・・。もし本当に嫌なら、なんとか理由付けて歩いて帰るんだな。私はもう覚悟決めてるわよ。お父さんとお母さんに最期の別れを言えないのは辛いけど。沙織といっしょにあの世に逝けるなら、それも本望・・・」


「何名様ですか?」

営業スマイルをしたファミレス従業員のお姉さんの明るい声が、まるで天使のあの世への誘いのように聞こえる。

「5人」

先頭にの杏奈はぶっきらぼうに答えた。

そんな愛想が微塵もない杏奈に対しても「それでは、すぐご案内しますねー」と終始営業スマイルを崩さず、席に案内する従業員。

高校生か大学生か分からないが、ゴールデン・ウィーク初日なのにバイトとは、働き者だねえ。

青春の過ごし方は本当に人それぞれだ。

5人、案内されたテーブルに着くと「じゃ、私トイレ行ってくるから、その間に注文選んでおいてねー」と言い残し、杏奈がトイレに向かった。

杏奈が席を外した瞬間、残された4人は一斉に大きなため息をついた。

「はぁー。一時はどうなるかと思いました・・・」

窓際に押し込められて座った沙織が、メニューを残りの三人に配る。

「高城さん、あの人のあの運転、知らなかったの?」

沙織の正面に座った部長がメニューを受け取りながら訊いた。

「はい、知りませんでした。自家用車は、父か母の運転にしか乗ったことなくて」

「それって、まさか高城のご両親が彼女の運転知ってて、可愛い娘はあんな危険な運転の車になんて乗らせないって頑なに拒否してたってだけ、なんてことないよね?」

そう言う副部長の表情は、さすがにまだ少しだけ強張っているように見えた。

「えっと・・・。さすがに母は知っていた可能性はあると思いますけど、私、記憶がある限り、杏奈先生と直接会ったことはないんです。だから、先生の乗る機会もありませんでしたし」

「そうなんだ。あの先生、高城が小さい頃からの知り合いみたいなこと言ってた気がするけど」

副部長がメニューに目を落としながら、不思議そうな表情をする。

「それは、初日の挨拶でおっしゃってたじゃない。高城さんが生まれてすぐ見には行ったけど、その後すぐ、海外留学に出たって」

副部長の発言を部長が訂正する。

「ああ、そういえば、そんなこと言ってた気もするな。高城のお母さんのことだ、彼女に娘の自慢話しならいくらでもしているだろうけど」

副部長さんの中で、私のお母さんてどういう位置づけなのよ? それじゃ、まるで親ばか丸出しじゃない。

いつものように、沙織は思っただけで本人には言わなかった。

「それはそうと、帰りはどうします?」

メニューを配り終えた沙織がぼそっと呟く。

部長、副部長、石神井の三人は無言で顔を見合わせ「そりゃ、乗るしかないでしょ」と口を揃えて言った。

「もう、こなったら、最後まであの先生と一蓮托生よ」

その“最後”が今日じゃないことを祈りつつ、沙織が「やっぱり・・・」とため息混じりに言ったっ切り、そのあとは誰も言葉を発しなかった。

大型連休中の昼時のファミレスの雰囲気に似合わず、このテーブルだけお通夜みたいに沈黙に包まれていた。

その沈黙に耐えきれなくなったのか、注文品が決まったからなのか、副部長が残念そうな口調で呟いた。

「そしたら、先生の車、コンクールとか遠征のとき、楽器は乗せられないねえ。見たら、後部座席倒したら、7人乗りから5人乗りになっちゃうみたいだけど、中くらいの大きさの楽器ケースならいくつか乗りそうだったからラッキーって思ったのにさ」

副部長はそう言って沙織にメニューを返す。

やはり注文品は決まってたようだ。

「しょうがないわ。いくら保険かけてるとはいえ、コンクール会場に向かう途中に事故起こして、楽器駄目になって吹けなくなったんじゃ、目も当てられないもの。あ、帰りなら良いってわけじゃないわよ。それに、先生のあの車、外車でしょう? 結構お高そうだし、傷付けでもしたら大変よ。下取りとか出すときに買取業者に足元みられるわ」

部長は、メニューの前の方の“オススメ品”のページを見たり、後ろの方のデザートのページを見たり、メニューを前後に行ったり来たりして忙しく捲りながら言う。

一方、沙織は「この先輩が先生の車の値段知ったら、どんな反応するかな?」と興味津々だった。

「もっとも、その前に大事故起こして車自体がおしゃかになりかねないけどさ」

副部長のその言葉に、苦笑いの一同。

そこへ、杏奈が「お待たせ。みんな、注文決まった?」と明るい口調で言いながら戻ってきた。

沙織は「先生は・・・?」と尋ねながら、さっき副部長から戻されてメニュー置きに置いたばかりのメニューを杏奈にメニューを渡そうとした。

このテーブルは6人掛けっぽかったが、メニューは4人分しか置かれていなかったから、副部長が戻してくれて助かった。

沙織は、すっかりメニュー配り係りになってしまっていた。

しかし杏奈は、

「ありがと。でも、私は決まってるからいいの。ファミレスのこのチェーン店に来た時は、いつも同じの注文してるのよ。日本の加工食品は、添加物まみれで薬臭くいでしょ? ヨーロッパ生活が長かったから、外食で私の口に合うの、すっかり少なくなっちゃってね。だから、私が頼むのはほぼ一択。入り口であるかどうかちゃんと確認したから大丈夫」と言って「じゃあ、店員さん呼んで」と付け加えた。

本当にメニュー見なくていいんだ、と変な感心をしつつ、沙織が店員の呼び出しチャイムのスイッチを押す。

すぐに注文を取りに来た店員に注文を一通り言い渡すと、杏奈が彼女らしからぬこと――少なくとも沙織はそう思っていた――を、誰にともなく訊いてきた。

「で・・・。部内の恋愛事情はどうなのよ?」

一同、各々心当たりが大アリだったので、不意のカウンターに「はい?」としか反応出来なかったが、部長が早めに立ち直って杏奈に言った。

「先生、お忘れですか? うち、女子高なんですけど?」

それは、ごく一般的に言えば真っ当な反論だったが、杏奈は引き下がらない。

「もちろん知ってるわよ? でもね、誤魔化そうったって、そうは問屋が下ろすもんですか。私の勘では、その二人!」

まず血祭りにあげられたのは、杏奈の正面に並んで座っている部長と副部長だった。

「あなたたち、付き合ってるでしょ? 隠すなら隠すでいいけど・・・」

瞬間的に顔を真っ赤にさせた部長は、そこまで言い掛けた杏奈に「最後まで言わせまい」として、食い気味に反論した。

「な、何をいきなり・・・。そ、そんな、私が副部長と・・・? 何を根拠に、そんな・・・」

しかし、ジタバタと慌てふためきながらも、杏奈をなんとか誤魔化そうとしている部長の努力を裏切り、水泡に帰させたのは、意外な人物だった。

「え、部長は私と付き合ってるって自覚なかったの? 私はずっとぶ・・・久美と付き合ってたつもりだったけど・・・」

副部長が顔色一つ変えずに言う。

「うわ! マジかぁ・・・後輩の前であっさりバラしやがってぇ・・・この、裏切り者ぅ・・・」

悲鳴のような甲高い声でわめきながら、テーブルに突っ伏して顔を隠す部長。

「やっぱりねえ・・・。女子高って、女の子同士で手を繋いだり腕を組んだりして廊下歩くとか、後ろからいきなり抱きついてきたりとかする人いるでしょ? 私もね、学生時代は胸大きいから『あやかりたい』って言われて、触りに来る子よくいたっけ」

このウラヤマケシカラン杏奈のマウント攻撃に、部長以外の3人はいち早く反応し、彼女たちの視線は杏奈の胸の膨らみに集中した。

杏奈は、今日はボウタイ付きの白のブラウスを着ていたので、大きめのリボンタイによって胸は隠されてしまっていたが、リボンタイの角度からして、そのふくよかさが容易に想像できた。

そもそも、杏奈は練習初日、タートルネックのタイトなカットソーを着ていたから、既に彼女もそのことは承知していた。

しかし、こうして間近でそれを拝むと迫力がある。これにあやかりたいという気持ちも良くわかった。

ということで、端から杏奈とは勝負になんかならないと悟っていた沙織と副部長は、丁度並んで座っている杏奈と石神井の“それ”を、無意識に見比べる。

そのあと、窓際の席にテーブルを挟み、真正面同士に座っている沙織と副部長は目を合ったのを合図にしたかのように、二人同時にガックリした。

「まあまあまあ。それで、女子高通いは同性同士のスキンシップに抵抗のない人が多いから、それが普通のスキンシップなのか、それ以上のものなのか区別つきにくいんだけどさ。でも、私はあなたたちの女子高のOGなんだからね? 二人がどこまで行ってるかまでは分からないけど、そのくらい区別付きます。というか、二人の関係に気付いてるの、私だけじゃないはずよ? きっと、少なくとも同学年の部員はみんな薄々気付いてるんじゃない? 女子高はそのテの噂回るのも早いし」

いや、部長はともかく、私はそんな噂聞いてないぞと副部長は思った。

しかし考えてみたら、自分は練習時間以外は、主に部室でウェブ関連の業務に携わっているから、部員同士のそのテの噂話を聞く機会すらなかったと気付いた。そういう時は、今は殆ど使い物にらない部長が概ね自分の近くにいた。

「それに、あなた達が部室に二人っ切でいるときの“二人だけの空間オーラ”は物凄いもの。そんな場面に遭遇したら、嫌だって分かるわよ。私でさえ、声かけにくいくらいねえ。二人、同じ中学(おなちゅう)の吹奏楽部だったのよね? 中学のときもそんな感じだったの?」

そうか、だから自分と部長が部室にいるときは、他の部員がほとんど部室に入ってこなかったのか・・・。そして、もし入ってくるときは妙にオドオドした感じだったし。

「ねーねー、それから、二人でいるときは何て呼び合ってるの? あなたたちが部活では名前では呼ばず、部長/副部長と役職名で呼び合ってるのは、ケジメ? まさか、プライベートでもそういう役割プレイしてる訳じゃないよね? 二人っきりの時は、お互い名前で呼び合ってるの? それとも、もっとカワイイ呼び方してる? ちなみに私は旦那のこと呼ぶ時はダーリン。旦那は私のことハニーって呼ぶわ。日本人同士だけど、二人とも外国経験が長いからかもしれないけど」

そういえば、杏奈先生は結婚してるんだった。

子供もいるとか言ってたっけ。

「ああ、それは普通に下の名前で呼び合いますよ。中学のときは、まだ付き合うとかそういう意識ありませんでしたね。久美のお目付け役みたいな小煩い同級生もいましたし。でも、同じ高校に行く約束はしてました。私は、情報科が充実した高校にも行きたかったんですけど、進学を考えてた女子大の附属高校は超お嬢様学校で、親に行きたいって言ったら()()()()()ってあさり即却下されちゃいました。ハハハ」

部長は撃沈したままなので、杏奈の質問には全部副部長が一人で答える。

とはいえ。

沙織は、杏奈がこんなに色恋沙汰に興味津々なゴシップ好きだったとは、ちょっと呆れてしまった。

一方、副部長は大概のことには動じない人だなと感心した。

それから、副部長さんが言ってた女子大付属のお嬢様学校って、あの真っ黒制服のO女子大付属のことだろうか? 確か、O女子大付属は入学金・寄付金・授業料はバカ高いことで有名だったはず。吉美が、制服もカラスみたいに真っ黒で可愛くないし、絶対ぼったくりだよとか失礼なこと言ってたっけ。自分は、到底偏差値が及ばなかったので最初から候補外だったけど。

だとしたら、この前会って、間接的に無茶苦茶お世話になった小早川とかいったパソコン部(*情報科学研究部)の部長さん。副部長さんのこと前から知り合いだったようなこと言ってたけど。副部長さん、小早川さんと同じ高校に行きたかったのかな?

でも、そうなると、副部長さんが、中学の頃部長と付き合うことは考えていなかったと言っていたのは、小早川さんがいたから?

でも、そうなると、そうなると・・・。

どう考えても小早川さんが本命で、部長はキープ、なんだよなあ・・・。

沙織は、部長たちの関係について、自分が探ってはいけないことを探り回って無理やり掘り起こし、その結果として大嵐を招きそうになっているような気がして、考えるのを止めた。

しかし、沙織も他人の泥沼の底を探ってられるような場合ではなかった。

「それから、あんたたち」

杏奈は、そう言って自分の左側に並んで座っている沙織と石神井を指差す。

来た!

ついにこっちに話し回ってきた。

「私が改めて指摘するまでもないと思うけど、部公認でいいんだよね? 誰がどう見ても、っていうか、部活であんなイチャイチャ見せつけておいて、それで『付き合ってません』なんて言わせないわよ。サーヤ? 石神井さん? 特に、石神井さんは間違えなく、ガチでサーヤのこと大好きよね? 石神井さんのサーヤを見る目、瞳の中にいつもハートマークが浮かんでるもの」

「ハハハ。バレバレですもんね、この二人。もし二人の関係に気付いてない部員がいたとしたら、とんだお子ちゃまだわ。入部希望で最初に部活来たときから、怪しいなとは思ってたけど。やっぱアレ? あの生徒会長ギャフンと言わせられたのも、あなたたち二人の愛の力?」

副部長が茶化す。

沙織は「いや、これは石神井さんの方から一方的に・・・」と言いそうになったが、石神井に悪いと思って言うのを止めた。

まてまてまて。

今、沙織は、その「石神井さんの方から一方的に」というのが反論の第一感として思い浮かんだこと自体、石神井に対する大きな罪であると思った。

しかし、それは未だに西条茉莉奈への想いを諦めてはいないという意識が、自分の中にあったからこその第一感であり、ウソではなかった。

逆に、石神井と正式に“付き合ってる”、もしくは石神井と付き合いたいという自覚はあるのかともし問われたとしたら、自分には、ハッキリそう言い切れる自信はなかった。

ああ、やっぱりこんなこと石神井さんの前では言えないな・・・。

「先生~。何の話しなんですか? これ・・・」

眠ってしまったのかと思えるほど静かに、ずっとテーブルに突っ伏していた部長は、どうやら気が収まったらしく、拗ねるような口調でそう言いながら、おもむろに顔を上げた。

「なんだ、起きてたんだ。注文品が来たら、起こしてあげようと思ったのに。まあいいや。それより、まだ顔赤いわよ、恥ずかしがり屋のぶ・ちょ・う・さ・ん」

仲里は、隣にすわっている副部長にそう指摘されて「ウソ!」といって火照りを冷ますため、頬に両手を添えた。

「仲がよろしくて結構。でもね、私がこんなこと訊くのには、別に何の意図もないわよ。単なる個人的なキョーミ。もちろん、同性愛がどうとか性同一なんとかがどうとか、そんなことはハッキリってどーでもいい。意図みたいなものがあるとしたら、部活をやっていく上で、もっと気持ちをオープンにしてもらいたいと思ったからなのよ。みんな、微妙に固っ苦しいんだもの」

「気持ちをオープンに、ですか?」

部長が首を傾げる。

「そう。音楽っていうのは、音や響きに気持ちを込めようと思ったら、気持ちを開放して、その開放した気持ちの全てをそこに込めて演奏しないと。秘めた気持ちが美しいなんて、単なる自己満足。そこまででなくても、そんなんじゃ少なくとも他人に気持ちは伝わらないわ。鎌倉時代以降、個人の自由が制限され武家に支配された封建時代の日本の、上から押し付けられた美意識よ。別に、それを否定するつもりはないわ。そういう美意識も必要なときもあるでしょう。けれどその気持ちを第三者に伝えようと思ったら、言葉と同じように、音楽もその気持を実際に音に乗せていかなければ伝わらないの」

まだ話しの内容にピンときていない様子の女子高生4人。

「そっか。高校生にはまだ難しいかな・・・? 日本には“言霊(ことだま)”ってあるでしょう? 言葉も音楽も“音”、つまり空気の振動によって伝わって行くものだから、その意味では両方とも本質的には変わらない。日本で文字が使われ始めたのは、一般に5世紀から6世紀(*筆者注:諸説あります)だといわれているわ。それは楔形文字から数えれば実に4000年後で、漢字の始まりから数えても1800年か1900年後。ものすごーく遅いの。でも、日本には立派な社会構造が既にあって、豊かな文明と文化を築いていたわ」

「先生、文字もなしにどうやって文明や文化を発展させていくんですか?」

沙織が質問する。

「だと思うでしょ? だから、そんなにも長い間文字がなかったのは普通考えられないので、大陸から漢字を輸入する前にも日本には文字があったはずだって言う人もいるし、日本への文字、つまり漢字の輸入時期を前倒しして3世紀より前だった、という説もあるわ。丁度、邪馬台国の中期から後期あたりね。やっぱり、文字がなければいろいろ不便なはずだものね。でも、こうも考えれない? 文字がなくても文明や社会を維持できる方法があったら? 他の地域ではそれを実現できなかっただけで、日本ではそれが実現できていたとしたら? だとしたら、その方法が“音”による情報伝達しかない。まあ、そのころの日本人が、都市伝説で先祖じゃないかっていわれているシュメール人たちみたいにテレパシーでも使えたら、別だけど・・・。でも、文字じゃなく“音”による情報伝達を文字と同じくらい進化させたって仮説を否定し切ることは、現実的には不可能よ。どっちにしても、音は化石に残るわけじゃないからその物的証拠はみつかっていないし、みつかるわけがない」

「難しいですね」

沙織がぼそっと呟く。

「それから“万葉仮名遣い”って分かるかな? 通説で言えば5世紀後半、漢字が日本に輸入されてまだまだ100年も経っていない時期よ。その漢字の音読み“だけ”を使って、日本語の文章を書く方法が普及し始めた」

「それなら分かりますよ。要するに当て字ですよね。“ヨロシク”を“夜露死苦”みたいに本来は表意文字である漢字の意味を全く考えず、中国の元の読み方だけを使って文章を書く」

副部長が簡単に解説する。

「はい、正解。その方法が発展して、早く書くために漢字の草書体を参考にして、今の平仮名や片仮名が生まれたのよ。そして日本語では、一つの漢字にいくつもの読み方があるわよね? 例えば“日”は「ひ」「び」「ぴ」「か」「じつ」「にち」の他に「今日(きょう)」「明日(あした・あす)」「一日(ついたち)」「日向(ひゅうが・ひなた)」というふうに、熟語になるとルール無用のなんでもあり状態。しかも、明日や日向みたいに、同じ意味で使ってるいても、読み方も複数あるとか、わけわかんないでしょ? でも、それって、要するに文字自体やその形はもちろん、意味よりも“音”の方が重要だったってことになるわよね。中国では、外来語を漢字で表記する際、その単語の意味に合ったような漢字を使うわ。テレビは“電視”、コンピュータは“電脳”みたいにね。漢字を使うのは同じでも、使い方が根本的に違う」

「確かに、そういわれてみれば」

「その時が、日本で“言霊”と文字が融合した瞬間。平安時代、貴族の男性は、意中の女性に和歌で愛を伝えたりプロポーズしたことは知ってるわよね? 直接的に“好きだ”とか“愛してる”とか“付き合って下さい”って言ったり書いたりせずに、たった31文字で言いたいことを伝える訳でしょう? しかもお互い顔もしらず、和歌の内容だけで相手と付き合うか結婚するか決めるのだから、凄いわよね。紀元前のギリシャ時代から研究されてきた、西洋的なレトリック(修辞法)とはまた別の次元で、自分の気持はそういう直接的な言葉ではない、もっと他の言葉で伝えた方が効果的だって分かってたのね。日本人が、文字を自由に使えるようになってからも“言霊信仰”を捨てなかった表れの一つだと思う」

「その“言霊信仰”があった一方で“音”そのものの持つ力はどのように使われたんですか?」

部長が杏奈に尋ねる。

「そうねえ。私も専門家じゃないから、話半分に聞いてもらいたいんだけど。古今和歌集の序文に『和歌は天地の神々を動かし人の道にも影響を与える』と記されているくらい、当時の日本人は言葉の力を信じていたのだけど、それと同時に“音”そのものにも様々な力が宿っていると信じられていたけど、世界中の宗教で“音”は、魔除けや場を清める効果があるとされているわ」

「つまり、日本では“言葉と音”に、日本以外では、空気の振動そのものである“音”に、言葉と同じ効果を求めたということですね。逆に言えば、気持ちを開放させれば、音楽は言葉では伝えられない気持ちも伝えることが出来るということか・・・」

4人の中で、最も成績の良い副部長が、杏奈の言葉を要約した。

「そうね。一番分かりやすいものは、除夜の鐘ね。教会で音楽を奏でるキリスト教もそう。そのお陰でクラシック音楽が生まれて、私もこうしてご飯を食べることが出来るんだけど。キリスト教では、トロンボーンの音を“神の声”としているのは有名よね。あと『ヨハネの黙示録』では天使が吹くトランペットの音は災害の前触れだし、フルートは人間と神を繋ぐ楽器として、聖書にはキリストが生まれた時の天使の歌にもフルートが使われたとあるわ。不思議なことに、フルートはキリスト以外の宗教や様々な国の音楽で、神に近い神聖な楽器として扱われているわ」

「フルートにそんな役割が・・・」

「ついでに言うと、フルートやピッコロは、鳥の鳴き声を模倣することも多いわ。有名なところでは、《四季》を作曲したヴィヴァルディのフルート(リコーダー)協奏曲ニ長調ゴシキヒワとか、ベートーヴェンの《田園》交響曲第2楽章、モーツァルトの《魔笛》、プロコフィエフの《ピーターと狼》、ラヴェルの《ダフニスとクロエ》の「夜明け」などなど。今フェスティバル用に練習してる《展覧会の絵》でも「卵の殻を付けた雛どりの踊り」もそうね。そして、キリスト教で鳥は、空を飛ぶので神に一番近い生き物だとされている・・・。故意か偶然か、私には分からないけど」

「そんなにフルートで鳥の声を表す曲が多いんですか」

「まあフルートに限らないけどね。マーラーの交響曲第1番の『カッコー動機』は色々な楽器に出てくるし、ベートーヴェンのピアノ・ソナタや、今度のフェスティバルで演奏する《ローマの松》を作曲したレスピーギには《鳥》っていう組曲があるし、3曲目の「ジャニコロの松」では、鳥の声を収録したレコードを流す指定がある。クラシック音楽で鳥が出てくる曲は、もうそれこそ五万とあるわよ」

「リムスキー・コルサコフのオペラ《金鶏》では、トランペットが金の鶏の鳴き声を吹きますね」

沙織が付け加える。

「そのオペラなら、一度コンペティの仕事でピアノ弾いたことあるわ。そしてドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》では、冒頭で演奏されるフルートのソロがギリシヤ神話の神様で牧神(*筆者注:半獣神で、羊飼いと羊の群れを監視する神)を表しているわ」

「牧神の午後? 前奏曲? 私、その曲知りません。沙織、分かる?」

石神井が沙織に尋ねる。だいたい、こういう曲は沙織に訊けば何かしら教えてくれる。

「石神井さん、ごめん。私は曲名しか知らない」

沙織が石神井にそう答えると、杏奈が口を挟んだ。

「ああ、サーヤも知らないか。確かに、トランペット編成に入ってないからね。じゃあ、部長さんは?」

トランペットが編成に入っていないのなら、自分はスルーだなとたかをくくっていた仲里は、いきなり話しを振られて一瞬ビクッとした。多分、トランペット・パートとして訊かれたのではなく、部長として訊かれたのだろう。仲里が副部長を見ると、自分じゃなくてよかったというような表情で胸をなでおろしている。

「私も曲名しか。ドビュッシーのオペラ、いえ、バレエの前奏曲ですか?」

「おお。もしや、ドビュッシーが完成させたオペラは《ペレアスとメリザンド》1曲しかないことを考慮してのバレエってか? でも、残念。リストの交響詩《前奏曲》みたいなものよ。近年では、具体的な舞台作品のない、純粋にコンサートだけで演奏するために作曲された序曲や前奏曲がたくさんあるのは知ってるわよね? この曲もある意味そうで、バレエ曲なのはバレエ曲なんだけど、この“前奏曲”自体が『牧神の午後』っていうバレエのための曲なの。そうだ、いつかこの曲もやりましょう。演奏技術自体は決して難しい曲ではないけれど、管楽器のソロが多いし、ちょっと独特だけど和音も豊かだから良い練習になるわ。思春期真っ盛りの女の子たちが、実感がある子も実感がない子も、愛について考えながら演奏したら、かなりセクシーだと思う。本番で演奏するかどうかは別として」

そのとき、それがなぜ“セクシー”なのか沙織たちはよくわからなかった。だから、後でネットで調べてみたら、飛んでもない意味だったことが分かり、4人全員顔が真赤になってしまった。

「これ、絶対あの人の趣味だよね? またからかわれたんじゃない?」と副部長がボヤくと、石神井が「私、この曲絶対やりませんから!」と息巻いた。


それにしても杏奈の話しは長い。よくもまあこんなにペラペラと。

ただ長いだけではなく、歴史や文化や芸術の知識が豊富で感心させられる。

「そう? 指揮者はね、多ければ百数十人のオーケストラ楽員はもちろん、合唱団なんかも含めれば500人以上の相手を一人でしなければならないのよ? しかも、その一人ひとりが大学やそれ以上の教育機関で専門的な教育を長年受けてきたり、伝説的な指揮者といっしょに演奏して来たりして、経験豊富な人たち。中には、女だからとか東洋人の指揮者だからって、ヨーロッパのクラシック音楽の伝統なんか理解出来っこないといって最初からバカにして、変にプライド振りかざして来たり話しすら聴こうとしなかい人も少なくないわ。それに、日本はまだ忍者やサムライがいる前時代的な国だってマジで信じてる人もいるのよ。確かに、一様に口を揃えて国の歴史の古さと天皇――結局は同じこと――は認めてるようだけど、でもそれはヨーロッパとは違う歴史だって」

「それは大変ですね? どんなこと言われるんですか?」

副部長が杏奈に尋ねる。

「そうね。彼らの常識からテンポが少し違ったり指摘がおかしいと思ったら、やれ『お前にはモーツァルトは振れない』とか『やっぱり東洋人の女はベートーヴェンを全然理解してない』とか『そんなのワーグナーじゃない』とか『ブラームス分かってない指揮者の棒でなんか演奏できるか』とか。すぐにグダグダ言い出しやがる。それ以外では『そんな振り方じゃ分かんねーよ』とか『何回やらすんだよ』とかいう典型的なリハーサルの進行妨害ね。まあ、どうせコンサートで1回くらいしか振らない指揮者だからって、仕事だと割り切ってなんでもハイハイ言って表面だけ聞く振りして適当にリハーサルして、本番ですらわざとやる気ない演奏して嫌がらせするようなオケよりはマシだけどね」

「でも、それだとオーケストラの評価まで下がりませんか? 自分で自分の首を絞めてるような」

今度は石神井。

「なるほど。でも、向こうもその辺はちゃんと計算してるわよ。演奏がブーイング受けたとしても、音外したり縦の線合わなかったり明確な演奏者のミスさえなければ、演奏の大体は指揮者のせいになるから彼らには痛くも痒くもないもの(*筆者注:現在ではこのような態度のプロ奏者は少数派です)」

「なんだか、四面楚歌で無茶苦茶な話しですね。私だったら、振り方に文句いわれたりしたら『ちゃんと吹いてから文句言いなさい』とか『指揮の見方知らないのによく楽員やってられるわね』とか言っちゃいそう」

確かに石神井さんならそうだろうな、と沙織は思った。

「まあね。大昔の指揮者だったら『お前の仕事は何だ。それでもお前はプロか。指揮者の言う通りに演奏できないならプロなんていえない。ここにはプロしか必要ない』とか何とか言ってリハーサルボイコットでもすれば向こうから謝ってきたり、楽員を平気でクビにする人もいたそうね。尤も、昔は楽員がなかなか演奏が出来なかったりして気が食わないことがあったら、指揮者の方から仕事キャンセルするってこともあったらしいわ。だけど、今はねえ」

「あの、そういうときはどうするんですか?」と今度は沙織が質問した。

「それはね、対立があったときはチャンスでしょ? 対立して文句言ってくるってことは、向こうがこっちにコミュニケーションする準備があるってことだから。楽員が嫌がらせや下らない文句言って来るときは、指揮者の能力を試そうとしたり、こちらの出方を伺うためにしてくるの。本気でこの指揮者の棒では演奏したくないって思ってるんだったら、他の楽員と乗り番代わったりしてそもそもリハーサルになんて来ないわよ」

「確かに、そうですね」

「だから、そんな人たちを一つに纏め上げるためには、生半可なやり方ではダメなの。こっちも、向こうを納得させられるだけの材料を持っていないとね。それが知識よ。というか教養と言った方が良いかな。『お前らは知らないだろう』的にどーでもいい知識をひけらかすのは良くないけど、誰でも知ってるような知識をちょっと捻ったり、関心ある話題でちょっとだけマニアックな知識入れて『そうなの!?』って思わせるくらいの。それが、歴史や文化や芸術なの」

しかし、なんだか上手く丸め込まれているような気がしないでもないのは・・・。

指揮者になると、こういうハッタリが上手にでもなるのだろうか?

まるで、アメリカの映画やドラマでよく見る、法廷弁護士だ。

あの仕事も、12人の陪審員を自分の主張する方向に説得しなければならない。

「まあ、こっちも初めて指揮台に立つオーケストラの場合、楽員の技量を確かめるためにそれとなくテストすることもあるけどね。この吹奏楽部とのリハーサルの初日、サーヤにしたように・・・」

杏奈は、そう言ってペロッと下を出した。

「あ、あれ、わざとだったんですか?!」

石神井が素っ頓狂な叫び声を上げ、横に座っている沙織を一瞥した。

「私はそうじゃないかなと思ってました。指揮者は、始めて指揮するバンドには色々仕掛けてくるものだって・・・」

石神井の視線に気付いた沙織はそう言ったが、それは母親から教えてもらったことだった。

「何よ、沙織、気付いてたの? なんだ、バカみたい、私・・・。指揮の先生に強く言われて落ち込んでると思って、慰めにいっちゃったじゃない」

「ううん。大丈夫だよ。石神井さんの気持ちも分かったし、私、すぐに声かけてくれて嬉しかった」

互いに見つめ合い、沙織と石神井との間に飛び交うハートマーク。

「あーあ・・・。サーヤにはお見通しだったかあ。でも、あのときのサーヤの音、とても素敵だったわ。やっぱり麗奈さんの娘さんだけのことはあるって思ったら、ちょっと泣きそうになっちゃった。音量小さくしても音質も音圧も変わらなかったし、何と言ってもあの持続力。新入生勧誘演奏の動画見たとき、もしサーヤがそうなのなら、下パートに回ってその音量を活かしてもらうしかないって思ってたけど。首席としても十分すぎる程の技量だわ。いるのよね。デカい音は出せても、音色も音質もまるでダメで五月蝿いだけ。おまけに、力任せに吹いてるから、すぐにバテて音出なくなるわ、音量落とさせるとロクに吹けなわっていうトランペット。また後で言うけど、今後、サーヤにはソロ首席トランペットとしてやっていってもらいたいわ。どの楽器のパートでも、決して上のパートの奏者が巧いとは限らないけれど“ソロ首席”は特別。単なるポジションではなく、オーケストラの楽員にとって、とっても名誉のあるポジションよ。それだけ責任も重いけど。受けてくれる?」

杏奈は、石神井を飛ばして沙織を見る。

「それって、市民オーケストラでの母のポジションと同じですよね・・・。私に、そんな大役が務まるかどうか・・・」

「何言ってんの!? サーヤ。もちろん贔屓とかそんなんじゃなく、私は、あなたの演奏を実際に聴いて、それでそのポジションに相応しいと判断した上でオファーしてるのよ。あなたに。国内外のプロのオーケストラの演奏を、20年間いくつも指揮したりエキストラとして楽器演奏したりして聴いてきた、この私の判断を信じて」

杏奈のその話しを聞いた上でも、俯いたまままだモジモジしている沙織を見て、石神井は思わず口を挟んだ。

「沙織。私がこういうこと言っても贔屓にしかならないと思うけど、そのポジション、私も沙織に相応しいと思うわ。ただの1stトランペットやパート・リーダー――はっきりいってパート内の事務係り――じゃ、役不足だもの。ソロ首席になったら、練習の励みにもなるんじゃない? そうでなくても、沙織が練習の虫ってことは分かってるけど、張り合いにはなると思う」

石神井にそう言われ、顔をあげる沙織。

「分かった。分かりました。私、ソロ首席やります。実質的には何も変わらないと思いますけど、そのポジション名に相応しい演奏が出来るように」

沙織の決意表明を聞き、周囲に迷惑にならないように、彼女に小さく拍手を送る一同。


「ところで、自分たちの関係がみんなに知られるかどうかビクビクしながら過ごすのは、辛いでしょう? その無意識の守りの姿勢は、紛れもなく音にも影響するわ。少なくとも、第三者に自分たちの関係を知っている人が1人でもいれば、気持ちも楽になると思う。でもまあ、成長期の若い女の子は切り替えが早いから、大人になったら、性的趣向もガラッと変わっていくわよ。ボーヴォワールは『人は女に生まれてくるのではない。女になるのだ』って言ったけど、女子高の女の子同士のプラトニック・ラブもそれ以上の関係も、学校を卒業して“女子高通い”の魔法が切れたら、どんなに熱く盛り上がってたとしても、それと同時に全てなかったことになることが多いわ。『私、女の子しか好きになれないのぉ~』とか言って私に告白してきた同級生も、成人式で久々に会ったら、既にバツイチになってて、待婚期間(*筆者注:現在は撤廃)が過ぎたら婚約する婚約者いるんだとか言ってやがったわ。だから、精々、在学中に青春を謳歌することね」

そこに、注文品が運ばれて来た。

石神井は何か言いたそうにしていたが、店員が空気を読まず注文品を配り始めたお陰で、言う機会を逸してしまった。

沙織は「自分たちがまだ“女”になってないって言われたのが嫌なのかな?」と思った。

杏奈の注文品を見た部長は、

「伊勢先生、さすがにその清楚な白いリボンタイ・ブラウスにそれは・・・」

と心配して声をかけた。

「大丈夫よ、平気平気。これがあるし」

杏奈は、そう言ってバッグから大きなスカーフを取り出して広げ、ブラウスのリボンタイが隠れるように首元に巻いた。

「デカっ。って、そのスカーフだって、シルク製なんじゃ・・・?」

副部長が突っ込む。

さすがに女の子は、こういうことには五月蝿いし、そのスカーフの値段も気になる。

「大丈夫よ。残念ながら、このスカーフはシルクじゃなくてポリエステル製だから、そんな高級品じゃないわよ。普通に洗えるし。さて、それじゃ腹ごなししましょう。午後は、いよいよ曲の練習になるから、さらに厳しくいくわよ」

杏奈はそう言って、海鮮盛り合わせステーキの大きな肉を切り始めた。

しかもライスは大盛り。

沙織は「これでよくこの体形維持してられるな。やっぱり、私とは栄養の行き先が違うのか」と思って羨ましかった。

杏奈に倣い、各々食べ始める他4人。

沙織は、大根おろしハンバーグ定食セットを食べながら、密かに杏奈への反撃の機会を狙っていた。

前々から杏奈に訊きたかったことだが、部活では、とてもそんなこと訊けるような雰囲気はない。

しかし、この話題は杏奈から言い出したこと。

今なら、訊ける。

そして、沙織は全員が食べ終わったことを確認し、意を決して杏奈に質問した。

「それで、伊勢先生。お訊きしたいことがあるんですけれど・・・」

「先生? いつも通り、杏奈でいいわよ。合奏中でなければ。麗奈さんはアナって呼ぶけど」

「では杏奈さん、高校時代、私の母とは、そのう・・・どんな関係だったのかというか・・・えっと・・・」

「ああ、私と麗奈さんが付き合ってたかってこと?」

食事の量が一番多いのに一番先に食べ終わった杏奈は、首元から外したスカーフを丁寧に畳みながら言った。

「え!?」

杏奈と沙織以外の3人同時で、変な声が出た。

沙織が何を言いたいのか分かりつつも、彼女の歯切れの悪い言葉にヤキモキしながら聞いていた3人は、杏奈の直接的な物言いに、驚きを隠せなかった。

「やっぱり気になるかあ、そこ。まあ、そうだよね。分かる分かる」

杏奈はスカーフをバッグに入れたついでに、手鏡を出してブラウスのリボンタイの形を確認して、丁寧に整えた。

落ち着き払った杏奈の態度の一方、厳しいだけでない杏奈のプライベートなノリが分かっていくに従って、4人は、次第に彼女に付いていく自信が薄らいでいく気がした。

「でもね、高校時代は、私と麗奈さんはお付き合いしておりませんでしたあ。残念。あ、勘違いしないで欲しいんだけど、あの時、私は部内で麗奈さんのことを一番好きなのは自分だって思ってたわよ。それは今でもそれは変わりないわ。だから、彼女の娘であるサーヤが、その一点に於いてすごく羨ましい。実は、高校時代の私の性格、今のサーヤにそっくりだったのよ。だから、高校時代の私とサーヤを、無意識に重ねちゃってね。今日だって朝起きた時、何で私、麗奈さんの娘じゃないんだろうって思って、涙出てきちゃった。おかしいよね」

情緒不安定か!

ギャグが古いのはまあいいとして。

「そんなに沙織さんのお母さんのことを想っていたのなら、先生はなぜ付き合わなかったんですか? 告白して、振られたんですか?」

石神井が訊く。

もう、何を訊いても良いような雰囲気だった。

少なくとも、怒られることはないだろう。

「いいえ、告白はしなかったわ。ああ、そういえば一年生は知らなかったわね。部長と副部長には朝話したけど。当時の吹奏楽部はね、部内恋愛が禁止されていたの。だから、今のサーヤと同じ性格で真面目ちゃんだった私は、その部則があったから、麗奈さんに告白しようだなんて夢にも思わなかったわ。そうでなかったとしても、多分、告白する勇気なんて当時の私にはなかった。今思えば、その勇気のなさを自分では認めたくなくて、部則のせいにしていただけかもしれないけど。あの時、告白しなかったことは今でも後悔しているわ。ちょっとだけど。結局、あの時の私はまだ子供だったってことね」

「そうだったんですね」

杏奈は「ちょっとだけ」と言ったが、まだそのことを引きずっているような気がした石神井は、迂闊なことを訊いたと申し訳なくなって、俯いた。

「それにね・・・いや、これ言って良いのかなあ? 簡単に言えば、麗奈さんには私以外に心に秘めたお相手がいたのよ。美人でボーイッシュだった上、名実ともに吹奏楽部のエースだったから、結構モテたけど、私が知っている限り、そのお相手とも、他の誰かともお付き合いしてたようなことはなかったはず。そもそもそのお相手は――。まあ、このことはいいか。ともかく、私が知っているのはそれだけ。変なところで止めて悪いけど、後は知らない。恋愛談義は以上! もうすぐ時間だから、そろそろ、出るわよ。私はお会計済ませてから行くから、みんなは車のところで待ってて」

テーブルの通路側に座っていた杏奈は、そう言って伝票を片手に、レジと出口の方にさっさと歩いて行ってしまった。

「なんでよ!」と言って、右手を握って顎先に当て、何やら石神井は考え事を始めたが、部長と副部長はすでに席を立っていた。

「石神井さん、早く行かないと、ほら、もうみんな行っちゃたよ。石神井さんが行かないと、私、出られない」

ベンチシートの窓際の席に座っていた沙織は、通路側に座っていた杏奈と自分との間に座っていた石神井が席を立たないと、テーブルが邪魔して席を立てない。

沙織が石神井の左肩を両手で優しくポンポンとやって席を立つよう促すと、石神井は「あ、ごめんごめん」と言いながら席を立った。

その後を急いで追いかけるF女吹奏楽部員4人。

傍から見ると、これはどういう集団と思われるだろうか。

どうにもこうにも、女子高生がマルチ商法の勧誘員に勧誘されているようにしか見えなさそうだ。

部長と副部長の後を追いながら、石神井が沙織に尋ねる。

「沙織、おかしいと思わない? あの先生、十中八九何か隠してるわ」

「何を?」と沙織。

「沙織ねえ・・・。あんた、もうちょっと国語の勉強した方がいいわね。さっき、先生があなたのお母さんが心に秘めていたっていうお相手について、途中まで言いかけて止めたこと、気づかなかった?」

「でも、その人とお母さんは付き合ってはないって・・・」

「それが先生の単なる憶測に過ぎないってのはいいとして、先生のあの言い方だと、どうも、その“お相手”に何かあって、そのせいで、あなたのお母さんもその“お相手”と付き合いたくても付き合えなかったっていう風に、私は感じたわ」

ファミレスの階段を降りながら、石神井は後ろを歩いている沙織に語りかける。

「ふーん。私は、どうでもいいことだから言うの止めたって思ったけど」

さっき杏奈が沙織の母親について言ったことは、全て杏奈の主観に基づく“憶測”だ。

それも、杏奈が自分たちに話してもいいと判断した、一方的にコントロールされた情報だけだ。

もしここに沙織しかいなければ、もう少し詳しい話しをした可能性もあるが、そう変わりないだろう。


駐車場まで来ると、石神井が沙織に言った。

「私、もうB◯Wを見るのも嫌になってきたわ。お父さん、この車種まだ諦めきれてない様子だから、今夜家に帰ったらお父さんに言うわ。私もお母さんと同じで、B◯Wは要らない。今あるベ◯ツで良いって。今後も、ずっとね!」

副部長は、石神井に「新車?」とだけ訊いた。

「はい、新車です。うちは新車しか乗りません。中古車は、故障が多いので」と答える石神井。

副部長は部長と顔を見合わせた。

沙織は知っている。

その表情は、西条茉莉奈と石神井とのやり取りで見飽きている。

これは「やれやれ」という表情。

部長と副部長には、石神井の話しの意味がイマイチ見えなかったが、これだけは分かった。

「この、ブルジョアめ」


つづく。


【*筆者注】

改めて、本作品はフィクションです。

本作は、作品の発表媒体の利用規約の全てを遵守しております。

その上で、上記「第13条 ユーザの責任」以下の規約と被る箇所もございますが、以下の文言を明記させていただきます。

また、本作に於ける登場人物(地の文含む)の意見や発言・感想等は、作品発表(2023年9月10日)の時点で、ある程度日本国内で日本国籍を有する国民に広く共有されていると思われる現実や事実関係、一般論に則したものとなる配慮を行った上で作成されております。

ただし、学術的・物理的にほぼ100%事実、つまり上記の条件に於いて歴史的事実と広く認識されている事項に関してましても、日本国憲法によって定められた、いわゆる“表現の自由”の範囲内で、大きく変更・脚色されている場合があります。

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以上、長くなりましたがよろしくお願い致します。

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