【練習番号M】指揮者
実力テストが終わり、部活動を再開した高城沙織。
久々に部活に出てみると、なにやらいつもと雰囲気が違う。
沙織がテスト勉強のために部活を休んでいる間、ある計画が実行されようとしていたのだ。
吹奏楽コンクールのための練習が本格化しようとしていた今、沙織と吹奏楽部にとって、
それは新たなる未来への稼働に相応しい変化だった。
「はい、みんさん! 全員板付き完了しましたね」
部長は、指揮台の上に立つと、いつものようによく通る声で部員全体に呼び掛けた。
「今日は、臨時のトゥッティ練になります。せっかく早めに部活に来た人、少ない人数の中、音出しの代わりにセッティングしてくれてありがとう。明日も音楽の授業がありますので、練習が終わった後の片付けは、全員参加でお願いします」
部長はそう言って、頭を下げた。
「今日、トゥッティ練となったのは、新しくこの部活を指導してくださる指揮者の先生のご予定によるものです」
部長のこの言葉を聞いて、音楽室内は一瞬ざわついた。
しかし、すぐに「シーッ!」という静粛を促す息漏れの合図が聞こえ、音楽室はあっという間に静寂に包まれた。
恐らく、このことを知っていたのは部の上級役員の中でも限られた人だけで、パート・リーダーより役職が上のセクション・リーダーも知らなかったようだ。
「ありがとう。当初、今日以外だと最速で明後日の土曜日からということでしたが、昨晩、先生から申し出があったばかりなので、伝える時間がなかったのよ。こういうのは一日でも早い方が良いし、初顔合わせでいきなり曲の練習をするのは、いつもそうしてるプロならまだしも、学生には無理だろうということで。実力テスト当日だから、朝練も昼練もなかったし。尤も、部のメーリングリストで回してもよかったのだけれど、それを知ったからどうってこともないから。後、その他にもみんなに伝えなければいけないこともありますが、それは追々分かればいいと思います。では、指揮者の先生をご紹介します」
部長はそう言うと、部室に直接繋がるドアから「お待たせいたしました。先生、よろしくお願いします」と言って先生を呼び出した。
部長と入れ替わりに指揮台に立ったのは、スラリとしたスタイルの、長い黒髪が印象的な女性で、30代後半に見えた。黒いタイトなタートルネックのセーターからは、実に羨まけしからん二つの大きな膨らみがその存在をこれでもかと主張されていた。
「みんさんこんにちは。というより、初めましてと言った方がいいかな。私は伊勢杏名。日本の音大で指揮と音楽理論を勉強しました。基本的に日本の音大は学部生だけでいわゆる院生がないので、大学を卒業した後は、ドイツとハンガリーに3年間ずつ留学して、コンペティトゥワーレといって分かるかな、オペラ歌手が歌の練習をする時のピアノ伴奏をする仕事ですけれど、ハンガリーの劇場でコンペティの仕事を4年間しながら、ヨーロッパ中のオーケストラを指揮しました。その後、日本で色々な指揮者のアシスタントを務めたんだけど、子供が生まれてからは、主にアマチュア・オーケストラや音大の学生オーケストラの指揮や、音大の臨時講師をしたりしています。みんなには、隣の県の市民オーケストラの副指揮者といったら身近に感じられるかな? 高校の吹奏楽部の指導をさせてもらうのは始めてです。でも、良い音楽を演奏するという面では、分野なんてどれでも変わりないから。特に、部長さんのお話しだと、みなさんはかつて吹奏楽の強豪と言われた、以前のF女吹奏楽部の名声を取り戻そうと頑張ってらっしゃるそうですね?」
杏名は、そう言い終わると沈黙し、部員の顔を一人ひとり見回した。
そして――。
「どうなんですか? 上手くなりたくないんですか?」
再び沈黙。
「もう一度だけ訊きます。みなさんは、私といっしょに上手くなりたいですか?」
すると、
全員一斉に「はい!」という大きな返事が、音楽室全体に響き渡った。
「OK。それでは、まずはチューニングから行きましょう。コンミス・・・えっと、クラリネットのパート・リーダー。チューニングのBbを下さい。あなたは、他の人の音に釣られないように、ひたすらチューナーを見ながら吹いて、決して音程をズラさないで。いい? じゃあ、楽器構えて――すぐ行くわよ。では、ワン、ツー!」
杏名は、2拍空振りして、3拍目にクラリネットのパート・リーダーにキュー出しした。
一本のクラリネットの音だけが鳴り響く音楽室。
しばらくすると、
「それでは、次の人。この音を聞きながら吹いて、ピッチ合わせていってね? そしてその次の人は、二人のピッチが合ったと思ったら、入って来てピッチ合わせていってね。後は、その次の人、そして次の人と、ずっとその繰り返し。それで、先に入った人は、音を途切れさせずに最後まで吹き続けてください。じゃあ、いいわよ。次、あなたから」
杏名は、ピッチが合ったと思って入ってきた次の奏者に「まだよ。まだ合ってない。もっとよく聞いて」とか「どうしたの? もう合ってるわよ。合ったと思ったらすぐに入る!」とか言いながらチューニングを進めていった。
その先はずっと同じ繰り返しで、一つの楽器が終わると、クラリネットの次はオーボエ、アルト・サックス、フルート、トランペット、アルト・クラリネット、ホルン、バス・クラリネット、ファゴット、テナー・サックス、トロンボーン、ユーフォニアム、バリトン・サックス、テューバ、コントラバスという順番で、一人ずつチューニングさせて行った。
「はい、良いわよ。こういう合わせ方は始めてのようね。時間がかかるのは仕方がないけれど、1時間以上は掛かったわね。ということは、1人1分以上掛けたことになるわ。実は、チューニングに音楽的に本質的な意味はありません。だから、本当はチューニングなんて時間掛けずにパッと終わらせたいの。どんなに長くても30分ね。だって、合奏に入る前にもしてるんでしょう? チューニング。だったら、1人あたり10秒とか15秒でも合わせられるはず。1人15秒なら、60人でも15分で終わるわ」
チューニングには意味がないと言われ、ざわつく一同。
「そしたら、ここで一つ質問させて? 私はチューニングに意味はないって言ったけど、じゃあ、何のためにこういう練習すると思う? えっと・・・。部長さん、答えて」
いきなり質問を振られた部長は、一瞬「ビクッ」となったが、すぐに冷静になって答えた。
「はい。自分の耳でピッチを合わせる感覚を養うためです」
「はい、正解・・・と言いたいところだけど、私の基準では不正解。別に部長さんに恥をかかせるつもりはないから言うけど、殆どの人がそう答えます。もしテストでそう答えれば、間違えなく丸がもらえます。でも、それは「教科書的には」という保留事項が付いた上のことね」
杏名は、その続きを言おうとしたが、ある事に気づいた。
「あれ? なんで部長さんそこに座ってるの? トランペットのパート・リーダーならトロンボーンの隣じゃない? このバンドは、パート・リーダーがパートの真ん中に座ることになってるの? 1stならなおさら・・・」
「あの、すみません。私、1stでもありませんし、パート・リーダーでもなくて・・・」
「え、だって、3年生よね? パート決めのオーディションが終わって、コンクールの練習が本格的になってるならいざ知らず、新入生が入って間もないこの時期、3年生がパート・リーダーでも1stでもないって・・・」
「実は、高城沙織さんがパート・リーダーで1stなんです」
部長はそう言いながら、沙織の方に腕を伸ばす。
それを見て、杏名は急に納得した表情になった。
「ああ、そっか、なるほど・・・。そうなんだ。面白くなってきたわね。じゃあ、1年生のパート・リーダーで1stトランペットの高城沙織さん答えて。同じ質問よ」
「はい。正しい音のピッチは、条件によって異なるからです。音階や調性によって同じ音でも微妙にピッチは違います。ハーモニーになったら、なおさらです。同じ理由から、合奏の前に事前にチューナーで音を合わせたとして、全体合奏のチューニングでピッチが合っても、それと同じピッチが曲の中で合うのは、特定の条件下だけです。靴のフィッティングと同じです。足のサイズは時間によって変わるので、朝履いてピッタリ合っていた靴でも、午後にはきつくなったりしますから。あと、金管楽器なら唇の状態によってピッチも変わりますから、同じだけチューニング管を抜いていても、次に吹く時に同じピッチの音が出るとは限りません。特にコントラバスなんて、Bbの音は弦を指で押さえて出してますから、それではBbが合ってるだけです。強いて言えば、最初のBbで合わせるチューニングは、楽器のチューニングではなく、耳のチューニングとでも言いますか・・・」
「OK。いいでしょう。その通りね。靴のフィッティングの例えは良かったわ。みんなも、チューナーでチューニングしてそれで合ったとしても、それを絶対的なものだと思ったり、過信しちゃダメよ。高城さんが言ったように、正しいピッチは条件によって変わります。その延長上に、さっき部長さんが答えてくれた、自分の耳でピッチを合わせる感覚を養う練習はあります。だから、私の質問に対する直接的な答えとしては、高城さんの答えの方が正解。最終的にはその練習をしていきたいと思いますが、次はBドゥア、Hドュア、Cドュアと半音ずつ上がって行って、オクターヴ上のBまで連続して上がっていって下さい。1つの音を4拍吹いら、2拍休み。そして次の音に移っていって、オクターヴ上のBまで行ったら、その音は繰り返さずに下がって来てね。音階覚えてなくても、遅目のテンポでやりますので大丈夫よ。一応説明しておくと、長調の音階、つまり長音階の音程は、最初の音から次の音が全音、続いて全音、半音、全音、全音、全音、半音で最初の音から1オクターヴ上の音になります。だから、前の音を吹き始めてから次の音を吹き始める6拍の間に、次は何の音か考えながら吹いていって。後ホルンは、Fドュアで最高音までいっちゃうから、高い音が難しければ、今はCドュアかDドュアでオクターヴ下げて結構。できるだけ高い音まで連続して吹いてもらいたいけどね。では、いきます」
杏名は両腕を上げる。
しかし。
「ノンノン! 指揮者が腕を上げたら、みんなもすぐに楽器を構えてね! 指揮者は奏者が楽器を構えるまで待って、それをいちいち確認しません。本番では、奏者が楽器を構える準備が出来ているかどうかは確認しますけど、指揮者は腕を上げたらすぐに振り始めるわよ。なぜなら、吹奏楽でもオーケストラでも、指揮者が腕を上げようと感じた時点で音楽は始まっているの。それは練習でも本番でも同じよ。音楽のリズムを崩さないで。それではもう一度」
今度は、杏名が両腕を上げた瞬間、全員一斉に楽器を構える。
「ワン、ツー!」
杏名は、チューニングするときと同じように、2拍空振りしてから3拍目で音出しのためのキューを出した。
しかし、音は鳴ったが、アインザッツ(音の出だし)が揃っていなかった。
「シーッ! アインザッツ! アインザッツだけでなく、音の出だしは大切よ。アインザッツ揃えるのは合奏の基本中の基本! 呼吸をするように、アインザッツを合わせることは無意識に行えるようにして。指揮者にアインザッツが揃っていないこと指摘されるのは、恥だと思いなさい。特に曲になったら、アインザッツ揃ってなかったら、その後どんな名演奏しても無駄になるわよ。結局はアインザッツが揃ってなかったって印象しか残らないわ。じゃあ、アインザッツの合わせ方だけれど、究極的には、アインザッツに限らないんだけど、指揮には合わせようとしないこと。アンサンブルの合わせ方の訓練もすぐにやりたいのだけれど、よく、プロのオーケストラは指揮者なんて見てないって批判的に言われるけど、ハッキリ言ってプロオケのプレーヤーは指揮なんて見ないわよ。ハンガリーのオーケストラのアインザッツなんて、いつも指揮より半拍遅れだし。だから、あなたたちは決して目だけで合わせようとしないで。さあ、もう一度。ワン、ツー!」
その後、さすがに演奏は止めなかったが、音階演奏中にも杏名の指示が各楽器に飛びまくる。
「クラリネット、ピッチ! 下の方、上ずってる」
「バリサク、アタックが遅れてる! リードちゃんとしたの使ってる?」
「ホルン、もっとセクションで音量合わせて! 1本で演奏しているように! ホルンは上から下までセクションで1つの纏まりよ!」
「ユーフォ、今はヴィブラート要らない! ソステヌートで最初から最後まで音張って音揺らさない!」
「トロンボーン、スライドもっと速く動かして! テンポが遅いからってスライドの速度変えないの!」
「テューバ。もう少しはやいタイミングで音出して。楽器の管長が長いんだから、発音して実際に音が出るまでのタイミング差を考えて!」
「フルートの下の方、4拍目が短い! ちゃんと4拍目の裏拍まで音伸ばす! ブレスが遅いのよブレスが。最初に息吸う量が多すぎるて新鮮な空気吸えないからだんだんと息が短くなっていくの! このテンポの4拍で使い切る量だけ吸って、余ったら全部吐いてからブレスして!」
「テナーサックス、高い音になると音色が痩せてくるわね。喉に余計な力いれないで、しっかりと呼吸のコントロールして!」
「コンバス、そんなに全弓使う必要なし! ヴァイオリンじゃないのよ。それよりももっと弓で弦を掴むことを意識して! それから姿勢! 体幹がブレると音も安定しないわよ。弦と弓を直角に当てるのは結果論。音が安定しないなら“形”は意味ないのよ。あと・・・ああ、ジャーマン弓か・・・。コンバス・パート、後でお話しましょう!」
「トランペット! 1st音量大きすぎ! あなたのコンチェルトじゃないし、オーケストラじゃないのよ! あなた一人でバンド全体の音量バランス崩してる! なんでも吹けば良いってもんじゃないのよ! もっとよく考えて演奏してくれないと困るわ! ダメ! まだ大きい! あなた、下の方の音聴こえてないでしょ? あー、もう結構! あなただけ音量ピアニッシモ!」
概ね全ての楽器に指示が飛んだが、特に沙織には、音量の他にも個人的に厳しい指示が与えられた。
長時間の
二十数分間に渡る長い連続12音階往復練習が終わると、練習は休憩になった。
すると、石神井がすかさず沙織の元に飛んできた。
部長は、杏名といっしょに部室に入っていった。
「沙織、良かったわよ。先生はああ言ってたけど、沙織の音がバンド全体の音を引っ張っていってるみたいで、私、吹きやすかったわ。それにしてもあの先生、沙織だけメッチャ目の敵にしてない? なんだか感じ悪! 私、あの先生嫌い・・・。こうなったら、抗議しに行こうかしら?!」
「や、止めてよ石神井さん・・・。私、困る」
「そうだぞ、石神井。高城の保護者気取りのお前はそれで溜飲が下がっていいかもしれないが、あの先生がこの部の指導辞めちまったら、代わりをどうやって探すんだ? 今更、コンクールの練習が始まるこの時期から後釜探したって、良い先生なんて残ってないぞ。今まで精々ブロック大会で銀賞になるくらいだったレベルを、タダ金狙えるまで高めた今の顧問の先生も悪くはないが、それが限界だろ。ここのブロックはそんなにレベル高くないんだから、本当に良い指導者なら、すぐにその上の支部大会出場できるレベルにまで出来るはずだ」
「ほ、保護者気取りですって!?」
石神井が真っ赤な顔をして西条に詰め寄った。
「いや、単なる言葉の綾なんだから、そうマジになるなよ。好きだろうと嫌いだろうと、私たちはあの先生について行くしかないんだ」
「あの、そのことなんだけど、石神井さんに話したいことがあるの。ちょっと時間いいかな?」
沙織が石神井にそう言った時、部室側のドアが開き「高城さん!」という呼び声が聞こえた。
沙織、石神井、西条が一斉にそちらの方を向くと、杏名が近づいてくる。
その後ろには、部長がくっついている。
「先生直々に?」
西条が少し驚いたような表情で言う。
「何よ。まだ文句言い足りない訳?」
杏名に対して、飽くまでも臨戦態勢の石神井。
杏名が沙織たちのところにまで来ると、石神井は眉をひそめてあからさまに嫌な顔をした。
「それじゃ、私もどるから、頑張ってね」
石神井が沙織にそう言って自分の席に戻ろうとすると、杏名が制した。
「ちょい待ち。あなたもここにいて聞いて欲しいのだけど」
杏名のその言葉を聞いて、石神井は「はぁ?」とでも言いたそうな表情になったが、さすがに声に出すことはなかった。石神井が杏名の後ろに控えている部長を見ると、眉を少し上げて「言う通りにして、ね」とでも言っている風だった。
沙織たちのグループと少し離れている席に座っていた部長とは別の三年生・秋月美保と、1年生・瀬川奈緒も、杏名が沙織とどういう話をするのか聞き耳を立てていた。
トランペット・パートには、他に二年生が二人いるが、彼女たちは今席を外している。
実は、奈緒は杏名のことを知っていた。
知っていたといっても、彼女の名前と、合奏前に杏名が話した基本的なプロフィールくらいだったが。
近隣のアマチュアのオーケストラや吹奏楽団に所属している人たちの間では、杏名の存在は広く知られていたからだ。特に「死ぬほど厳しい練習をする鬼コーチ」として。
奈緒は、中学時代から市民吹奏楽団に所属しているので、杏名の噂だけは聞いていたからだ。
「なぜですか? 先生の用があるのは沙・・・高城さんにではありませんか?」
石神井が毅然と反論する。
しかし、杏名も素直に引き下がるような人ではない。
「本当に話聞かなくていいの? あなたにも興味はあるあるはずよ。私と高城沙織さんとの関係。でしょ? 石神井恵美さん」
「え、なんで、私の名前・・・。ってか、沙織との関係? 先生って一体・・・?」
「あなたと高城沙織さんとの関係性を鑑みるに、興味あると思ったのだけれど。あ、興味ないならいいのよ、聞かなくて。尋ねられても、もう二度と話さないけどね。でも一応本人に確認しておこうかしらね。話してもいいわよね、サーヤ?」
杏名がそう言うと、音楽室の至るところから、叫び声にも似た同じ言葉が一斉に上がった。
「サーヤって、誰?」
部長だけは、杏名の後ろで右手を口に当てて噴き出している。
どうやら、音楽室にいる吹奏楽部員全員がこの会話に聞き耳を立てていたようだ。
「はい。構いません。今、石神井さんには言おうとしてましたし」
沙織は下を向いて、今にも消えそうな小さな声で杏名の問にこたえた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。何ですか、その“サーヤ”って?」
石神井が慌てた様子で杏名に尋ねる。
「もちろん沙織ちゃんのことよ。あるいは“姫”。あ、これは仲間内で話す時の呼び名で、本人には直接言わないけど」
杏名は、それがいかにも当然であることかのように淡々と話した。
しかし、沙織の心中は穏やかではなかった。
「杏名先生困ります。その渾名は言わないで欲しかったです」
恥ずかしさのあまり、沙織は下を向いたまま両手で顔を隠しながら言って杏名に抗議した。
「あ、ごめんごめん。でも、言っちゃったもんは仕方ないよね。ハハハ」
もう、どうでもいいです、と沙織。
「さっきは話さなかったのだけれど、実はね、私、この部活のOGなのよ。そして、サーヤのお母さんより一年下の後輩。ちなみに沙織ちゃんのお母さんはこの部活で“トランペット・クイーン”って呼ばれててね。沙織ちゃんはクイーンの娘さんだから“姫”。私がサーヤのお母さん、麗奈さんに再会したのは、大学の時。私たちは違う大学だったけれど、私の師事してた指揮科の先生が、両方の大学で教えててね。その縁で、麗奈さんの大学の学生オーケストラの指揮をさせてもらったのよ。器楽科は、オーケストラ実習も単位の一つだから、麗奈さんも参加してて。その時、私が指揮した作品の一つが、ジョリヴェのトランペット協奏曲第2番。もちろん、ソロを吹いたのは麗奈さんよ。まったく、あんな難曲を、卒検ならまだしも、大学三年生でいとも簡単に吹きこなすなんてね。麗奈さんは高校の時も巧かったけれど、大学生になってから、さらにその何倍も巧くなっていたわ。この曲は、変拍子なんかなくて殆ど全部4/4でピアノも活躍するから、私がピアノを弾いて弾き振りするつもりだったけど、一応指揮の実習ってことだったから先生に却下されて。麗奈さんと『いつかは私のピアノとリサイタルしたいねー』なんて話していたんだけど、半年も経たないうちに麗奈さんが結婚するので中退することになってしまって。もちろん、サーヤが生まれてすぐ見に行ったけどね。でも、今度は私の方がヨーロッパに10年間行くことになって、ずっと疎遠なっちゃったし、帰国してからもいろいろゴタゴタしてたから連絡もできなくて。結婚式も、向こうで挙げたから」
「ああ、だからか。お母さん、ずっとジョリヴェのトランペット協奏曲第2番の楽譜ずっと大切にしてるんです。私は、動画共有サイトにあがってた楽譜ダウンロードしましたけど」
「え、何? 姫、ジョリヴェ演奏出来るの!?」
「あの、だから“姫”は」
「あ、ごめんごめん。それで、ジョリヴェの協奏曲は演奏できるようになった?」
「いやいや。さすがにあれは無理です。ジョリヴェは協奏曲もコンチェルティーノも・・・」
アンドレ・ジョリヴェはフランスの現代作曲家で、3曲の交響曲などで知られている。様々なジャンルの作品を発表しているが、現代作曲家の中でも協奏曲は多く、《赤道協奏曲》として知られるピアノ協奏曲は代表作。
近年では打楽器協奏曲の人気も高まっているが、2曲のトランペット協奏曲とコンチェルティーノ、トランペットとオルガンのための《バロック風アリオーソ》、トランペットと打楽器のための《エプタード》と、トランペットをフューチャーした作品も多い。
ドイツやオーストリアで主流のロータリー式トランペットを「ドイツ式」と呼ぶのに対して、ピストン式のトランペットは「アメリカ式」と呼ばれることが多い。特にドイツやオーストリアでは、ただ単に「トランペット」言った時は、ロータリー式トランペットのことを指すのが普通なので、それとは区別するためにそう呼ばれている。
しかし、そもそもトランペットとホルンには、音の高さを換える機構はついていなかった(今で言うナチュラル・トランペットとナチュラル・ホルン)。トロンボーンとは違う方式で最初に金管楽器に音の高さを自由に換える機能であるピストン(バルブ)が付けられたのは、フランスで発明されたコルネットで、フランスでは今でもコルネットのことは「ピストン」と呼ばれることがある。
当時のいわゆるトランペットは、ロータリー・バルブあるいはピストン・バルブが付くことで形こそ似ていても、コルネットとは違う楽器だった。
現代のトランペットの中で、特にピストン・バルブ付きのいわゆる楽器は、コルネットを改良したものである。ロータリー式のトランペットは、ピストン式のトランペットのピストンの換わりにロータリーが付いているだけではなく、管自体の構造も違っている(簡単に言えば管の内径はピストン式より太め)。そのため、ロータリー・トランペット用のマウスピースはピストン式のトランペットとは違い、カップの形状はホルンに似た円錐形をしている。コルネットのマウスピースも、柔らかい音を出すために、ある程度トランペットのマウスピースよりも円錐形寄りだが、ロータリー・トランペットほどではない。だから、やはり管の内径が太いフリューゲル・ホルンは、どちらかといえばコルネットよりもロタリー・トランペットの発展形といった方が正しく(開発されたのもドイツ)、ドイツ製のフリューゲル・ホルンもトランペット同様、ロータリー式だ。
その意味では、ピストン式のトランペットは「アメリカ式」というより「フランス式」と言った方が的を射ているかもしれない。現代では、フランス以外の国の作曲家はコルネットを使うことはほぼないが、フランスの作曲家の中には、トランペットとコルネットが混在していた頃に作曲されたベルリオーズの《幻想交響曲》の伝統に倣い、ドビュッシーの交響詩《海》を経て、今でも動きが少なく高音が頻出するパートはトランペット、動きが多い箇所はコルネットと使い分ける作品を書く人もいる。コルネットとトランペットを使い分けなかったのは、フランスの有名な作曲家ではラヴェルくらいだ。
しかし、ドイツとフランスは歴史的に敵対していた時期が長いこと(特にコルネットからトランペットへの普及が始まったのが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間くらい)、フランスではC(ハ長)管が主流なのに対し、アメリカでは特にジャズやポップスに於いてBb管が主流(トイツでは半々くらい)で、ドイツやオーストリアではピストン式のトランペットを「ジャズ式」と呼ぶこともあって「フランス式」ではなく「アメリカ式」と呼ぶようになったようだ。
現代のトランペットはフランス生まれと言っても過言ではなく、ジョリヴェがトランペットに拘った作品を多く生み出したのも、フランスの作曲家ならではといえる。
ジョリヴェの他に、トランペット用の有名な作品を書いたフランスの近代作曲家には、他にアルテュール・オネゲルやフランシス・プーランクがいる。
また、殆ど全てのトランペット奏者が必ず一度は練習したことがあると言っても過言ではない、トランペット教本の「聖書」、『アーバン金管教本』は、ジャン=バティスト・アルバンが1864年に出版した教則本で、正式なタイトル『ピストン式コルネットとサクソルンのためのメトード』を見てもわかるように、元々はコルネットのために書かれた教本だ。
そのアーバン(アルバンはフランス語読み)自体、生前は有名なコルネット奏者で、ベルリオーズの《幻想交響曲》のコルネット・パートは彼のために書かれてものだと言われている。
「そうなんだ。フランスはドイツと並んで、ヨーロッパを二分するトランペットの独自の歴史がある国だから、もしソリストになるのなら、どちらを主流にするのか選ばないとね。フランスを選ぶんだったら、ジョリヴェやトマジは必須よ」
「いえいえ。私がソリストになるなんて・・・。私は、どちらかといえばオーケストラ団員の方が・・・」
「そう? ただ、ソリストになるにしてもオケ団員になるにしても、少しでも音楽の道に進むことを考えているのなら、なるべく早く決断した方が良いわよ。やらなきゃいけない最低限度の総量は決まってるのだから、準備期間は長ければ長いほどいいわ。そうすれば、それにプラスアルファして、さらなる高みを目指せるもの。いい? 音大にはね、信じられないくらい巧い奏者がゴロゴロしているからね」
「はい、分かりました。母と相談してみます」
「それで、先生?」
それまで杏名の話しを黙って聞いていた石神井が、突然話しに割って入った。
「沙織と先生との関係は分かりました。でも、先生は、自分が沙織や沙織のお母さんとどれだけ深い関係なのか、マウント取るためだけにその話し、私に聞かせてるんですか?」
「マウントか。正直、確かにそれもあるけど。でも、それ以上に、私はあなたに感謝しなくてはならないの」
「感謝? 先生が、この私にですか?」
「ええ、そうよ。部活に、外部コーチを入れること、強硬に主張したのは、あなただそうじゃない。石神井恵美さん?」
「ええ。そりゃ、まあ、言い出しっぺは私かもしれませんけど・・・」
「まあ、それはどちらでも良いわ。重要なのは、あなたが麗奈さんにその話しをした、という事実よ」
「ああ、あの時の・・・。でも、あの時は、あっさり断られましたけど」
「そうね。確かに、麗奈さんがこの部活を指導することは辞退したわね。でも、それも麗奈先輩に考えがあってのことなのよ。でしょう? 仲里久美部長」
「はい。高城さんのお母様から連絡があった時には、驚きました。石神井さんが、外部トレーナーを探してると聞かされて。私、そんな話し、聞いていませんでしたし」
部長はそう言って、バツの悪そうな表情をしている石神井に、ウィンクした。
「でも、実は私も密かに外部トレーナーを探していて。石神井さんには、この部活を救ってもらった恩もありますし、率先して高城さんの勉強も見てもらってることもあって、いつかは彼女にその借りを返さなきゃと思っていたんです。それで、高城さんのお母様が『最高の外部トレーナーを紹介できるけど、どう?』とおっしゃって下さって“渡りに船”とはこのことかと」
「ああ、あの時か。あの勉強会の日、石神井さんが帰った後、お母さんが突然部長さんと石神井さんの連絡先訊いてきて。石神井さんは分かるけど、何で部長さんも?って。その時は、てっきり部長さんに石神井さんのこと訊くのかなと思って。とりあえず部のメーリングリストのアカウント教えたんですけど。そういうことだったんですね」
納得、納得、と沙織。
「それで、仲里部長から私に連絡が来たと。最初は、ファンの子が事務所に私の連絡先無理矢理にでも聞き出して連絡してきたって思ったんだけど、事務所にも教えてないプライベートな番号だったから、おかしいなって。で、話し聞いていったら、麗奈さんからの頼みだっていうじゃない。そんなこと言われたら、断れる訳、ないわよ。正直言えば、葛藤もあったわよ。いくら高校の吹奏楽部とはいえ、プロの音楽家として指導する以上、中途半端には出来ないし、いくらコンクールまでとはいえ、ほとんどの時間が取られるのは覚悟しなくてはいけない。幸い、今指揮しているアマチュア・オーケストラは2つとも定期演奏会が終わったばかりで、ポスターもフライヤー(チラシ)も出来ていなくて断り入れられたし、この部活に100%専念出来ないとしても、ある程度はしっかり指導できそうにリスケ出来そうだったから。それに、一番の懸念材料は、サーヤだったわ」
「え、私、ですか?」
いきなり予想もしていなかった形で自分に振られ、驚く沙織。
「ええ。部長さんから連絡があった時、新入生歓迎演奏の動画見るように言われてね。新入生歓迎演奏まだやってるんだと思って見たら、サーヤがいるじゃない。これで、麗奈さんがなぜ部活の指導に私を選んだのか、分かったわ。ただ、私の性格からいって、指導に妥協は出来ないから、サーヤにだって、厳しいことを言わなきゃならないかもしれない。でも、いくら私がドSでも、サーヤに厳しいこと言えるかどうか、その自信がなかったのよね」
「ドSの自覚はあるんだ」
石神井がボソッと呟いた。
西条は「お前だって人のこと言えないだろうが」と思った。
「だからさっきは、サーヤのことをプロ奏者だと思うことにして、プロ奏者と同じレベルの要求をしてみたの。あのオケやこのオケのあいつやこいつにだったら、どう言うかとか、どこまで言うかとか。いや、そんな有名じゃなく、ヨーロッパに普通にある普通のレベルのオケよ」
沙織は「それでもプロはあそこまで色々言われるのか」と思った。
「それで安心したわ。サーヤにも言えるじゃんて。いえ、むしろ、そう言うことが、サーヤのためにもなるんだって。そう思ったらね、なんだかゾクゾクしてきてね」
「私、練習の時には、小さい頃からお母さんに結構厳しいこと言われています。厳しいこと言われて落ち込んでる暇があるなら、その間に練習しなさいとか。練習せずに巧くなるんだったら誰も苦労しない、とか。出来ない言い訳を練習時間のせいにするなら、一生巧くならないとか。毎回散々ですよ」
沙織のその言葉を聞き、一同「だからこいつ、練習ばっかしてるのか。そりゃ巧くなる訳だ」と一様に思った。
「あー。彼女なら、それくらい平気で言うかもね。高校生のときには、そりゃ辛辣だったわよ。私くらいにしか言わなかったみたいだけど、他の部員のこと、ケチョンケチョンに貶してたわ。それをやんわりとした言い方に変換して、本人に伝えに行くのが私の役目。私ですら、私に愚痴ってる間くらいしか彼女がトランペット吹いてない姿みたことないし、実際、無茶苦茶巧かったから、誰も麗奈さんが言う事には口出し出来なかったわよ。実はね、麗奈さんのこと“トランペット・クイーン”って言い出したの、私なの。セレブ的な意味合いじゃなく“いわゆる女王様”のクイーンなんだけど、都合よく解釈されたみたいね。サーヤ、お母さんには絶対いっちゃダメよ。私、殺されるからね」
沙織は「はい、分かりました」とか呑気に返答したが、彼女はいわゆる“女王様”の意味を知らなかったからだ。正に“知らぬが仏”だった。
「さて、それではそろそろ練習再開しましょうか」
杏名はそう言い、ポンと手を叩いた。
そして、
「みんながここに集まっている目的は『良い音楽』を演奏することでしょう? だからね、いくら知り合いだからって、サーヤを特別扱いすることはありませんからね。サーヤはもちろん、他の人達もそのつもりで。プロの音楽家として指導する上での、音楽との最低限の接し方です」
最後にそれだけ言い残し、杏名は指揮台に向かっていった。
つづく。




