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【練習番号K-1】旧友[Ⅰ]~白石美子

「それねえ・・・。それは、高城沙織さんのグルーピーなのよ」

小早川はそう言って、両方の肩を一瞬すくめた。

「グルーピー?」

石神井恵美は、今まで聞いたことのない単語に、声を上ずらせて小早川に訊き返す。

彼女はその言葉を聞いたのが始めてにも関わらず、その単語になんとなく苛立ちを感じた。

そして沙織と互いに顔を見合わせ、やおら改めて小早川を見つめて、何らかの説明を待った。

「ストーカー気質を持った熱狂的な“ファン”とか“追っかけ”っていう意味合いね。あなたたちの吹奏楽部の新入生勧誘演奏のライヴ配信を見て、高城さんのファンになった子たちが、高城さんの素性を知りたくて学校に押しかけているみたいなのよ」

小早川は、意識的に丁寧な口調で説明する。

沙織はすぐに小早川の説明の意味を理解し、思わずびくっとした。

「私、そんなことになっていたんですか」

そして沙織は、最初、当惑して小早川の話を黙ったまま聞いていたが「ストーカー」という言葉を聞いて、現実からの逃れるように首を振りながら、今にも消えそうな弱々しい声でそうつぶやいた。

「そのライヴ配信は、アーカイヴを残していないので、今は公式チャンネルでは見られなくなっているのだけれど、配信の時にダウンロードした動画の違法アップロードが後を絶たないの。掲示板でも、高城さんの情報を求める書き込みが乱立しててね。いずれ個人情報の特定屋が現れて、本名はもちろん、住所や電話番号はおろか、家族の素性まで特定されるのは、時間の問題よ。学校の情報の授業でも、そういうことは教わっているでしょ? ネットの危険性。だから、あなたたちの部活の副部長が、それらの火消しを私たちに依頼してきたってわけ。私があなたたちに言えるのは、それだけよ」

そう言って、小早川は慈しむような視線を沙織に向けた。

「で、それと沙織のファンクラブ設立と、どういう関係が?」

しびれを切らせた石神井が、話を先に進めるために疑問を呈した。

「そうねえ。一番の目的は、自浄作用かしらね」

小早川は、左手を右腕の肘に当て、立てた右手の人差し指を唇の端に当てて言った。

「自浄作用?」

石神井は、小早川から再び意外な単語が出てきたことで、また彼女に訊き返した。

これでは、自分がまるで何も知らない“おばかさん”みたいで、石神井は気に入らなかった。

「ええ。さっきも説明したように、グルーピーはファンの中でも過激な人たちよ。でも、そういう人たちはほんの一部で、大概は高城さんの純粋なファン。そこで、ファンクラブを作って純粋なファンを集めて、横のつながりを強めれば、多勢に無勢。純粋なファンたちは、自然と相互監視するようになるから“抜け駆け”して、高城さんと直接コンタクトを取ろうとする人たちに対する圧力になるわ」

すると石神井は不思議を表情をして

「そうなれば、学校の校門前で出待ちする人たちも少なくなると?」

と小早川に尋ねた。

「うまくいけばね。でも、その代わり――」

「その代わり?」

石神井がそう訊くと、小早川はしばらく考えている様子を見せてから、こう付け加えた。

「ファンクラブに入る何かしらのメリットを、こちらから提示する必要があるわ」

石神井の疑問に対して、小早川は真面目な顔つきできっぱりと言った。

「ファンクラブに入るメリット」

石神井が復唱してつぶやくと、小早川は黙ってうなずいた。

「そう。例えば、本名を明かさないまでも、ペンネームみたいなのを付けて、定期的に演奏動画を上げるとか、ファンクラブの会員限定でライヴ配信をするとかね。ここまで来たら、もう私たちもあなたたちに隠れて、こそこそ活動することは出来ないわ。だから、そのことを相談しに、副部長に会いに来たら、あなたたちが駅にいるじゃない。一度、高城さんとも直接お会いしておきたかったし。彼女、高城さんが部活には当分顔を出せないようなこと言ってたから、声を掛けてみたってわけ」

小早川は目をすぼめて石神井と沙織を見た。

「事の経緯は分かりました。でも、なぜ、第三者のあなたたちが、ここまでのことしてくれるんですか?」

石神井は、小早川たちが少なくとも自分たちの「敵」ではないことが分かってやや安堵したが、それはそれでまた新たな疑問が湧いてきた。

「それは・・・その・・・ちょっとね。あなたたちの部活の副部長さんとは、昔から知り合いでね、色々あったのよ・・・」

それまで、立て板に水のように話していた小早川は、急に言葉を濁してそう言い、苦笑した。

もちろん、石神井もそれ以上の事情を知ろうという気はさらさらなかったので、この話はそれまでとなった。

小早川以下二名の他校正が、自分たちの敵ではないことが分かっただけでなく、自分たちのために動いてくれている。その事実だけで、石神井は満足だった。

「分かりました。それ以上はお訊きしません。どんな事情があるにせよ、私たちは、もうあなたたちに頼るしか手はなさそうですから」

石神井がそう言うと、小早川の後ろの丸山が小早川に伝える。

「部長、そろそろ約束の時間よ」

小早川と丸山は同学年のはずなのに、丸山が小早川より下の立場、専属メイドか秘書でもあるかのように感じられる言い草だった。

「そういうわけなので、私たちは、そろそろあなたたちの学校に向かわないといけないわ。だから、あとはそちらの副部長さんに明日でも話を聞いてね。それじゃ、私たちはこれで」

小早川がそう言うと、彼女たちは「ごきげんよう」と口々に別れの挨拶をし、三人連れ立って学校の方に歩いて行った。

沙織と石神井は、学校の方へ向かう小早川一行を黙って見送った。

遠ざかっていく彼女たちを見ていると、沙織と石神井は、新たに不安な感情にとらわれ始めた。

小早川たちが、自分たちの敵ではないことは分かった。

しかし、この新手の勢力の登場が、本当にこの状況の打破に役立つのかどうか、確信が持てなかったからだ。

石神井が沙織を見ると、沙織はじっと黙ってうなだれていた。

「沙織。いつまでもしょぼくれていてもしかたがないわ。グルーピー対策は、副部長やあの人たちに任せて、私たちは、私たちが出来ることをしましょう」

石神井が沙織にそう言うと、沙織はゆっくりと石神井の方へ顔を向け、暗い視線を投げかけてきた。

「石神井さん・・・私・・・怖い」

石神井は、何と答えれば沙織が安心するのか考えたが、適当な答えは見つからなかった。

しかし、このまま何も言わなければ、沙織の「怖い」という感情を肯定することになってしまう。

そう感じた石神井は、今の気持ちをありのままに沙織に伝えることにした。

「そうでしょうね。相手はこっちを見ているのに、こっちは相手のことを知らない。そんなアンバランスな状態じゃ、相手の出方は予測できないから、対策の立てようがない。でも――」

そこで石神井は、これから言おうとしている言葉の効果を推し量るように、ワンポーズおいた。

「グルーピーなんて、所詮、好意を向けている相手に、精神的に依存しようとしてる弱虫ばっかりじゃない。さっき校門にいた人たちみたいに、一喝されればすぐに尻尾巻いて逃げて行くような輩よ。良い? 沙織。相手のペースに巻き込まれないためにはね、ハッキリと自分の意志を示してやることが大切よ。曖昧な対応しかしていないと、足元見られて舐められるだけよ。それに、あなたには私がついてるんだし、あのO女子大付属の人たちだって、力を貸してくれる。副部長や、きっと、部長だって、あなたのことを考えて行動してくれているはずよ」

石神井の顔を真正面から見つめて聞いていた沙織は、石神井がしゃべり終わると正面に向き直り、相変わらず黙りこくりながらコクンと頷いた。

石神井が続ける。

「だから、周りでサポートしてくれている人たちのためにも、ちゃんと部活に復帰して、コンクールの練習、頑張りましょう。それが、私たちがその人たちのためにできる、恩返しよ」

話し終えても尚、石神井は、自分が沙織を安心させられたかどうか心配になった。

しかし、沙織の顔を見ると、彼女は口元にかすかな笑みを浮かべていた。

「分かったわ、石神井さん。私、少し気持ちが楽になった。ありがとう」

石神井は沙織のその言葉を聞いて、安堵し「ふぅ」と小さくため息をついた。

ただ、石神井はもう一つ、沙織に確実に伝えておかなければいけないことがあった。

今、この空気の中でそのことを沙織に言うのは憚られたが、言っておかなければならないことは確かだった。

石神井は、その話が、話題を替えるためにもなると自分に言い聞かせて、切り出した。

「そのためには――」

沙織が再び石神井の顔を見る。

「勉強、頑張らないとね」

石神井は、語尾に(ハートマーク)を付けるつもりで、極力明るい口調で言った。

瞬間、沙織は両目を細め、静かに、そして長く、深呼吸をした。

しばしの沈黙。

そして――

「今、それ言うかなぁ」

沙織は、いたずらっぽい笑顔を浮かべて言った。

「そ、そりゃそうよ。そもそも、ここに来たのはそのためじゃないの」

言って、石神井は両肩をすぼめながら、肘を腰につけて両腕を広げた。

石神井は、続けて

「ほら。もうすぐ電車が来ちゃうわ。急いで切符、買ってきて頂戴。240円よ」

「はいはい。じゃあ、ちょっと待っててね」

そう言うと、沙織は小走りに切符売り場の方へ去っていった。

石神井は、その後姿と、上下に小さく跳ねる沙織の髪を見つめていた。


30分くらいして、電車がF塚公園前駅に到着すると、石神井と沙織は、南口改札から駅を出た。

駅前は、帰宅ラッシュまではまだ時間があるということもあり、人数はそれほどでもなかったが、放課後から間もなくの時間帯で、学生服を来た高校生くらいの年代の人が大勢を占めていた。

乗換駅ではないが、比較的大きめの住宅地域だった。

「ここから家まで、歩いて15分かからないくらいよ。とりあえず、コンビニ、寄ってく? 飲み物とクッキーくらいは家にあったと思うけど」

「大丈夫よ。時間も押してるし」

沙織が答える。

「そう。それじゃあ、行きましょうか。あのロータリー渡って、商店街のアーケードを真っ直ぐね」

石神井が簡単に道案内をした。

「私、電車ってあんまり好きになれないのよね。朝練があるから、まだ混み始めたくらいの時間帯だからまだ良いけど、高校生になって、毎日でしょ? まだ慣れてないってのもあるのかもしれないけれど、徒歩通学の沙織が羨ましいわ」

「そうなんだ。でも、電車通学ってなんだか格好いい。“社会の一員”て感じがするじゃない。徒歩通学だと、小学生の時と変わらないから、なんだか、まだ子供のままって感じ」

沙織が無邪気に笑う。

「ふーん。まあ、隣の芝生は青く見えるってやつかもね。あ、この喫茶店のシフォン・ケーキ、すごく美味しいのよ。値段も手頃だし、私、休みの日なんかは勉強の気分転換によく来てるんだ」

石神井は、商店街の通りすがりの店で、お気に入りがあると逐一沙織に説明していった。

「石神井さんて、勉強ばっかりってイメージだったけど、案外、いろんなお店回ってるんだね。私、家は学校からすぐだから、放課後にそういうところで遊ぶってことあんまりなくて。一度家に帰っちゃうと、それからわざわざ出掛けるのもなんだかなあって」

「まあね。中学の時は、部活の他に生徒会の仕事もしてたから、気分転換とストレス解消よ。長時間机に向かってるだけってのは、効率悪いから。学校がない日でも、午前と午後には散歩するよう心がけていたわ」

「部活も生徒会もやって、入試トップだなんて、信じられない」

「だから私は第一志望落ちで、F女は滑り止めだってば。そんな私が言う資格はないかもしれないけど、勉強のために部活辞めます、生徒会辞めますって人に限って、大した成果上げられないのよ。時間なんて、工夫次第でいくらでも作れるし、その労力を惜しむってことは、勉強だって無意識に手を抜くことになるでしょ」

さすがに石神井は勉強には厳しい。

「石神井さんは、先生向きだよね。将来は、学校の先生になるの?」

「そうねえ。教師は興味深い仕事ではあるけれど、将来の日本は少子化が今よりさらに加速していくでしょう? そうすると、学校の数も減っていけば、教師も、ねぇ・・・。大学出て、とりあえず教員免許取っておくのも手だけど、同じ事考える人もごまんといるわけよ。沙織、私の言いたいこと、分かるよね?」

石神井は、珍しく最後まで自分の意見は言わず、その判断を沙織に任せた。

「まあ、うん。そういうのを、石神井さんが(よし)としないのは、よく分かってる」

沙織がそう返答すると、二人の後ろから石神井の名を叫ぶ声が聞こえた。

「おーい、石神井!」

振り向くと、沙織が聞いたことのないそのハスキーボイスの持ち主は、セーラーカラーの白いブラウスに赤いリボン、そして紺色のセーラー・ブレザーの制服を着た、ショート・ボブがよく似合うボーイッシュな女子高生だった。

左右の鎖骨の間で揺れるハート形のモチーフの付いた、首元にピッタリと巻き付けられたレザー製の黒いチョーカーのせいで、沙織にはちょっと不良っぽく思えた。

「うげっ、白石。あんたん()、こっち側だっけ?」

石神井に白石と呼ばれたその女子高生は、沙織たちに近づきながら石神井の質問に答えた。

「いや、家は北口だけど、コンタクトレンズの処方箋もらいに、そこの眼科へ行った帰りよ」

白石は、今来た方角を指さして言った。

「あ、その制服、S総合女学院じゃない。第一志望受かったんだ」

「そうよ。いいでしょう、この制服。私、ずっとこの制服に憧れてたから、超うれしい」

「いや、制服って。そりゃ、確かにS総合の制服はカワイイけど。あんた、勉強の方は大丈夫なの? S総合って、一年から成績順のクラス分けで、課題も多くて結構忙しいって聞くわよ」

「まあね。入学して最初のホームルームで散々脅されたわよ。一年の一学期から、受験を見越したカリキュラムが組まれているから、毎日少なくとも2~3時間は勉強しないと授業にすら付いてこられなくなるってね。そっちは――えっと、その制服はF女?」

白石はそう言った後、沙織の方を見て、言葉を続けた。

「ところで、そっちの子は? 結構可愛いじゃない。もう彼女作って、自宅に連れ込む気?」

白石が、冗談だという意思表示で大きく「ハハハ」と笑うと、唇の端から八重歯が顔を出した。

「失礼な。白石じゃあるまいし。この子は同じ部活の友達。これから、家で勉強会するの!」

もちろん、石神井にも白石の発言が冗談だということは分かっていた。

しかし、自分だけでなく、沙織のことも冗談のネタにされたことが気に食わず、思わず真面目な口調で反論した。

「同じ部活? もしかして、吹奏楽部?」

「そうよ。この子は高城沙織さん」

石神井にそう紹介されると、沙織は「高城沙織です。楽器はトランペットです。よろしくお願いします」と白石に挨拶した。

「敬語なんて使わなくて、タメ口でいいのよ。同じ一年でしょ。私は白石美子。中学生の時、石神井と同じ吹奏楽部でね。中三の時は、石神井が部長で、私が副部長。担当は打楽器だけど、一応ティンパニ専門。よろしくね」

白石が挨拶を返すと、石神井がすかさず口を挟んできた。

「沙織のトランペット、ひっくり返るくらい巧いのよ。白石は、吹奏楽まだ続けてるの?」

「もちろんよ。あなたと約束したじゃない。どんな進学校に入っても、吹奏楽は続けて行くって。S総合はそんな強豪じゃないけど、支部大会は毎年ギリ狙えるくらいのレベルはあるから、入らない手はないわ」

白石は、他に選択肢はないとばかりに、きっぱりとした口調で答える。

「白石・・・。あの約束、まだ覚えてたんだ。私が生徒会長になった時、第一志望校の偏差値高かったから、私が部活辞めるんじゃないかって心配してきた白石が、私に約束させたやつ。でね、沙織。この後が傑作でね――」

石神井が、ニヤケ顔で中学時代の白石とのエピソードを沙織に話そうとした時、白石が顔を真赤にして石神井の言葉を急に遮ってきた。

「あー、もう! 皆まで言うな。その先は、さすがに恥ずかしすぎて思い出したくもないわ」

白石は、両手を顔の前でヒラヒラさせて否定の意思表示をした。

「何いってんの。そっちが先に言いだしたんじゃない。小説みたいな青春の一ページって感じで、楽しかったわよ。本当にこんな事言う人いたんだって思って。本人にも、恥ずかしいこと言ってるっていう自覚、あったのね」

石神井は相変わらずのニヤケ顔で言う。

「あの時は、石神井に部活を止めさせないために必至だったし、受験勉強でちょっとナーバスになっていたから。でも、まだ吹奏楽部続けてるみたいだから、安心したわ」

「そのことについては、沙織に感謝するのね。私が吹奏楽続けていこうって決めたのは、コンクールで沙織の演奏を聴いたからよ。実を言うと、受験の第一志望、親に勝手に自分の偏差値に見合わない学校決められて落ち込んでる時、沙織の演奏に救われたのよ」

「私、その話知らないんだけど?」

白石は、突然真顔になり、まるで石神井を非難でもするかのような口調で訴えた。

「当たり前じゃない。誰にも話したことないもの。今話たのは、もう昔の事だし、今、私は沙織と同じ吹奏楽部で楽器を吹いてる。白石に久々に会って、昔話でもしよって気になったから話した。それだけよ」

「そう・・・。でも、できればその話、中学の時にして欲しかったな。あなたとは、何でも話し合える親友だと思ってたのに。それに、中学時代、完璧超人の渾名を(ほしいまま)にした石神井恵美にも弱みがあったと知ってたら、私ももう少し頑張れたかもしれないし」

白石の口調は一転して、寂しそうな物言いになっていた。

「何言ってんの!? 頑張ったから、第一志望のS総合にも入学出来たんだし、これからだって、いくらでも頑張りどころはあるじゃない。私だって、あなたのことは親友だって思ってたわよ。でも、だからこそ、あなたには弱みを見せたくなかったのかもしれないわね。まあ、今日はあなたに沙織を紹介できて、嬉しかったわ」

「ちょっと待って。思い出したわ。高城さん、トランペット吹いてるって言ったわよね。今、吹奏楽部員の間で話題のあの動画のF女のトランペットの一年て、もしかして高城さんのこと?」

白石が沙織の顔を見て訊く。

「そんなに話題になってるの? あの動画」

沙織が小さな声でつぶやく。

「私は直接その動画を見たわけじゃないし、楽器も違うからよく知らないんだけど。うちのトランペットの先輩たちが、部室でライヴ配信見ながら大騒ぎしてたわ」

沙織は「ここでもまたその話が出てくるのか」と一瞬当惑に駆られ、渋い顔をして立っていた。

「あのね、白石。今、その話はものすごくセンシティヴなことになってるから、あんまり話題にしたくないのよ」

沙織の心情を推し量った石神井は、深刻な表情をして白石に話す。

「え、そうなの?」

白石は、石神井の意外な言葉に驚いた。

横目で沙織の表情を見ると、沙織が俯いて厳しい表情をしていたので、なんとなく事情を察した。

「まあ、どういう事情か知らないけど、冗談半分じゃ済まされそうもないわね。そういうことならこれ以上は深掘りしないわ」

白石はそう言って石神井の訴えを素直に受け入れた。

「それにしても。石神井って、ずいぶんと高城さんのこと気にかけているのね。やっぱり、高城さんは特別なのかしら?」

「私は・・・。私は、沙織には伸び伸びと楽器の演奏をしてもらいたいのよ。だから、沙織のトランペット演奏の障害になることは、全て排除する。それだけよ。私が、沙織にしてあげられるのは、それくらいしかないから・・・」

「ふぅ~ん。ねえ、高城さん。石神井は、前から周囲の面倒見は良い方だったけれど、ここまで迫力があるのは始めてよ。あなた、可愛いだけじゃなく、石神井をここまで本気にさせる“何か”を持っているようね。はぁ。私も、F女に入ればよかったな」

白石は、これみよがしに残念そうな表情をしてみせる。

「なに言ってんの。F女は、あんたには役不足よ。第一志望落ちは私だけで十分」

「冗談よ。――てか、石神井が第一志望の高校に落ちた件だけど、ちょっとした噂になってるわよ」

「噂?」

「ええ。親への反抗のために、わざと落ちたんじゃないかって。第二志望がF女ってのも、変だしね。大体、偏差値が違いすぎるわよ、滑り止めにしても。それ、どうなの?」

「アホか。いくら親が決めた学校とはいえ、第一志望をわざと落とすようなこと、するもんですか。第一志望落ちたのは、純粋に私の力不足よ。第一、そんなことをしてF女も落ちたらどうするのよ」

「アハハ。なに言ってんのよ。石神井がF女落ちるわけ、ないじゃない。特待生になってたっておかしくないくらいなんだし。ねぇ? 高城さん」

「うん。石神井さん、入試トップで、入学式で新入生代表の挨拶もしたよ」

「ほ~らみなさい。石神井がよりによってF女を何故第二志望に選んだかは疑問が残るけど、高偏差値校で平均的な成績より、中偏差値校で優等生になった方がキャラが立っていいもんね」

「キャラって・・・。私、そんなキャラ立ち狙ったわけじゃないからね」

石神井が白石の意見に真っ向から反論する。

「良いって良いって。結果的にそうなってるっていうだけの話だから」

石神井は一瞬黙り込んだ後、深いため息をついた。

「まあ、確かに結果的にキャラが立っていると言えるかもしれない。でも、私が高校に進学してやりたかったのは、勉強だけじゃなかったから」

白石は、石神井のこの言葉を聞くと、小首をかしげた。

「何それ? 二年連続生徒会長を務めて、勉強一筋でみんなの目標だった優等生、石神井恵美のセリフとは思えないわね」

白石のその口調には、驚きと不満が入り混じっていた。

「そうかもしれないわね。実際、自分でも信じられないわ。別に、私は連立方程式を解いたり歴史の年号覚えたりする勉強が、受験のためだけで社会では役に立たない無駄なことだとは思わない。でも、一つの固定した価値観に縛られていたんじゃ“井の中の蛙”でしょ?」

石神井は、決して声を荒らげず、静かにそう言った。

「“井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る”か。石神井は“空の青さ”だけでなく、大海の広さも知りたくなったのね」

白石はそう言って「ふぅ」と、深く、満足げなため息を漏らすと、石神井から沙織に視線を移して、続けた。

「で、さっき石神井が言ったように、そのキッカケが、高城さんだっていうわけね?」

沙織は、不意に白石と目が合ってバツの悪い思いをしたが、無下に視線を逸らすのもおかしいと思い、石神井に問いかけた。

「そうなの?」

「そうよ。だって、本当のことだもの」

石神井は、あっけらかんとした口調で答える。

もっともその話は、沙織も以前石神井から聞いたことがあった。

しかし、改めて面と向かって言われると、やはり恥ずかしい気持ちが勝る。

「なるほどねえ・・・。なんだか私、高城さんに興味が出てきたわ。ねえ、高城さん。もしよかったら、Lineのアドレス交換してくれない?」

白石は、屈託のない笑顔で沙織に語りかける。

以前の沙織だったら、すぐにOKしていただろう。

だが、少し前からの出来事が影響して、SNSには不信感がつきまとう。

無意識に、沙織の視線は石神井に向けられた。

まるで、誕生日に大きなケーキを用意されて、本当に食べて良いのかお母さんの方を見る子どもみたいだ。

「白石。さっきも言ったように、今、沙織はLineとかSNSとか、そういうのに結構ナーバスになってるのよ。状況が少し落ち着いたら、私の方から教えてあげるから、しばらく待って」

沙織の気持ちに気付いた石神井が、白石に告げる。

「そうなんだ。まあ、そういう事情があるなら、無理にとは言わないけど・・・」

白石は素直に引き下がった。

「あの・・・。白石さん、悪い人じゃなさそうだし、石神井さんとも友達なんでしょ? いいよ。交換しよ、Line」

沙織がふいにそう申し出る。

「え、いいの? やった!」

白石は満面の笑みで喜びの声を上げた。

石神井は「ふぅ」とため息をつき、

「沙織が良いなら私は口を挟まないけど、個人情報は他言無用よ、白石」

「分かってるって。他言するどころか、むしろ、独り占めしたいくらいだわ」

沙織とアドレスを交換しながら、白石が軽口を叩く。

「じゃあ、私たち、これから勉強会だから、そろそろ行くわね」

沙織と白石がアドレスを交換し終えて、石神井がそう言うと、

「ええー!? もっと高城さんとお話したいよー! 私も勉強会行くー!」

白石が駄々をこねだした。

「もう。わがまま言わないの。あんた、まだ学校の宿題とか課題、やってないんでしょ? また今度、相手してあげるから」

石神井が白石をそう嗜めると、白石は明らかに不満そうな表情になった。

「分かったわよ。それ、絶対だからね!」

白石は不満げにそう言うと、「それじゃあ」と別れの挨拶をして、駅の方に向かって行った。

石神井と沙織は、その後姿をしばらく見送ったあと、二人並んで再び歩き出す。

「石神井さん、良かったの? もっと白石さんとお話ししたかったんじゃ・・・?」

沈黙のまま、しばらく歩いていると、やおら沙織がしゃべりだした。

「いいのいいの。今日は、沙織の勉強が優先でしょ? 白石には、会おうと思えばいつだって会えるんだし。電話一本でしっぽ振ってのこのこやって来るわよ」

“しっぽ”って。飼い犬じゃあるまいし、と沙織は思ったが、さも当然のような口調で、石神井がさらりと言う。

「そうなんだ。でも、いいな。中学時代の友達とまだ仲が良くて」

「沙織だっているじゃない。なんて言ったっけ? あなたのクラスに行くと、いつも楽しそうに話してる元気な子」

元気な子と言われて、知り合いの中で思い浮かぶのは、沙織には一人しかいない。

「ああ、吉美? 確かに吉美は中学で三年間同じクラスだったけど、そのずっと前からの知り合いで友達というより、腐れ縁というか、近くにいるのが当然で、もう姉妹みたいなものだから。そういうんじゃなくて、一定の距離感がありながら、それでもお互いに付かず離れずみたいな、そういう・・・」

「幼馴染か。私には友達との違いが分からないけど、でも、沙織にはトランペットを通して『仲間』が沢山いるじゃない。私には、友達よりも、そういう『仲間』の存在の方が尊いわ。私、沙織から教えてもらったつもりだけど? それ」

「そっか。やっぱり石神井さんは凄いな。自分でも気づいていないようなところからも、何かを学び取るだなんて」

この話は、石神井から何度も聞かされていたので、沙織は今更否定するつもりはなかった。

「いやいや。それは私だけじゃないから。部長や副部長、同じパートの西条だって、みんな沙織から何かしらを学んでるはずよ。もしかして沙織、自分がもてはやされてるの、楽器が巧いからってだけだと思ってる?」

「え、そうじゃないの?」

「だから、どうしてこう自己評価が低いのかね、沙織は。自分が楽器巧いってことを自覚するようになったことは進化したところだけど、それだけじゃないよ、沙織は」

石神井の言葉に、沙織は少し考え込んでしまった。

自分が他のメンバーからどれだけ影響を受けているのか、自分の存在が彼らにとってどんな意味を持っているのか、そんなことを改めて考える機会があまりなかったからだ。

「沙織は、ただ単に楽器が上手いだけじゃない。あなたの音楽には、独自の魅力があるのよ。演奏すること自体を愉しみ、私たちにも愉しさを与えてくれる。それが沙織の持つ力と魅力よ」

「でも、私はまだまだ未熟で、まだ学ばなきゃならないところが沢山あるよ」

石神井は手を軽く振って笑った。

「未熟だからこそ、学びがあるんだよ。私たちは常に成長し続ける存在なんだから。でも、その成長の過程で、自分の持つ力や魅力にも気づいていくことが大切なのよ。自己評価が低すぎると、自分の可能性を見逃してしまうわ」

沙織は石神井の言葉に耳を傾けたが、またしても考え込んだ。

自分自身の成長と共に、自己評価も見直していく必要があるのかもしれないと感じた。

「それから、確実に言えることは、沙織は演奏に対する自己評価より、勉強に対する自己評価の方をもっと考えるべきよ」

石神井がぴしゃりと言う。

「それを言われると、辛い」

沙織は、明らかにしょげた表情で力なく言った。

「というわけで、我が家に到着よ」

石神井はそう言って歩みを止めて、指をさす。

沙織が、その方向を見ると、コンクリート打ちっぱなしの外壁の、モダンなデザインの豪邸が目に入った。

「でかっ!」

「そういうのいいから、早く入って勉強の準備しないと」

石神井がスカートのポケットからスマホを取り出して玄関ドアにかざすと、ガチャッと音がした。

「さあ、入って」

石神井はドアを開けてそう言うと、沙織を手招きする。

「え、今のでドアの鍵、開いたの?」

玄関に入り際、沙織が素朴な質問を投げかけると、石神井は「そうよ」とだけ言い、沙織の後について入って行った。

玄関内は、コンクリート打ちっぱなしの外壁とうってかわり、ダークな木目調で統一されていた。

二人並んで靴を脱ぐと、石神井が「私の部屋、二階だから、付いてきて」と言って、階段を先に登って行った。

階段を登りきると、廊下の左右に、二つづつドアが並び、その突き当りにもドアがあった。

「あの、石神井さんのお宅、二階にいくつ部屋があるの?」

「見てのとおり五部屋だけど、私の部屋の他は、両親の書斎が一つずつと、廊下の突き当りがウォークインクローゼット、もう一つは両親の寝室。私も、部屋とは別に寝室欲しいんだけどね。二階で一番大きな部屋なんだから、我慢しなさいだって」

沙織は「寝室は別じゃなくていいだろ」と思ったが、金持ちの考えることは庶民の自分には分からないので、黙っていることにした。

「それで、ここが私の部屋。一応、綺麗にしてるつもりだけど、多少のことは大目に見てね」

石神井がドアノブに手を掛けながら言った。

「大丈夫よ。これだけのもの見せつけられて、今更驚くようなことがあるもんですか」

沙織は吐き捨てるように言った。

しかし、石神井がドアを開けて部屋の中を見ると、その大きさに沙織は驚きを隠せなかった。女の子らしさは感じられるものの、案外シンプルな内装は意外だったが、十二畳はゆうにあるその広さ。

外側に面している壁一面がガラス張りで開放感があるのも、実際以上に広さを感じさせるのに役立っていた。

「あ、あの窓はマジックミラーで外から中は見えないから大丈夫よ。気になるなら、ブラインド下げるけど」

石神井はそう一言言って部屋の奥に歩いて行き、大きなモニターが二画面とデスクトップPCが乗った机の横にカバンを置き、シュルシュルという音を立ててブラウスからネクタイを外した。

沙織は、制服ブラウスの襟元に付けるタイはリボンタイ派だったが、石神井はネクタイ派だった。

リボンタイはホックでワンタッチで装着できるが、ネクタイは毎日結ぶのが面倒だ。

「何してるの? 早く入って来て」

沙織が部屋の出入り口で立ちすくんでいると、石神井が手招きをする。

入りながら、沙織はなんとなく違和感を感じたが、その正体はすぐに判明した。

「ピアノは、置いてないんだね」

最初に石神井と会ったとき、子供の頃からピアノを習っていると言っていた。

しかし、この広い部屋の中に、アップライト・ピアノはおろか、電子ピアノの姿さえなかった。

「ピアノは地下のホールよ。さすがに、グランドピアノは部屋の中には置きたくないわ。調律もすぐに狂うし、音大行くわけでもないし」

いや、音大行くにしても、別にグランドじゃなくて、アップライトで十分じゃん。

なんでグランドがデフォルトなのよ。

そう思うだけで、相変わらず直接石神井に突っ込む気のない沙織であった。

「地下のホール?」

「うん。家族で映画見たり、楽器演奏したりするの。母はピアノで、父はヴァイオリンが趣味なの」

「なんだ、石神井さん()も防音室あるんじゃん」

「いや、防音かどうかは知らないわ。出入り口のドアは防音仕様にはなっているみたいだけど、家全体は鉄筋コンクリートだから、結果的に防音になってるのかもしれないけど」

そんな会話をしていると、勉強会の準備が整った。

「あ、ちょっと待っててね。オレンジ・ジュースくらい飲まないと。水分とブドウ糖の不足は勉強の効率が下がるわ」

石神井はそう言うと、部屋を出ていった。

広い部屋の中に、一人ぽつんと残された沙織。

いくらマジックミラーとはいえ、大きな展望窓の外側に向けて置かれた、2メートル以上ある幅広の机に座っていると、やはり落ち着かない。

(石神井さんが戻ってきたら、やっぱりブラインド下げてもらおう)

沙織は、改めて石神井の部屋を見回した。

外側に向けて置かれた机の左後ろには、ダブルベッド。

部屋の周囲には、ぐるりと本棚が備え付けられている。

見る限り、収納はない様子だが、別室にウォークインクローゼットがあると言っていたので、全部そこに集約されているのだろう。

テレビもオーディオもない、ほとんど勉強するために特化されたようなストイックでシンプルな内装の部屋。

「なるほど。こりゃ、ベッドも他に置きたくなるわ。パソコンも、調べごととかにしか使ってないんだろうな」

沙織が思わずそうつぶやくと、オレンジジュースの入ったグラスを乗せた、四角い朱塗りのお盆を持って石神井が入ってきた。

「お待たせ。まずは、これ飲んで、少し落ち着いてからやりましょう」

お盆を机の端っこに置いて、オレンジジュースを沙織に渡す石神井。

「ねえ、石神井さん。落ち着きついでに、石神井さんにお願いがあるんだけど」

沙織が力のない声で言う。

「いいけど。大丈夫? 沙織」

沙織の異変に気づいて、気遣う石神井。

「大丈夫じゃないから、お願いするの」

「うん、分かった。言ってみな」

そう言って、石神井は身構えた。

「私、泣いてもいいかな?」

「え?」

それは、石神井にとってあまりにも予想外の言葉だったので、思わず訊き返した。

「石神井さんの胸の中で、泣かせて」

沙織は、そう言うや否や、石神井の胸に泣きすがってきた。

「あっ、え? ちょ、ちょっと・・・マジ?」

突然の状況に、戸惑うばかりの石神井。

石神井にとっても、このような状況は初めてだった。

そんな石神井に構わず、声を上げて号泣する沙織。

今日に限って、制服のブラウスの下に体操服を着ていなかったので、ブラウスが沙織の涙で濡れ、石神井の素肌にへばりつく。

(あーん、もう・・・。ブラウスが。ネクタイ外しててよかった・・・)

石神井は一瞬そう思ったが、さすがに自分の制服のことを気にしているような状況ではなかった。

石神井は自分の胸の中で泣く沙織の頭を両腕で抱きしめた。

その沙織の頭部は、意外にも小さく感じられた。

左手で沙織の頭を抱え、か細い髪を右手で撫でる石神井。

すると、沙織が右手で石神井の左腕をポンポンと叩いてきた。

石神井が「?」と思っていると、沙織は「ぶはぁ!」と言って石神井を力いっぱい押しのけた。

「石神井さん! 力強すぎ! 私を◯す気?」

どうやら、石神井が沙織の頭を自分の胸に押し付けすぎて、沙織が呼吸できなかったらしい。

「石神井さん、胸大きいんだから、私の顔、完全に埋もれちゃってたじゃない!」

沙織の顔は真っ赤になっていた。

「ごめん・・・」

石神井が反射的に謝ると、

「あー、もう。どーでも良くなっちゃったよ」

そう言いながら、沙織は素手で顔の涙を拭う。

「しょうがないなあ」

石神井は優しい口調でささやくと、ブレザーのポケットからハンカチを取り出し、沙織の顔を拭いた。

「どうやら、すっきりしたようね」

石神井は、沙織の顔をハンカチで拭きながら、優しい微笑みを浮かべて言った。

「うん。石神井さんが側にいてくれたお陰よ。ありがとう」

沙織のその言葉に、今度は石神井の方が泣きたくなった。

「いいのよ、沙織のためなら。私があなたに出来ることは、何でもしてあげる」

石神井の表情はさらに大きな笑顔になった。

「幸せもんだな、私は」

はにかんだ笑顔で沙織が言う。

「とはいえ・・・」

そう言いながら、石神井はゆっくりと立ち上がった。

「ごめんね。ちょっと、この制服のブラウス洗濯機に入れて来るわ。これじゃ、もう着ていけないよ」

石神井は苦笑いをしながらそう言って、沙織の涙とその他の体液でびしょびしょになったブラウスの胸の部分を摘み上げた。

「ごめんなさい・・・」

沙織が謝罪の言葉を言い終わらないうちに、石神井は部屋を出ていった。

部屋を出ていく石神井の後ろ姿に「本当に、ごめん」と呟きながら、沙織は両手を合わせた。

石神井が部屋を出ていくと、沙織が独りごちた。

「それにしても、石神井さん、無茶苦茶良い匂いしたな」


「お待たせ」

沙織がしばらく部屋の中を眺めていると、石神井がそう言って部屋に入ってきた。

「ごめんね。クローゼットに着替え取りに行ってたから、少し遅くなっちゃった」

そう軽く謝った石神井の方を沙織が見ると、石神井は薄ピンク色の高級そうなシルクサテンのルームウェアを着ていた。ひざ上10センチくらいのそのワンピース風のルームウェアは、まるで“履いてない”みたいで沙織はドキッとした。

「石神井さん、そのルームウェア素敵ね。可愛い!」

沙織が感嘆の声を上げる。

「そう? 私、部屋にいるときはいつもこんなんだよ。これが最高にリラックスできるのよ」

石神井は沙織の隣に座り、スイッチを入れてパソコンを立ち上げた。

「ずっと思ってたけど、石神井さん、共学だったら毎日告白されるんじゃ・・・」

起動時の画面を見つめながら沙織が言った。

「なーにバカなこと言ってんの。だから女子校なんでしょ。ほら、さっさと勉強始めるわよ」

(ああ、やっぱり自分が男の子にモテる自覚はあるんだ)

もちろん、思うだけで、本人に直接言う勇気は沙織にはない。

沙織がボケっと下らないことを考えていると、パソコンはすぐに使用可能状態になった。

「あ、さすがにデスクトップだと速いね」

「SSDだからね。まずは、一番ヤバそうな数学からね」

確かに、先日行われた共通テストで、沙織は数学の点数が最も悪かった。

「数学かあ・・・。苦手な教科はいろいろあるけど、やっぱり数学が一番苦手なんだよね・・・」

「そう、それ! 数学に限らずだけど、苦手意識を持つのが一番ダメなのよ」

石神井がとりわけ大きな声で指摘する。

「そうなの?」

キョトンとした表情で訊き返す沙織。

「そうよ。苦手意識があると、その教科を勉強すること自体がストレスになったり、その教科の勉強に対して取り組もうとする意識が低くなったりして、勉強の効率が落ちるし、苦手な教科だから成績が悪くても当然だよねって、成績が上がらないことに対して正当化してしまうから。逆に、好きなことなら、苦手なことがあっても積極的に克服しようって努力するでしょ?」

石神井が力説した。

「でも、数学が難しいことは変わりないし」

沙織が弱音を吐いた。

「嘘よ。だって、数字なんて0から9まで、全部で十個しかないのよ。12も音がある音楽より難しいなんてことあるわけないでしょ? それに9×9だって合計81。鍵盤が88もあるピアノより少ないじゃない」

石神井はやや微笑みながらそう言った。

「そんなこと、考えたこともなかった」

「っていうのは冗談だけど、苦手意識持つのが一番ダメなのは本当。ぶっちゃけ、英語も物理も化学も歴史も、ある程度は暗記でなんとかなるけど、数学は公式や定理暗記しただけじゃ、どうにもならないわ。しかも、単元ごとに独立しているわけじゃなく、全ての課題は基礎からの積み重ねだから、どこか一つでも抜けてたらアウトだし、その積み重ねの中から、その問題を解くのに適切な公理や定理を見つけ出す技術も必要。苦手意識が先行していると、思い出せる解法も思い出せないわ。何と言っても、テストでは時間だって限られているのだから」

なんだ、冗談だったのか。

しかし、沙織は石神井の言う事に素直に従うことにした。

「分かった」

「ちなみに沙織、因数分解は?」

「あ、うん。一応・・・」

「怪しいなあ。なら、試しに、X²+8X+15を因数分解してみて」

式を見た瞬間、フリーズする沙織。

「やっぱり・・・。言っとくけど、これ、中三の範囲だからね。てか、それでよくうちの学校受かったわ・・・」

呆れた表情の石神井。

「それ言われると、辛い・・・。前にも言ったけど、マークシートだからなんとか・・・」

「沙織は“引き”が良いからね。じゃあ、(X-7)(X-9) は展開できる?」

「展開って、計算すればいいんだよね。ええと、まずX²で、その次に、7と9を足して・・・いや、マイナス? マイナスの場合はどうするんだっけ・・・」

再び沙織の思考はフリーズした。

これでは、まるでメモリーの足りないパソコンみたいだ。

「マ・ジ・か!」

石神井は、頭を抱えながら言う。

「展開が出来なきゃ、因数分解も出来るわけないわね。じゃあ、三角関数は? もう習ってるはずよ。サインとかコサインとかってやつ」

石神井が更に沙織に質問する。

「あ、それならやってる。でも、全然分かんにゃい・・・」

言いながら、沙織は首を振る。

「うわぁ~。あのね、可愛く言ってもダメよ。因数分解も三角関数も、さっき言ったように後々の単元でも必要になってきて、数列や高校数学でラスボスの微積分の問題を解くためのツールとして使われるのよ。つまり、因数分解や三角関数はこれがゴールじゃなく、それが出来て、やっと高校数学のスタート・ラインにつけるのよ。だから、この辺は、考えなくても一瞬で答えが導き出せるようにならないと、本当にヤバいわ。そしてら、ピタゴラスの定理は? 三平方の定理とも言うけど」

石神井はレベルを下げて改めて沙織に訊く。

「それなら分かる。直角三角形で、直角になってる二辺をそれぞれ二乗した数が、斜辺の二乗と同じ数になるってやつだよね?」

「良かった。沙織も流石にこれはちゃんと理解できてるのね。それじゃあ、二次関数は?」

「放物線? だっけ。グラフ使うやつだよね」

「そうね。それじゃあ、二次関数と一次関数のグラフの交点の求め方は、解る?」

石神井は、ノートにそれぞれの関数のグラフを書き、2つの交点の部分に黒丸を付けた。

「あ、これ、入試に出てきた問題だ」

「なら、解るわね?」

「いや・・・連立方程式で解くのは分かったけど・・・その後、どうするんだっけ?」

「あちゃ~。これも中3よ? 連立方程式でxの値を出した後は、xのそれぞれの値を一次関数のグラフの式に代入すればいいんじゃない。分かった。沙織は、中3からやり直さないとダメだわ、数学。じゃあ、次、英語。これも数学ほどじゃないけど、結構悪い点数だったらしいわね」

「そうなの。マークシートの選択肢、いつも2つくらいに絞れるんだけど、どうもいつも違う方ばかり解答してるみたいで・・・」

「英語も運頼みか。でも、それが本当なら、確率的には二分の一だから、少なくとも50点は取れるはずよ。にも関わらず、50点に足元にも及ばないってことは、そもそも2つに絞った選択肢の両方とも間違えてるか、引っ掛け選択肢に見事に引っかかってるかのどっちかね。そしたら、5つの文型、言ってみて?」

「ええと、英語は文系だよね・・・? “文系”に5つも違いがあるの?」

「私が言ってるのはその“文系”じゃなく、文のタイプの“文型”のこと!

He arrived at the station.

はS+Vだから第一文型、

He reached the station.

はS+V+Oだから第三文型。どちらも意味は“彼は駅に着いた(到着した)”で、意味は同じだけど、文型、つまり文のタイプが違うの。文型を理解せずに日本語の意味に捉われてると、もっと複雑な文章になったとき、その意味すら理解できなくなるわ。英語の文章を理解するには、まず文型を理解する必要があるのよ。逆に言えば、文型をしっかり理解出来ていれば、複雑な文章の理解も早いってこと。例えば、沙織は

He became a doctor.

He respect the doctor.

の文章の構造的な違いって、分かる? どっちも、主語+動詞+名詞で、一見、構造上の違いはなさそうだけど」

「『彼は医者になった』と『彼はその医者を尊敬している』だから、えっと・・・過去形と現在形?」

「確かにそれはそうね。でも、それ以外にもっと本質的な部分で違いがあるのよ。最初の文は第二文型で、後の文は第三文型。沙織は、目的語と補語って分かるかな?」

「目的語は、主語の動作の目的で、補語は・・・何だっけ?」

「補語は、主語や目的語の性質や状態の説明よ。あと、補語になるのは名詞か形容詞だけど、目的語になるのは名詞だけ。逆に言えば、形容詞は目的語にはならないってこと。ってことは、He became a doctor.のdoctorは、主語が何にbecameした(なった)のかを説明しているのだから補語で、He respect the doctor.のdoctorは、彼が何をrespectしているのかその対象を指しているのだから、目的語ね。つまり、同じdoctorという名詞でも、文の構造としての役割が違ってくるってこと。そして、当然、補語は主語の説明だから、主語と同じね。Heはdoctorになったんだから、Heとdoctorは必然的に同じになる。そして、目的語は主語の動作の対象だから、同じではないわね。Heが尊敬しているdoctorは、He自身じゃないのだから。さっきのHe reached the station.も第三文型だと言ったけれど、Heとstationも同じじゃないわよね」

「うん、分かった」

その後、石神井は第四文型と第五文型の説明をし、教科は化学、物理、国語、世界史へと進んでいった。

「それじゃあ、沙織の学力の現状は分かったわ。どの教科も、中3の復習から始めたほうが良さそうね。最初にも言ったけど、積み重ねが大切な数学は特にね。っていうか、沙織は普段、どういう風に勉強してるの?」

石神井は腕組みをしながら沙織に訊いた。

「怒らない?」

ゆっくりと、恐る恐る石神井に尋ねる沙織。

まるで、いたずらを指摘されてお母さんに告白する子供のようだった。

「はい? 大丈夫よ。怒らないから、本当のこと言って」

「うん、分かった。本当のこと言うとね、普段は全然勉強してない。試験の前に、授業で取ったノート見直すくらい・・・」

沙織からどういう答えが返ってくるか。大体の想像は付いていた石神井だったが、正直言って、石神井はこの沙織の言葉を聞いた瞬間、怒るというよりも、ほとほと呆れ果てた。

正直言って、もう石神井には怒る気力など残っていなかった。

大きなため息が出そうになるのを、わずかに残った意志力でようやく耐えるのが精一杯だった。

「そんなことだろうと思ったわ。えっとね、まず、授業の予習をしましょう。予習をするかしないかで、授業の理解度は全然違ってくるわ。むしろ、授業を聞くことよりも、予習の方が大事なくらい。次の授業でやる内容は分かってるんだから、教科書がなくても授業を聞けるくらいになっていないとダメよ。できれば全教科が理想だけど、特に英語は教科書の文章を必ず音読すること。全部暗記しろとは言わないけれど、一度もつっかえずに読めるようになるまでね」

「じゃあ、授業のときはどうするの?」

石神井は、シルクサテンのルーム・ウェアの両袖を捲くり上げた。

彼女の真っ白い上肢が顕になる。

「授業は、自分が予習して理解したことが正しいか確認することが第一。第二に、当然予習しているときにどうしても分からない部分は出てくるから、その部分を集中的に聞くこと。授業時間の50分間、ずっと集中することなんて出来ないのだから、ある程度はメリハリを付けないと。授業を聞いても分からなかったら、先生に直接訊きにいきなさい。もし予習をしていなければ、授業で見聞きすること全てが初めてなわけだから、自分がもとから理解できないことなのか、そのときたまたま分からなかっただけなのか区別がつかないでしょう? 自分が理解出来る部分と出来ない部分を区別するためにも、予習は必須なの。それに、予習で付けたノート見ながら授業を聞けば、板書を書き写すのに必死で聞き逃してしまう先生の説明を聞き逃すこともないわ。後は、復習ね」

これまでの沙織にとって、授業を受けることが、彼女の勉強の全てだった。

「やっぱり、それもやらなきゃダメ?」

「もちろんよ。授業はね、受けただけじゃ何の勉強にもなってないし、振り返りは大切よ。そもそも、復習しなかったら、自分が授業の内容を理解できたのかどうかも確認できないでしょ? それに、モノを覚えるにはね、インプットだけじゃなく、アウトプットも必要なの。実はインプット、つまり『覚える』ことよりも、アウトプット、つまり『思い出す』ことの方が難しいのよ。覚えることと思い出すことは、表裏一体とも言えるわね。だから、覚えることだけでなく、思い出す訓練もしておかないと、バランスが取れないわ。テストで問題に答えることって、つまりはアウトプットだから」

「うへー。そうやって理路整然と言われると、反論できないなあ」

「当たり前よ。私が何年優等生やってると思ってんの? 伊達に優等生やってるわけじゃないんだからね」

さすがの入試トップ。

自信満々の言い草も、妙に堂に入っている。

「でも、復習って、どうやったら良いのか分からないよ。授業で付けたノート見返すくらいしか」

今まで授業の復習なんて一度もやっていなかった沙織にとって、それが想像力の限界だった。

「そうね。さっき言ったように、予習のときに付けたノートに、授業で書き込みするでしょ? まずはそのノートを別のノートに、まとめながら清書するの。余計なことは書かずに、とにかく必要なことだけ書いてね。で、定期テストになるまで、前のテストの範囲の後からは毎日清書したノート、それ以前の範囲は予習ノートを見返すのよ。最初からね。試験前になってテスト範囲だけ復習したって、ハッキリ言って時間の無駄よ。そんなふうにして付け焼刃的に慌てて詰め込もうとしたって、どうせ受験前になったら最初の方の単元はすっかり忘れちゃってるから、またはじめから覚え直さなけりゃならないでしょ? 沙織が大学行くかどうか分からないけど、受験前はその学校の過去問を中心に勉強したいから。それから、問題集一冊買って――いい? どんな問題集でもいいから、一冊だけよ、一冊。お勧めは、入試用の問題集では定番の『基礎問題精講 シリーズ』だけど。解説も充実してるし。そして、その問題集の答えだけを書くノートも別に用意して」

「え、なんで?」

言って、バカ丸出しの質問をしたことに沙織は後悔した。

「その問題集は、その教科を復習する度に、毎回最初から解いていくからよ」

「ええ!? 三学期になっても、また最初から?」

「そうよ。もっと言うと、三年生になっても、一年のときの問題集を最初から」

「そんな・・・」

「大丈夫よ。最初の方の問題なんて、問題見た瞬間に答えられるようになるから。そうしていれば、受験勉強のときに少しは余裕が出来るから。そうそう。英語は、問題集だけでなく、単語帳も用意してね。 2000語程度のものでいいけど、一年間で一冊消化するのが目標よ」

「ええ、2000語を一年間で?」

「そうよ。一日たったの、えーと・・・6語程度じゃない。とりあえず、覚えたところまで、毎日最初から繰り返し読んでいくのよ。さっきも言ったけど、毎日やってれば、最初の方の単語は、ページ開いただけで単語が頭に浮かんでくるわよ。心配しなくても、ほとんど同時通訳みたいに意味が言えるようになるから、時間もそんなにかからないって」

石神井が教えてくれた勉強法は、とにかく繰り返すことに主眼が置かれていた。

そして、その先には、常に受験があった。

大学に行くかどうかはまだ決めてはいなかったが、大学受験などまだずっと未来のことで、自分にはまだ関係ないと思っていた沙織には、衝撃だった。

それが、普通の高校生には当たり前のことなのか、優等生の石神井だからなのかは分からない。

しかし、西条さんや、もしかしたら吉美だってそうなのかと思ったら、沙織に、突然焦りの気持ちが湧いてきた。

「ありがとう、石神井さん! 私、今まで勉強のこと、真剣に考えたことなかったけど、石神井さんの話聞いて、私、今まで何やってきたんだろうって・・・」

「沙織、どうしたの? 私、言い過ぎた?」

悔しそうにギュッと唇を噛みしめる沙織の表情を見て、石神井は心配になった。

「ううん。高校受験のときも、高校に入ってからも、トランペットばかり吹いてて、勉強のことは一切顧みてこなかった自分自身が嫌になっただけ。好きなことばかりして、やるべきことをやって来なかった自分自身を・・・」

返答に困る。

沙織の言葉の裏を返せば、自分が勉強をしてきたことだって、それが「好きなこと」だったからだ。

自分の「好きなこと」、それがたまたま学生としての自分の「やるべきこと」だっただけで。

「まあまあまあ。今までは今までよ。沙織は、今、自分が本当にやるべきことは何なのかが分かった。それが分かったんだから、後はそれを実行に移すだけじゃない? この私がついてるんだから、六大学やMARCHは無理でも、沙織が行きたいって大学が出てきたら、そこがどこでも、吹奏楽やりながらでも合格圏内になっているくらいの学力は付けさせてあげるわ」

相変わらず自信満々の言い草だったが、石神井のその言葉を聞いて、沙織は、心はいくらか軽くなるように感じた。

「果報者だな、私は。こんな美人な友達がいて、しかも将来のお世話までしてくれるなんて」

「何言ってんの!? 自分の将来は飽くまで自分自身が選んで勝ち取っていくものよ。てか、美人とか関係ある? 沙織だって、可愛いわよ。さっきの白石も、沙織を見た途端、目の色が変わったもの。気をつけてね。あの子、私と違ってガチ勢だから」

「ガチ勢?」

「あ、いいのいいの。知らないのなら、沙織は知らないままでいて。まあ、沙織には下手なことしないと思うし」

「知りたい」

「え・・・? えっと、白石は可愛い女の子が好きなのよ」

「でも、それだったら、私より石神井さんの方が」

「私? あ、私は白石の趣味とは違うのよ」

「そうなの?」

「ええ。中二のとき、振られたもん、私」

「石神井さんも、振られるんだ・・・!!・・・ってか、告白したの!? 石神井さん、白石さんに」

「いやいや。だから私はノーマルだって。向こうから『いずれ私のこと好きになるかもしれないし、そのときに絶望しないように先に言っとくけど、クール系は私の好みのタイプじゃないから、期待しないでね』って言われたのよ。何が『いずれ私のこと好きになる』よ! あの自信過剰のナルシストが!」

「ふーん。それじゃ、私なら少しは脈あるってこと?」

「まあね。さっきの白石のあの様子じゃ、沙織も候補に入ってるかもね。でも嫌よ。沙織と白石が付き合うなんて。そもそも沙織は西条さん・・・ああ、なるほどね。沙織は、ああいうボーイッシュな感じが好きなんだ?」

「S総合の制服が可愛かった。近所にS総合の子がいて、たまに朝見かけて可愛いなと思ってて。実物をあんな間近に見たの初めてだったけど、思ったよりストライクゾーンだった」

「制服? S総合の? ったく、なんでみんなあの制服に憧れるのよ。でも、ウケるわね。制服に負ける白石とはね。あのナルシストにそれ言ったらどういう顔するか」

「石神井さん、楽しそう」

「そりゃそうよ。この私を告白する前に振った女よ。だって、私より白石の方が、私のこと先に好きになるかもしれないじゃない。何が“タイプじゃない”よ。今思えば、あの言葉真に受けずに、私のこと好きにさせて告白させるように仕向けて、その後に振ってやればよかったわ」

「石神井さん・・・。人の感情を弄ぶの、良くないと思う・・・」

「ごめん。いろいろ思い出して、つい熱くなっちゃった。一応訊くけど、沙織は、ノーマルよね?」

「ノーマル? ああ、同性が恋愛対象かどうかってこと? うーんと、正直言うと、よく分かんないな。どっちでも良いような気もするし、好きになった人がたまたま同性だったんだとしたら、告白するかどうかは別にして、後は成り行き次第かなあ・・・。そもそも、女の子同士で『付き合う』って、どういうこと? 普通の友達付き合いとどう違うの? 恋愛感情があるかないか? でも、友達として『好き』と恋愛感情の『好き』と、どう区別するの? 私、石神井さんのこと『好き』だけど、これが恋愛感情としての『好き』じゃなくて友達としての『好き』だって、ハッキリ言い切れるかどうか」

「本当?」

何故か嬉しそうな表情の石神井。

「なんで嬉しそうなのよ」

「だって、沙織、今、私のこと『好き』って・・・」

「そりゃそうでしょ。初めて会ったときは、ずけずけした物言いが癇に障ったけど」

「それで、石神井さんは、私のこと、好き?」

「もちろんよ! 好き好き、大好き!」

「で、それって友達として? それとも、恋愛感情?」

「え? あ、どうだろう? 単なる友達としての好きではないと思うけど、恋愛感情かどうかと言われると・・・」

「でしょう?」

「そしたら、やっぱり、その・・・身体の関係を持ちたいかどうか、じゃない? 友情と恋愛感情の違い」

「だったら、石神井さん、私としたい?」

「・・・」

沈黙。

言葉に詰まり、何も言えない石神井。

今の石神井は、日頃のあの澄んだ理知や強い意志をどこかに振り落としてきてしまったかのように、沙織の問いかけに対して、答える言葉を見つけられなかった。

「何か言ってよ! 黙ってたら・・・その・・・認めてるのと同じじゃない・・・」

沙織は、話しながら次第に声が小さくなると同時に、焦点の定まらない視線を石神井に向けた。

「ごめん。正直、改めて訊かれると、どうなのか分からないのよ、それ。けど、もし、沙織から求められたとしたら、私は断らないと思う。でも、自分の方から沙織に求めるかと言われたら、どうなのかな、考えても分からない。へへ」

石神井は部屋着のボタンを何度も摘んで、きまり悪そうに媚びる風(コケティッシュ)な愛想笑いをした。

「“へへ”じゃないわよ。一瞬可愛いって思っちゃたけど。でもそれって、私からのアプローチ待ってるってことじゃん! 白石さんのときも、そーだったんじゃないの? 何がノーマルよ。石神井さんだって、ガチ勢じゃない。それ、自分で認めたくないだけじゃん! 自分はノーマルだって思いたいだけじゃん! 他力本願なんて、どちゃくそ石神井さんらしくないよ!」

決して怒っているわけでも軽蔑しているわけでもなかったが、あまりにもの石神井の煮えきらない言葉とその不甲斐なさに、沙織は思わず声を荒らげて言った。

「沙織・・・」

石神井は、まるで胸が締め付けられるのを和らげるかのように、深い深呼吸をした。

「ナンテね。ちょっとからかってみただけ。私は石神井さんがノーマルでもガチ勢でも、どっちでも良いよ。友情か恋愛感情かなんて、円周率みたいなもので、ハッキリ割り切れるようなものじゃないと思うし。さ、勉強続けましょ」

沙織は、グラスにわずかに残ったオレンジジュースを飲み干すと、シャープペンをカチカチと鳴らし、芯を出そうとした。しかし、芯は先端から1mmも出ていないまま、微動だにしなかった。

「あっちゃー。芯切れだ。石神井さん、ごめん、ちょっとシャーペンの芯替えるね」

沙織はそういって筆箱の中から替え芯の入ったプラスチック容器を取り出すと、シャープペンのノックカバーを外し、不器用な手付きで替芯を入れていった。

その様子を横から伺いながら、石神井は後ろめたい気持ちでいっぱいになった。

実は、石神井は沙織に嘘をついた。

中学時代、白石に振られたのは石神井ではなく、白石の方だった。

石神井が白石を振ったのだ。

違ったのはそれだけで、話の内容自体は本当だったのだが――。


つづく。

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