ep.10 朧月
「まさか……当主様だけでなく、奥方様まで逝ってしまわれるなんて……」
「可哀想に。まだ十四歳ですよ」
「たった一人残されて、心細いでしょうね」
お香のにおいがする。
私の横で泣き続ける陽向の声も、周りで話す親族の声も、全てが遠い場所で響いているかのようだ。
「どうかしら。あの顔、悲しんでもいないようですけど」
「おやめなさい。突然のことすぎて、実感が湧かないのよ」
「もうすぐ遺言書が届くみたいですね。次期当主はやはり、睦月様になるんでしょうか」
「一人娘だからなぁ。それしかないだろう」
仏壇に置かれた二人の写真は、穏やかな微笑みを浮かべている。
静かに眺め続ける私を見て、陽向は何を思ったのか、そっと手を握ってきた。
体温の低い肌に、火照った温度が重なる。
泣きすぎて、発熱してしまったのかもしれない。
隣の子は誰なんだ?
ああ、神楽家の息子さんですよ。
お互い一人っ子のようですし、以前から交流も深いんでしょうね。
神楽ならばさもありなん。
分家にも格差は存在していると言うのに、随分と疎い人たちがいたものだ。
彼らにとって重要なのは神楽と、自分が身を置く一族だけなのだろう。
「失礼します。当主様の遺言書をお持ちしました」
男の登場に、先ほどまで雑音の響いていた室内は、まるで水を打ったかのように静まりかえった。
喪服に身を包んだ男は、周囲の視線を一身に受けながら遺言書を開いていく。
固唾を呑んで見守る者たちの耳に、男の声が届いた。
「神楽の当主でありました、神楽 壱月様のご遺言を読み上げさせていただきます」
室内には、紙の擦れる音だけが聞こえている。
「神楽の全権を妻、神楽 いのりへ相続させること。もし該当の者が居ない場合、神楽の次期当主には── 神楽 陽向を指名すること。そう、書かれております」
何かが落ちる音がした。
室内は一瞬で騒がしさを取り戻し、驚きや疑念の言葉で満ちていく。
呆然としたまま硬まった陽向は、何を言われているのか分かっていないようだった。
「お静かに願います」
じゃあ実の娘はどうなるの?
あの遺言書は、本当にご当主様のものなのか?
男の一言に、口々に騒いでいた者たちも徐々に冷静さを取り戻していく。
興味や猜疑心に満ちた目だけが、私へ向けられていた。
「遺言書にはまだ続きがあります。後継者となった神楽 陽向は、神楽と養子縁組を行い、神楽 陽向として次期当主に据えること。そして、神楽 睦月は神楽と養子縁組を行い、以降は神楽 睦月を名乗ることとする。……そう、書かれております」
おそらく、誰もがすぐには理解できなかった。
陽向の手が小刻みに震え出す。
泣きすぎて真っ赤に腫れた目が、縋るように私を見つめていた。
「うそ……だよね? こんなの、うそなんだよね?」
何度聞かれようと、あいにく私も答えは持ち合わせていない。
「ちょっと待ってください! そもそも当主様だけでなく、奥方様まで亡くなられてるんですよ!? この状況で養子縁組なんて……! それに、神楽のご子息と入れ替えるなんて、正気の沙汰とは思えない。本当にこれは、当主様の書かれた遺言書なんですか!?」
その言葉を筆頭に、顔を見合わせた分家の一族たちは、男に向かって一斉に群がり始めた。
居心地が悪そうに身じろぎした男の後ろから、誰かが室内へと入ってくる。
「やかましいねぇ。もうちっと静かにできんのかい」
「おばあさま!」
神楽の当主が入ってきたことで、視線の先が一気に移っていく。
その人はこちらを一瞥した後、周囲の者たちを険しく睨みつけた。
「大の大人が揃いも揃って、なさけないとは思わんのかい。ちったぁ落ち着きな!」
ぴんと伸びた背筋と、芯の通った声。
叱咤された者たちが、気まずそうに視線を逸らしていく。
「遺言を聞き終わったならとっとと帰りな。今一番辛いのが誰かなんて、言わなくても分かるだろうに。私はね、あの子たちを図体だけデカく育った大人にするつもりはないんだよ」
沈黙する周囲にため息を吐くと、神楽の当主は私たちの方に近づいてきた。
「待たせてすまなかったね。二人とも、付いておいで」
陽向の手を取り立ち上がる。
陽向は泣くのを堪えるように、ぎゅっと手を握ってきた。
しばらく無言で後ろを歩いていたが、喧騒から離れたことで、思考も纏まってきたようだ。
「あの……」
「私のことはお祖母ちゃんとでも呼びな。どうせ、そう変わりゃしないんだ」
つっけんどんなようで、どこか温かみを感じる声。
その人は──祖母は、振り向かないことで示せる優しさもあるのだと、初めて教えてくれた人だった。
小柄な祖母の身体には、きっと誰よりも重たい物が乗っている。
けれど、凛と伸びた背中は、あの場にいた誰よりも大きく、そして……何よりも心強く見えた。
◆ ◇ ◇ ◇
珍しくうたた寝していたようだ。
机から身体を起こすと、時計を確認する。
そんなに時間は経っておらず、まだ夕食の時間にもなっていない。
立ち上がり部屋を見渡すと、霜月の姿が見えないことに気がついた。
部屋に姿はなく、窓も襖も閉まったままだ。
実体化を解いて出かけたのかもしれない。
ずっと猫の姿だったし、少しでも気分転換になればいいのだが──。
死界と現世の規則に挟まれ、霜月の負担が増えていないか気がかりだった。
霜月の言葉を疑っているわけでも、無理をしていると思っているわけでもない。
ただ、少しでも負担を軽くしてあげれたらと、私が思わずにはいられないだけで。
──人間の時でも、死神の姿が視れたらいいのに。
不意に浮かんだ思考が、そのまま口から滑り落ちていく。
「それ、手伝うよ」
誰かが囁く声がした。
突然聞こえた声を追いかけ縁側に出ると、辺り一面に立ち込めた霧が視界を塞いでくる。
覆われた視界のまま、霧の中を導かれるように進んで行く。
霧を抜けると、そこは春だった。
満開の桜と穏やかな川のせせらぎ。
空は夕暮れで、辺りには花弁が散っている。
別世界のような風景に、思わず足を止めていた。
「おはよう」
いつのまにか、近くに青年が立っている。
雪のような肌と、真っ白な髪。
左耳の前で揺れる顎ほどの長さの三つ編みが、特徴的な死神だった。
少し紅の混じった桜色の瞳が、青年の儚さを際立たせている。
「待っていた甲斐があった。会えて嬉しいよ、睦月」
私を見て微笑んだ青年は、こちらに向けて手を差し出してきた。
「僕のことは朧月と呼んで。彼と同じ、『月を冠するもの』だから。きっと睦月の力になれるよ」