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死神の猫  作者: 十三番目
第五唱 Fifth promise 愛よりも重いもの
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ep.8 メモリーロス


 神楽(かぐら)の敷地に建つ別邸で、椿(つばき)は静かに空を眺めていた。

 傍らに置かれた一輪の花が、吹き込んだ風でひらりと揺れている。


 会議を終え戻ってきた父親が、椿の様子を見てため息を吐く。

 そして、東院が雇っている医師と何かを話しながら、再び部屋を出ていった。


 椿の父親は、東院の家長でもある。

 娘を神楽(かぐら)へ嫁がせたい東院にとって、今の椿の姿は、頭を抱えるに等しい状態だった。


 従順で気立ての良い娘が、数ヶ月前から抜け殻のようになり始めたのだ。

 徐々に笑わなくなり、無気力になっていく椿を見て、東院は何度も医師を呼び寄せた。


 ──結果的に、医師はとある病の可能性について、口にすることとなる。


「ロストメモリーシンドローム」


 椿しかいないはずの部屋に、澄んだ女性の声が響いた。

 耳当たりの良い声に導かれ、椿の目線がゆるゆると音の先へ向けられる。


 宙に浮かぶ裂け目から、黒い何かが降りてきた。

 黒い何かは、後から現れたもう一方に二言三言話しかけると、椿の方を観察するように眺めてくる。


 得体の知れない存在を前にして、椿の身体が小刻みに震え出す。

 本能による震えの止め方など知る由もなく。


 椿は戸惑いつつも、両腕で身体を押さえ付けることしか出来なかった。


「この姿だと話しにくいよね」


 何かが呟くと同時に、身体を覆っていたローブが剥がれ落ちる。

 次いで、椿の視界に夜空を写し取ったような色が広がった。


 編み込まれた金のリボンが、髪の間で遊んでいる。

 はっきりと合った目は、宙のように神秘的で。

 自分はもうすぐ死ぬのかもしれない。


 そんな風に考えるほど、椿の前に立つ存在は、この世のものとは思えないなりをしていた。


「大丈夫? 見えてるよね」


 微動だにしない椿と、近くで振られる手。

 問いかけるように首を傾げる睦月を見て、椿の目に仄かな光が宿った。

 

「見えて……ます」


「なら良かった。あまり時間もないから、端的に伝えるね」


 睦月に抱えられた黒猫から、月のような輝きが覗く。


「このままだと、あなたは病によって廃人になるか、自ら命を断つことになる」


「……え?」


 突然の宣告に、椿から蚊の鳴くような声が漏れた。

 訳も分からず睦月を見返す椿だが、これが冗談ではないことだけは感じ取っている。


「かなり進行が早いけど、今なら助かる方法もあるよ。あなたには、まだ自分で決められる意思が残ってるみたいだから」

 

 ──死んだ魚のような目。

 そう溢した母親は、既に椿のことを諦めていた。

 足掻き続ける父親も、神楽(かぐら)のことがなければ、早々に安楽死させていたかもしれない。


 抜け落ちていく記憶を自覚してからは、辛いことや悲しいことばかりが頭を占めていく。

 それでも椿が狂わずいられたのは、あるがままを受け入れていたからだ。


 椿にとって人生とは、敷かれたレールの上を歩き続けることだった。


 東院(とういん)に生まれ、何不自由ない暮らしを謳歌する。

 親の威光は強く、望めば大抵の物は与えられた。

 そんな恵まれた環境を、椿は普通のことだと考えていたのだ。


 しかし、子供だからと当然のように享受していた幸福は、誰かの犠牲の上に成り立っていることを知り。

 人は平等ではないという事実が、椿にまざまざと現実を見せつけてきた。


 大人になるということは、我慢を知るということだ。

 たとえ恵まれている人間でも、いずれは我慢を知ることになる。


 神楽(かぐら)との婚姻について聞かされた時、椿はこれまでの対価を支払う時が来たのだと思った。

 先送りにすればするほど、ツケが後でやってくるように。


 たとえ親に敷かれたレールであろうと、椿にとってその上を歩くことは、義務にも近しいことだったのだ。


「……陽向様が、大切なんですね」


 枯れていくのを待つばかりだった花に、水は必要かと聞く程度には。


 心の中で呟いた言葉が、口から溢れることはなく。

 けれど、何もかも見透かすような瞳の前では、意味のないことだったのかもしれない。


 きっと睦月には伝わっている。

 そう解っていながらも、椿は睦月の目から視線を逸らせずにいた。


「陽向が変わろうと努力するなら、最後に手伝いくらいはしてあげたいからね」


 淡々とした声、変わらない表情。

 他人から見る睦月の姿は、陽向を思っているとは微塵も考えられないほど無だ。


 姉同然だと慕われながらも、睦月がそれらしい行いをしたことはなく。

 駆け寄るのも、笑いかけるのも、手を握るのも。

 いつも陽向からしていたことだった。


 それでも、心がない人形のようだと話す一族に対し、泣きながら怒っていた陽向を見て、睦月は情という感情を理解していった。

 

 まるで、今の椿のように希薄で。

 けれど、人形でも、死んだ魚でもない。

 意思を持つ、一人の人間として。


「どうしたら……良いのでしょうか」


 このまま空虚な日々を過ごし、終えていく。

 そんな諦めにも近い感情が、覆されていくのを感じる。


 睦月という非日常(そんざい)を前にして、手を伸ばさずにいられようか。


 悩む時間もないほどの刹那。

 けれどその一瞬で、椿は睦月の手を取ることを決めていた。


 

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