ep.8 常闇 ─ Ⅱ / Ⅱ
「……どうすればいい」
「何がです?」
言いたいことは分かっているだろうに、あえてしらばっくれてみせる常闇に対して、悪魔は屈辱に耐えるため身体に力を込めた。
「どうしたら、見逃してもらえる……!」
「おやまあ、命乞いですか。悪魔が命乞いとは、何とも愉快ですねぇ」
常闇は可笑しそうに笑っていたが、ふと真顔に戻ると、「そうですねぇ……」と呟く。
「ではまず、こちらを慰謝料代わりに貰っていくことにします。なので、今すぐここで契約を破棄してください」
常闇の手に、銀の籠が現れた。
中で浮いている魂は、かつて悪魔が契約した人間の魂に間違いない。
「早急にお願いしますね。あまり遅いと、面倒で消してしまうかもしれませんから」
何を──とは言わず、ただ悪魔を眺める常闇の目には、深い闇だけが映っている。
「……分かった」
そう言うしかなかった。
悪魔に残された選択肢は、要求を呑んで命を見逃してもらうか、要求を拒否して完全に消滅するかの二つだけなのだ。
契約を破棄したことで、魂との間にあった僅かな繋がりも全て千切れていく。
「契約は破棄された。魂も好きにして構わない。だからもう……解放してくれ」
「おや、何を言ってるんです? これはあくまで慰謝料として貰ったにすぎませんよ。私は一つなんて言ってないでしょう」
──悪魔だ。こいつは悪魔に違いない。
本物の悪魔に悪魔だと評された常闇は、何食わぬ顔で立っている。
「後の事としては、そうですね。金輪際、睦月に関わらないことを誓約してください。もちろん、貴方の部下や配下も全て含めてですよ」
「なっ……!」
とんでもない要求に、悪魔は言葉を失った。
全ての部下や配下を含めて関わらないなど、数を知らないから言えることだ。
言葉を返せないでいる悪魔を見て、常闇は呆れの混じった視線を投げかけている。
「偶然の遭遇では誓約を違反したことにならないですし、そう難しい話でもないと思いますがねぇ」
簡単そうに言っているが、「誓約」とはそもそも、こんな風に結ぶようなものではないのだ。
「こうしましょうか。彼女が許可した場合のみ、その範囲の誓約は無効化される。これなら不慮の事故も起こらなくて安心でしょう?」
切れ長の目が、笑むように細められる。
とんでもない誓約だが、これ以上は無理だろう。
今はただ、助かることを優先しなければならない。
「……分かった。要求を呑もう」
「賢明な判断です。ではこちらにサインを」
目の前に誓約書が現れる。
皮肉な話だ。
残されていた左手をここで使う事になるなんて。
名前を書き終わると、誓約書は目の前で霧のように消えていく。
「ふむ、問題なさそうですね。それでは最後に──」
まだ有るのかと硬まる悪魔へ、常闇はぞっとするような笑みを向けた。
「部下をこんな風にしてくれたお礼がまだでしたね。左手しかないと帰るのも一苦労でしょうし、このまま魔界へと送って差し上げますよ」
何をされるか察した悪魔が、悲鳴のような叫び声をあげる。
「待ってくれ! 充分な要求は飲んだはずだ! そもそも、部下とはいえ、死神が他者をそこまで気にかけることなんて無かったはず……! まさかその人間の魂に、そこまでの価値があるわけでもないだろう!?」
本来ならば個を好むような死神が、何故たかが新参者の死神なんかに固執しているのか。
ましてや、人間の魂なんて、死神にとっては餌にもならない。
死神が魂を運ぶのは、あくまでそれが仕事だからだ。
「ああ、魂ですか。私にとっては取るに足らない物なんですがね。どうやら彼女には、そうではないみたいでしたから」
常闇は手元に出した魂をつまらなさそうに一瞥すると、すぐにまた手元から消し去ってしまう。
「それと、確かに死神は同族同士であっても、あまり気にかけたりはしませんよ。ですが──睦月は別です。まあ、悪魔には知る必要のないことですがね」
そう言って嗤った常闇は、手のひらを上に向けて開いていく。
悪魔に向ける視線はぞっとするほど冷たい常闇だが、腕に抱えた睦月を見る時の眼差しは存外優しかったことを、悪魔は気づいていない。
常闇が開いた手のひらを一気に握りしめると、悪魔は身体の全てを余すことなく現世から消し去られていった。
何かを言おうとしていた悪魔は、言葉の一文字さえ発することなく、残った核だけが自動的に魔界へと送還されていく。
そして、そんな悪魔がいた場所には目もくれず、常闇は近づいてくるもう一人の部下の気配に、やれやれと言わんばかりにため息をついた。