ep.57 愛よりも重いもの
美火に案内された空間は、まるで宇宙を彷彿とさせる内装をしていた。
落ち着いた色合いながら、繊細な細工が施された調度品。
天井に広がる星々は、プラネタリウムよりも鮮明で。
ベッドに寝転がれば、いつでも天体観測を行える。
奥側に見えるのは月だろうか。
時に満ち、時に欠け。
金や赤、青にもなる。
夜の象徴とも言える月へ手を伸ばした睦月は、以前よりも少しだけ、月が近くなっているような感覚に包まれた。
──霜月の帰りが遅い。
ふとそう感じた睦月は、ベッドから起き上がり、部屋を後にする。
睦月にとって霜月は、いつのまにか傍にいるのが当たり前の存在になっていた。
霜月が誰に呼ばれたのかを知っているだけに、睦月の心情は穏やかとは言い難い。
──誰かのものを掠め取ろうとするのなら、相応の報いを受ける覚悟も必要だ。
空間ごとにがらりと変わる季節と風景。
死局であろうと、境界線の先には遊び心が混ぜ込まれている。
外の風景に伴い気温も変化していくが、死神である睦月にとって、温度の違いを感じることはあれど、暑さや寒さに苛まれる心配はなかった。
「止まりなさい」
命令口調で声をかけられ、足を止める。
赤紫色の髪に同色の瞳。
ややつり上がった目からは、マイナスな感情を煮詰めたような重さが見てとれた。
「中位の死神が何の用ですか。ここから先に進みたければ、位を上げてから出直すことです。すぐに元いた空間へ戻りなさい」
「霜月の帰りが遅いので、迎えに来ただけです。位が低くても、訪れること自体を禁止されてはいませんよね」
不快そうな顔つきをした無花果だったが、一転、嘲るように唇の端を持ち上げている。
「さすが常闇のところの死神は、躾がなっていませんね」
「あなたが連れて行ったのも、上司のところの死神ですよ」
一切の感情を表に出さず淡々と返してくる睦月に、無花果の警戒が強まっていく。
会議の呼び出しで常闇の空間を訪れた際、無花果は睦月を見かけたことがあった。
常闇と並んでも遜色がないほどに美しく、それでいて、ぞっとするほど綺麗な目を持った死神。
再び対面したことで、無花果は睦月の異質さが増しているのを感じていた。
不思議な魅力を漂わせ、しかも女性としての姿を選んでいる死神だ。
無花果からしてみれば、一目見るだけでも憎しみが湧き上がってくる。
脳裏に浮かぶのは、無花果たちの主が玉座を手にする前のこと。
かつてこの死界を創り出した、唯一にして至高の神の存在。
──死神王も、見るだけで相手を惹き込む容貌の持ち主だった。
特に瞳は、まるで宇宙を覗いてしまったかのような、果てのない未知が広がっていて。
見てはいけないものを見てしまった影響なのか。
今になってもなお、あの瞳を思い出すたび、無花果は苦しめ続けられていた。
「……贄であることを幸運に思うことですね。でなければ、今ここで消していましたから」
踵を返す無花果を、睦月は静かに見つめている。
遠のく無花果と入れ替わるように、馴染みのある気配が近づいてくるのを感じた。
氷河期に戻ったかと言わんばかりの空気を漂わせる霜月だったが、睦月と目が合うと一瞬で雪解けを起こしていく。
春の訪れの如く色付いた表情に、睦月もまたほんのりと笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◇ ◇
「僕の知り合いに、倦怠期のカップルがいるんだけどね」
「……っ、ごほっ」
「唐突っすね」
明鷹の言葉に、威吹が咳き込んでいる。
どうやら、喉に菓子を詰まらせたようだ。
ヴォルクは落ち着いているものの、明鷹のことを若干引いた目で見ている。
「今年で付き合って1000年になるらしいんだけど、500年振りの倦怠期が来てるらしくてさ。記念日は見送りかなーって話を聞いてて、ふと思ったんだよね。どんなに仲が良くても、倦怠期が起こることはあるんだなって。ところで、睦月ちゃんは倦怠期についてどう思う?」
「たいちょー、思惑が全く隠しきれてないっすよ」
興味津々で聞いてくる明鷹は、知り合いのことより私──正確には、私たちの状況の方が気になるのだろう。
死神之大鎌の扱いが苦手なヴォルクのため、たまに特別警備課を訪れていた。
今は休憩も兼ねて、美火が持たせてくれた茶菓子を摘んでいたところだ。
そんな中、威吹を連れた明鷹が乱入。
霜月が席を外していると知った明鷹は、今がチャンスとばかりにティータイムへ参加してきた──という訳である。
「経験したことがないので分かりませんが、むかし両親が話していた事なら覚えてます。好意とは炎のように燃え盛るものの、栄えるものはいつか衰えていく定めである。けれど雪のように降り積もる愛ならば、終わらぬ思いでいることができる、と」
「盛者必衰の理だったっけ。人間には老いがあるから、永遠の繁栄なんて望めないんだろうけどさ。睦月ちゃんのご両親は、随分と物事を達観して見ていたんだね」
常に全力でいることは難しい。
初めから大きく燃やしてしまえば、燃料切れになることもあるだろう。
何より、燃えたものは消し炭となり、残らず散ってしまうのだ。
そう言って頭を撫でた母は、恋の儚さを身をもって理解していたのかもしれない。
「でも、雪ならいつか溶けますよね。終わらない気持ちを維持するのは難しくないですか?」
「たしかに」
威吹の疑問にヴォルクも頷いている。
いくら降り積もろうと、溶けてしまえば同じこと。
むしろ、全てが溶ければ綺麗さっぱり消えて無くなる様は、好意よりも冷たく見えるかもしれない。
「そうだね。完全に溶ければ、塵ひとつ残らない。だから、溶けてしまわぬよう、いつまでも降らせ続ける行為こそが愛なんだと──そう話してました」
「塵も積もれば山となる。時として人間は、神も驚くほど深い愛を持つことがあるけれど、その片鱗を知れた気がするよ。いい話を聞かせてくれてありがとう」
微笑んだ明鷹は、満足げな雰囲気を漂わせている。
話に区切りもついたため席を立つ。
そろそろ霜月が戻ってくる頃だ。
訓練の続きをしようとヴォルクに声をかけると、すぐさま後ろをついてきた。
「先に戻りますね」
「ほんと助かるよー。ヴォルク、睦月ちゃんの言うことはちゃんと聞くようにね」
「りょーかいっす」
素直に返事をするヴォルクは、特訓を楽しんでいるようだ。
少し足早になるヴォルクと共に、私はその場を後にした。
◆ ◆ ◆ ◇
睦月とヴォルクが席を離れた後、威吹はふと気になっていたことを口にした。
「さっきの話なんですけど、もし神が本気で誰かを愛したら、雪山どころじゃ済まなくなりそうですね」
人間でさえ、塵を山にできるのだ。
永遠を生きる神なら、雪で星ごと埋め尽くしてしまうかもしれない。
「威吹はさ、愛よりも重いものが何か知ってる?」
「愛より重いもの……ですか?」
うーんと唸った威吹は、しばらく考えてから首を横に振った。
「これといって思いつかないです。答えは何だったんですか?」
「ま、そのうち分かるよ」
ここまで聞いておいて、教える気のない明鷹にため息をつく。
明鷹がぽつりと呟いた言葉には気づかないまま、威吹も訓練に戻るため席を立った。