ep.55 傾く均衡
「もう行ってしまうんですか……?」
悲しそうな顔をする美火に、後ろ髪を引かれる思いになる。
美火曰く、せっかく死界に帰ってきても、またすぐに現世へ戻ってしまうことが受け入れ難いらしい。
しかも、近頃は私が一人で何処かに行ってしまうため、一緒に居られる時間がほとんど無いのだと言われた時は、身に覚えがあるだけに口を噤むしかなかった。
本の続きが読みたくて、休息所に入り浸り状態だったのだ。
霜月も私がいない間は別件をこなしているようで、留守を任された美火だけが空間に残っていることも多い。
いかにも寂しそうな美火を置いて去るには、いささか忍びない状況だと言えよう。
「問題がなければ、もう少しこっちにいようかな」
「問題なんてありません! ずっと居てくれても良いくらいです」
パッと表情を明るくする美火を見ていると、ますます戻るとは言いにくい状況だ。
しかし、死界の一部の死神は、私をイレギュラーとして認識している。
環境が整うまで現世にいるよう判断したのは、他ならぬ上司の方なのだ。
「という訳なので、まだこっちに居ても?」
背後に立つ上司に問いかけると、「構いませんよ」なんて答えが返ってくる。
相変わらず気配が皆無だ。
存在感はあるのに、近くに寄られるまで気づけないのは何故なのだろうか。
久しぶりに四人が揃った空間で、美火の淹れた紅茶に口をつける。
上司が戻っても美火の機嫌が変わらないのは、私が死界に残ると分かったからだろう。
霜月と目が合ったため、そのまま意思疎通を試みる。
いつのまにか、目を合わせるだけで大体の意図が通じるようになっていた。
お互いの理解が深まったのもあるが、何より霜月が私の意思を汲み取るのが上手いのだろう。
流石だなと思いながら見つめていると、照れた表情で微笑まれた。
わあ、今日もきらきらだ。
美人は三日で飽きるなんて、本当によく言ったものである。
「今後は死界に居を移して、現世をセーフハウスにしてはいかがです?」
「それは、環境が整ったって意味ですか?」
「整ったというより、適応したと言う方が正しいのかもしれませんね」
上司から声をかけられ、茶菓子を摘もうとしていた手を止めた。
「未来に少々変化があったので、こちらにいた方がマシかと思っただけですよ」
「マシって言うあたり、嫌な予感しかしないんですが」
互いに無言で見つめ合う。
一切崩れない空気に、私は詰まっていた息を吐き出した。
「分かりました。そうします」
どのみち、住んでいたマンションは焼失してしまっている。
新しい家を探す手間が省ける上、アパートを離れる必要もないのなら、特に断る理由はないはずだ。
視界の端で、小さくガッツポーズをする美火が見えた。
不意に上司と目が合ったため、「後で休息所を開けといてください」と視線で訴えてみる。
やれやれと言わんばかりにため息をついていた上司だが、どうやら意図は伝わったらしい。
そういえば、上司が私の頼みを断ったことは一度もなかったな……なんて。
今更ながらに浮かんだ事実で、ざわりと心が揺れるのを感じていた。
◆ ◆ ◇ ◇
上司が霜月を連れて出かけたことで、美火は女子会ができると大層喜んでいた。
二人きりの時間を過ごせることが嬉しかったらしい。
終始楽しそうな様子の美火に、私も自然と寛ぐことができた。
つい先ほどまで一緒に居たのだが、美火に急ぎの仕事が入ったため、今は休息所に向かっている最中だ。
美火からは別室で休むよう勧められたが、本の続きが読みたかったこともあり、こうして一人通路を歩いている。
──そう言えば、最後に寝たのはいつだったっけ。
ふとそんな思考に駆られた。
以前の私は間違いなく人間だった。
けれど、死神と契約してからは、どっちつかずの場所に立っていたように思う。
人間の私と、死神の私。
どちらも共存していた均衡が、徐々に崩れつつあることを理解した。
役目を終えた扉は日に日に増えている。
身体の感覚、能力の扱い方、便利な知識が詰まった扉など。
与えられる力はどれも、人間の手には負えないものばかりだ。
転幽からは空間を訪れる度に、特訓と称したスパルタ教育を受けている。
心配そうに擦り寄る満月が可愛くて、大抵のことはどうって事ないように思えた。
ただ、肝心の記憶だけは、未だぽっかりと空いたままで──。
「私って、いったい何なんだろう」
零れ落ちた言葉が通路に響く。
「……睦月さん?」
不思議そうに名前を呼ばれ、声の先に視線を向ける。
スチームパンクを彷彿とさせるつなぎ服と、顔全体を覆うガスマスク。
十字路でばったりと会ったナツメグは、こちらに気づくなりぺこりと頭を下げてきた。
◆ ◇ ◆ ◇
【 あとがき 】
美火とのいちゃこら編も差し込むか考えていましたが、進捗の関係によりスキップします。
夏は更新も遅めになってしまうため、ストーリーを進めることに重点を置かせていただきました。
時間ができたら、いずれ番外編として書くかもしれません。
いつも物語を読んでくださり、本当にありがとうございます。