ep.54 本当の名前
壁中を本に囲まれた部屋で、ページを捲る音が鳴っている。
休息所には、慣れた様子で本を読む睦月の姿があった。
夜空色の髪が横顔を隠し、髪の間から覗く三つ編みには、金のリボンが編み込まれている。
後から部屋を訪れた常闇は、いつものように睦月の隣で本を読むかと思いきや、「珍しいですね」と口にしながら睦月の対面へと腰掛けた。
「何が珍しいの?」
「貴方がここに居ることが、ですよ」
「最近はよく来てたと思うけど」
睦月は休息所をとても気に入っていた。
欲求の薄い睦月が、自ら常闇に願うほどに。
無表情で淡々と返事をする睦月に、常闇はゆるりと目を細めた。
「外側に限定するならそうでしょうね。ですが、睦月はその本を読む時、いささか怪訝そうにするんですよ」
どうやら常闇には、一見無にも思える睦月の微細な変化が分かるらしい。
黙って常闇を見返していた睦月だが、次の瞬間──表情ががらりと色を変えた。
「流石だね。やはり君の目は誤魔化せないみたいだ」
普段の睦月ではありえない、楽しそうな笑みが浮かぶ。
「新作なんですよ、それ」
「通りでね。一つ謎が解けたよ」
正体がばれたため、演じる必要もなくなったらしい。
本を閉じた転幽は、正面に座る常闇を見てにこりと微笑んでいる。
「こうして会うのはあの時以来かな。睦月に何度か身体を借りてた事を指摘されてね。だいぶ感覚も戻ってきたようだから、表に出るのは控えてたんだ」
「死界に居ることが増えたので、馴染むのも早いのでしょう」
「わたしに気づいたのは君と、睦月が名付けたあの子だけだよ。突然だったから、向こうは少しばかり驚かせてしまったけれど」
思い出し笑いを溢すと、転幽は優しげな眼差しで本の背表紙を撫でた。
「睦月とかなり打ち解けたみたいだね。目的のためとは言え、いずれ来る別れが寂しくならないかい? 睦月は君が初めて──」
何かを口にしかけた転幽だったが、常闇と視線が合うなり「愚問だったね」とゆるく首を振っている。
全てを悟った顔で微笑む転幽は、手にしていた本を宙に浮かばせた。
あるべき場所へ戻っていく本を見ながら、ここには居ない月のことを思い出す。
「昔から宝月は一途だ。主を取り戻すためなら、何だってするのだろうね」
咎める響きは露ほどもなく、柔らかい声色は甘やかすように優しい。
これから常闇たちが行う何もかもを、自分は肯定しているのだと言うように。
転幽が常闇に向ける態度には、格別の待遇が表われていた。
「心配せずとも、もうすぐ会えるよ。歯車は動き出した。あとはピースが揃うだけだ」
まるで静と動のように、睦月と転幽は異なっている。
けれど唯一、奥行が見えないという異常性だけは、とても似ているように思えた。
「そういえば、月の敬称が使えないから、今は常闇と呼ばせているんだったね。能力から取ったの? それとも──皮肉のつもりで付けたのかな」
「分かっていて聞くところも、睦月とそっくりですね」
常闇の返しに瞬いた転幽は、これまで見せていたどの笑顔よりも美しく微笑んだ。
「相変わらず、わたしを喜ばせるのが上手いようだ」
機嫌よく呟いた声は、日差しのように温かい。
転幽は満足した様子で椅子から立ち上がると、扉に向かって歩き始めた。
「早く本当の名で呼んでもらえるといいね」
常闇でもなく、新月でもなく。
限られた者しか知らない名前を口にするのは、いつだって死神王が最初だった。
扉の先に夜空が消える。
見送る常闇の耳元で、紅い宝石がきらりと光を放っていた。
◆ ◆ ◇ ◇
「えっ!? りり、リーネアさん、辞めちゃったんですか?」
「そーなんだよね。あたしもいきなり聞かされたから、詳しいことはまだ把握できてないんだけど」
情報管理課を訪れたアルスは、共に試験を受けたリーネアが死局から去ったと知り、素っ頓狂な声を上げた。
「今後戻ってくることはないだろうし、リーネアがいなくなった分を他のやつらに振り分けないとでさ」
忙しすぎて目が回りそうだと話すミントは、リーネアが辞めた事にあまり関心がないようだった。
残念そうに眉を下げるアルスを、ミントは不思議そうに見ている。
「何でそんなに気にするわけ? たかが試験で会っただけの仲でしょ?」
「そっ、それは……そうなんですけど……」
おろおろした様子のアルスを見て、「下位は抜け切らないのが多いからなぁ」と呟いたミントは、どこか浮かない顔で仕事をする一部の死神たちに視線を向けた。
リーネアの同僚だった死神は、リーネアの厄介さをよく知っていたはずだ。
しかし、居なくなった途端、喉に小骨が刺さったような顔を隠せずにいる。
ため息を吐いたミントは、アルスに向かって何かを差し出した。
「美火って死神に会ったらこれを渡してみて。多分、睦月さんに会わせてくれると思う」
「あ、ありがとうございます……! びっ、美火さん、ですね」
カード状の物を受け取ると、アルスは大きく頭を下げている。
急いで向かおうとするアルスに対し、ミントは「一つ忠告しておくけど」と声をかけた。
「リーネアのことは忘れた方がいいよ」
「……え?」
「あんたが睦月さんと居たいなら、尚更ね」
驚いた表情のアルスをよそに、ミントは「そんじゃ」と手を振ると、情報管理課の奥にある専用部屋へと戻っていった。