緩和休題 = ◆ 悪魔と契約者 ー 下(後)◇ =
フラッシュバックしていく記憶。
──そうだ……。
祖父はあの日、糸世を呼び出してこう言った。
「よく聞け糸世。俺がいなくなった後、母親の私物は全て処分しろ。一つも残してはならん。家は全て調べた。残りはお前の部屋だけだ」
「……母さんの私物なんてとっくに祖父ちゃんが捨てただろ。一つも残ってなんかいないよ」
珍しく声をかけてきたかと思えば、母親に冷たいのは相変わらずだったらしい。
鬱陶しそうに話す糸世だったが、祖父は糸世を見つめ、くしゃりと顔を歪めた。
「あの女は狂っとる。息子を奪われ、俺にはもうお前しか残っとらんのだ。これ以上、あの女に奪われてなるものか……! いいか糸世、必ず守れよ。俺からの最後の頼みだ」
母親への態度ばかりが先行し、祖父が糸世に向けていた言動の数々を、真っ直ぐ受け止められずにいた。
今更思い出した。
祖父はずっと糸世を──。
急速に引き戻される感覚。
あまりの息苦しさに、糸世は必死で腕を振った。
細い指で糸世の首を締め付ける母親は、女とは思えないほど強い力をしている。
無我夢中で暴れ拘束が緩んだ隙を突き、糸世は母親と距離を取った。
「げほっ、げほ……っおえ」
猛烈な吐き気に耐える。
「説得は失敗したようね、糸世」
背後で聞こえたインヴィーの声に、糸世はハッとした様子で振り向いた。
「残念だけど時間よ。これ以上の延長は、さらに寿命が必要になるわ」
「それなら、強制的に帰らせてくださ──」
「無理よ」
希望が見えたと喜ぶ糸世を、インヴィーは一言で絶望に引き戻した。
「私が契約したのは、生前と同じ状態の母親を糸世に引き合わせることよ。成仏してもらうにしろ、帰ってもらうにしろ、それは糸世がやるべき事だわ」
「そんな……」
ぶつぶつと呟いたり、頭を掻きむしったり。
狂ったように笑う母親の霊は、糸世を連れていくまで絶対に帰ったりしないだろう。
「時間切れね。契約内容の違反は、随時ペナルティーが加算されるわ。早くしないと、どんどん寿命が減っちゃうわよ?」
「同意なしに奪うことはないって……!」
「それは追加の話よ。これは既に結んだ契約の話。内容に違反すれば、その分の支払いが増すのは当たり前のことでしょう?」
「……あ」
言葉を発する気力さえ奪われ、震える膝は今にも崩れ落ちそうだった。
しかし、命の危険に晒されていることで、糸世は今にも切れそうな蜘蛛の糸を何とか掴んでいられた。
「◾️◾️せ……、ち◾️せ……」
とっくに亡くなった父親の名前を呼びながら、ふらりふらりと母親の霊が近寄ってくる。
今思えば、母親は糸世ではなく、糸世を通して父親を見ていたのだろう。
大好きだと言ったのも、糸世を見て常に笑顔だったのも。
糸世ではなく、全て父親に向けたものだったのだ。
──ごめん、祖父ちゃん。
本当に自分を大切に思ってくれていたのは、母さんじゃなくて祖父ちゃんの方だったのに。
「ごめんなさい……」
ぽつりと落ちた言葉は、涙のように湿っていた。
「……インヴィーさん。追加で叶えて欲しい願いがあります」
「どんな願いかしら?」
まるでこうなる事が分かっていたかのように、インヴィーの声は甘く優しい。
「母さんを……あの怨霊を、消してください」
「叶えることは可能よ。でも、寿命で支払うのは無理ね。対価に魂をいただくけど、それでも良いかしら?」
手を伸ばし近づいてくる怨霊は、ああしてずっと糸世を探し続けていたのだろう。
正確には、糸世の向こうにいる父親を。
「お願いします」
「契約成立ね。急ぎのようだから、契約書はまとめておくわ」
現れた契約書に、新たな項目が追記されていく。
インヴィーは満足げに書面を見ると、母親の霊の方に歩き始めた。
「素敵な趣味をしてるわね。お守りの中に、髪を入れ込むなんて」
いつのまにか、インヴィーの手には契約書ではなく、糸世が渡したお守りが乗せられていた。
爪で袋を破いたインヴィーは、中から出てきた毛髪を摘み、にこりと笑いかけている。
「よほど執着しているようだけど、悪いわね。糸世はもう──私の物なのよ」
「ギャァアアア!」
インヴィーの手によって燃えた髪は、消し炭のようにパラパラと消えていく。
それと同時に、身体中を炎に包まれた母親が、断末魔の叫び声を上げた。
跡形も残さず消えていく母親を、糸世は一瞥もしなかった。
無言で立ち尽くす糸世に、インヴィーは優しく寄り添っている。
「糸世はね、母親という底なし沼の上で足を止めてしまったの。現状を維持するということは、容認するということでもあるわ。沼に沈んでから助けてくれと叫んだところで、誰もあなたを見つけられやしない。──それこそ、私たちのような存在でなければね」
微動だにしない糸世の目からは、涙が溢れ続けていた。
頬を流れる雫を指ですくったインヴィーは、ぺろりと舐めた涙の味にうっそりした表情を浮かべた。
「言ったでしょう? 悪魔は二兎を得るって」
糸世が泣いている理由など、インヴィーには分からない。
いや、分からなくていいのだ。
悪魔にとって人間とは、貴重なご馳走であり、欲を満たしてくれる大切な玩具なのだから。
「ああ、そうそう。残りの寿命はあと五年よ。またすぐに会えるわね、いとせ」
軽やかな笑い声を上げたインヴィーは、崩れ落ちる糸世をよそに、再び現世の中へと溶け込んでいった。