緩和休題 = ◆ 悪魔と契約者 ー 上 ◇ =
注意『この話には、ホラー要素が混じっています』
話の構成上、一部ホラーと受け取れる箇所があります。
軽めではありますが、ホラーが苦手な方はご注意ください。
サイドストーリーに当たるため、本編に影響はありません。
◇ ◇ ◇ ◇
どうせ嘘だと思っていた。
それでも、淵を漂う哀れな人間には、他に方法が残されていなかったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
部屋の床に陣を彫りながら、糸世は母親のことを思い返していた。
「取り憑いた霊を、どうにかしたいのだろう?」
悪魔の召喚などいかにも胡散臭い話だが、街中で偶然にも出会った男は、糸世の悩みをいとも簡単に当ててみせた。
半年前、祖父の運転する車で出かけた母親は、祖父と共に二度と帰らぬ人となった。
父親を早くに亡くしていた糸世にとって、その事実は天涯孤独を意味している。
不幸中の幸いとでも言えばいいのか。
祖父の知り合いである弁護士が、遺産の整理を手伝ってくれた。
祖父の遺言により、家と当分の生活費を受け継いだ糸世は、広すぎる戸建てで一人暮らしを始めることになったのだ。
最初の数ヶ月は良かった。
慌ただしくも、時間は飛ぶように過ぎていく。
高校を卒業したばかりという事もあり、糸世は感傷に浸る暇もない日々を過ごしていた。
そんな糸世に暗雲が立ち込め出したのは、夏も盛りを終え、秋の匂いが漂い始めた頃だった。
連日続く悪夢に、糸世は深夜のベッドで勢いよく飛び起きた。
また同じ夢だ。
死んだはずの母親が、糸世を呼びながら彷徨っている。
初めは遠くでうろうろと歩きながら、か細い声で呼ぶ程度だった。
しかし、日を追うごとに糸世との距離が近くなっているのだ。
声もどんどん大きくなり、仕舞いには背後にぴたりと張り付いて、耳元で「…とせ、ぃとせ」と呼んでくる。
気が狂いそうだった。
死んだはずの母親が幽霊になって戻ってくるなど、いったい誰が考えようか。
生前の母親は、糸世に優しかった。
むしろ祖父の方が、母親にも自分にも冷たく当たっていたように思う。
父親が亡くなってから世話になった恩はあるものの、糸世は祖父があまり好きではなかった。
そして、そんな祖父は、母親を道連れにあの世へと旅立ってしまったのだ。
母親はどうして、糸世に取り憑いたのか。
理由も分からぬまま、糸世は必死に精神を保ち続けた。
とにもかくにも、このままでは糸世の方がおかしくなってしまう。
除霊に効果がありそうなことは、手当たり次第に試した。
寺でお祓いを受けてみたりもした。
しかし、母親の霊は変わらず、夜な夜な夢の中で糸世を呼び続けている。
「もうこれしか……」
部屋に彫られた召喚陣へ血を垂らす。
迷信だと思っていても、一縷の望みを捨てられない。
悪魔を呼び出す陣に向かって、どうか神様と願うくらいには、糸世の精神も限界を迎えていた。
滲んだ血が、陣に染み込んでいく。
液体が隅々まで行き渡るも、悪魔が召喚される気配は感じられなかった。
乾いた笑みが落ちる。
糸世の心が絶望に染まりかけたその時、目の前の陣がいきなり発光し始めた。
禍々しい光を放つ陣の中から、ナニカの手が出てくる。
人に似た形をしているが、皮膚は炭のように真っ黒で、爪は鋭い刃のように尖っていた。
「……あ」
言葉を失う糸世の前で、悪魔は姿を現そうとしている。
頭が陣を抜け、もうすぐ顔らしきものが見えそうな最中だった。
悪魔の頭を、誰かの足が踏んづけた。
「良い匂いがするから来てみたら、何だか面白そうな事をしているのね」
部屋の中に、知らない女性がいる。
突然のことに混乱した糸世は、愕然とした表情のまま凍りついた。
艶かしい足と、真っ赤な唇。
カールした長い髪と豊かな肉体は、あまりにも美しいということを除けば、人間のそれと大差ないように思えた。
もし、その女性が浮いてさえいなければ──。
「もうすぐ中級ってところかしら。ご馳走にありつけると喜んでいたようだけど、奇遇ね。私もこの人間のことが気に入ってしまったの」
罪悪感など一ミリも持たない声で、女性は悪魔に話しかけている。
容赦なく足蹴にされた悪魔は、抵抗も虚しく、徐々に陣の中へと押し戻されているようだ。
「そういう訳だから、あなたは帰りなさいな」
ぐしゃり──という音と共に、陣の発光が薄れていく。
弾けたトマトのように飛び散った黒は、けれど一滴の血も流すことはなく、そのまま陣に吸い込まれていった。
「ねえ坊や。さっきの悪魔の代わりに、私と契約するのはどうかしら?」
呆然と座り込む糸世に声をかけた女性は、言葉を失う糸世の前で「聞こえてる?」と首を傾げてみせた。
「貴女はいったい……」
「あら、答えは既に分かっているはずよ?」
「……あくま、なんですか」
「そうよ。でも、さっきの奴と一緒にしないでちょうだいね」
女性は床に降り立つと、部屋の片隅に置かれていたベッドに腰掛けている。
「悩んでいるのでしょう? 言っておくけど、私ほどの悪魔と契約できる機会なんて、この先絶対に訪れないわよ」
「契約するには対価が必要だと聞きました。その……貴女が凄い悪魔なら、対価も大きくなる可能性がありますよね?」
名前が分からず言葉に詰まった糸世を見て、女性は真っ赤な唇を妖艶に吊り上げた。
「私のことはインヴィーとでも呼べばいいわ。どうせ現世の言葉だもの。勝手に置き換えられているはずよ」
「それはどういう……」
「聞こえた通りに呼べばいいってことよ」
困惑した様子の糸世にさらりと答えたインヴィーは、腰掛けたベッドの上でゆったりと足を組み替えている。
短いスカートから際どいラインがちらつき、糸世は思わず目を背けた。
「対価についてだけど、一番多いのは死後に魂を貰う契約ね。生きてるうちは自由に過ごせる代わりに、死後の魂で対価を支払ってもらう方法よ」
願いの大きさによって細かく決めなければならない対価とは違い、魂は全てをこれ一つで賄うことができる。
「悪魔は位に関わらず、ほとんどが魂を要求しているわ。私が要求する対価も、もちろん坊やの魂よ」
対価に位は関係ない。
当の悪魔が魂を気に入った時点で、対価としては成立していると言っても過言ではないのだ。
ただし、対価を魂にしないなら話は別だ。
「魂以外なら……何がありますか?」
「魂以外で願いを要求すれば、対価は高くつくわよ。いいの? あるかも分からない来世より、今の自分を大切にするべきだとは思わない?」
糸世が呼び出した悪魔は、インヴィーが消してしまった。
きっとこの先、どんな位の悪魔でも契約できる機会はやってこないだろう。
「まあでも、先に詳しい話を聞いておこうかしら。坊やが悪魔を呼び出してまで、叶えたい願いだもの。きっと大層な理由があるのでしょうね?」