ep.53 悪魔の思惑
魔界は常に薄暗い。
曇天のようにすっきりとしない空には、太陽も月も、星さえも浮かんではいなかった。
「ひよっこの死神にやられたらしいじゃない、アヴァリー」
カールした長い髪と、なまめく姿態。
豊満な胸と真っ赤な唇をした悪魔──インヴィーは、魔王城の一室でどっしりと腰掛けていたアヴァリーに背後から歩み寄った。
「勝手に言っとけ。お前らに話すつもりもねぇからな」
「まあ、強がっちゃって」
インヴィーは煽るような笑みを浮かべたが、アヴァリーが気にする様子は見られない。
つまらなさそうに唇を尖らせたインヴィーは、そのままアヴァリーの首に腕を絡ませた。
「そんなに良かったの? まだお子ちゃまじゃない。あなたの趣味ではないはずよ」
「お子ちゃま、ねぇ」
鼻で笑ったアヴァリーの顔を、インヴィーは物珍しそうな雰囲気で覗き込んだ。
「まさか本気なの? 位階序列三位ともあろう悪魔が、成り立てほやほやの死神を気にかけるなんて」
驚きだわ、と続けるインヴィーの表情は、声とは裏腹に愉快そうな笑みで歪んでいる。
アヴァリーは暗黒将の中でも二番目に長く座する悪魔だ。
最上位の魔王。
暗黒将で一番長く座する悪魔に次いで、三番目の位置を手にしている。
──そんな悪魔が、大した位も持たない死神にご執心とは。
「私も会いに行ってみようかしら」
「王の命令に背くつもりか?」
「あら、魔王様は危害を加えることを禁じたのであって、会いに行くことを禁じてはいないはずよ」
アヴァリーの眉間がぴくりと動く。
ちりちりと火に炙られるような空気の中、インヴィーはむしろ快感だと言わんばかりに息を吐いた。
「もしかして嫉妬かしら? まさか、あなたからそんな感情を向けられるなんて」
恍惚とした表情で舌舐めずりをしたインヴィーは、余韻を味わうように頬へ手を当てている。
「しばらく城を出れないあなたに代わって、私が様子を見てきてあげるのよ。喜んだらどう? ああ、ついでに現世で美味しそうな魂でも見繕ってみようかしら」
「へーへー、そーかよ。なら好きにしろ」
どうでも良さそうに視線を外したアヴァリーを見て、インヴィーの気も削がれたらしい。
絡めていた腕を外すと、「ええ。好きにさせてもらうわ」と言い捨て、そのまま出口の方に歩いていく。
現世に向かったのだろう。
インヴィーが消えた気配を感じ、アヴァリーは唇の端を片方だけ吊り上げた。
今の悪魔たちは魔王の命令により、件の死神に危害を加えることを禁止されている。
それが何を意味するのか、インヴィーはまだ理解できていない。
一歩間違えば、自ら首を差し出しに行った愚かな悪魔に成り下がるだろう。
もしかすると、暗黒将の座が一つ空くことになるかもしれない。
「後悔すんなよ、インヴィー」
◆ ◆ ◆ ◇
魔界にある伯爵領。
領地の一角に建つ城の中では、何やら壮絶な悲鳴が響いていた。
「ぷーぱはおろかものです! ごしゅじんをくろこげにしたつみをつぐなうため、みずからをばっしているのです!」
「プーパ様ー! どうかおやめくださいいいい」
自分の頬を力一杯叩き続けるプーパの横で、ビベレがおいおいと泣き叫んでいる。
騒音を超え、公害の域に達した部屋で思い切り顔を顰めたレインは、痛む頭を強く押さえつけた。
「黙れビベレ。頭に響く。プーパ、お前もだぞ」
すぐに口を塞いだプーパは、ふがふがと何事かを口にしている。
ビベレも咄嗟に口を塞ごうとしたが、手がないことに気づき、尾の先端をぺとりと口に当てていた。
「まさかこんな事になるなんてな。ただの新人じゃないとは思っていたが……クソッ! あの死神を人質として、誓約書の破棄を行わせる計画が水の泡だ」
「ごしゅじん……」
「……申し訳ありません、レイン様」
プーパの手には、レインから渡された楕円形のアイテムが乗っかっている。
黒く焦げつきひびの入ったアイテムは、とても使えそうな代物には見えなかった。
「アヴァリーも失敗したあげく、魔王様まで危害を加えるなと言い出す始末だぞ? あの野郎に借りを返すどころか、誓約書の破棄さえ遠のいたって訳だ」
力が抜けたように座り込むレインの元に、プーパが慌てて駆け寄っていく。
慰めようと膝に抱きついたプーパを見て、レインの雰囲気が幾分か緩んだ。
「まったく……お前たちは肝心なところで詰めが甘いな」
ため息を吐いたレインは、プーパのおでこを指で弾くと、そのまま膝の上に持ち上げている。
ベッドの足を伝い登ってきたビベレが横でとぐろを巻いたのを確認すると、レインは「少し休憩するぞ」と口にした。
「どうせ今はやれることもないからな。しばらくの間は力を蓄えておけ」
「ごしゅじん……!」
そっけないながらも部下への優しさを見せるレインに、プーパは嬉しそうな表情で抱きついている。
そんなレインとプーパの姿を見て、ビベレは滝のような涙を流していた。
レインは外面が良く紳士的だが、反面、化けの皮が剥がれると荒い部分が目立つ悪魔でもある。
特に領内では苛立ちをあらわにしがちなレインにとって、部下兼ペットの存在は何やかんや言っても大切なのだろう。
静かになったプーパとビベレを視界の端に捉えながら、レインは暇つぶしにプーパをつねったり、ビベレをつついたりしていた。
しかし、不意にプーパから漂ってきた匂いに、レインは眉を顰めていく。
体に触れる度ふわりと香るそれは、プーパには馴染みがないはずのもので──。
レインの動きが止まったことで、プーパが不思議そうに顔を上げている。
違和感の正体を探るため、レインはプーパに向けてゆっくりと口を開いた。
「プーパ、お前……フローラルのにおいがすごいぞ」