ep.52 燕の真意
燕の目が覚めたと連絡が届いたのは、閻魔の元から戻ってすぐのことだった。
「あ、睦月ちゃん!」
こちらを見て嬉しそうに笑う燕は、ベッドの上で身体を起こしている。
そのまま下りて来ようとするのを制し、近くに置かれていた椅子に腰掛けた。
「目が覚めて良かった。調子はどう?」
「全然平気! この後のチェックが終わったら、現世に戻れるんだって」
明るい様子の燕に安心する。
以前、紬が言っていた。
自戒とは身体の中に直接電気を流すようなものだと。
内側から焼け爛れていく痛みに耐えるのは、精神さえも消耗しかねない行為だ。
現在の王が、自戒の印をどうして死神たちに刻ませたのか。
少なくとも、強制的な統治よりもさらに残酷な目的があったのは確かだろう。
今でも鮮明に思い出せる。
霜月の口から吐き出された赤と、まるで身体を蝕むように浮かび上がった印を──。
激痛に耐える霜月に、私は何もしてあげることが出来なかった。
薄れない記憶というのは、時として厄介なものだ。
しかし同時に、罪の重さを忘れないでいられる。
「時雨なら先に戻ったよ。律っちゃんの手伝いがあるし、おれももう一人で大丈夫だから」
燕の目が覚めるまで、時雨がずっと傍にいたことは知っていた。
部屋に姿が見えず視線を彷徨わせた私に、燕が時雨の所在を教えてくれる。
「おれのせいで、律ちゃんが無理しすぎてないといいんだけど……」
「リブラもいるし、人手は問題ないって言ってたよ」
「そっか! 睦月ちゃんがいるから、しばらくこっちに残るって話してたもんね」
一時的な滞在を繰り返していたリブラだが、今回は期間を決めずにいたことが功を奏したらしい。
報告を終え燕を見舞った律とリブラは、時雨に付き添いを任せると、すぐに現世へ引き返していった。
燕と時雨が抜けた穴をリブラが埋めていたため、特に問題が起こることはなかったようだ。
別れ際に「睦月さん〜!」と叫ぶリブラの首根っこを掴んだ律は、「睦月ちゃんがアパートに来てくれたおかげね」なんて微笑みながら、潤んだ目のリブラを容赦なく引きずっていった。
「あのね、睦月ちゃん」
落ち着いたトーンで声をかけられ、何かあったのかと燕の方を見つめる。
「前に、印の場所について話したの覚えてる?」
「覚えてるよ。悪魔と対峙した時の話だよね。燕は私の印の位置が気になってるみたいだった」
「うん。睦月ちゃんはどうして、その位置に印を入れたのかなって……」
私の印は、ちょうど心臓の真上くらいにある。
ここに決めた理由は、霜月と初めて出会った日。
胸元のローブを掴む仕草を目にして、言葉にし難い感覚が走ったからだ。
ここだと思うと同時に、拭いきれない違和感もあった。
矛盾しているが、あの時の感覚を表すならこう例える以外にない。
「一番関心を持てた場所、だからかな」
燕の瞳が揺れる。
言葉にするか躊躇っていた燕だが、やがて静かな声で話し始めた。
「死神の印は、途中から導入された規則ってことは知ってるよね。王様が……便利になるよう取り入れた制度なんだって」
便利、ね。
硬い表情の燕に、現状の深刻さが伝わってくる。
死界では、発言一つであっても命取りになりかねない。
普段は溌剌としている燕でさえ、こういった話は慎重にならざるを得ないのだろう。
「印は全ての死神に刻まれるけど、一部の死神以外はほとんど使うことがない。だから、死界に住んでる死神の多くは、手の甲に入れるんだって律っちゃんが言ってた」
印は常に見える訳ではなく、自らで起動するか、強制的に作動するかで視認できるようになる。
本職や死局勤めでもない限り、印を使って何かをする機会もないのだろう。
そう考えると、印は規則を守らせるための手段であり、便利なツールのようにも思えてくる。
しかし実際は、反乱分子を抑え込み、監視するための拘束具なのだ。
アンブラやカウダたちと遭遇したことで、より確信が持てるようになった。
印のない死神がいるのは、印がなくても成立するから。
以前の死界に印が存在しなかったことを鑑みても、必要ないものを敢えて取り入れる理由は、都合が良いからに他ならない。
「でも、おれたちみたいな本職は印がないと不便だから、怪我を負いやすい位置には入れないようにしてる」
その話については、私も上司から聞いたことがある。
相槌を打つと、燕は不安げな表情を見せながらも話を続けていく。
「ただね、印の場所にはもう一つ意味があるんだ。死神は人間とは違うけど、五感や痛覚はあるし、形が似てる分、打撃を受けやすい位置もそれなりに似てる。だから、その……」
燕の眉が顰められる。
つっかえた言葉を押し出すように、手に力が込められた。
「急所に近い位置に印を刻むってことは、王様に忠実であるってことを意味するんだ」
思考が冷えていくのを感じる。
口を閉ざした私を見て、燕が慌てた様子で手を振った。
「おれは睦月ちゃんがそうじゃないって分かってるよ! でも、もし知らないなら、伝えておいた方がいいと思ったんだ。……余計なことしてごめんね」
落ち込む燕の頭に手を乗せ、何度か往復させる。
ぱちくりした目を向けてくる燕だったが、撫でられたと分かるなり、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「燕は、どうして私に優しくするの?」
優しさには意味があるものだ。
良くも悪くも、叶えたい願いや目的があってこそ、優しさは形を成すことができる。
律は、燕が私に懐く理由を、家族になりたいからだと言っていた。
全てを否定する訳ではない。
燕が私に見せる態度は、どこか陽向を彷彿とさせる。
中にはそんな感情も混じっているのだろう。
けれど、最も大きさを占めている感情は、家族に向けるような愛でも、友に向けるような親しみでもない。
「それは……おれにとって睦月ちゃんが──」
「あ〜、来てたんですね睦月さん〜」
間延びした声と共に、紬が壁を通って入室してくる。
「燕の目が覚めたって聞いて。突然で驚かせたよね」
「いえいえ〜。睦月さんならいつでも歓迎しますよ〜」
明鷹の話によると、紬はあまり来客の長居を許さないらしい。
威吹の見舞いに訪れた際、容赦なく追い出されたと明鷹が嘆いていた。
あくまで患者ファーストな姿勢を貫く紬だが、一部の死神には態度が軟化することもある。
何故か私もその一部に入っているため、紬は治療課が有する空間に、私が自由に出入りすることを容認していた。
「問題なさそうですね〜。もう出ても構いませんよ〜」
紬は燕の身体に触れると、満足気に頷いている。
喜びで腕を上げる燕を見て、自然と口元が緩んだ。
「またアパートでね」
部屋から出ていく紬を横目に、私も椅子から立ち上がった。
「うん! またね睦月ちゃん!」
またという言葉に満面の笑みを浮かべた燕は、まるで向日葵のような鮮やかさで、いつもと変わらぬ明るさを纏っていた。