緩和休題 = ◆ 睦月と社畜 ◇ =
昔、家の近くの公園に猫の集会所があった。
幼い頃から猫を見るのが好きだった私は、集会がある日にわざわざ公園まで足を運んだりしていた。
その日、公園には先客がいた。
青白い顔で生気の失せた目をしていた男は、私に気づくと軽く頭を下げてくる。
今にも倒れそうな顔色をした男は、仕事帰りなのか少しよれたスーツを着ていた。
ベンチに腰掛け、足元に集まる猫たちに煮干しをあげ終えると、男は「どうぞ……」と言いながら立ち上がった。
「私は大丈夫なので、座っててください」
明らかに疲れ切っている男から、場所を譲ってもらおうとは思わない。
男はこちらを見ると、再びベンチに腰掛けた。
「お嫌でなければ、隣……座りませんか?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
初対面の人から誘われて、誘いに乗ったのは初めてのことだ。
足元にじゃれついていた猫たちは、私が座ると膝の上に乗り上げてくる。
「とても……懐かれてますね」
「顔見知りなので」
「そうですか……」
優しい目で猫を見ていた男だったが、何を思ったか、突然ぽつりぽつりと溜め込んでいた感情を吐露し始めた。
「僕……社畜なんです」
「しゃちく」
「社会の畜生と書いて、社畜です……」
分かってる。
分かってはいるんだ。
ただ、突然のカミングアウトに少し戸惑っていただけで。
こういう時、感情が乗らない顔というのは、便利なのか不便なのか分からなくなってくる。
「たまには休んだらどうですか?」
「僕もそう思ってはいるんです……。でも、僕が行かないと何人も亡くなってしまう。そう考えると……どうにも休んではいられない性のようでして」
予想外の言葉に、思わず目を瞬く。
「僕はこれでも……医者をしているんです。まあ、先祖代々医療に携わっている家系と言うのもありますが……」
「そうなんですね」
スーツを着ていたためだろう。
医者と言われても、いまいち実感が湧かない。
私の視線が服の方を向いたからか、男は「ああ……」と声を漏らした。
「学会の帰りなんです……。例の病気が日本にも来たことで……色々と慌ただしくて」
ロストメモリーシンドローム。
突如発生したこの病は、原因不明の奇病として世界に広がっている。
進行を止めることさえままならず、世界中で研究が行われるも、最終的には安楽死を認める国まで出てきたくらいだ。
「治せそうなんですか?」
「無理でしょうね」
先ほどまでの声とは違う。
力の入った、はっきりとした声だった。
「脳に異常が出ているわけでも、ウイルスのようなものが見つかるわけでもない。詳しい者ならとっくに気づいてますよ。お手上げだって」
人を救いたいと思い医者になったからこそ、無理なことは無理だと分かるのだろう。
時として余命を宣告する医者は、どんなに救いたくとも、救えない命を何度も目にすることになるのだから。
「ですが──」
続けられた言葉に、黙って耳を傾ける。
「不可能だと解っていながらも、諦められない。最期の最後まで、患者のために動き続ける。それが……医者ってやつなのかもしれません」
淡く微笑んだ男は、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
「聞いてくださり……ありがとうございました。こうして自分の気持ちを話せたのは初めてで……。あの……、今の話ですが……」
「心配しなくても、誰にも言ったりしません」
まず、そんな相手もいないので。
言葉にしてみると、なかなかに孤独な人生だ。
一人の方が楽なのだから、今更どうしようもないのだが。
私の言葉にほっとした様子を見せると、男はこちらに会釈をして、そのまま公園から去っていく。
遠ざかる後ろ姿は疲れているようで、けれど──その足はしっかりと地面を踏みしめていた。
◆ ◆ ◇ ◇
あれから、あの男がどうなったのかは知らない。
今も医者を続けているのかもしれないし、もしかしたら既に閻魔の元に渡っているのかもしれない。
けれど何となく、まだ現世のどこかで医者をしているような気がした。
そもそも、何故こんな記憶を今になって思い出しているかと言うと──。
「わ〜、ありがとうございます睦月さん〜」
「どういたしまして。お菓子を作ったのは美火だから、味は保証するよ」
「そうでしたか〜。美火ちゃんにもお礼を言わないとですね〜」
詰め合わせの袋を受け取った紬は、とても嬉しそうな表情を見せている。
「甘いもの好きなんです〜」
「そうだったんだ」
「代々医療に携わる家系でしたからね〜。甘いものは常に持ってましたよ〜」
ポケットの位置を叩いた紬は、聖職者のような、それでいて白衣にも似た服を着ている。
相変わらず今にも倒れそうな顔色をしているが、紬の動きにそんな様子は見られない。
邪魔になるといけないからと、早めに空間を後にする。
紬は「睦月さんなら、好きなだけ居てもいいですよ〜」と言っていたが、他の患者もいる中、さすがにそんな真似は出来なかった。
死局の廊下を歩きながら、かつての記憶を思い出す。
決して薄れることのない記憶は、映像を見ているかのように鮮やかだ。
公園であったスーツの男。
今思えば、目の下にべったり張り付いた隈と、綺麗な水色の瞳は──先ほど会った死神のものと、とてもよく似ていた。