ep.27 睦月の怒り
海中へ足を踏み入れようとするアンブラを見て、魂が必死で語りかけてくる。
「あの先に御神体があるの?」
魂が祀っていた神は、どうやら精霊の類いらしい。
定まった形を持たず、依代に宿り顕現する。
現世で神と呼ばれる存在を、死神は精霊と呼ぶ。
しかし、現世の人々にとっては、死神も精霊も変わらず神として捉えているのだろう。
仕えていた神の所有物に手を出されるとあっては、魂も大人しくしていられないらしい。
正直、彼女の神がどうなろうと、霜月が無事ならそれで良かった。
こちらが静観を貫く限り、アンブラもわざわざ敵対する意思はないように思える。
身の安全を取るなら、何もせずただ見ていればいいのだ。
──けれど、この件には月が関わっている。
彼女に神託を下した存在は、少なからずここに居た月の事を知っていたはずだ。
だとすれば、むざむざと渡してしまうわけにもいかない。
「ねえ霜月。もし私が、あれを渡したくないって言ったら──」
「睦月が望むなら、どんなことでも力になる」
迷いはなかった。
私の気持ちを優先してくれる霜月に、愛おしさが積もっていく。
「……邪魔をするつもりかい?」
一瞬で凍てついた海に、アンブラは歩みを止めた。
聳え立つ水の壁は、今や氷の壁だ。
左右の壁から伸びた互い違いの氷柱が、道を完全に塞いでいる。
「元々の目的は、その先の物ではなかったはずです」
「目当ての物が無いなら、このまま帰れという意味かな?」
笑い声を上げたアンブラは、こちらを振り向き「残念だよ」と口にした。
「ここで事を起こす予定はなかったんだが……君たちがそのつもりなら、仕方ないね」
アンブラの足元から巨大な影が伸びていく。
まるで蜘蛛のように広がった影は、それぞれが独立した動きをしていた。
鋭く変化した影が地面から飛び出ると、そのまま霜月に向かって切り付けてくる。
霜月が死神之大鎌で弾くと、影は再び地面の中へ引っ込んでいった。
周りを囲む影は、蜘蛛の巣にかかった獲物を狙うかの如く。
次々と飛び出てくる影を、霜月は的確に処理している。
時に攻撃を受け止め、いなしながら対処する霜月に、アンブラは含みのある笑みを浮かべていた。
アンブラの背後でぱきぱきと音が鳴る。
突然降って来た氷柱を、アンブラは自身の影で払った。
「全く、困ったものだね。君のような死神は初めてだ。データにない存在でありながら、あり得ないほどの実力を秘めている」
アンブラの足元が、徐々に凍りついていく。
「他にも能力を隠しているのだろう? 全く、本当に、困ったものだよ。だが……他の手札があるのは私も同じでね」
「ごほっ……!」
吐き出された赤を呆然と見つめる。
霜月の口から滴り落ちた赤が、押さえた手を伝って地面を濡らしていく。
黒い霧に変わるそれは、死神だけに起こる特有の現象だ。
「霜月!」
「ふむ。君には効くのか」
バランスを崩した霜月に駆け寄り、咄嗟に身体を受け止める。
苦しそうに拳を握る霜月の首から頬にかけて、くっきりと印が浮き出ているのが見えた。
「もしかして自戒の……? だけど、どうして──」
霜月を抱え座り込む。
四方から、影が突き刺すように狙っている気配がした。
この状態では避けられない。
せめて霜月を守ろうと抱きしめると、近くで聞いたことのない音が響いた。
「ははは! これは驚いた。まさか空間能力の持ち主だったとは」
喜びを露わに笑うアンブラと、不自然な場所で途切れている影。
霜月がやったのだろうか。
──まるで、そこだけ空間が歪んでいるかのようだった。
「早めに取り込む必要がありそうだ」
途切れた影を引き戻すと、アンブラは機嫌が良さそうに呟いている。
沸々と湧いてくる感情は熱いようで、これ以上ないほどに冷たい。
頭の芯が冷え切ったかのような感覚と、自分のものに手を出された強烈な怒り。
私の様子が変わったことで、霜月が心配そうに視線を向けてくる。
耐え難い苦痛と戦っているにも関わらず、能力を使ってまで私を守ってくれた。
苦しそうに呻く霜月の口元を拭う。
指に付いた赤は、黒く変色して消えていった。
「少しだけ待ってて」
霜月の目を手で覆うと、アンブラの方を真っ直ぐに見つめる。
「……この感情はなんだ。まさか、この私が恐れているとでもいうのか……?」
動揺するアンブラの背後で、氷にひびが入っていく。
霜月が能力を維持できなくなったため、凍っていた海が元に戻ろうとしているのだろう。
本来の姿を取り戻した海が、一気に崩れていく。
荒い高波が押し寄せ、傍を飛んでいた魂ごと、私と霜月を呑み込んでいった。
絶対に離すまいと抱き締めた私の耳元で、「後は任せて」と優しく囁く声が聞こえた。
◆ ◆ ◆ ◆
海に呑まれながらも、アンブラの思考は止まらなかった。
──あの目。
あの目はいったいなんなんだ。
たかがちっぽけな小娘一人に気圧された。
その事実が、アンブラの余裕を大きく乱している。
あの死神たちがどうなったのか確認しなくては。
いや、目当ての物を手に入れ次第、ここを去った方がいいのかもしれない。
予想外の連続で、アンブラの思考が矛盾していく。
睦月たちとは逆の方向に進もうとしたアンブラは、いきなり引いていく波に驚きの声を上げた。
「いったい何が……。私はなにも──」
していない。
そう続くはずだった言葉は、目の前の存在によって打ち消された。
「そうだね。君は何もしていない」
「お、まえ……。いや、まさかそんなはずは……」
あり得ないと呟くアンブラに、死神はにこりと微笑んでいる。
猛烈な違和感がアンブラを襲った。
たとえ見た目は同じでも、これをただの死神と言うのは不可能だろう。
宙ではなく紺碧。
瞳に眩く光る星を宿したその死神は、身体の持ち主が浮かべようもない表情でアンブラの前に立っていた。