ep.23 抉られるトラウマ
「テメェらの中で一番権力を握ってんのは、あのカマ野郎なんだろ? オレは長く持つ方を選びたかったが、結果はこのザマって訳だ」
「お前、今の状況でよくそんな口が利けるな」
「ハッ。テメェまさか、ここに来たのがオレだけだとでも思ってんのか?」
ぞわりとした感覚が時雨を包み込む。
身体が不自由な状態にありながらも、カウダは余裕のある笑みを崩していない。
カウダの言葉から推察するに、まだ姿を現していない死神が近くに隠れているようだ。
時雨を包む感覚も、おそらくその死神の能力なのだろう。
燕と目線を合わせた直後、視界が急速に暗転していく。
気がつくと、時雨はアパートの一室で座り込んでいた。
◆ ◆ ◆ ◇
汚部屋。
そう評する以外にないほど汚れた部屋は、酷い悪臭と塵で埋め尽くされている。
強制転移でもさせられたのか。
呆然と座り込んでいた時雨は、ゆっくりと部屋の中を見回した。
「……嘘だろ。まさかここ……」
見覚えのある光景に、喉から引き攣った音が漏れていく。
足元で無数の生物が蠢く気配を感じ、時雨は反射的に立ち上がった。
「は……っ、ははは……。隠れてたやつの能力は、精神系だったってか? 胸糞悪りぃ記憶なんか視せやがって」
普段よりも幼い声と、ガリガリに痩せ細った手足。
いかにも不健康ななりの少年は、かつて人間だった頃の時雨と同じ姿をしていた。
「幻覚のたぐいか? 何にせよ、目的は分かった。後はどんだけ耐えられるかだな……」
床を這いずり回る虫の姿に、時雨のトラウマが刺激されていく。
どこから湧いてくるのかも分からないほど、腐敗に覆われた室内だ。
けれど、あえて確かな出所を特定するとしたら、奥に横たわる女の遺体からだろう。
どの場所よりも虫が湧いている。
「そんなに俺が嫌いだったのかよ……母さん」
死後何日も経った屍と暮らす、骸骨のような少年。
常に空腹だった少年の身体には、至る所にケロイドや傷の痕が残っていた。
「急げよ、燕」
飛び回る蠅の羽音と、地を這う虫たちの雑音。
正気を保つため、時雨は自分の腕に思い切り爪を食い込ませていった。
◆ ◆ ◆ ◆
あちこちから飛んでくる黒い矢を、リブラは軽々と避けていく。
素早く回転させた死神之大鎌で一気に薙ぎ払うと、リブラは律に向けて不満そうな声を上げた。
「ねえ律〜、さっきから申請通らないんですけどぉ」
「やっぱりリブラもなのね」
小さくため息を吐いた律は、勝ち誇った顔のラケルタを見て緩く目を細めている。
「どうやって印の自戒を逃れているのかは知らないけど、その選択はいずれ、自分の首を絞めることになるわよ」
「偉そうに。死神にもなって、性別さえ決めきれないような半端者に言われたくないわ」
律の忠告を鼻で笑いながら髪をいじるラケルタに、リブラは呆れた様子だ。
「死神が性別を選ぶ理由なんて、ほとんどが生前からの引き継ぎでしょ。それに、神性が高くなるほどそんな概念も無くなってく。そこを気にするってことは、君……弱いんだね」
神としての要素が強まるほど、死神は人間と大きく乖離した存在になっていく。
リブラは言外に、人間の頃の常識に捉われているラケルタを、神としては弱い存在だと馬鹿にしたのだ。
怒りで震えるラケルタだったが、何とか気を持ち直すと、リブラたちを嘲るような目で見てくる。
「せっかく人の時よりも良い容姿が手に入るっていうのに、わざわざ中途半端を選ぶ愚か者がいて驚いたのよ。死神王の側近が全員女性を選んだってこと、まさか知らないわけじゃないわよね?」
「だから何? そもそも、本来の側近は全員──」
「リブラ」
鋭い声が聞こえ、リブラは瞬時に口を噤んだ。
以前の王や側近に触れる言葉は禁止事項に当たる。
月は死界で禁止された言葉だが、たとえ現世に居ようと、死神たちの発する言葉はタブーとなってしまうのだ。
自戒の印が発動しかねない状況に、律はリブラがそれ以上話すことを止めたようだった。
律の意図を察したリブラも、大人しく口を閉じている。
こうしている間も、周囲から飛んでくる矢を難なく処理し続けるリブラの姿に、律は小さく笑みを浮かべた。
「あなたたちは、見えるものでしか判断できないのね」
「……どういう意味かしら」
「相手の実力を測ろうにも、君たちでは力不足ってことだよ」
目の前で顔を歪めるラケルタと、隠れて射撃を行ってくる死神。
リブラは「大体把握できたかな」と呟くと、律に向かって声をかけた。
「じゃあ僕はあっちの処理してくるから、こっちはよろしくね〜」
「もちろんよ。それとリブラ、今回は遊ばないで迅速に終わらせてきてちょうだい。燕と時雨の元にも行ってるみたいだから、早めに合流しておきたいわ」
「りょーかい」
軽快な動作で地を蹴ったリブラは、そのまま木々の陰に消えていく。
その場に残った律の前で、ラケルタは苛立つ気持ちを抑えきれず爪を噛んだ。
「真の神を崇めない出来損ないどもが、よくも私をコケにしてくれたわね」
「……残念だけど、あなたを同族と思うのはやめにするわ」
死神は同族を狩ったりしない。
しかし、今の死界は、死神と呼ぶにはあまりにも歪な存在が増えすぎてしまった。
破裂音が鳴る。
ラケルタの周りで走る閃光に、律は表情を引き締めた。