最後の夜に
「まってくれ! 行かないで。もう一度だけ。お願いだ! そのためならば、どんな苦痛にだって耐えてみせる。だから──」
歯を喰いしばって耐え凌ぎ、震える両脚を無理やり動かし、どんなにここから抜け出そうと頑張ろうとも決して光を見ることができなかった。この身を支配するのは苦しみ。絞り出した悲痛な嘆きは暗闇に飲み込まれて消えていった。救いなんざもうこの世には存在すらしない。
いつしか、この痛みさえも愛しさに変わる日が来るのだろうか?
「彼女と再び会えるその時の喜びを思えば、この痛みさえ跳ね除けられる、とでも? ……これは誰が与えた罰なのか? 誰が犯した罪なのか? それをここで考えたところで、彼女は戻ってこないのに」
ぜーぜーと息を吐く。時より血の味がするのは、叫びすぎたせいだろう。ここはもといた世界に比べると息が詰まってしかたがない。常に首を絞められている感覚だ。身体の節々に痛みを感じつつも、青年は決して歩みを止めようとはしなかった。
「今回は誰が邪魔をした?」
アポスフィスムという己の境遇に、この物語の運命に、幾度となく抗おうとしただろうか──。人々によって語り継がれてきた神話が悲劇に変わる時。どれだけ手を尽くしても、妨害されてしまう。彼女に手が届くことを願って何度も何度もこの運命を変えようとしてきた私たちを、そして人々を葬って、呪ってきた私をキミはわからないだろう。いいや、知らなくていい。
同じ展開を迎えないように絡まった運命の糸を解こうとしても解けなくて、しまいには糸が雁字搦めになっていく。
せめてもの抵抗として、逆にゆいの目をつくってみようとも、どれもかしこもしっちゃかめっちゃかになり、意味をなさなかった。これでは全く役に立たない。
「今度こそ。……今回ならば勝機がある。ひとつ目の鍵を開けたのは私なのだから。盃を満たすのは私だ」
私の力を使って、生きている彼女に伝えられる事柄にはあまりにも制限がかかりすぎていた。それが、己がアポスフィスムとして生を受けたからなのか、この力を持ってしまったからなのか、どちらにせよ監視の目がある以上動けないだろう。
できる限り綺麗に、物語の糸を一本一本を綺麗に正しくしようとしても、それも意味を成さないならば、この呪われた運命を断ち切ってしまうしかないのだろう。 ──私の力を使って。
「二度と離れ離れになるものか!!」
「っ……?! さっきのは一体?」
頭の中で誰かの声が響いた気がして、飛び起きてしまった。夢を見たのだろう。じんわりと汗が滲み、不快感を抱いてしまう。さっきの何かに捕まってしまうのではないかという恐怖心が消えないまま、寝れそうになかった。すぐに再び眠りにつくのも難しいだろう。日が明けたら、出発しなければいけないのに。どうしよう。
ひとりでに枕元の明かりが灯った。それはゆらゆらと揺れていて、私を外へと誘い出しているかのようだった。起き上がり、窓から空を見上げる。星々が輝いて、丸い月が真上に出ていた。夜中に目を覚ましてしまったらしい。止まらない汗と悪い方向に考えてしまう思考をさますために、風にあたろうと外に出ることにした。
「もう、帰る時がきたんだ……。実感が湧かないな」
ぽつり呟いた独り言は夜の闇の中に消えていった。ここは居住区から離れたところのため人々の気配すらしない。光もないから、星月がよく見える。王宮では不寝番たちの見廻があるし、櫓には夜にも灯りが灯っていた。でもここでは、聞こえてくるのは波の音。
「まだ心臓がバクバクしてる。なんだったんだろう。さっきの夢」
夜風にあたって頭を冷やしても、私の胸には未だモヤモヤしたものが残っていた。何か悪い夢を見ていたのだろう。何度も繰り返し起こる出来事を止められない夢。怖くて、孤独で、何もできない自分が嫌になる夢──。
違う、登場人物は私ではなかった。誰かが繰り返して見ている夢を共有しているかのようで、彼は私に手を伸ばそうとして……、
「眠れないのですか?」
見た夢をもう一度思い出そうとしたとき、背後から誰かに声をかけられた。恐る恐る振り返った。音もたてず、灯りも持たず、気配もなく、亡霊のように現れたレスディさんに一瞬胸の音が騒がしくなる。
「すみません。驚かすつもりはなかったのですが」
「いえ、考え事をしていて、ついまわりの気配を感じとることを忘れてしまっていました。もしかして、私が外に出る音で起こしてしまいましたか? ……念のため扉の音が辺りに響かないようにと、工夫をしてみたのですが」
レスディさんが驚いて、目を見開いた。その表情の意味が捉えきれずに彼の言葉を待つ。ついさっきみた夢のことなど、思いがけない人物の出現により、いつの間にか頭の隅においやってしまっていた。
「……全くと言っていいほど扉の音は聞こえませんでした。私は書き物をしていまして、波の音がやけにうるさくて、外を見たらちょうど月明かりで殿下のお姿が見えましたので、少し心配になって追いかけてきたのですよ。それにしても、ここまで無意識のうちに力を使えるようになっているとは、素晴らしい」
「え?」
波の音なんていつも通りで、満潮の時刻はとうに過ぎている。気になる程でもなかったはず。レスディさんがこの時間まで起きていたことに少しだけ驚いて、そして明かりが灯っている部屋なんてなかったはず。と少し引っかかるが、それよりも気になったのは彼の後半の言葉だった。
「エレーヌ殿下は、工夫。と表現されていましたが、それは音を周囲に響かせないように空気を遮断したのではないでしょうか? 万物の根源と私たちの持つ力は深く関わりがあるのですよ」
「わ、私は無意識のうちに力を使っていたということですか?」
レスディさんは私の言葉を肯定するように、ゆっくりと頷いた。
神の力と言われていても、どんな力なのか想像もできなかったから、些細なことで力を使えるようになるなんて思いもしなかった。そもそも、力って何?
「力とは、このように意識しないうちに使えている物なのでしょうか?」
「ええ、殿下のように意識せずとも発現していることもありますよ。ほんの些細なこと。それは、先程申し上げた通り、万物の根源に基づいて物事に影響を及ぼすことができる力をいいます。──この世の現象を象徴しているという、原理。深く関わり合っている事象について知っておくのも損はないですよ」
「……神の力と原理? それって」
明かりがついたのも、音を立てずに移動できるのも、このやけに止まらない心臓の音も全て理由があるとレスディさんは言いたいのだろう。
「少しずつ、実感が湧いてきましたか? 神の力とは言いますが、その力にも大なり小なりです。元は魂に宿した神に由来するものが多いのですが、ある者は、予知夢。またある者は闇を感じ取れたり、そしてある者は破壊、創世、転生……」
レスディさんから心当たりがある単語が出てきたことを皮切りに、するすると記憶が蘇ってくる。今までの事と当てはめてみた。闇を感じ取れるのはレオス。そして予知夢は、もしかしたら原作の主人公ユディの力なのではないだろうか?
(なぜ彼がユディのことを知っているの?)
ユディの名前を今ここで出すことはできない。なぜか、糸が切れてしまうと思ったから。
外気はさほど冷たくないというのに、なんだか肌寒くなってきた。以前にも感じたことがある、レスディさんに対する恐怖。この言葉の続きはきっと聞くべきだと、誰かが言っている。でも、目の前の彼に対する形容もし難いこの違和感をどう処理したらいいのだろうか。
「私の場合は、呪いと言ったところでしょうか? ……記憶と結びつけようとしたり、はたまた欠落させたのも私が、殿下のためにしたのです。貴女の魂の成長を早め、破滅の運命を辿らないように、ね」
レスディさんは今度こそ、私の記憶を繋ぎ合わせようとするだろう。
時は満ちた。──そう、彼の微笑みが物語っている。




