枷と鎖
稽古でかいた汗を拭き、清めてから、眠る前にいつも殿下にお出しするハーブティーを準備する。殿下の毎日の食事、飲み物は全て厳重に管理されているため、この眠前のハーブティーもアーティ殿下より許可を得て提供している。このハーブは私の故郷の国から取り寄せている。眠気を誘うおまじないと母から教わったように隠し味をひと匙加えてから、殿下の専用の杯に淹れた。
この杯も、私が殿下のために特別な素材で作ったものだ。これを作るために ≪神の力≫ を使っているだなんて、エレーヌ殿下に知られたら怒られてしまうだろうか? 殿下のプシュケーが安らかであるように、器の疲れが取れるようにと、無意識のうちに力を使っていた。エレーヌ殿下を眠りに誘うことができたなら、それでいい。
≪血の契約≫ を介して結ばれている私の中でいつしか、エレーヌ殿下は特別な存在になっていた。殿下の血肉になるものにも私で満たすことはできないだろうかと考えている自分がいて、最近はその烏滸がましい気持ちを鎮めるのに苦労していた。
「エレーヌ殿下、いつもの飲み物をお持ちしました。……殿下? 」
一瞬不安が頭を支配した。冷静にならないと、と自らを落ち着かせるように、肌身離さず持っているエレーヌ殿下と私を繋ぎ止める玉を片手でひと撫でする。この時間はまだご就寝前のはず。いつもなら、返事はすぐしてくださるはずなので、心配になってしまい、礼儀を無視して返事を待たずに部屋へと歩みを進めた。部屋のドアを開ける。
でも、いつもこの時間に殿下が腰をかけている寝具にも、勉強をされている机にも、本を読まれているときに使う長椅子にも、どこにも居ない。
「……エレーヌ殿下、──エレーヌ殿下!! 」
部屋を見回しても殿下の姿はない。おまけに、窓は開いていた。その光景をみて動揺して持っていた杯を落としてしまう。
ガシャン
──この音は消して杯が壊れてしまっただけの音ではない。鎖が落とされたときの音。これが意味することは、主人の不在で気が動転していたノータナーには気に留める余裕すらなかった。
音からして壊れてしまっただろうが、もうなりふり構っていられない。殿下が私から離れない限り杯はいくらでも作れる。
(今は、殿下を探さないと──! )
気が動転してしまった私は狂ったようにエレーヌ殿下の痕跡を探しはじめた。殿下の寝具を乱暴にはぐっても殿下はいない。寝室にいないとなれば、違う部屋だろうか? そう思って周辺の部屋をしらみつぶしに探すが、エレーヌ殿下の息遣いすら察知できない。殿下はきっとここにはいない。
(殿下は今邸から姿を消してしまった──。では、どこに? 誰と? 何故? ……そんな、……はずは! なぜ、)
そんな声が頭の中を木霊する。冷静でいないといけないはずなのに感情のコントロールができない。そして、私が辛うじて押さえつけていた全ての感情が、解放されてしまうトリガーとなったのは、私の主人ではない者の微かな気配を感じたことだった。その者とエレーヌ殿下は一緒にいる。そしてその者というのは西の塔の住人、彼だろう。
「──と言うことですから、そちらも気をつけてくださいね 」
先日宰相より、ある情報が入っていた。対策はしているが、なんせ彼の特殊な力故、いつ行動に移すか検討がつかなかった。なんで、今なんだ。しかも、エレーヌ殿下を巻き込もうとするなど──!
エレーヌ殿下の力がまだ完全になっていない以上、 ≪血の契約≫ で結んだ私との繋がりを最大限に利用することはできない。殿下の器に負荷がかかり過ぎる。
ただでさえ、ラシウス陛下の体調が思わしくない以上、私の縛りも簡単に解けてしまう危険性があった。これ以上、感情を爆発させてしまったら僕が出てきてしまう。僕は危険だ。エレーヌ殿下を知ってしまったら壊してしまうだろう。私でさえ、エレーヌ殿下に抱いてはいけない執着を持ち始めているのだから。わずかに、自己解析をする余裕はあるようだ。これが、おおごとになる前に、僕に見つかる前に、殿下を見つけなければならない。
僕は確実に執着するだろう。欲するのはエレーヌ殿下の清らかで美しい──。
「──なぜ、僕がでてくる? 僕のことは縛りで閉じ込めたはずなのに…… 」
エレーヌ殿下の無事を祈るように、私たちを特別たらしめる、玉をきつく握りしめた。まだ、殿下のプシュケーには異常がないのは、この殿下に見つめられた誰もが虜になってしまうほどの美しい目と同じ色をした玉が証明していた。玉に濁りや異物感も感じないということは、殿下のプシュケーは清らかなまま。今の私が知り得ることはそれしかなかった。
エレーヌ殿下の気配はこの王宮の近くにある。悔しいが、西の塔の住人と一緒のようだから、御身の安全だけは、保証される。彼も殿下を害すようなことはしないだろう。そもそもこの玉に変化がない以上、緊急手段を取ることは陛下より禁止されていた。
「契約の関係はどうしてこんなにも縛り付けられるのか! 殿下のところに駆けつけるべきなのは私なのに……もどかしい 」
ああ、僕が出てきてしまいそうだ。エレーヌ殿下が無事に戻るまで、縛りが外れるのが今か今かと待ち侘びている僕に、乗っ取られそうになるのを鎮めるのに必死だった。
私はこの ≪血の契約≫ は残酷な鎖だと結ぶ前から思っていた。陛下と交わした約束、そして将来の任務──。僕をしばるための枷である ≪血の契約≫ は、実のところ、エレーヌ殿下にとっては私と主従関係を結ぶだけの契約ではなかった。




