きっかけ
冬の澄んだ空気が漂う闇の中、その人は窓から突然現れた。突拍子もなく、おとぎ話に出てくる魔法使いのように私を夜の外へと誘いにきた。
「素敵なプシュケーを持ったお嬢さん、私と散歩に行きませんか? 」
「秘密の暗号はまだ揃っていないのに? 」
なんて──。二人だけの秘密の暗号が揃わないことを心配していた私は、いきなりのランデヴーをとりつけにきたオルフェさんに、茶目っ気たっぷりな返事をした。
暗闇のなかで月や星々が輝いているような刺繍がされている、大きな外套を彼にそっと頭からかけられる。一見重そうに見えるそれは、案外軽くて暖かかった。これなら風邪をひく心配はせずとも、彼との空中散歩を楽しむことができるだろう。驚く私の表情をみて、悪戯が成功した子どものようにオルフェさんはウィンクを零した。
「なかなかキミの部屋に近寄ることが出来なくなってしまってね。 見つかってもなんとか出来る満月ならと思って誘いに──」
窓の外から伸ばされた彼の掌に自分の手を重ねる。兄様の体調、レオスのことそしてノータナーへの贈り物や、色々なこれからのことを考えていて、眠れなくなっていたところだ。頭を冷やすには有難い誘いだった。あれから、思いもしない時に、オルフェさんは訪ねてきてくれて、私の悩み事を聞いてくれる。解決する手がかりやヒントが欲しいけれど、言葉巧みにわざと言及を避ける素振りをする。彼にも言えることと、言えないことがあるみたいだ。
「喜んで──」
凍てつく空気に触れた私の吐く息は、雪のように真っ白になる。私の返事を聞いてすぐにオルフェさんは満足そうに微笑むと、私の手をしっかり握って、抱えると空を飛んだ。──と思ったらすぐに急降下した。
驚いて思わず悲鳴を出しそうになる私の口を片手は繋いだままに、反対の手で彼に押さえられる。舌を噛まないように配慮してくれているのか、彼の細い指が唇の間に入れられて驚愕してしまった。
「ちょっと! いきなり……! 」
「あはは、ごめんなさい。 キミが怪我するよりはいいかなと 」
さも当然とでも言うようにオルフェさんは私の非難を受け流す。彼に手を引かれて庭に降り立った。夜の庭は昼間とはまた別の雰囲気が漂っている。植物や鳥たちが眠る冬だからか、なおさら静かに感じる。
二人分の呼吸の音や足音だけがあたりに響くから、私たちだけ取り残されたように、少し寂しくなってしまった。急に人恋しくなって思わず繋いだ手を強く握り締めてしまう。
「あはは、ここまでですか──。あれ、震えていますね、 不安? それとも怖い? 」
「そんなことないです。ところで、オルフェさん。なんで急に? あれから暗号すらなかったのに 」
オルフェさんが私の記憶の箱を開ける鍵を与えてくれたあの日から、季節はひとつ過ぎてしまっていた。箱を開けさせたのは彼なのに、窓際に枝が置かれることはなく、私が窓の外に置いた手紙もなくなってこそいるが、枝のメッセージがなく、今回も突拍子もない訪問だった。
レオスにそれとなく聞いてみても彼も近頃は見ていないらしく、「嫌な気配がなくなったからいいでしょ? 」と言われ、レオスを泣かせてしまった負い目がある手前、それ以上聞くことは出来なかった。
眠れない子どもの前に現れては素敵な夢の中に誘うイメージがあったオルフェさん。そんな魔法使いの彼が返答に困っている。何か事情があったのだろうか?
「ん──。運命を変えようとすると、何処かでつけを払わなくてはいけなくなってしまうんですよ。」
「運命? もしかして私……。だからオルフェさんも手がかりさえ教えてくれないんですか? 」
「し──。 今日は練習のためだけに。 誰にも見つからないように、歩けるようにならないと。星がよく見えるし満月で足元も明るい。いい散歩日和だと思わない? 」
思い出すことのできていない記憶、そして私がわかった事とこれからの事、彼には聞きたいことが沢山あった。やっと現れたと思ったのに、今夜の彼は私の質問に答えてくれる先生になってはくれないらしい。
近頃は庭に出るときはレオスかノータナーがいたので、二人の仲を取り持つようにしていた。私を独り占めしたいレオスがノータナーにかわいい嫉妬心を向けないように。ノータナーと二人きりの時はどうやって距離を縮めるか考えながら会話をするので、頭をからにして散歩をすることが最近はなかった。こんな夜の散歩もいいかもしれない。
ゆったり誰かと散歩にでる、それも夜。二人だけで暗闇にいるのは不安だった気持ちも、繋いだ冷たい手ながらも伝わる優しさに溶けていった。むしろ冬の夜に部屋を抜け出して散歩だなんて、いけないことをしているみたいでワクワクしてきた。
「いいかもしれないですね。 二人だけの秘密の散歩 」
ふんわりとオルフェさんに向かって微笑んだ。
「いけない……!!」
そんな呑気なことを考えていたからだろうか、二人だけの足音を追うように、もう一つ足音が混ざっていることをオルフェさんが察知した。オルフェさんは私を彼の外套の中に包み隠すように抱えて走り出す。
「誰かいる! 見つかったらもっとキミに近づけなくなる。 そんなの耐えられない。 逃げよう! 後ろは振り返ってはいけないよ 」
「え、ま、まって!! 」
また、舌を噛まないようにと口元手を添えられたままなのは、恥ずかしい。彼に抱えられなすがまま。抱えてくれるオルフェさんの負担にならないように、後ろを振り返らないようにとオルフェさんの肩口に顔を押し付けた。魔法のような力は使うつもりがないのか、普段のオルフェさんからは考えられないほど、どんどん早く庭の奥へと走っていく。気がつくと荊棘の茂みの真ん中に私たちはいた。辺りを見回しても何も見えない。私が一度も踏み入れたことがない場所。
あたりに人がいないかオルフェさんは確認する。張り詰めた意識を解放したオルフェさんは、私を安心させるように、背中をぽんぽんと優しくたたいて、地面にそっと降ろしてくれた。
「もう、追手は来ないみたいだから 大丈夫だよ」
オルフェさんは、あんなにはやく、しかも、私を抱えて走っていたのに息ひとつ乱すことはなく、今は先ほどとは違って落ち着きを放っている。
「ふー、 ごめんね。大丈夫? 息吸える? 飛んだ方がもっと早く逃げられたのだけど、力を使っちゃうとバレちゃうし、逆効果だったから 」
「はあ、はあ、一体だれが、どうしてこんな夜更けに、なんなとこに? 」
一瞬のことだったため、もう一つの足音が誰かだなんて考えることもできなかった。見つかったら見つかったで、怒られてしまうだろう。でも、あんなところに普段人は通らないはずなのに……。と思う私は、思い当たる節があるのか、オルフェさんに尋ねてみた。オルフェさんは逃げることに集中するあまり、私をつれて結構庭の奥深くのところまで来てしまったらしい。
オルフェさんが私に堂々と会うことができない理由、手紙は受け取っていてくれているのに、来るのは予告なしに、突然。そして、先程の ≪運命≫ という言葉がどうしてオルフェさんから出てくるのか、知りたくなってしまう。
「ねえ、オルフェさん。私に約束もなしに、会いに来れなかったのって、もしかして──」
一番気になっていた言葉を発するよりも前に、茂みから地面を這いずる音がしたと思ったら、鋭く輝く金色の目が私たちを狙うように、いきなり飛び出してきた。
「今なんか音が──キャッ!! 」
「──っ!! なんでこんなところに! 」
ソレが私の足に向かって口を大きく開け噛みつこうとした瞬間、いつのまにかオルフェさんの手の中にあった杖から伸びた瞬く光と共に消滅してしまった。一瞬の出来事に、呆気に取られて硬直している私。オルフェさんは私よりも慌てているようで、震えた声と手で私が怪我をしていないか、ところどころさわって確認しだす。いつものオルフェさんは目の前にいない。何かに恐れている青年が私の存在を確かめるように、空気に触れるようにそうっと私を抱きしめてきた。
「どうして……、キミ、どこか怪我は──? 」
「わ、私は大丈夫です。オルフェさんが守ってくれたから。ありがとうございます。あれは、いったい…… 」
「ごめんなさい、本当にキミに会いたいだけだったんだ。こんなことになるなんて……。 こんなつもりは……、戻ろうか……」
オルフェさんは私を安心させるように抱きしめた腕に力を入れた。そんなオルフェさんの手がかすかに震えていたことに私は気づいてしまった。おそらく、抱きしめることによって、彼は私の存在を確かめたかったのだろう。
それから少し落ち着いた後に、部屋のバルコニーまで送り届けてもらっても、オルフェさんの表情は青ざめていたので、とても今何かを尋ねられる雰囲気ではなかった。
「ごめんね。また、よければあって欲しいな…… 」
今までとは異なる悲痛な表情を浮かべて、らしくない言葉を残して、オルフェさんは私の返事を待たずに居なくなってしまった。そんな顔されると、私まで泣きたくなってしまう。
久しぶりのオルフェさん、三十分だけの二人だけの夜の散歩。それがまったく喜べない状況になってしまったことだけは明白だった。
バルコニーを経由して、急いで開けておいた窓から部屋へ入る。そういえば、ノータナーは午後から暇を与えたので、馬術の訓練をしていたことをふと思い出す。そろそろ終わった頃だろうか。
彼は夜、私が眠れないことを察知すると、良い眠りへと誘ってくれる飲み物を届けてくれる。最近はずっと夜は寒いから、温かい飲み物は眠りやすくてありがたい。今日はこんな状況ではできれば会いたくないのだけれど──。
でも、後ろを振り返った瞬間に、もう手遅れだと察した。私が帰った頃には彼は部屋にいたのだから。暗闇の中、窓から降り立った私を視界に捉えた瞬間、驚きに目を大きく開けて慌てて駆け寄ってきた。そんな彼をみて、言い訳を幾つも頭の中で考えたが……。
「……エレーヌ殿下? 今までどこに?! ──っ!! ……ち、血の匂いが 」
後に、私はもっとオルフェさんを前回のこともあり、警戒して注意深く観察しておく必要があったと後悔することになる。そして、ノータナーが私をひとめ見て一瞬で血の匂いを嗅ぎつけて、取り乱してるところや、どこか違和感がある表情のことも。
分岐点に辿り着いた時、物語の大円団へ向かう用の適切な選択をするためのヒントは、そこら中に散りばめられていた。
──寒空に月が満ちるこの夜は、彼らの ≪エピソード≫ の解明に大きく関わってくるきっかけを作った夜だった。
「あーあ、やっぱりそうなっちゃうのか。 あの若造はまだまだ変わらないなぁ 」
追手に見つかるのも時間の問題だというのに、呑気に傍観者の視点で部屋の様子を眺める人物がひとり。




