夜
言葉が自然と頭の中で浮かび、それをすらすらと発した瞬間、私の意識は遠のいた。最後に聞こえたのはラシウス王の声で、今、目覚めるまで、意識を失っていたのだろう。──様子を伺うに、ここは元の私の部屋ではなく、エレーヌの部屋のようだ──。誰かが寝台まで運んで寝かしつけてくれたらしい。契約を締結してから、どうやって部屋に戻ったのか記憶がなかった。誰かを呼ぼうとして、声を出そうとしても出ず、ぜーぜーと音を発しているだけだ。呼吸すらままならない。肺の中に酸素を取り込もうとしても、まるで海の中にいるようで出来ない。溺れているみたいだ。起きあがろうとしても、腕に力がはいらず、寝台の上から移動するのは出来ないようだ。これはきっと、契約のせいだ。≪血の契約≫ を終えてから胸のあたりが痛い。何かに取り憑かれたのか自分の全身が重く、怠い。再び意識を持っていかれないようにするのが精一杯だった。はやく、アーティ叔母様に契約の意味もこの痛みの理由も、聞きたいのに──。
( ふわふわくるくるする……)
血中酸素濃度が低くなってきている証拠に思考まで正常に働かない。視界がぼやける。その上、まるで熱を出しているのかのように頭が熱くて割れるように痛い。朧げな意識のまま、重くて閉じそうになる目を思いっきり開いた。暗い室内に入り込む僅かな月明かりを頼りにしてあたりを見回すと、視界の端で誰かが寝台の側まで歩いてくるのを捉えた。知らない人。怖い。逃げたい。誰かに助けを求めようとしても、酸素を求めるだけの呼吸器のみで、音を発するのは無理があった。
「エレーヌ殿下、大丈夫ですか? 」
そんな、ここから逃げ出そうと足掻き苦しみ、パニックになっている私を一瞬で落ち着かせたのは、まだ少年らしさを残した落ち着いた声だった。
ノータナー──どうして彼が私の部屋にいるのか、なぜその手に金色の杯を持っているのか謎であったが──は、私がこうなるのを予め知っていたかのように落ち着いている。呼吸困難に陥っている私をゆっくりと起こすと、口元に杯の淵をあて、傾けて、飲みやすいようにしてくれた。口の中にトロリと少し酸味がある、甘い液体が入り込んでくる。
(何故、彼はこんなに月の光が眩しく感じるほど空が真っ黒になるまで、私が目を覚ますまでじっと待っていたのだろうか? そもそも彼は、原作では──……荳サ莠コ蜈ャ縺ォ莉輔∴縺ヲ縺k縺ッ縺壹縺ョ縺ォ? )
「……あれ? 」
一滴。飲んだ瞬間から、息苦しさと痛みもたちまち治まっていった。そして同時に、考えていた事も波にさらわれたかのように何処かへ行ってしまった。それは、再び思い出そうとしても思い出せなかった。
一呼吸おいて、契約を結んだノータナーをちらりと盗み見る。そもそも、私は契約というものがよくわからない。私より少し大きいだけの少年が従者のように従順に振舞う姿に、少々違和感を覚えてしまう。
──彼とは主従関係とはいっても、私を守護してくれる人であって、私に仕えるものではないはずなのに。この世界での主従がよくわからない。
この関係がノータナーが私を世話させる理由なのか、契約内容がそうなのか、彼の性格故なのか。縋るものがない今は、この展開を甘受することにした。もしかしたら、彼からこの夢の中の世界について、詳しいことを知れるかもしれない。そうしたら、はやく目覚めてこの物語の続きを──。
呼吸が落ち着き、辺りを冷静に見れるようになってきた。窓から射している月光が、ノータナーの黒い髪を照らしている。近くで見ると毛先が赫いことに気がついた。
まるで、月夜に照らされる彼の姿は孤独な美しい狼のように思った。──そうだ。彼が。少しだけ思い出した。原作の挿絵で見た時よりも顔立ちは随分と幼く、髪型も変わっている。
見ているのがバレてしまい、視線がぶつかる。たいして、話もしたことがない初対面の人間から、ジロジロ見られていても困ってしまうだろう。こんな遅くまで、待っていたのだ。何か、お礼のひとつやふたつでも言わなくてはいけないと思い、喉が正常なのを確認して、声を発する。
「……ありがとうございます。……あの、夜も遅いので、お部屋に戻ってください 」
「……エレーヌ殿下、私に改まった言動を取られてしまうと困ります。エレーヌ殿下は私の主人ですので…… 」
ギョッとして、畏まった返答をされてしまう。改めて、契約を結んだ関係なのだと、意識させられた。
「ごめんなさい。そうです──、……そうだよね、主従関係を結んだものね…… 」
主従関係なんて、夢の中でも慣れることはないだろう。≪血の契約≫ なんて表現は原作でも出てこなかった。それに、エディ兄様もレオスも、そばにいつも誰かがいる訳ではなかったから、結んでいないと思う。
では、エレーヌとノータナーが結んだ ≪血の契約≫ とは? 今まで聞いたこともない。神の力を持つもの同士の主従関係。もしかしたら、私が夢の中に入っているから、この世界が破滅しないように何かが暗躍しているのかもしれない。なんて、そんな都合のいい展開を考えてみる。
確か、私が原作で読んだ範囲では、主人公のユディにノータナーは付き従っていたように覚える。ここから、≪血の契約≫ を解消する何かが起きるだろうか? そもそも、原作にも出てこなかったので、この事は誰も知らないのではないだろうか?
でも、契約の方法も台詞も何故か自然と浮かんできた。そういえば、契約の際に、玉に私の力を込めたが、あれは何を意味するのだろうか? 玉自体、ノータナーが持っているので、物理的な繋がりがあるしとて、まだ感じることはできない。
これから、ノータナーと信頼関係を築くことができるだろうか。安心して背中を預けることのできる、そんな感じの関係を私は望んでいる。原作にはない展開だから、より一層この契約はチャンスにも思える。この世界が破滅してしまわないように、もしかしたら協力し合えるのかもしれない。
でも、そもそも昨日今日会った人物と契約なんて彼はどう思ったのだろうか? 彼の出自も知らない。私は彼について知っていることは無に等しいのだ。
原作『オルフェリアの希望』では、目の前の青年を主人公のユディは怖がっていた。ユディとの初対面のシーンでは、成長したノータナーは体格がよく──今はエディ兄様と変わらない少年の背丈だけど──、上から見下ろす鋭い視線にユディは怖気づいてしまっていた。
作中では、『月もない暗闇のような感情を映さない冷徹な眼』と表現されていたことを思い出す。
そんな、孤独の影を漂わせた目の前の少年を放っておけるはずもなく、ユディとの初対面の強い印象を消すように、良い関係づくりのためにコミュニケーションをはかろうとする。
(ここは、笑顔で落ち着いて…… )
「ノータナーは、契約について何か知ってる? 」
「王が神の力を持つ者たちを管理するため、契約というものをします。これは生まれてから自然に結ばれているものもありますが、神の力の持つ者の力が特殊だった場合などに、特別な縛りをかけるそうです 」
「そ、そうなんだね。ノータナー、これからよろしくね」
エディ兄様がころころと目に見えて表情を変える分、ノータナーのその歳に合わない落ち着きように少し違和感を感じてしまった。それを顔にださないように、彼の目を見つめて笑顔でやり過ごす。
( 契約について聞くことが出来たけど、私たちの契約は、特殊な契約にはいるのかな? )
じっと見つめ返している、原作よりも澄んだ綺麗で高貴な色をした彼の目に私はどう映っているのだろう。原作までとはいかないが彼の表現は少し硬い。途中までしか読めていないけれど、誰かから極秘任務を受けている描写があった。その命令か立場か、それとも関係性が、彼を今よりもっと冷酷な一匹狼のように、変えてしまったのだろうか?
「……はい。よろしくお願いします。お疲れのところ起こしてしまい申し訳ございません…… 」
(どうにかして、ノータナーの表情や仕草を年相応とはいかなくても、ユディが怯えてしまわないようにしたい……!! )
私がノータナーと主従関係を良好に築けていたら、少なくとも、ユディがノータナーに対して怖がったり、彼のトラウマの原因にはならないだろう。それにこれから、ノータナーは兄弟以外で一番そばにいるので、仲良くして欲しい気持ちもある。極秘任務も相談できるなら力になりたいし、信頼しあえる関係性であることに越したことはない。ノータナーが何故原作ではあんなにも心を閉ざしているのかも知りたい。
「そんなことない……! ごめんね、ノータナーも疲れているだろうに……今日はもう下がっていいよ、私、寝るね 」
「はい、エレーヌ殿下は ≪血の契約≫ は、はじめてと聞いております。ゆっくりお休みください 」
退出するノータナーを見送り、ひとりの時間がやってきた。ほっと息を吐く。少し、緊張してしまった。
ふと感じた、既視感と違和感。同じことで悩んだことがあるような気がする。これがはじめてでは、ない。私の記憶の何処かに存在する思い出を探すうちに、瞼が重くなり思考に靄がかかってきた。
( ……ノータナー、どうしてあんなに、他人と距離を起きたがるんだろう……。この契約も迷惑なのかな。でも、何かに抑えつけられているような少年を、見て見ぬふりなんて出来ない )
眠りについたら、また夢を見るのだろうか。起きたら、元に戻って居ますようにと願いつつも、頭の隅でノータナーのことが気になって仕方がない。
彼を表現するなら、夜、闇夜、そして真夜中──。
黒より暗い色、夜の色が似合うと思った。




