記憶
「アーティ叔母様、エレーヌはまだ落ち着いたばかりですよ、大丈夫ですか? 」
部屋に入ってくるなり、髪をゆるく一つに結んだ少年──レオスより少し歳が上だろうか、髪色が私たちより少し濃いが綺麗でさらさらの髪をしている──が、片方の目に浮かんだ涙を拭いつつ、私をチラリと見てから、心配そうにアーティ叔母様に問いかけた。
「エディ兄様と同じ考え。ねえ、さっきまで ≪アポスフィスム ≫ がエレーヌにちょっかいをかけていたんだ。ますます、話が理解できなくなるんじゃないの? 」
いまだアポスフィスムの彼が気に入らないとでも言った表情をしたレオスが、エディ兄様と呼ばれている彼に加勢するも、アポフィスムという言葉を聞いて少しだけ眉を吊り上げたように見えた、アーティ叔母様──ここで誰よりも ≪神の力≫ をはじめとして、私たちについて詳しい人物──が、私の記憶を整理することが一番というのなら専門家の意見に沿った方が良いと思った。それに、訳がわからなくて混乱したままの状態でいるよりかは、何か情報が欲しい。
「私……なら、大丈夫です。聞きたいです。いろいろなこと」
少し不安になりながら、彼らの意見を聞きつつも叔母様に視線を向け続けていると、叔母様は今日のこれからの予定はもう決めているようだった。私が目覚めたらする事を予め決めていたように、やはり、これは決定事項のようだ。決意に満ちた目をしている。
パンッとこの部屋のどんよりとした空気を打ち消すように、手を叩いた彼女──この場で最も私たちの事に詳しいであろう、アーティ叔母様と呼ばれる年長者──は明るく
「そうか、オルフェが入ってややこしくなっちゃったので、エレーヌの頭が抱えきれるだけ記憶を整理します!! 決まり。エレーヌはちょっと特殊だからね、幸い ≪混乱≫ も ≪呪い≫ にもならなかったし、≪破滅≫ も観測されなかった。知識を入れればその分補強される。エレーヌ、ちょっとだけ頑張れる? 」
そう私に問いかけてくるが、オルフェという初めて聞く単語が出てきたことにより、私にさらなる混乱を与えた。謎の単語はエディ兄様と呼ばれる少年とレオスは知っている言葉のようで、彼らはアーティ叔母様の意見に従うと判断して、頷いた。そして、最終判断はあくまでも私に委ねられているようだ。少し萎縮してしまう。
「アーティ叔母様が、示してくださるなら…… 」
おずおずと、相手を不快にさせないような表現を使って、賛成の意を表明したのにも関わらず、アーティ叔母様が悲しそうな表情をする。どうしてだろうか、二人の少年の方を向くがやはりその顔は曇っていた。
「エレーヌ、記憶がやっぱり分離してしまっているね……。もう少し、私に気楽に話していいんだよ? そうそう、レオスなんか叔母様も言わない。普段は呼び捨てだ 」
すかさず、エディ兄様と言われている彼もアーティ叔母様の意見に同意して、レオスの性格についてこう言った。
「レオスはけっこうガサツなところがあるからね。でも、歳上の方を敬う気持ちも普段から大切だと思うよ 」
「これからは、ちゃんと呼ぶ! でも、性格について言うなら、兄様はおっとりしすぎだよ。この前なんて、ぼーっとしていた隙に、鳥にお菓子を取られていたじゃないか! 」
レオスにエディ兄様と呼ばれているから、おそらく私たちの兄なのだろう。彼が私たちに似た髪色をしている理由も納得できた。
しかし、目の前で繰り広げられている、かわいらしい兄弟の口喧嘩なんて目もくれず、アーティ叔母様はしょんぼりとした目で私を見つめ返してくる。彼女については、なかなか距離感が難しい方と思っていたけれど、懐に入れた人間にはとことん甘いタイプなのかもしれない。もしかしたら、私のことを姪っ子として可愛がっていたのだろう。彼女の性格を短期間で感じ取った。
( だから主人公のユディも、母親であるアーティ叔母様に似て人に好かれてたのだろうか──? )
原作の主人公についての考えをきっかけに、思いついた。これは夢の中でも、特殊だ。異例な状態だからこそ、自分の周りについて知識を入れておけば何か、夢を覚ますヒントがあるかも知れない。
これが夢ならば他の本の登場人物たちは出てくるのだろうか? エディ兄様がまだこの髪型だから幼い時のはず。まだ、私は一巻しか読めていないから、結末こそ知れているが、詳細はわからずしまいだった。
記憶と器とプシュケーが分離しているとされてる、この状況が今私にとっては有利な状態だ。記憶がなくても自然に教えてくれる。夢の中であったとしても少し、今の状況を把握しておこう。夢の中なら多少は大胆に動いても大丈夫だろう。
「叔母様、私今いくつなの? 」
「エレーヌが生まれたのは、青い丘にオリーブの木が青々と光を照らして輝く季節。それから今は五回季節が巡ったよ」
今度はアーティ叔母様に親しみを込めた口調で質問をする。これが、正解だったようで、いかにも研究者らしく、詩的な返答をもらう。
確か、原作でもアーティという女性は時々こんな茶目っ気がある言い回しを使っていた。夢の番人の彼も似たような感じだったとふと思い出す。
私が『オルフェリアの希望』を読んだ範囲では二人の関係はあまり描かれていなかったが、共通点があるのだろうか?
それよりも、年齢を把握できた今は、私と話したそうにしている、叔母様の後ろに少しだけ恥ずかしそうに隠れた、エディ兄様と呼ばれている少年のことが気になった。
「で、私の背後から顔を覗かせて、君に早く話しかけたくてうずうずしているのが、少し恥ずかしがり屋の君の兄、エディ」
その子は、叔母様にそうっと背中を押されて私の目の前に立たせられた。私の兄だというその子は涙で潤ませた目でみつめながら、私の手を握った。
「おかえり、エレーヌ。ずっとお話ししたかった。私もね、器とプシュケーが不安定になる時があるから、もし怖かったら相談してね。 私はもっともっと、≪神の力≫ についていっぱい勉強して、エレーヌとレオスを今度は守るから」
(やっぱり、この子はたしか──! )
その瞬間、『オルフェリアの希望』のあるシーンが頭の中を駆け巡った。あんなに悲しいことが起こってしまうなんて。でももしかしたら、今からなら、未然に防ぐことができるかもしれない。
夢の中だから、夢が覚めるまで動けることは動いておこう。できる限りのことをしたら、破滅なんて──。
あの悲劇も起こらないかもと思い、夢の中では護らせてほしいと思ってしまう。まだ夢の世界では会えていない、主人公のためにも。
「エレーヌ?」
この、私を心配そうに見つめる目と表情豊かな彼の感情を閉ざしてしまう出来事が起こるのは、きっとあともう少しだ。
挿絵で見た時よりずっと幼いし、髪型も変わっているけど、もうすぐきっと彼は──。
「エレーヌ、疲れたんじゃないの? アーティ叔母様、続きは明日じゃダメ? 父様にも報告もしなきゃなんだしさ」
「そうね、目覚めたら出来るだけ早急に記憶の整理をしないとだけど、器が小さいから仕方ないよね。太陽も神殿を照らす夕日に変わる頃だし。今日は終わり。また明日、今日はゆっくりやすみなさい。……少し早いけど、いい夢をみれますように 」
私がぼんやり考えごとをしていると、疲れたと思ってか、今日はもう休ませてくれることになった。
私の前髪をたくしあげて、おでこにキスをした叔母様は足早に部屋を去っていった。やはり、おでこにキスがおやすみの挨拶なのだろうか? ここでも咄嗟の行動に驚いて、慣れない私は目をつぶってしまった。
残されたのは私たち三兄弟。『オルフェリアの希望』では描かれていなかった、主人公ユディの知らない頃の三人。
「そうだ、疲れた時には甘いものがいいと言うし、叔母様に貰ったお菓子があるから三人で食べよう 」
「エディ兄様、だんだん叔母様に似てきている気がする 」
気がついたら、窓から見える外は夕焼けが空に溶けて雲とグラデーションをつくっていた。
子どもだけになった部屋で、今しかできない話をしよう。これは夢。この先、この兄弟に待ち受けている破滅の道を今だけは……。少しだけ生まれてきている罪悪感にそっと蓋を閉じた。




