息子は仮病で欠席を。
2020年。その数字の並びを見ただけで興奮する人は多いのかもしれない。そう、2020年。東京オリンピックが行われるーーはずだった。しかし、世界中を揺るがしたあのウイルスの影響でオリンピックは延期。2020年という羅列を見て興奮する人はもはや皆無。逆に、かのウイルスを想像して震えたつものが出てきたのである。
そうなれば当然、日本の政策も色々と変わってくる。それでも、時に「なんちゃらマスク」なんてものを全国に配布して全国民を憤怒に満たしたり、十万円を全国に給付して国民の口角を吊り上げさせたりして、なんとか「政治」というモットーを見失わずに保ってきた。
と、おさらい的な雰囲気で今の現状を述べているが、世間を一変させた政策というのはやはり「学校一斉休校」なのではないだろうか。
少なくとも、私はそう思っている。そう、「学校一斉休校」こそがこの平和だった世の中を変えたのだ!
だってそうであろう。小中高の子供がいる世帯は毎日朝昼晩すべて食事を用意しなくてはならないし、何より大変なのはそれを自粛生活の中でやり遂げることだ。
普通の世の中ならば、昼飯などファミレスでチョチョイと済ましてしまうはずだが、この自粛ムードという状況では、そんなことをすることもままならないのである。
そのため、毎日朝昼晩はコンビニで買った冷凍食品を数個とご飯。こんな質素は食事になってしまい、同じような食事のメニューに我が子を飽きさせてしまうのが常である。
なぜ私がこんな「学校一斉休校」を批判するって?そりゃもちろん、私もその政策の被害者の1人だからだ。
そう(『そう』っって何回言っているんだ…)、私にも小学五年生の息子が1人いるのだ。
名は太郎…うん、太郎である。
『え、この小説の舞台って昭和?』
違う。令和だ!令和2年だ!私のネーミングセンスが皆無なのは承知している。故に太郎なのである…。ああ、太郎なのである。
そして他でもない私は…グガー、グガー。
ピピピッ、ピピピッ
まるで小説の語り手みたいな気分に浸っていた末、眠りに落ちた私は聞き覚えのある音で目を覚ました。いや、正確には意識が現実に引き戻されただけで目を開けてはいない。いやいや、意識さえも曖昧だ。
というか、なんだ今の音は…。私のスマホが鳴っているのか?それならばもっとでかい音が出るはずだ。ならば、私のいびき?違うな。こんな鼻炎気味な赤ちゃんみたいないびきはしない。無論、自分のいびきなど聞いたことがないが、この音が自分のいびきでないことに関しては、謎の自信がある。
じゃあ、ん?これは………体温計!
「うーん」
ナマケモノよろしく、ゆっくりと目をこする。やがて目脂でくっついた目蓋を、しかめっ面で開く。まだ光になれない目は、しばらく真っ白な世界を反芻した。
また朝が来てしまった。それを自覚すると同時に一気に肩が重くなる。またあの一日が…
「あれ、太郎?」
上半身を起こすと、目の前の少年が視界に入った。その彼こそが私の息子、太郎である。
そんな太郎の手には体温計が。やはり私の推測は当たった。太郎は今、自分の体温を測ったのだろう。そしてその通知音が私の耳に入ったのだ。
そこで私は今、今まで三ヶ月以上休校していた太郎の学校が今週からようやく再開したという事実に気がついた。
ああ、そうか。もうあの忙しい日々から解放されたのか。一気に肩が軽くなった。そして今日は仕事の出勤日だということに気付いて、また肩が重くなった。まったく、ひどい仕打ちである。
そうそう、話がずれてしまったが、学校の登校が再開するに伴って毎朝体温を測らなければならなくなったのであった。
太郎の手に体温計が握られているのも納得だ。
「太郎、何度だった?」
「37.5°微熱あるから、学校休んでいいよね」
「なんだって?ちょっと貸してみてよ」
言うが早いか、私は半信半疑な表情で太郎の握る体温計をひったくって確かめてみる。
確かに太郎の言う通り、体温計には37.5°という電子文字が踊っている。
「そんな馬鹿な…、あっ」
私は体温計を凝視しながら、太郎のあのずる賢い頭脳の持ち主だということに気づく。
何せ彼は四年生の時に水泳の授業を全てサボったという歴史的な記録の保持者なのだ。そんな太郎が、覚醒した。サボり魔という本性が目覚めたのだ。
こやつ、また仮病で学校をサボるつもりだな…
「そうだね、熱あるな。じゃあ休むか。ふふふふふふふふふ…馬鹿野郎おおお!これ以上騙されるかあああ!もうこれ以上、太郎の仮病に騙されるかあああ!」
私渾身の憤怒の雄叫び。
「で、でも本当だよ。本当に熱あるんだもん」
「嘘つかないで。さあさあ、学校の準備、準備。って、もう8時前か!」
私の視線の目の前にかけられてある時計を見て驚愕した。よく見れば、太郎はすでに着替えていて寝間着姿なのは私だけである。いやはや恥ずかしい。
「ええと、もう朝ご飯は食べたの?」
「台所にあったコーンフレークと、おにぎり」
もう太郎はおにぎりを作れるようになったのか。そんな微かな息子の成長に感動してからすぐさま立ち上がる。いけない、寝坊してしまった。
私にだって仕事というものがあるのである(あるのである、ってなんか面白いな。ハハ…)。
「よし、じゃあ早く学校の行ってくれ。はい、行った行った」
「でも熱がーー」
ガチャン。
ゴキブリを追っ払うように、ドアを強引に閉めてから私は深いため息をついた。
朝から忙しかったからか、さっきから頭痛がする。まったく、やはり子供がいるというのは楽ではない。そういえばーーいやいや、瞑想の浸っている場合ではない。
私も早く準備しなければ。そこでふと時計を確認。あれ、まだ8時にはなっていないのか。思ったより時間に余裕があった。
問題はこの時間を何に活用するか、である。いや、結論などすでに出ている。ずばり、捜査だ。あの太郎がどんな手を使って、体温計をバグらせたのか。この機会を利用して明らかにしてやろうではないか。
こう見えて私は大学生時代、よくミステリを読み漁ったものである。この名探偵に任せればどんな難解な事件でも、解決して見せましょう。
「なーんてね。ハハハハハッ。ゲホッ」奇しくもむせた。「この名探偵に、お任せを」
まず最もあり得る可能性は、やはり生ぬるいコーヒーを入れたカップに、体温計をぶち込む作戦であろう。このトリックはもはやこの世界には出回っているが、あり得なくはない。むしろあり得なくはない可能性こそが、一番あり得るのである。なんか哲学っぽくなってしまったが。
ならば早速、有言実行だ(無論、有言などしていない)。よし、私はまだ眠気覚めない重い体を動かしてダイニングテーブルに出た。そこには一つのコーヒーカップがポツンと置いてあった。
試しにそのカップの側面に触れてみる。冷たい。私はそのカップの中身を見て、それは当然だということに気づいた。
「牛乳…か。そりゃ冷たいわけね」
どんなずる賢いやつでも、わざわざ牛乳を温めてそこに体温計をぶち込む阿呆などいないだろう。それに、体温計にあの賛否両論分かれる牛乳の独特な匂いがこびりつく。
あのお決まりの熱を装う方法の線は消えた…か。ならば次は。
「ワンワンワン!」
すると、元気な犬の声が廊下から聞こえてきた。うちで飼っているパグの次郎である…。うん、次郎である。
『やっぱ小説の舞台、昭和だよね?』
ただでさえネーミングセンス皆無なのだから、ペットの名前くらい勘弁してくれ。誰がなんと言おうと次郎は次郎なのである。
そんな次郎は私の体にすがって、餌をおねだりしてきた。よし、可愛い。餌をやろう(別に可愛くなかったら餌をあげないわけではないので、ご安心を)。
ドッグフードをペット専用の皿に出してあげると、よほど腹を空かせていたのか急いで餌を食べ始めた。そんな真剣な表情も可愛らしい。と、次郎の姿に癒されていると、太郎の仮病トリックをもう一つ思いついた。
「次郎の体温を代わりに計ればいいんだ」
確か犬の平均体温は、人間よりも少し高く「38°〜39°」ほどだったと記憶している。ならばそれを利用して…。
「そうだ」
食事中を失礼して、私は体温計を持ってきてそれを次郎の尻に差し込む。痛々しい光景かもしれないが犬の体温を計るには体温計を肛門に入れるほかないのである。いつもは嫌がっているのにもかかわらず、食事に夢中の次郎は今回ばかりは気づいていない様子である。
数十秒かかって朝聞いたばかりの通知音が鳴った。
体温計を次郎の尻から取り出し、表示された数字の羅列に注目する。
「39°………」
37.5°とは1.5°も違うではないか。こんな短時間でそんな次郎の体温が上がるはずがない。あれ、ということはこの可能性も…ない?
ならば……まさか太郎、本当に熱があったんじゃ…?
今更ながらそんなあってはならぬ可能性が、いよいよ高まってきた。もしそれが本当なら、どうしよう。今にも保健室から電話がかかってくるのではないか。
激しい後悔とともに、私はソファに座り込んだ。まるで死刑を待つ囚人みたいな有様ではないか。そんな。惨めな姿にもう一度ため息をついた。
「どうしよう……」
そこで時計を一瞥。八時はとっくにすぎていた。もう出勤しなければいけない時間である。
私は不安と絶望、激しい後悔とともに家を出た。
「仮病だって?」
「うん。うちの息子さ、本当にサボるのが得意なんだけどさ、今回ばかりは本当に熱があったんじゃないか。って不安でさ」
「詳しく話してくれ」
会社の同僚、マッシュルームヘアが特徴の三郎は早速私の話に興味を示してくれた。私は三郎の言う通り今朝起こった出来事を記憶通り話した。もちろん、打ち消された仮病トリック、二つも話した。
話終わると、三郎は髪を掻きながら目を細める。述べるのを忘れたが、彼はいつもぼんやりしていて何を考えているのかわからないが、頭脳明晰でかなりの推理力の持ち主なのだ。
すっきりしないことがあるときは、いつも彼の頭脳に頼っている。
そんな彼は、しばらく思考をめぐらせてから大きく目を見開いた。目どころか、鼻の穴までも開いている。どうやら、太郎の仮病トリックやらがわかったらしい。
「君、今すぐ家に帰ったほうがいい!」
「や、やっぱ太郎は本当に熱だったのか!?」
やっぱそうだったのだ。私の嫌な予感は的中した。私はすぐさま立ち上がり、バッグを持つ。その勢いのまま駆け出そうとしたが、それを三郎の手が止めた。三郎が私の手を掴む。
「何言ってるんだ。熱があるのは太郎くんじゃなくて、あんた自身だよ」
「へ?」
理解が追いつかない。熱があるのは…なんだって?私自身が熱だって?
「まず意味不明だったのは、太郎くんがあんたの寝室で体温を計っていたことだ。それ、少し妙じゃないか?」
「確かに…」
「答えは単純だよ。体温計に37.5°と表示されていたのは、体温計自体がバグったからでも、コーヒーカップに体温計をぶち込んだわけでも、ペットの体温を代わりに計ったわけでもない。ずばり、太郎くんはあんたの体温を計っていたのだ」
「何いいいいっ!」
三郎に指を差され思わず叫ぶ。そんな馬鹿な…試しに額に手を当てて見る。かなり熱かった。
「じゃ、じゃあ太郎は私の体温を代わりに計って、サボろうとしたのか?」
「話が噛み合ってないみたいだ。思い出してみろ、太郎くんは『自分が熱がある』なんて一言でも言ったか?」
「言って…ない」
「そう。太郎くんはあくまであんたが『微熱』だということを伝えようとしただけなんだ。そうだな…夜に呻き声でもあげてたんじゃないか?それを不安に思った太郎くんが、朝早く起きて試しにあんたの体温を計ってみたんだ。すると案の定、微熱があった。そしてそれと同時にあんたが起きた。太郎くんは、すぐさま熱があるということを伝えようとしたんだろう。でもあんたはそれは太郎くんが休む言い訳にしか聞こえなくて、勝手にどうやって体温を上げたのか捜査を始めたってわけさ」
そこまで言われると、勝手に探偵よろしく捜査を始めた自分が恥ずかしくなってきた。そういえば、今朝からずっと続いている頭痛も、この微熱のせいなのかもしれない。いやでも、もう一つ疑問が残る。
「じゃあなんで太郎は、自分が熱であるわけでもないのに『休む』なんて言い出しーー」
言っている途中に、私はその理由に気付いてしまい、思わず口を塞いだ。それを見て、三郎はニヤリと笑う。
「ようやく気付いたんだね。太郎くんが『休む』と言い出したのは、あんたを看病するため。それに他ならないね」
「う、うー、うわああああん。太郎おおお」
今まで気づかなかった太郎の優しさに涙する、三十八歳のシングルファーザー・四郎である。