4-1.双子の姉
喫茶店らしい喫茶店に入ったのは、賢志郎にとって今日がはじめての経験だった。
自宅に自転車を置き、桜介の車で近所にあるカフェへといざなわれた。
男子高校生が利用する飲食店なんてファミレスかハンバーガー店と相場は決まっている。それらとは違い、喧噪とはまるで無縁の落ち着いた雰囲気が漂う店内に、賢志郎は扉をくぐった直後から居心地の悪さをひしひしと感じた。しかし、通された四人がけのボックス席で桜介の正面に腰かけると、シックな赤いソファの座面が思いのほかふかふかで、ほんの少しだけ心が躍った。
「お好きなものを注文してください」
桜介は眼鏡を外しながら「ここは僕が持ちますから」と言った。
右手に握ったハンカチでレンズを熱心に拭いている桜介を、賢志郎は黙って見つめる。やはり眼鏡を外すと、とてもじゃないが二十六歳の警察官には見えない。くるりと丸い瞳がまるでリスのようで、せいぜい大学生が限度だと思った。
さっきまでいた公園で吐いてしまったせいか、まだ胃のあたりがむかむかしていて食欲はまるでなかった。お冷やだけで十分だったが、桜介が「ここの夏みかんジュースは絶品ですよ」などと言うので、賢志郎はそれを頼み、桜介はホットコーヒーを注文した。そこで改めて、桜介が自分よりもずっと大人な存在であることを賢志郎は肌で感じた。
注文を取った女性店員がテーブルを離れると、賢志郎のほうから桜介に話しかけた。
「刑事さん」
「硲です」
桜介が間髪入れず訂正する。こういう人の目がある場所で刑事だと知られるのは困るのだろうか。
「硲さん」
言い直すと、桜介は「はい」と満足げに答えながら眼鏡をかけ直した。
「やっぱり難しいんですか? 犯人を捕まえるのって」
まさに賢志郎は今、リアルタイムで高い壁にぶつかっている。勇んで犯人捜しを始めたはいいものの、一向に手がかりが掴めぬまま時ばかりが過ぎていく。警察による犯人逮捕の一報もなく、ここまでなのかと何度もくじけそうになった。現役刑事である桜介から「難しい」という言葉を引き出せればあるいは納得できるかもしれないと思って尋ねたのだが、桜介は賢志郎の期待を裏切り、淡白な口調で「時と場合によりますね」と答えた。
「ひと口に〝通り魔〟と言っても、その犯行形態はさまざまです。たとえばショッピングモールやスクランブル交差点など、どこか人の多く集まる場所で刃物を振り回し、無差別に人を傷つけるようなタイプの通り魔だと、その場で取り押さえられて事件は瞬時に解決します。ですが今回のように、ひとけのない場所でひっそりと行われるような通り魔事件の場合、よほど有力な証拠や目撃証言が挙がらない限り犯人の確保は難しく、事件は長期化する傾向にあります。今でこそ防犯カメラの設置が進んでいますが、十年前に姉が殺された頃はまだまだ普及したとは言いがたい状況でしたからね。犯行現場のトイレも事件後に取り壊されてしまいましたし、物証は特に、時間とともに消えてなくなってしまうものがほとんどです」
へぇ、と賢志郎は思わず感嘆の声を上げた。話を聞いて、やはりこの人は本物の刑事なのだと、失礼ながら今頃になってようやく実感が湧いてくる。
「てことは、お姉さんの事件ではほとんど証拠が挙がらなかったんですか? だから犯人が見つからなかった?」
「いえ、直接犯人につながりそうな証拠は出ました。どうやら姉は殺される前に激しく抵抗したようで、遺体の左手人差し指および中指の爪から、第三者の皮膚片が採取されています」
「皮膚片?」
「はい。おそらくもみ合っているうちに犯人の手の甲かどこかをひっかいたのでしょう。ですが、皮膚片から取り出したDNAを前科者リストと照合した結果、一致する者はありませんでした。その他の物証や有力な目撃証言などもなく、駅前やコンビニなどの防犯カメラ映像の解析も空振り。怨恨の線も考えられず、まさに八方塞がりというわけです」
「じゃあ、あゆの事件とお姉さんの事件が同一犯の仕業だって話は、その皮膚片が根拠なんですか?」
「いいえ」
注文したドリンクが運ばれてきて、桜介はしばし口を閉ざした。店員が立ち去ると、コーヒーのカップにミルクを注ぎながら話を再開する。
「きみの幼馴染み……三船杏由美さん、でしたね。彼女は姉と違って、ほとんど無抵抗のまま被害に遭われたようです。犯人につながる痕跡はほとんど残されておらず、かろうじて採取できたゲソ痕も部分的なもので、犯人の特定には至らなかったと聞いています」
「ゲソコンって?」
「足跡、靴跡のことです」
なるほど、下足痕か。賢志郎は納得してうなずいた。
「だったら、根拠は別にあるってことですか?」
賢志郎が問うと、桜介はコーヒーをひと口含んでから答えた。
「制服のリボン」
賢志郎は眉をひそめた。
「リボン?」
「えぇ。盗られたでしょう? 杏由美さんも」
あ、と賢志郎は目を大きくした。
そうだ、今の今まで忘れていた。
事件当時、学校帰りだった杏由美は当然のように高校の制服を身につけていた。ふたりのかよう左座名西高校は、珍しいことに男子の制服がブレザーであるにもかかわらず、女子の制服はセーラー服だ。共通しているのはネクタイとリボンの色で、どちらも鮮やかな群青色。ただし、男子のネクタイには淡い同系色のストライプが細く入っている。
その日、杏由美は間違いなく、いつもどおりブルーのリボンを胸の前で結んでいた。しかし賢志郎が公園のトイレで刺された杏由美を発見した時、結ばれていたはずのリボンが消えてなくなっていたのだ。
「もしかして、お姉さんも……?」
えぇ、と桜介はうなずいた。
「姉も当時、きみたちと同じ左座名西高校の生徒でした。そして、事件現場から唯一無くなっていた姉の持ち物が、制服の青いリボンだったんです」
賢志郎は目を見開いた。
杏由美の時とまったく同じ状況だった。杏由美の事件の時も、犯人が持ち去ったらしきものは制服のリボンだけ。道端に落としたスマホも、愛用しているリュックに入れていた財布も、盗まれることなく現場に残されたままだった。警察が物盗り目的の犯行ではなく、通り魔事件の方向に捜査の舵を切ったのはそのためだと聞いていた。
「運がよかったですよ、杏由美さんは」
桜介は右手にマグカップを持ったまま言った。
「あと五分でも発見が遅れていたら、あるいは杏由美さんも姉のように、命を落としていたかもしれません」
にっこりと、桜介はおもいきりつくった笑顔を賢志郎に向けた。
「きみは、彼女にとってヒーローだ」
賢志郎は目を細め、なにも言わず桜介から視線を外した。
同じ言葉を今朝、貴義の口からも聞いたなと思った。
――ヒーローなんて。
そんなものを気取るつもりは毛頭ない。一命を取り留めたからといって、結局はあゆを危険な目に遭わせてしまった。本物のヒーローなら、あゆが傷つく結末さえ回避できる。すべての悲しみから、あゆを救うことができる。
大切なものを守れる力を持たない俺に、ヒーローを名乗る資格なんてない――。
うつむき、目を伏せ、賢志郎は下唇を噛みしめた。
「硲さんは」
顔を上げられないまま、賢志郎は問いかける。
「自分の目で見ましたか? お姉さんが殺された時の、現場での姿を」
血にまみれた杏由美の姿が蘇る。無意識のうちに呼吸が浅くなっていた。
己の無力さは、己が一番よく理解している。――俺は全然、あゆにとってのヒーローなんかじゃない。
カチャン、と桜介はカップをソーサーの上に置いた。
「いいえ」
短く返ってきた答えに、賢志郎はようやく顔を上げて桜介を見た。
「僕が姉の遺体と対面したのは、左座名署の遺体安置室でのことでした。署に到着するまでは『咲良が死んだ』としか聞かされていなかったので、刺し殺されたと知った時は頭を殴られたような気持ちになりました。状況がうまくのみ込めなくて、あの時自分がどんな言葉を口にしたのか、正直、よく覚えていません」
賢志郎は言いようのない薄ら寒さを背中に感じた。
もしもあゆが死んでいたら、俺はどうなっていただろう。
少し考えただけで、からだがぶるぶると震え出す。
「先ほど、姉は犯人と激しくもみ合った末に殺されたとお伝えしましたが、幸い顔だけはほぼ無傷の状態でした。固いベッドの上で仰向けに寝かされた、傷ひとつない綺麗な姉の顔を見て、一番にこう思いました……あぁ、僕らは死んだんだなって」
「僕ら?」
「そう、僕ら」
ワントーン落とした声で、桜介は静かに言った。
「十年前に殺された女子高生・硲咲良は、僕の双子の姉……目の前にある遺体の顔は、まさに僕そのものでした」
賢志郎は息をのんだ。
――嘘だろ。
言葉にならなかった。全然、これっぽっちも想像できない。
目の前には、自分と同じ顔を持つ人の遺体。言うなればそれは、死んでしまった自分の姿を映す鏡。桜介が〝僕ら〟と表現したのは、まさにそういうことだった。
この世に生を受けて以来、ずっと同じ時間を生きてきた、同じ顔を持つ人の死。桜介が自分と重ねてしまうのも無理はないと賢志郎は思った。
「変な気分ですよ」
カップの縁を指でなぞりながら、桜介はすぅっと目を細くした。
「自分を殺した犯人を、自分で追いかけているんですからね」
「自分って……あんたはまだ生きてるだろ」
賢志郎が顔をしかめると、桜介は乾いた笑みを浮かべながら首を振った。
「言ったでしょう? 十年前、僕は咲良と一緒に死んだと」
「違う」
「なにが違うんですか? 僕はこの目で見たんですよ? 十年前の今日、安置室のベッドに寝かされていたのは、紛れもなく僕だった」
「違うッ!」
賢志郎は叫んだ。テーブルに叩きつけた拳が震えた。
桜介は涼しい微笑を浮かべている。正気じゃないことは、誰の目にも明らかだった。
――この人、おかしい。
彼の心は壊れていた。
彼の言葉を借りるならば、彼の心は死んでいた。
十年前、たったひとりの姉を失ったその日から、桜介の時間は止まったまま。だから彼は年齢の割に幼げな容姿をしているのだと、賢志郎はようやく彼に対して抱いていた違和感の正体に気がついた。
くそ、と無意識のうちに吐き捨てていた。
認めたくなかった。まるで鏡に映した自分の姿を見ているようだった。
もしもあゆが死んでいたら、俺もこんな風に、生きながらにして死んでしまっていたのだろうか――。
吐き気がした。からだの芯から冷えていく。
体温を無くした、三ヶ月前の杏由美の姿が蘇る。賢志郎の時計も、あの日からずっと止まったままだ。
「賢志郎くん?」
血の気の引いた顔をする賢志郎を、桜介が心配そうに覗き込む。
「大丈夫ですか?」
そっと賢志郎は顔を上げる。そこにはもう、先ほどまで浮かんでいた不気味なほど涼しげな笑みはなかった。
「大丈夫です」
頬を一筋の汗が伝う。さりげなく拭って、乱れかけた呼吸を整えた。
「すみませんでした」
真面目な声で、桜介は誠実に謝罪した。
「少し、余計なことをしゃべりすぎてしまったようです」
「いえ、そんなことは」
「すっかり話が逸れてしまいましたね。軌道修正しましょう」
まとっていたほの暗い雰囲気を消し去り、桜介はふわりと柔らかく笑ってマグカップの取っ手に指をかけた。
「えーっと……どこまで話しましたっけ」
優雅にコーヒーをすする桜介の切り替えの早さについていけず、どうにか落ち着かなければと、賢志郎はここでようやく夏みかんジュースに手を伸ばした。
「制服のリボンが持ち去られた話は聞きました」
ストローの封を切り、少し中身をかき混ぜてから口をつける。桜介から聞かされた前評判どおり、本当においしいジュースだった。グラスを顔に近づけた時にふわりと感じた香りもよく、さわやかな酸味とほのかな甘みのコントラストが絶妙だ。生搾りなのか、つぶつぶの食感もたまらない。
「そうそう、リボンの話でしたね」
桜介はカップから顔を上げた。
「実は五年前にも類似事件が起きているんですよ、別の場所で」