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あの日、雨が降っていなければ  作者: 貴堂水樹
第一章 一点の黒い染み

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3-2.川畑賢志郎の後悔

 男――硲桜介の右手に収められていたのは、本物の警察手帳だった。


「刑事……?」


 無意識のうちに、賢志郎は桜介の言葉を繰り返していた。次々と移り変わっていく目の前の事態に、全然思考が追いついていない。


 とにかく、一旦落ち着かなければ。賢志郎は、気持ち長めに息を吐き出した。

 少しだけスッキリした頭で、状況を整理する。


 今この人は間違いなく、刑事課の警察官だと名乗った。つまりは刑事だ。だが、聞き間違いでなければ、彼は『汐馬警察署』と言ったように思う。

 ここは左座名市。管轄は左座名警察署だ。とすれば当然、杏由美の事件の捜査を担当している刑事ではない。杏由美の事件を担当しているのは左座名署の刑事たちだ。


 だとしたら、この人はどうしてここに……?


 そこまで考えて、賢志郎は気がついた。


「あ、あの!」

「はい?」

「あれ……」


 賢志郎が指さしたのは、公衆トイレの前に手向けられた花束だった。「あぁ」と桜介はそちらを振り返りながら言った。


「きみはこのあたりに住んでいる子ですか?」

「はい、すぐそこです」

「でしたらご存じでしょうか。十年前、ここで女子高生が刺殺された事件があったでしょう?」


 こくりとうなずく賢志郎。その姿を桜介はちらりとだけ見やり、哀しげな表情を浮かべて再び花束に目を向けた。


「殺されたのは、僕の姉です」


 ゾク、と賢志郎は背筋に悪寒を覚えた。

 表情とは裏腹に、桜介の紡いだ言葉からは哀しい響きを感じなかった。ただひたすらに冷たくて、世界のすべてを恨んでいるような、どす黒い声色だった。


「ちょうど十年前の今日のことでした。姉が亡くなって以来、毎年命日にここへ来ることに決めているんです」


 そう言って賢志郎を振り返った桜介の顔には、やはり哀しげな笑みが浮かんでいた。けれどそれはどこかつくったような微笑で、心の奥ではまったく別の顔をしているのではないかと、そんなことを思ってしまう。


「きみ、本当に大丈夫ですか?」

「え?」


 また少しぼーっとしていた賢志郎の顔を、桜介は心配そうに覗き込む。


「体調、よくないんでしょう?」

「あ、いや……昨日からちょっと風邪気味で」

「それはいけませんね。ただの風邪だと思ってあなどっていると、あとでひどい目に遭いますよ」

「そんな大袈裟な」

「とにかく、ここで立ち話をしているのもなんですから。送りますよ」

「いえ、大丈夫です。俺、自転車なんで」

「自転車?」


 答えた直後、桜介の瞳がキラリと光った。彼の目つきが、じっくりと賢志郎を観察するものへと変わる。


「その制服……左座名西高校ですか?」

「はい」

「今、学校帰りなんですよね?」

「そうですけど……?」

「んん? トイレに立ち寄ったわけでもないのでしょう? 体調もよくないみたいですし、どうしてわざわざ自転車を降りてここへ?」


 賢志郎は一歩後ずさる。眼鏡の奥で光る桜介の瞳は、杏由美の入院先の病院へ事情聴取にやってきた、左座名署の刑事たちと同じだった。

 とらえた獲物は逃がさない、野生のトラのような鋭い目つき。悪いことをしたわけじゃないのに、どうしてだろう。心拍数が跳ね上がり、今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。


「そういえば、まだ伺っていませんでしたね」


 賢志郎が下がった分、桜介はすかさず距離を詰めた。


「お名前を、お聞かせ願えますか?」


 なめるように下から上へ、桜介はゆっくりと視線を動かした。


 ぐらりと瞳を揺らす賢志郎。自分なんかよりもずっと幼げな顔をしているというのに、今や賢志郎は、桜介のまとう本物の刑事の迫力にすっかり圧倒されていた。


「……川畑、です」


 どうにか声を絞り出すと、桜介は「川畑」と繰り返した。


「下の名前は?」

「賢志郎」


 素直に答えると、桜介の顔つきが一変した。


「きみ……もしかして、三ヶ月前の……?」

「知ってるんですか? 俺のこと」

「いえ、確かな記憶ではないので間違っていたら申し訳ありません。ひょっとして、きみは三ヶ月前にここで起きた女子高生刺傷事件の第一発見者の方ですか?」

「そう! そうです、俺です!」


 身を乗り出すようにして賢志郎は答えた。「そうでしたか」と桜介は小さくうなずく。


「でも、どうして俺のこと……?」


 今度は賢志郎が桜介に尋ねた。


「あゆの事件の捜査は、左座名署の刑事さんが担当してるんですよね?」

「ええ、おっしゃるとおりです。僕は汐馬署の人間ですので担当外。ですが、今回の事件の詳細を聞いて、じっとしていられなかったものですから」


 返ってきた答えに首を傾げると、桜介は真面目な顔でこう告げた。


「僕は個人的に、十年前に姉が殺された事件の犯人を追っています。そして三ヶ月前にここで起きた刺傷事件の犯人は、姉を刺し殺した人間と同一人物である可能性が極めて高い」


 なっ、と賢志郎は目を見開いた。


「本当ですか!?」

「もちろんひとつの可能性に過ぎませんが、十中八九間違いないと僕は考えています」


 驚いた。賢志郎は息をのむ。やはり警察は、自分よりもうんと先をぐいぐい進んでいるようだ。


「理由は?」

「はい?」

「教えてください。そこまで自信満々に言い切るなら、なにか明確な理由があるんでしょ? どうして警察は、十年前の事件とあゆの事件を同一犯だと考えてるんですか?」


 賢志郎が詰め寄ると、桜介は怪訝な表情を浮かべて賢志郎を睨んだ。


「なぜ、そんなことを知りたがるんです?」


 その目はあきらかに賢志郎を疑っていた。ふたつの事件が起きたこの場所での邂逅を、桜介は賢志郎にとって悪い方向にとらえているらしい。


「それは……」


 賢志郎は戸惑った。まさか疑われるとは夢にも思っていなかった。ともすればこの人とは同じこころざしをもって動いているというのに、なぜそのような、悪者を見るような目で見つめられなければならないのだろう。


 まずは誤解を解かなければ。戸惑いを振り払い、賢志郎は語り始めた。


「俺はあゆの……三ヶ月前の事件の被害者・三船杏由美の幼馴染みです。隣の家に住んでて、かよってる高校も同じで」


 桜介は黙って賢志郎の話に耳を傾けている。しかしただ聞き役に徹しているだけではなく、話の信憑性を慎重に見極めているような姿勢だ。


「俺、ずっと後悔してて。あの日、俺があゆと一緒に帰ってたら……そうすれば、あゆはあんな目に遭わずに済んだのにって」


 ぎゅっと、賢志郎は拳をきつく握りしめる。


「あと一分……あと一分だけ早くホームに降りてたら。そうすれば電車一本分、六分間のタイムラグを埋められた。たった六分ですよ? 俺がちんたら電車に揺られてる間に、あゆは……っ」


 息が苦しい。怒りで、恐怖で、膝がガクガクと震え出す。


「忘れられないんです、あゆが……トイレの中で、血まみれになってる姿が。俺、意味わかんなくて。あんな血の気の引いた顔したあゆ、今まで見たことなかったから。あの、それで……あゆ、死んだのかって、思って」


 息継ぎをしようと思い、息を吸ったら嫌な音がした。むせた。誤魔化していた吐き気が込み上げてくる。


 賢志郎くん、と遠くで誰かに呼ばれたような気がした。聞こえてくる音はぼやけて、視界が歪んで、それでも賢志郎は、胸を押さえながら語り続ける。


「あゆ、って……呼んだけど、全然、あの…………からだが……抱き起こして……けど、重くて、冷たくて…………っ」

「賢志郎くん!」


 賢志郎のからだがかしぐ。桜介は咄嗟に抱き留めた。


「大丈夫ですか!?」


 賢志郎は上体を丸めて激しく咳き込んだ。こらえきれず嘔吐し、膝に力が入らなくなって、ついにその場にくずおれてしまった。


 ――俺のせいだ。


 俺があゆと一緒に帰らなかったから。

 俺があゆを守ってやれなかったから。


 全身を覆う後悔の念が、瞬く間に賢志郎の体温を奪っていく。


 あの日の杏由美の血にまみれた冷たいからだが、真っ青な顔が、潤いを無くした唇が。

 抱きかかえた時のずしりと重い感覚が、全身にこびりついて離れない。


 事件以来、この公園に来るたびに、目の前が真っ暗になって吐いてしまう。そして今日も、胃の中身を無理やりかき出すかのように、賢志郎は苦しみに耐えながら嘔吐を繰り返した。何度も忘れようとして、そのたびに思い出してしまう、あの日の悪夢を振り切りたくて。


 小刻みに震える賢志郎の丸い背中を、桜介は「大丈夫ですよ」と時折優しく声をかけながら懸命にさすった。落ち着いたところで少し離れた場所にあったベンチに賢志郎を座らせると、公園の外まで走って自動販売機でペットボトルの水を購入し、賢志郎に与えた。


「まったく」


 困ったように息をつき、桜介は賢志郎の隣に腰を落ち着けた。


「やっぱり、ただ風邪気味なだけじゃなかったんですね」


 賢志郎は、手渡された水の半分近くを口内をすすぐのに使い、残り半分のうちほんの少しだけを飲みくだした。隣で桜介がもう一度小さく息をつく。


「そんなボロボロになってまで、どうして現場に来たりしたんですか」


 先生が生徒を叱るような口調で桜介は問うた。手もとのペットボトルに目を落としたまま、賢志郎は静かに答える。


「刑事さんと一緒です」

「え?」

「俺も、犯人を追ってるから」


 桜介は両眉を上げた。まさか、と今にも言い出しそうな顔をする桜介に、賢志郎は真剣な目をして告げた。


「俺、あゆを刺したヤツのことを、どうしても捕まえたいんです」


 本心だった。事件さえ解決すれば、すべてのことが終わるのだと、賢志郎は信じている。


 眼鏡の奥で、桜介の瞳が揺れた。

 賢志郎の堂々たる宣言に対する純粋な驚愕ではない。彼の中に築かれていたなにかが音を立てて崩れ出し、そのさまを目の当たりにしたような、ある種の恐怖や絶望をも湛えているように見える。


 正しい理解ではないかもしれない。けれど賢志郎は、彼は怒っているのだと思った。姉を失ったことに対する怒り。そしてその怒りの矛先は二叉に分かれ、一方は犯人へ、もう一方は彼自身へと向けられている。


 ――あぁ、この人も。


 この人も自分と同じなんだな、と直感的に理解した。

 大切なものを守れなかった人は皆、瞳の色を泥水のように濁らせる。


「あの」


 賢志郎はしゃんと背筋を伸ばして桜介を見た。


「助けてもらっておいてこんなこと言うの、自分でもどうかと思うんですけど……さっきの話、もしよかったら詳しく聞かせてもらえませんか?」


 瞳の色をもとに戻し、そっと桜介は首を傾げる。


「それは僕に、捜査情報を流せと言っているんですか?」

「そこまでは言ってません。でも刑事さん、さっき言ってたじゃないですか。あゆの事件は、十年前の殺人事件と同一犯の可能性が高いって。その理由だけでも知りたいんです」

「お気持ちはわかります。ですが、それをお話しするには必然的に捜査上の秘密に触れなければならなくなる。僕らには守秘義務がありますから」

「は? そんなのずるいっしょ」

「はい?」

「だって刑事さん、あゆの事件の捜査を担当してるわけじゃないんだろ? なのに刑事さんは、あゆの事件の詳細について知ってる。どうやって知ったんですか? 他の警察署が担当してる事件のことなんだから、誰かから情報を流してもらわなきゃ知り得ないはずでしょ?」

「それは……」

「同じことだろ、俺が今やってるのは。あんたはお姉さんの事件を解決するために、担当外であるあゆの事件の情報を盗み見た。俺はあゆの事件の犯人を見つけたくて、捜査情報を握ってるあんたからそれを訊き出そうとしてる」

「屁理屈ですね。僕は警察官だ、一般市民のきみとは立場が違う」


 賢志郎は、ふぅん、と眉間にしわを刻む。ほんの少し考える素振りを見せ、再び桜介に目を向けた。


「刑事さん、今いくつ?」


 意外な質問だったのか、桜介は少し驚いたような顔をした。


「二十六です」

「じゃあ十年前は十六だ」

「……なにがおっしゃりたいんですか?」


 いぶかしむ桜介に対し、賢志郎はニヤリと口のを上げた。


「ねえ、刑事さん……お姉さんを殺した犯人を自力で追いたいと思い始めた時、あんたはすでに警察官になってた?」


 桜介は言葉を詰まらせた。


 ――やっぱりね。


 賢志郎は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「なあ、あんたって昔から警察官になるのが夢だったの? 違うよな? お姉さんが殺されたから、いつまで経っても捕まらない犯人を自分の手で捕まえたいと思ったから……だから警察官になったんだろ? 警察官になれば、事件に関する情報が手に入ると思ったから。違う?」


 桜介は答えない。答えられないのだと賢志郎は思った。図星だから。今の指摘が、正鵠せいこくを射ているから。


「あんたならわかるだろ、俺の気持ち。俺だってじっとしてらんねえんだよ。あゆが……幼馴染みが刺されたってのに、警察は全然犯人を捕まえてくれない。事件に遭って以来、あゆはずっとしゃべれないままなんだ。襲われたショックで声を出せなくなっちまった。もう一度声を出したい、ちゃんと話せる自分を取り戻したいと思ってるのに、犯人が捕まらないせいで、いつまで経ってもあゆはあの日の恐怖から解放されない」


 ペットボトルを握る手に力が入る。ぺこ、と少しだけ表面が潰れた。


「犯人さえ捕まれば、あゆは安心して暮らしていける。もう一度、毎日を笑って過ごすことができるようになる。声だって、ちゃんと取り戻すことができるはずなんだ。警察がダメなら、俺が代わりにやるしかねえだろ」


 一度静かに目を伏せて、再びゆっくりと瞼を開けた。


「もう二度と、あゆの悲しむ顔は見たくねえんだ」


 絶対に、と強く紡いだ賢志郎は、ただ前だけを見据えて顔を上げた。


 大切なものを守れなかった悔しさが、二度と後悔しないための力に変わる。あの日の恐怖と絶望にどれだけからだがむしばまれても、杏由美の明るい未来を勝ち取るまでは、決して立ち止まるわけにはいかない。


 ――俺のことなんてどうでもいい。


 どれだけ危険だろうが構わない。あゆが笑顔を、声を取り戻してくれればそれでいい。


 かけがえのない幼馴染みが笑って過ごせる明日のために、賢志郎は犯人の影を追うことをやめない。

 なにがあっても。どんなにつらくても。


 しばらくの間、桜介は黙って賢志郎の横顔を見つめていた。やがて彼は、ささやくような声で静かに言った。


「ひとつだけ、教えてください」


 桜介からの問いかけに、賢志郎は隣を見やる。


「犯人を見つけ出して、きみはどうするつもりですか」


 賢志郎は眉をひそめた。質問の意味を取り損ね、なんと答えるべきか迷う。


「どうするって……そりゃあその場で警察を呼んで、逮捕してもらうだろ。俺にできることなんて他にはないし」


 それ以外に、どんな答えがあるだろう。犯人には正当な裁きを受けさせて、罪を償わせなければならない。できる限りの厳罰が下ることを、賢志郎は心から望んでいる。


 賢志郎は桜介に「正解です」と言ってもらえることを期待した。だが桜介は賢志郎の意に反し、「ははっ」と楽しそうな笑い声を上げた。なんだよそれ、こっちは真面目に答えたってのに――賢志郎は顔をしかめる。


「いいでしょう」


 桜介はサッと立ち上がり、座ったままでいる賢志郎にふわりと優しく笑いかけた。


「まだ動く元気はありますか? それとも、日を改めますか?」


 桜介の言葉に驚きつつも、賢志郎はすぐにその真意を悟った。

 話に乗ってきてくれたのだ。ほんの少しかもしれないが、桜介は賢志郎の願いに付き合う覚悟を決めてくれた。


 改めて腹に力を入れ、賢志郎はすくっとベンチから腰を上げた。


「今からで」


 よろしくお願いします、と賢志郎は深く頭を下げた。桜介も「こちらこそ」と返し、ふたりは揃って公園を出た。

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