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あの日、雨が降っていなければ  作者: 貴堂水樹
第一章 一点の黒い染み
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3-1.邂逅

 賢志郎や杏由美の住む住宅街から、いつも利用する私鉄の最寄り駅まで、歩いて二十分ほどかかる。

 放課後、賢志郎はわざわざ遠回りをして自宅からの最寄りである左座名市駅まで自転車を走らせると、そこから徒歩で帰宅することを想定し、自転車を押してそのルートをゆっくりとたどり始めた。


 カーナビやスマートフォンの地図アプリなどで検索すると、広くて車通りの多い道を案内される。南北に伸びる市道をひたすら南に向かって進み、しばらくすると左手にふたりの住む住宅街へとつながる交差点にぶつかる。左折してもう少し行くと、一軒家ばかりを集めた一角への入り口が左手に見えてくる、というルートだ。


 しかしながら、賢志郎たちはこのあたりの道路事情をよく知る地元の高校生である。地理に詳しい分、少しでも早く帰れる道を通りたくなってしまうのは当然の心理だろう。雨降りの日であればなおさらだ。


 ふたりの住む住宅街の北側、すなわち左座名市駅寄りの地には、大きな公園がある。バックネットはないが、問題なく野球ができるほどの広さがあるグラウンドや、小さな子どもも楽しめる遊具や砂場、お年寄りでもゆったりと利用できる健脚コースなどが整備されており、広く近隣住民に親しまれている場所だ。


 厄介なことに、この公園は駅とふたりの住む家とをつなぐ直線上に設けられていた。つまり車道は、小学校・中学校レベルをはるかに凌ぐ敷地面積を誇る公園の周りをぐるりと囲うように走っている。そのため、ナビに頼るとどうしても大回りさせられてしまうのである。


 当然、早く帰ろうと思えば公園内をぶった切っていくのがもっとも効率的だ。自転車で通学する際は公園沿いの道を通らないので、雨天時、電車に乗って学校へかよい、徒歩で帰宅する場合のみ、ふたりはいつも公園内の健脚コースをたどって家に帰るのである。


 公園の入り口にたどり着いた賢志郎は、事件当日のことを思い出しながら駐輪スペースに自転車を停め、ゆっくりと公園内に足を踏み入れた。



 

 六月十日。


 今からおよそ三ヶ月前。あの日は朝から雨が降っていた。賢志郎も杏由美も、自然な流れで公園の健脚コースをたどって家に帰る予定だった。


 大小合わせて十数ヶ所ある公園入り口の中で、駅からもっとも近い場所は、市道沿いではなく一本脇道へと入ったところにある。部活終わりの午後六時四十分頃、悪天候ということもあって、あたりはすでに暗闇と化していた。ぽつぽつと街路灯はあるものの、人通りは限りなくゼロに近かった。

 木々の生い茂る公園の入り口を入り、少し歩くと左手に公衆トイレと防災倉庫が見えてくる。建物の背中側から近づいていく状況だ。


 事件当日、杏由美より一本遅い――具体的には六分後に高校の最寄り駅を出た電車に乗って帰路についた賢志郎は、杏由美と同じく自宅までの最短ルートである公園内の健脚コースを通って帰るつもりだった。賢志郎の他に通行人の姿はなく、公園の入り口前にピンク色の傘が開かれた状態で落ちていることにはすぐに気がついた。そしてそれが、杏由美のものであることにも。


 傘があったのは駐輪スペースのすぐ脇で、開かれたままだった傘が覆い被さるような形で、杏由美のスマートフォンが落ちていた。


 心臓が止まるかと思った。実際、ほんの少しの間、止まっていたと思う。

 自らの傘を放り出し、拾い上げた杏由美のスマホを握りしめると、賢志郎は公園内へ向かって駆け出した。鈍く光る街路灯は、賢志郎以外には誰のことも照らしていない。


『あゆ!』


 叫んだ声が、激しい雨音に吸い込まれる。足を踏み出すたびに、ざく、ざく、と落ち葉が深い音を立てた。


『あゆ? あゆ!』


 降りしきる雨が全身を叩く。視界が悪い。髪や制服がからだにへばりつき、うまく息ができなかった。

 それでも、立ち止まるわけにはいかない。賢志郎は必死に足を動かした。左前方に目を向けると、幼い頃よく利用していた公衆トイレがあった。


 ここだ――迷わず女子トイレの中に入る。しかし、個室や掃除道具入れも含めて、トイレ内はもぬけの殻だった。


 まさかと思いながら、隣の男子トイレへ駆け込んだ。

 そこで見た光景に、今度こそ心臓が動きを止めた。


『あゆ……?』


 目の前にあるのは、腹部から下を真っ赤な血に染められた、幼馴染みの無惨な姿。

 だらりと無造作に四肢を投げ出し、青い唇をして、力なく目を伏せて倒れている。


 杏由美のスマホを取り落とし、賢志郎は横たわる彼女の脇にしゃがみ込む。

 かすれた声で何度も彼女の名を呼びながら、震えてうまく動かない腕でそのからだを抱き上げる。


 人のものとは思えないほど、杏由美のからだは重く、ひんやりと冷たかった。




 あの日の光景が蘇り、賢志郎の足がぴたりと止まった。

 息が苦しい。眩暈がした。今はまだ、公衆トイレの背中しか見えていないというのに。


 自らの手で犯人を追うと決めた日からおよそ一ヶ月、賢志郎は何度もこの場所を訪れようと試みた。警察の見落とした手がかりが見つかるかもしれないと、淡くも捨てられない希望をいだいて。


 けれど、そのたびに足がすくんだ。真っ赤に染まる杏由美の姿が蘇り、一瞬にして呼吸を見失ってしまう。


 あの日目にした凄惨な光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。事件から三ヶ月が経った今でも。


 ――ちくしょう、情けねえ。


 自分が案外(もろ)い人間であることを、賢志郎は杏由美の事件をきっかけにはじめて知った。同時に、大切ななにかを目の前で失うことの、全身が凍てついて動けなくなるような、底なし沼のような恐ろしさも。


 軽く咳き込み、どうにか深く息を吸う。ぐっと歯を食いしばって、もよおした吐き気を抑え込んだ。

 もつれそうになりながら、賢志郎はバカみたいに重いなまりと化した足を引きずって歩いた。


 ――今日こそ。


 今日こそ俺は、あの場所へ行くんだ。あそこへたどり着きさえすれば、きっと現状を変えられる。


 なんの根拠もない自信だった。けれど、なんでもいいから、己を鼓舞するための道具がほしかった。


 れ言でいい。それで前に進めるのなら、どんな虚言にだってすがろう。

 荒く肩で息をしながら、賢志郎は顔を上げ、懸命に足を動かした。


 十歩ほど進んで、ようやく公衆トイレの側面が見えてきた。もう二歩、あと三歩。ずるずると無様に足を引きずり、やっとの思いでトイレの正面を目にしたその時、賢志郎ははっとして立ち止まった。


 男子トイレの入り口前に、誰かがしゃがみ込んでいる。


 男だ。黒い髪が短く整然と切り揃えられている。

 濃紺のジャケットにジーパン、足もとはダークグレーのスニーカー。横顔から想像するに、歳の頃は賢志郎とさほど変わらないだろう。


 男の目の前に、お世辞にも立派とは言えない細身の花束が置かれていた。そして男はトイレの壁に向かって、目を閉じ、手を合わせている。


 そういえば、と賢志郎はふと思い出した。


 十年前にも、同じこの場所で殺人事件が起きていた。当時賢志郎は七歳で、なにやら周りの大人たちが物々しい雰囲気で『人が死んだ』と騒いでいたことくらいしか覚えていないが、杏由美が刺されたことで、再び周囲の大人たちがその時の話題を口にし始めたのだ。確かその事件がきっかけでトイレは一度取り壊されて、小学二年生の時に今建っているものが新しくつくられたんだったよなぁと、賢志郎はおぼろげな昔の記憶をたどる。


 事件が起きたのは、十年前の今日、九月二十六日。被害者は当時高校生だった女の子。通り魔による犯行で、犯人は未だ逃走中。


 幸いにも、杏由美は殺されることなく今もなお生きている。男が手向けたあの花束は、当時被害に遭って亡くなった女の子のためのものだろうか。


 だとすれば、この人は一体……?


「こんにちは」


 ぐるぐると思考を巡らせていると、いつの間にか男は立ち上がって賢志郎に微笑みかけていた。

 身長は賢志郎よりも少し低く、一七〇センチをわずかに切るくらいだ。落ち着いたテノールボイスで、銀縁のスタイリッシュな眼鏡をかけている。制服姿ではないので確かなことはわからないが、おそらくは最初の印象どおり、自分と同じく高校生だろうと賢志郎は推察した。眼鏡をかけてはいるものの、中学生だと言われても納得できるほどの童顔だった。


 呆然と立ち尽くしていると、男は突然、はっとした顔で賢志郎に駆け寄った。


「どうしました? 大丈夫ですか?」

「え?」

「顔が真っ青だ。あっ、もしかして急な腹痛ですか?」

「は?」

「すみません、僕が入り口を塞いでしまっていましたね」

「い、いや……そうじゃなくて……」

「本当に? 恥ずかしがってちゃダメですよ。さ、どうぞどうぞ。我慢はからだによくありません」

「違います! ほんと……違うから」


 男にトイレへといざなわれかけ、賢志郎は慌てて両手を突き出して男と少し距離を取る。そうですか、と男は言い、ジーパンのポケットからハンカチを取り出した。


「ですが、やはり無理はよくない。普通じゃないですよ、この季節にこんなにも汗だくになるなんて」


 男はそっと賢志郎の額に手を伸ばし、握っていたハンカチで汗を拭った。男の行為で、賢志郎はようやく自分が汗まみれになっていることを悟った。


「ご自宅はすぐ近くですか?」

「え?」

「学校帰りですよね? 早く帰って着替えたほうがいいと思います。汗が冷えると風邪をひいてしまいますから」


 男はハンカチをジーパンのポケットにねじ込み、今度はジャケットの右ポケットから車のキーを取り出した。


「送ります」


 さわやかな笑みを浮かべ、男は手にしたキーを顔の横でシャランと振った。スマートキーに、車のナンバープレート型の黒いキーホルダーがつけられていた。

 賢志郎は思わず目をぱちくりさせた。すっかり高校生だと思っていたのに、まさか車を運転できる年齢だったとは。


「ああ、すみません」


 わかりやすく戸惑っている賢志郎に、男は肩をすくめて苦笑いした。


「いきなり車に乗せられるのではびっくりしてしまいますよね。でも僕、決して怪しい者ではありません」


 キーを左手に持ち替え、ジャケットの左内ポケットに右手を突っ込むと、男は黒い縦開きの何かを胸の高さで掲げて見せた。


「汐馬警察署刑事課のはざまおうすけといいます。今日は非番なのでこんなラフな格好をしていますが、一応、警察官です」

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