2.横山夕梨の後悔
賢志郎は二年E組、貴義はH組、杏由美はC組の生徒だ。靴箱の都合で、賢志郎はいつもC組の前を通って自らの教室へと向かう。
淡々とルーティンワークをこなすように、自然な動作でちらりとC組の教室を覗き見る。杏由美の姿はまだなかった。今日はバレー部の朝練日なので、まだ体育館か部室にいるのだろうと賢志郎は思った。
E組の教室へ入り、自分の席の椅子を引きながらズボンのポケットに右手を突っ込む。スマホを取り出すと、二週間ほど前から目をつけ始めた、とある匿名掲示板にアクセスした。
スマホを操作しながら黒いリュックを机の横に引っかけ、すとんと椅子に腰かける。食い入るように画面を見つめ、なにか新しい情報が上がっていないかくまなくチェックした。
賢志郎が本格的に犯人捜しを始めたのは、九月に入り、再び杏由美が高校へかよい出してからのことだった。
事件から二ヶ月が過ぎ、夏休みが終わる頃になっても、警察から犯人逮捕の一報が入ることはなかった。このままでは杏由美が安心して高校にかよえない、いつまでもしゃべれないままじゃ学校生活に支障をきたす……そんな想いもあり、自ら動き出す決心をした。
そんな中見つけた件の掲示板というのは、巷で起こる凶悪犯罪についてあれこれ語り合うためのものだった。そこで杏由美の事件について書き込むために立てられたスレッドを見つけ、賢志郎は暇さえあればそのスレッドに張りついて、なにか有益な情報が上がらないかと目を光らせていた。
匿名掲示板であるため、書き込みの大半は信憑性に欠ける情報だったり、ただただ犯人を罵倒する言葉を書き並べただけのものだったり、素人が刑事の真似事をして推理を披露してみたりと、ここで有益な情報を掘り当てるのはほとんど困難に等しいと賢志郎はすぐに悟った。しかし、どんな小さな手がかりでも見逃すわけにはいかない。実際、〝傘を差しているのにずぶ濡れだった〟という不審者の目撃情報を書き込んでいた人と直接コンタクトを取ってみたこともある。とにかくじっとしていられなくて、危険を顧みることを、賢志郎はすっかり失念しつつあった。
「おはよっ、川畑!」
唐突に背中から声をかけられ、賢志郎はスマホを睨みつけるしかめっ面のまま顔を上げた。
声の主は、杏由美と同じ女子バレーボール部の部員であるクラスメイト・横山夕梨だった。賢志郎が顔を上げた時こそ笑みを浮かべていたものの、夕梨はすぐに賢志郎のしかめっ面を映したように眉を寄せた。
「こわっ。なにその顔」
夕梨に指摘され、賢志郎はようやく顔の力をふっと抜いた。スマホの画面を消し、夕梨が自分のひとつ前の席に腰を下ろす姿を見つめる。
月に一度の席替えで、夕梨は今月、窓側の列の前から三番目になった。そのひとつ後ろが賢志郎。くじ引きとはいえ、ふたりしてなかなかいい位置を確保したものだと、席替え直後はニヤリと勝ち誇った笑みを向け合った賢志郎と夕梨である。
「あゆ、朝練来た?」
どさっと重そうにエナメルバッグを机の脇へと下ろした夕梨に、賢志郎はやや声を押さえて尋ねた。
「もちろん」
振り返って、夕梨は短く答えた。
「あゆは部活をサボらないからね」
賢志郎は無意識のうちに、再び顔をしかめていた。あんたと違って、と夕梨の顔に書かれているような気がした。
通り魔事件の被害者である杏由美は、二学期に入るまで、学校の授業と同時にバレー部の練習にも参加することができなかった。
事件の起きた六月十日から数えて最初の一ヶ月は、腹部の手術と療養に費やした。退院し、夏休みに入るまでの約半月は、精神面のケアのため、通学を控えていた。
あまり長く休みすぎるとむしろ復学できないのではないかと心配する声も上がったが、夏休みを挟み、杏由美は無事に学校へ出てくることができるようになった。その背景に夕梨が深くかかわっていることを、賢志郎は知っている。
部活を休んで常に杏由美のそばにいる選択をした賢志郎ほどではないが、夕梨も入院中・退院後を問わず、頻繁に杏由美の見舞いに足を運んでいた。とりわけ杏由美も所属しているバレー部の近況についてよく話をしてくれて、マネージャーとしてでもいいから部活に復帰してほしいと、会いに来るたびに杏由美を根気よく口説いた。『今度あゆになにかあったら、その時はあたしがあゆを守る』と、賢志郎たち男子顔負けの頼もしさを見せ、夏休み終了の前日、ついに杏由美を説き伏せてしまったのだった。
杏由美に対する夕梨の功績は、時に賢志郎の存在をも上回る。杏由美が今日も無事に学校へ足を運べたのは、間違いなく夕梨のおかげだ。
そういう意味で、賢志郎は夕梨に頭が上がらない。自分だったら杏由美を学校へかよわせられただろうかと、今でも本気で考える。そうしてたどり着く答えはいつもノーだ。
「ひっどい顔してんね」
賢志郎の机に右腕を乗せ、夕梨は意味ありげに首を傾げてみせる。
「どうりであゆが心配するわけだ」
「あゆが?」
「そう。朝練の時、なんか暗い顔してたからどうしたのかなーと思って訊いてみたの。そしたら【私は大丈夫。でも、ケンちゃんは大丈夫じゃない】って返ってきて」
夕梨はスカートのポケットからスマホを取り出し、杏由美から受け取ったメッセージを開いて賢志郎に見せた。
【ケンちゃん、最近ずっと疲れた顔してる。風邪気味みたいだし、心配】
受信時刻は今日の午前七時二十五分。朝練が始まる五分前だ。そしてこのメッセージに続いて、杏由美はこう綴っていた。
【全部、私のせい】
「バカ……!」
賢志郎はかすかに声を漏らした。机に両肘をつき、頭を抱えて夕梨のスマホから視線を外す。
もう何度、杏由美に自分を責めるなと説得しただろう。いつだって杏由美は涙を流すばかりで、一度も首を縦に振ってくれたことはない。
――あゆは被害者なんだ。あゆのせいなわけがない。犯人を責める権利はあっても、自分を責める理由なんて、おまえには少しもねえんだぞ。
どれだけ真剣な目をして訴えても、どれだけ言葉を選んでも、賢志郎の想いが杏由美の心に届くことはない。三ヶ月が経った今でも、杏由美は事件の被害に遭ったことを、あの日の自分の行動を、ずっと責め続けている。
「大丈夫?」
夕梨が顔を覗き込んできた。賢志郎は「ああ」と小さく答え、くしゃくしゃっと右手で髪を触る。
「悪いな、横山……おまえにまで心配かけてんだな、俺」
「そりゃあね。あたしにとっても……あの事件は、他人事じゃないから」
今度は夕梨が表情を曇らせた。ふたりの間に冷ややかな沈黙が降りる。
あの日、事件現場となった公園の入り口前に、杏由美の傘とスマートフォンが落ちていた。杏由美はいつもスマホを制服のスカートのポケットに入れているのだが、スカートのポケットというのはしっかりと深くつくられていることから、公園に引きずり込まれたはずみで自然にポケットからすべり落ちたというのは少々考えにくい状況だった。
つまり杏由美は、犯人に襲われたまさにその時、スマホを手に持って歩いていた。画面に気を取られていたからこそ、犯人が近づいてきたことに気づくのが遅れたのだ。
スマホの画面を表示させたところ、メッセージアプリが開かれた状態になっていた。そして、その時杏由美がメッセージのやりとりをしていた相手こそ、夕梨だったのだ。
そのことを警察から聞かされて以来、夕梨はずっと後悔している。
あの日、雨が降っていなければ。いつものように自転車で、あゆの隣を走って帰っていれば。歩きながらではなく、家についてからメッセージを送っていれば、と。
「おまえのせいじゃねえよ」
静寂を破ったのは賢志郎だ。
「悪いのは犯人だ」
「わかってるよそんなこと! けど、じゃあ川畑は、自分のせいじゃないって胸張って言える?」
「それは……」
言葉を詰まらせる賢志郎。夕梨は「でしょ?」と言って息をついた。
「みんな一緒だよ。あたしたちだけじゃない、貴義だってそう。みんな、犯人のことを恨んでる」
貴義、と賢志郎は心の中だけで繰り返した。貴義とはついさっき、半ば喧嘩みたいなやりとりをしたばかりだ。思い出すと気が滅入る。
「無理しないで」
夕梨が真剣な目をして言った。
「確かにあたしも犯人には捕まってほしいと思うし、あんたの気持ちはよくわかるから止めはしないけどさ。でも、これだけは覚えておいて……あんたがつぶれると、あゆが悲しむ」
賢志郎は瞠目した。夕梨は苦笑まじりに肩をすくめる。
「ちょっとは友達に頼ることを覚えなよ。あたしも貴義も、あんたの味方なんだからさ」
言い終えると同時に始業のチャイムが鳴った。午前八時三十分、担任教諭が教室に入ってきて、夕梨は正面を向いて座り直す。
意味もなく大声を出して叫びたい気持ちを、賢志郎は必死になって抑え込んだ。
机の上に置きっぱなしにしていたスマホを見ると、画面上にメッセージアプリのポップアップが表示されていた。
【おはよ! 風邪、どう? ひどくなってない?】
毎朝届く、杏由美からのメッセージ。くそ、と賢志郎は誰にも聞こえないくらいの声で悪態をついた。
――逃がしてたまるかよ。
早く杏由美に、本当の日常を取り戻してほしい。
こんな無機質な文字ではなく、生の声で語り合いたい。
そのためにも、一刻も早く事件を解決しなければ。
犯人確保への決意を新たにし、賢志郎はスマホを握った。