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あの日、雨が降っていなければ  作者: 貴堂水樹
第一章 一点の黒い染み
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1.笹岡貴義の後悔

 信号待ちで見上げた空は、目の覚めるような青一色に染まっていた。

 夏の終わりを告げる冷たく澄んだ空気が頬をなでる。さわやなか空の青さとは裏腹に、心はどこまでも暗く沈んでいた。


 あかく色づくにはまだ少し時間がかかりそうな桜の葉が覆い被さる、県立左座名(さざな)西にし高校の駐輪場。すべり込むように屋根の下に入り、自転車を停めた川畑かわばた賢志郎けんしろうは、大きなため息を吐き出した。


 ――ちくしょう、どこで間違えた?


 自転車の鍵を抜き取りながら、がしがしと乱暴に後頭部をかく。


 俺は今まで、どうやってあいつを笑わせてきた? 俺がどういう顔をすれば、あいつは笑顔になってくれた?


「くそ……」


 昨日、また由美ゆみを泣かせてしまった。そんなつもりなど、これっぽっちもなかったのに。


 杏由美が笑わなくなって、三ヶ月が過ぎた。

 なにがまずいのかわからない。もちろんあの事件のせいというのが一番だ。だが、原因はおそらくそれだけじゃないと、賢志郎にはわかっていた。


 わかっているのに、わからない。

 日に日に大きく膨らんでいくこの矛盾した問いの答えを、賢志郎はずっと探し求めていた。


 およそ三ヶ月前の六月十日。幼馴染みの三船みふね杏由美は、見知らぬ誰かにいきなりひとけのない公園に連れ込まれ、刃物で腹を刺された。

 その時の恐怖が、どのくらい深い絶望を彼女に植えつけたのか、それは本人にしか到底理解できないものだろう。あれから三ヶ月が経つものの、杏由美の心に芽生えた底知れぬ恐怖は、いまだ消え去る見込みが立たない。


 けれど賢志郎には、どこか絶対的な自信があった。

 自分さえそばにいれば、杏由美はまた前を向いて生きていくことができるようになるはずだと。すぐにとはいかずとも、いつかまた、昔と同じように笑い合える日が来るはずだと。


 なのに。


 梅雨が明け、本格的な夏がやって来た頃には、腹部に受けた刺し傷はすっかり癒えていた。しかし、季節が秋を迎えてもなお、杏由美は一向に笑顔を取り戻してくれない。それどころか、あの事件に遭って以来、杏由美は声を出すことができなくなってしまっていた。


 失声症しっせいしょう、というらしい。


 杏由美の担当医の話によれば、過度のストレスや強烈な心的外傷によって、一時的に声を発することができなくなることがあるという。杏由美も、傷害事件の被害に遭ったことが原因で、声を失ってしまったというのだ。


 投薬治療やカウンセリング、適切な発声訓練を受けることで徐々に症状は緩和されていくらしいのだが、杏由美の場合、事件から三ヶ月が経った今でも声を出すことができずにいる。賢志郎には、それが悔しくてたまらなかった。


 ――なんでだよ。


 ぎゅっと拳を握りしめる。

 無理して笑っているつもりなどなかった。杏由美の前では、いつでも自然体でいられた。

 唯一いつもどおりじゃないのは、杏由美の瞳が四六時中恐怖の色に揺れていること。

 なにに怯えているのかは言うまでもないが、賢志郎は、せめて自分と一緒にいる時くらい安心してほしいと思っていた。俺がそばにいれば、おまえを守ってやれるのにと。


 そうしてまた、あの日に抱いた後悔の念にさいなまれる。


 あの日、雨が降っていなければ。あと一本、早い電車に乗れていれば。同じ電車で、あゆと一緒に帰っていれば。


 そうすれば、こんなことにはならなかったはずなのに、と。


「よっ」


 その時、不意に後ろから肩を叩かれた。驚いて振り返ると、同じ二年生である笹岡ささおかたかよしが立っていた。


「……んだよ貴義か」

「はあ? なんだよその冷てえ言い方」

「別に。びっくりさせんなっつってんの」

「相変わらず機嫌わりぃなぁ。ちょっと挨拶してやっただけだろうが」


 貴義は両手をポケットに突っ込んで歩き出した。駐輪場は高校の敷地の中の最北に設けられていて、教室のある校舎までは少し距離がある。


「どうだ、賢志郎。ふてくされてばっかりじゃつまんねえだろ。気晴らしにやりに来いよ、バスケ」


 追いついて隣を歩き始めた賢志郎に、貴義はなにげない口調で声をかける。ちら、と賢志郎は隣の貴義を仰ぎ見た。


 貴義は男子バスケットボール部のキャプテンだ。一八五センチの長身と足の速さが武器で、おまけにバスケセンスも部内では一、二を争う実力派である。


 そして、彼と部内ナンバーワンの座を争っていたのが賢志郎だった。


 一七二センチと身長には恵まれなかったものの、広い視野と、相手の意図を読み取る鋭い勘の持ち主である賢志郎は、パス回しの基点となるポイントガードという司令塔的ポジションで花開いた選手だ。それに対して、貴義はいわゆる〝点取り屋〟であるフォワードというポジションで、息の合ったふたりのコンビネーションは、他校の先生たちからも高い評価を得るほどだった。


 しかし、三ヶ月前に杏由美の事件が起きて以来、賢志郎はバスケ部の練習に一度も顔を出していない。退部届を書いて顧問に提出したのだが、キャプテンである貴義が受理に待ったをかけ、部員として名を連ねたまま休部扱いにされていた。


「あんまり根詰めてると成果は上がらないもんだぜ? なにごとも」


 十センチ以上高いところから見下ろされ、賢志郎は黙ったまま貴義から目を逸らした。


 賢志郎が杏由美の事件の犯人を追っていることを貴義は知っている。貴義はただ「気をつけろ」と言っただけで賢志郎を止めようとはしなかった。ただし、バスケ部を辞めることに関してだけは、絶対に首を縦に振らなかった。


 なにも賢志郎だって、バスケがやりたくないわけじゃない。気持ちが向けばいくらでもやりたいし、休部状態にある今だって、毎晩の筋トレやからだのケアは欠かさずおこなっている。貴義とのワンオンワンでは負け越したままになっているので、きっちりお返しをしてやりたいとさえ思っている。


 だが、どうしても足が向かないのだ。杏由美を襲った犯人が野放しのままでいる今、部活にかまけている時間があるのかと、そんな風に思ってしまう。


 じっとしてなどいられなかった。警察が捕まえてくれないのなら、この手で捕まえる他にない。

 杏由美の声と笑顔を取り戻すには、この世界が平和であることをきちんと証明しなければならない。そのために賢志郎は、犯人の行方を追っている。


 それが、賢志郎が部活に戻らない理由のひとつ。

 本当はもうひとつ、大きな理由を抱えているのだが、それについてはまだ誰にも話したことがなかった。


「貴義」

「あん?」

「勝てよ、今度の大会」


 三週間後、バスケ部は新人戦の地区予選を控えている。勝ち上がれば県大会、さらに勝てば地方大会。賢志郎たち左座名西高校男子バスケットボール部は、県大会までは常連出場、地方大会への切符がギリギリ掴めるかどうかという、県内ではそこそこ名の知れた強豪チームだった。


 賢志郎の言葉に、貴義は足を止めた。ふっと隣から消えた貴義を、賢志郎は怪訝な表情を浮かべて振り返る。


「なんだよ。自信がないとでも言うつもりか?」


 鼻で笑いながらそう問うと、貴義は真面目な顔で言った。


「おまえがいなきゃ勝てねえ」

「は?」

「……っつったら、おまえは戻ってきてくれるか」


 賢志郎の瞳が揺れた。秋を感じさせる冷たい風が、ふたりの間を吹き抜ける。


 ――くそ。


 だから辞めたいって言ったのに。


 拳を握りしめ、賢志郎は目を伏せる。息苦しくて仕方がなかった。


「バカなこと言ってんじゃねえよ」


 喉の奥から絞り出し、吐き捨てるように、賢志郎はからだ半分を貴義に向けて言った。


「俺頼みのチームしかつくれねえってんなら、キャプテンなんて辞めちまえ」


 自分でも驚くほど、本心からうんとかけ離れた一言を紡いでいた。貴義はわかりやすく顔をしかめる。

 けれど賢志郎は、貴義なら自分の真意に気づいてくれると信じて疑わなかった。本当はこんなことなど、微塵も思っていないのだということに。


 少しだけ後悔して、賢志郎は視線を下げる。


 ――俺だって。


 戻れるのなら戻りたいさ。試合にだって出たいし、ひとつでも多く勝ちたい。

 だけど、今はまだ無理なんだよ。

 部活のことを考えると、足が――。


「賢志郎」


 怖い顔で、貴義は賢志郎を覗き込む。


「大丈夫か」


 いつの間にか呼吸を揺らしていたことに気づき、賢志郎は取り繕うように咳払いを入れてから「ああ」と返事をした。その姿に、貴義は「なあ、賢志郎」と言葉をかける。


「オレにもなにか、できることはないか」


 オレにも手伝わせてくれと、その目は雄弁に語っていた。


 賢志郎は知っている。

 貴義もまた、杏由美の事件に責任を感じていることを。


 三ヶ月前のあの日、賢志郎が乗る予定だった電車を逃したのは、貴義のせいだった。

 貴義が部室にスマホを置き忘れ、賢志郎は一緒に取りに戻った。七月末に控えていた公式戦のスターティング・オーダーについて真剣に話し合っている最中だったので、中途半端に別れるわけにはいかなかったのだ。


 普段はふたりとも自転車で通学していて、帰り道はまったくの逆方向なのだが、あの日はあいにくの悪天候だった。雨の日に限り、賢志郎は電車を、貴義は駅前から出ている路線バスを利用して高校にかよっている。杏由美が賢志郎の乗った電車より一本早い電車で帰ったことを知った貴義は、何度も賢志郎に頭を下げた。


 あの日、雨が降っていなければ。オレがスマホを部室に忘れなければ。公式戦のオーダーについて話さなければ。雨の中、親友を引きずり回すようにもと来た道を戻らなければ、と。


 けれど賢志郎は、貴義に責任があるとは少しも考えていなかった。犯人捜しに付き合わせるつもりもない。むしろ貴義には、自分の代わりに部活でいい成績を残してほしいと、そんな風にさえ思っている。


 正直、貴義が犯人捜しに加わったところで、風向きが変わるとも思えなかった。


 杏由美が犯人の顔を覚えていればよかったのだが、あいにく杏由美は事件当時のことをまったく思い出せずにいた。思い出せないというより、心が当時の記憶を掘り起こすことを拒否しているのではないかというのが担当医の見解で、無理な事情聴取をおこなわないようにと警察にも伝えられていた。


 そうなると当然、第三者による目撃証言に頼る他に犯人像を浮かび上がらせることはできない。本業の刑事たち同様、賢志郎も個人的に周辺への聞き込みを徹底的におこなった。学校内での杏由美に関する噂話なんかも、杏由美に内緒で集めに走った。通り魔による犯行なのか、杏由美が個人的に狙われたのか、どちらとも判断できない状況だったからだ。


 事件当時、取材で賢志郎の家にやってきたとある新聞記者と仲よくなって、いくつか情報を流してもらったこともある。さすがに警察の捜査関係者からはなにも聞き出せなかったが、記者連中の握っている情報だって、賢志郎にとっては十分な収穫だった。それらをもとに犯人像をあぶり出してみようとしたけれど、さすがに素人では限界がある。その限界にぶつかりつつあることを、賢志郎は日に日に強く感じるようになっていた。


「ねえよ、なんにも」


 賢志郎は短く答えた。


「あゆのことは、俺がなんとかする」


 くるりと貴義に背を向けて、賢志郎はすたすたと早足で歩き出した。その耳に、すぐに貴義が駆け寄ってくる足音が聞こえてきて、次の瞬間にはガシッと肩を掴まれていた。


「なあ、賢志郎って!」

「なんだよ!」

「気づけよ、いい加減」

「なにが!」

「またおまえの悪い癖が出てるぞ」

「あ?」

「三船のことになると、おまえはすぐ視野が狭くなる」


 サッと賢志郎は貴義から……いや、貴義に告げられた真実から目を背けた。頭の上から、貴義の大きなため息が降ってくる。


「ったく……らしくねえって。『もっと周りをよく見ろ。相手がなにを思ってて、どんな一歩を踏み出そうとしているか。それさえわかれば、自分がどう動くべきかは自然とわかってくるもんだ』……おまえがいつも、チームのヤツらに言ってやってることじゃねえのかよ」


 舌打ちしたい気持ちを、賢志郎はぐっとこらえる。貴義の言うとおりだった。


 賢志郎の持ち味は、相手の心理を読み解く目だ。誰が、どこで、なにを考えているか……それをいち早く読み取ることで自らの行動を最適化し、最小限のリスクとパワーで相手の攻撃を防ぎ、自分たちに有利な展開へと持ち込む。それが賢志郎の、司令塔としてのプレースタイルだった。


 そのスタイルが唯一通用しない相手が、杏由美だった。

 杏由美のことになると、賢志郎はいつも自分を見失ってしまう。焦りや不安が混乱を生み、混乱が冷静な判断力を失わせる。今がまさにその状況にあることを、賢志郎自身、わかってはいた。


 わかっているのに、焦りばかりが募っていく。杏由美が昔みたいに笑えない日々が、これ以上長く続くことに耐えられない。


 もう一度、貴義が小さく息をついた。


「おまえのやってることを否定するつもりはねえ。けどな、なんでもかんでもひとりで抱え込んで、ひとりで解決することがかっこいいと思ってんなら、それはとんでもない大間違いだぞ?」

「俺は別に、そんなこと……」

「なあ、賢志郎」


 名前を呼ばれ、賢志郎は顔を上げた。


「どんな勇敢なヒーローにだって、仲間の存在は不可欠だろ」


 ぶつかった貴義の視線に、賢志郎は息をのむ。

 オレのことを信じてくれと、貴義はその目で語っていた。


 ――ちくしょう。どうしてこんなことに。


 貴義の視線を振り切り、賢志郎はゆっくりと校舎に向かって歩き出した。

 握った拳に爪が食い込んでいることには、少しも気がついていなかった。

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