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あの日、雨が降っていなければ  作者: 貴堂水樹
第二章 その赤は芽吹き、やがて

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2-2.揺れる心

『――はい、硲です』


 四コールののち、電話越しに桜介の声が聞こえてきた。


「あ……えっと、川畑ですけど」


 マスクを顎のほうへと引き下げ、やや緊張気味に名乗ると、『やぁ、賢志郎くんですか』と桜介は声のトーンを上げた。


『こんにちは。昨日はどうも』

「こちらこそ、どうも」


 痰が絡んで咳き込むと、『大丈夫ですか』と返ってくる。


『やっぱり風邪、悪化させちゃいましたね』

「大丈夫です。たいしたことないんで」

『本当ですか? どうぞお大事になさってくださいね』


 ありがとうございます、と賢志郎は答えた。まだ緊張しているのか、心拍数が上がっていた。


『それで?』


 桜介は、柔らかなテノールボイスをやや低くした。


『どうされました? ――早速気が変わりましたか?』


 ゾクッ、と背筋に冷たい感覚が走る。桜介の歪んだ笑みが瞼の裏に蘇った。


「……その話じゃない」


 必死に紡ぎ出した声は驚くほど震えていた。情けなさに、あいている左の拳をぎゅっと握る。


『そうですか』


 淡泊な口調で桜介は言った。


『どうぞ遠慮なく、いつでもおっしゃってくださいね。きみの気持ちを満足させるお手伝いができれば僕も嬉しい』

「黙れ!」


 賢志郎は声を張り上げる。今できる最大限の抵抗だった。遠くで何人かの女子生徒が賢志郎に冷ややかな視線を向けていたが、賢志郎にはそんなものに気づく余裕など微塵もない。


「……咲良さんの事件のことで、あんたに訊きたいことがあって」


 呼吸を整え、声を落として本題を告げると、桜介は『はい、伺いましょう』と丁寧に返事をした。


「事件当時、お姉さんは駅から歩いて病院に向かっていたんですよね?」

『ええ、そうです』

「その時、手に携帯を持っていたかどうかなんてこと、わかったりします?」

『携帯ですか?』


 桜介はあきらかに訝しげな声で答えた。


『目撃情報がないので具体的なことはお答えできかねますが、可能性の話でよければ』

「もちろん。それで?」

『結論から言うと、十分考えられると思います。姉は駅に到着したことを父に伝えるため、自分の携帯で父宛てに電話をかけていました。おそらくは歩きながら話をしたでしょうから、その様子を犯人が見ていた可能性は大いにあります』


 やっぱり、と賢志郎は確信を持ってつぶやいた。やはり犯人は、セーラー服を着ていて、かつ、携帯を使いながら歩いている女子高生を狙って事件を起こしているようだ。


『そういえば杏由美さんも、スマホでメッセージをやりとりしている最中に襲われたんでしたね』

「はい。それに、五年前に亡くなった瀧沢ゆかりさんも、襲われる直前に当時付き合っていた彼氏と電話しながら歩いていたって」

『へえ』


 桜介が興味深そうにつぶやいた。


『調べたんですか、五年前の事件について』

「まぁ、それなりに。あゆの事件と同一犯らしいって話だったんで」

『まったく……末恐ろしい子ですね、きみは』

「は?」

『きみほど行動力にあふれた子にはなかなかお目にかかれません。どんな大人になるのか、将来が楽しみですよ』


 本当に楽しそうな声が聞こえてきて、電話の向こうで桜介が嬉しそうに笑っている様子が目に浮かんだ。相変わらず、褒められているのかどうか微妙なラインだと賢志郎は思った。


『しかしきみは、やはりいい着眼点をお持ちのようですね』

「え?」

『犯人はセーラー服という衣装に加えて、携帯電話を片手に歩いている女子高生に的を絞っている……携帯そのものに執着しているのか、あるいは単なる目印にしているのかはわかりませんが、やはり犯人はなんらかのこだわりを持って動いているようですね。被害者たちの携帯電話やその周辺事情について、もう少し詳しく調べてみます。被害者同士に接点が出てくる可能性もある』

「はい、よろしくお願いします」

『なにかわかったらご連絡します。きみはゆっくり体調を整えてください』


 あまり無茶をしないように、と釘を刺され、賢志郎は曖昧に返事をして桜介との通話を終えた。やはり緊張していたようで、ふっと肩の力が抜けるのが自分でもわかった。


 マスクをつけ直して教室への道を戻り始めたところで、ちょうどトイレから出てきた貴義と鉢合わせた。


「なんだよ、風邪か?」

「たいしたことない」


 それだけ言ってやり過ごそうと思ったが、賢志郎はふと足を止めた。


「貴義」

「ん?」


 朝、夕梨と交わした会話を思い出していた。


 ――あゆのためにも、俺は部活に戻るべきなのだろうか。


 しかし、いざ部活に復帰しようと思ったら、今の賢志郎には乗り越えなければならない壁がある。そのことについて、少なくともキャプテンである貴義には伝えておかなくてはならない。


 杏由美にすら伝えられていない、部活に対する、自らの本当の想いを。


「なんだよ。もう授業始まっちまうぞ」


 貴義に急《せ》かされ、賢志郎は意を決して口を開いた。


「ちょっと話したいことあんだけど。……部活のことで」


 貴義はかすかに眉を動かした。


「放課後、時間つくるか?」

「いや、明日でいい。今日は予定あるから」


 わかった、と貴義は答えた。話がまとまり、会話はそこで終わりだった。

 だが賢志郎は教室に戻ることなく、黙ってその場に立ち尽くしていた。迷っていたのだ。もうひと言だけ、貴義と言葉を交わすべきかどうか。


「賢志郎?」


 貴義が一歩、賢志郎に近づく。


「なあ、おまえ本当に大丈夫か? 調子悪いなら保健室に……」

「貴義」


 気遣ってくれた貴義の言葉を遮り、賢志郎は視線を下げたまま問いかけた。


「おまえ……人を殺したいと思ったこと、あるか」


 貴義が、まとう空気の色を変える。賢志郎はちらりと貴義の顔を仰ぐ。


 ふたつの視線が交錯する。沈黙が降り、切り取られたふたりの世界を静寂が包む。


 やがて貴義は息をつき、なにも答えず賢志郎に背を向け、自らの教室に向かって歩き出した。


「貴義!」

「そんな質問」


 背中にかけられた賢志郎の声に、貴義はゆっくりと振り返る。


「答える価値もねえよ」


 どこまでも冷ややかな声と、蔑《さげす》むような鋭い視線が、まっすぐ賢志郎に突き刺さる。


 チャイムが鳴った。貴義は黙って教室に戻っていく。

 その背中を見つめたまま、賢志郎はしばらく、その場に凍りついていた。

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