1-2.悪寒
教室に入ると、夕梨がすでに登校していた。ひとつ後ろの席に賢志郎が近づく気配を察知した夕梨は、振り返るなり「ありゃま、すっかり風邪っぴきじゃん」と苦笑した。
「喉いてえ」
自らの席に腰を落ち着けながら、賢志郎は重苦しく咳をした。薬を飲んできたはずなのに、症状は悪化の一途をたどっている。
「うわ、めっちゃ鼻声」
夕梨がしかめた顔で賢志郎を覗き込む。
「だいじょぶ? 熱は?」
「今んとこない」
そう、と夕梨は言い、「無理が祟ったね」と肩をすくめた。
「別に無理なんてしてねえよ。ほっときゃそのうち治るし」
咳き込みながら言ったところでなんの説得力もなかったが、病は気からという言葉もある。大丈夫だと心の中で言い聞かせ、賢志郎はリュックの中から教科書やらペンケースやらを取り出し始めた。
すると夕梨が、賢志郎の机に右肘を乗せながら言った。
「バスケでもすれば治るんじゃない?」
は? と賢志郎は一瞬眉をひそめたが、すぐに夕梨の真意を察した。
「……貴義か」
ぺろりと舌を出す夕梨。くそ、と賢志郎は夕梨に聞こえないくらいの声で悪態をついた。
貴義と夕梨は、一年生の夏から付き合っている恋人同士だ。貴義が賢志郎の部活復帰を強く望んでいることを知っている夕梨は、こうして事あるごとに賢志郎をバスケ部へいざなおうと試みていた。
「ねえ、川畑」
「ん」
「体調不良の時にバスケするってのは冗談だとしてもさ、マジでそろそろ復帰してもいいんじゃないの?」
夕梨が真剣な目をして言う。賢志郎は視線を逸らした。
「あたしわかるもん、貴義の気持ち。試合に勝ちたいのはもちろんだろうけど、それだけじゃなくてさ。川畑がいるのといないのとじゃ、部の雰囲気が全然違うんだって」
「……変わんねえだろ、たいして」
「そんなことない! あんたが気づいてないだけ。川畑……あんたはバスケ部に必要な人間だよ」
目つきだけでなく、紡ぐ言葉も真剣な夕梨。賢志郎はますます顔が上げられなくなってしまった。
――やめてくれ。
わかっていた。貴義や他の部員たちが自分に寄せる信頼が、どれほど大きなものなのかは。
行かなきゃ、と何度も思った。バスケをやりたい気持ちだって十分すぎるほどある。
だが、どうしても足が向かない。三ヶ月前のあの日から。
杏由美の事件の真相を追っているというのは建前だ。別に部活をやりながらだって犯人捜しはできる。それでも賢志郎は、バスケ部の活動に復帰できない。
自分の意思とは無関係のところで、賢志郎は見えない誰かに、ずっと背中を掴まれたままだ。
行ってはダメだと、小さな声で囁かれながら。
「あたしだって、本当はさ」
夕梨が再び口を開く。胸のあたりまで伸ばされた黒髪の先をそっとなでる。
「あゆにはマネージャーじゃなくて、プレイヤーとして復帰してほしいと思ってるんだよ」
杏由美の名前が出て、賢志郎はようやく顔を上げて夕梨を見た。
夕梨の瞳がかすかに揺れる。あの事件のことを思い出しているのだろう。まったく非などないというのに、夕梨もあの日の自分の行動を悔やんでいるひとりである。
「それはチームのために、って意味か」
「もちろん、それもある。レフティーがひとりいるだけでなんか強そうに見えるじゃん?」
フン、と賢志郎は小さく笑った。確かに、左利きのスポーツ選手は競技によって重宝されることがある。特にバレーボールでは、杏由美のような左利きのアタッカーをひとり抱えているだけで攻撃の幅がぐっと広がり、相手に対しより大きな揺さぶりをかけることができるのだ。
「けど、そういう理由だけじゃないよ。あたしはねえ、あゆが本当は自分もバレーをやりたい、コートに立ちたいって思ってるのがわかるの。目に見えてわかる。でもあゆは、その気持ちを抑え込んじゃってるんだよ。あんたのせいで」
「……は?」
賢志郎が表情を変える。
「俺のせい?」
「そうだよ」
「あゆが言ったのか、俺のせいだって」
「言わないよ。言うわけない! ちょっと考えればわかることでしょ。あゆはあんたに遠慮してるんだって」
賢志郎は言葉に詰まった。
――バカな。
意味がわからない。あゆが俺に遠慮してるって……?
夕梨が小さく息をついた。
「あんたがいつまでも部活に復帰しないから、あゆはコートに立とうとしないの。声なんて出せなくても、練習には参加できる。でもあゆは絶対に参加しようとしない。どうしてかわかる? あんたには我慢をさせて、自分だけが好きなスポーツを楽しむなんてできないって思ってるってこと!」
賢志郎は歯噛みした。
夕梨は怒っていた。次々と撃ち込まれる言葉の弾丸が、賢志郎の心を抉る。
まさかあいつが、そんな思いを抱えているなんて。これまで少しも気がつかなかった。
いや、と賢志郎は思い直す。
気づくタイミングはあったかもしれない。夏休みの間、杏由美は何度も賢志郎に【部活へ行って】と進言していた。杏由美の本心は賢志郎を部活復帰させることではなく、自らが部活に復帰したかったのかもしれないのだ。
しかし賢志郎は、頑なにそれを拒否した。口では「おまえのそばにいたいから」と言っていたけれど、本当は拒否せざるを得なかったのだ。その理由は、杏由美にすら話していない。杏由美には決して伝えられない話であると、賢志郎は思っている。
――ちくしょう。なんでだよ。
また俺は、あゆを悲しませちまったってことか。
どう動いてもダメなのかよ。だったら俺は、一体どうすればいい?
「お願い、川畑」
頭を抱える賢志郎に、夕梨が静かに、真剣に言った。
「貴義のことは放っておいていい。でも、あゆのためだと思って前向きに検討してほしいの」
賢志郎は答えない。胸が苦しくてたまらなかった。
事件が起きてからずっと、賢志郎は杏由美のためを思って動いてきたつもりだった。
けれどそれが、むしろ彼女を苦しめる結果につながっていた?
信じたくなかった。くしゃりと髪をかき上げる。一体どこで、道を間違えてしまったのか。
――どうして俺が、こんな目に。
つい、そんな言葉を胸に抱いてしまう。本当につらいのは杏由美なのに。
こんなこと、さっさと終わらせてしまいたかった。もしくは三ヶ月前に戻って、あの日をもう一度やり直したい。
あの日、雨が降っていなければ。……いや、雨が降っていたとしても。
もっと速く、もう少し一生懸命走って、杏由美と同じ電車に乗る。
それだけでいい。たったそれだけのことで、大切な人を守ることができる。
賢志郎は息をつく。頭の片隅で、犯人を憎み、あの日の出来事を恨んでいる自分がいた。
桜介の気持ちが、今ならわかる。
もしも今、目の前に犯人が現れたら。
その時はきっと、素直に警察へ突き出すことなど到底できはしないだろう。
夢の中の、行き過ぎた妄想では終わらない。迷うことなく、犯人に刃を向ける。
――死ねばいい。
三人も傷つけたヤツなんだ。死んで当然。殺されたって文句を言える立場じゃない。
そうだ。おまえさえいなければ。
おまえさえいなければ、あゆは――。
「川畑?」
夕梨の声に、賢志郎ははっとして顔を上げた。
「大丈夫?」
夕梨は心配そうに賢志郎を覗き込む。我に返った賢志郎は「ああ」と短く夕梨に答えた。
数秒前の自分の思考に身震いした。
また、桜介に流されている。
殺しちゃダメだ、殺しちゃダメだと何度も言い聞かせているはずなのに、いつの間にか押し戻されて、桜介の手を取ろうとしてしまう自分に出逢う。
咳が出た。頭痛と寒気がどんどんひどくなっていく。
言葉を交わす気力を失い、賢志郎はそれっきり口を閉ざした。始業のチャイムが鳴り、夕梨も黙って賢志郎に背を向けた。




