↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日、雨が降っていなければ  作者: 貴堂水樹
第一章 一点の黒い染み

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/30

4-5.狂気

 会計を済ませた桜介は、助手席に賢志郎を乗せ、五分ほどドライブして川畑家の前に車を停めた。時刻はまもなく午後六時になろうというところ。陽が沈んだ西の空が黄昏《たそがれ》に染まり、美しくも切ない情景に包まれる。


「では、また」


 運転席の桜介に微笑みかけられ、賢志郎は「はい」と答えてシートベルトを外し、ドアに手を伸ばそうとした。


「もうひとつ、訊いてもいいですか」


 伸ばしかけた手を引っ込め、今一度桜介のほうを見やる。「どうぞ」と桜介は短く返した。


「あの公園で、俺に訊きましたよね? 犯人を見つけ出してどうするつもりなのかって」

「ええ」

「硲さんは、どうするつもりなんですか」


 ずっと気になっていた。あの質問の真意はなんだったのかと。


 賢志郎はただ、犯人が見つかれば杏由美が安心して暮らせるようになると思っているだけだ。あの日の恐怖にずっと怯えたままだから、杏由美はいまだに声を出せず、笑顔も取り戻せないままなのだと。


 犯人が捕まって、刑務所に入ってくれさえすれば、すべての問題が解決する。賢志郎はそう信じて、これまで必死に犯人の影を追い続けてきた。

 当然、刑事である桜介も同じだと思っていた。だが、もし違っていたとしたら?


 桜介が姉の咲良を殺した人物を追い続けているのには、なにか賢志郎とは違う、別の事情があるのだとすれば?


 桜介は、黙ったまま賢志郎から視線を逸らした。まっすぐフロントガラスを見つめたかと思えば、そっと目を伏せ、再びゆっくりと瞼を上げた。


「殺します」


 訪れる夜の闇に溶け込む横顔が、無感情な響きで静かに告げた。


 桜介はゆっくりと、助手席の賢志郎に目を向ける。


「僕はどうしても、犯人を殺したい。だからきみに尋ねたんです。きみが僕と同じ目的で動いているのなら、先を越されるわけにはいきませんからね」


 桜介の瞳が鈍く光る。呆然と細く口を開いた状態から、賢志郎は少しも動くことができなかった。


 ――犯人を、殺す?


 言葉の意味を、咄嗟に理解できなかった。


 そんなこと、これまで一ミリだって考えたことなどない。要するに桜介は、姉の復讐をするために犯人を追っているということか? 見つかり次第、自らの手でその命を奪い去ってやるために。


「……ダメだろ」


 なんとか絞り出した賢志郎の声は、情けないほど弱々しかった。


「そんなのダメだろ、普通に考えて。殺すって……そんなことしたら、あんたも犯人と一緒じゃねえか」

「一緒?」


 フン、と桜介は鼻で笑った。


「一緒なはずないでしょう? 犯人はなんの罪もない、殺される理由のない咲良を殺したんですよ? それは間違いなく死に値する行為です。犯人には殺されるだけの理由があり、僕はその正当な理由をもって、犯人を殺そうとしている……これのどこが同じだと言うんですか」

「そんなの屁理屈だろ! 人殺しなんてみんな同じだって、あんたさっき自分でそう言ってたよな!?」

「それは単純に殺人を犯すことのできる人間とそうでない人間がいるという道徳面での話です。咲良を殺した犯人に情状酌量の余地は少しもありませんが、僕は違う。咲良を殺した人間は、殺されて当然なんですからね」


 く、と賢志郎は歯噛みした。桜介の言っていることが間違っていることは自明であるはずなのに、反論の言葉が出てこない。


 確かに、見ず知らずの少女を身勝手に殺した罪は大きい。だが、そうであるからといって、復讐が正当化されていいはずはない。

 頭ではわかっているのに、なぜか桜介の言っていることが正しいように聞こえて仕方がなかった。あゆを刺した人間なんだ、殺されて当然じゃないのかと、頭の片隅でそう思ってしまう自分がいる。


 ――みんな、犯人のことを恨んでる。


 不意に、教室で聞いた夕梨の言葉が蘇った。

 そうだ。俺だって犯人のことを恨んでる。あゆを傷つけ、怖がらせ、声を奪ったヤツが憎い。憎くて憎くてたまらない。


「でも……」


 だからって、と拳を握る。桜介の主張に流されかけている自分を、必死になって食い止める。


 殺しちゃダメだ。そんなことをしたってなんの解決にもならない。死んでしまえば、犯人は己の罪の重さがどのくらいのものだったのか、一生わからないままになってしまう。そんなの、理不尽だ。


「そうだよ……確かに犯人は死んで当然かもしれない。けど、あんたが殺すのと、死刑判決を受けて死ぬのとではわけが違う。あんたが殺しちゃ意味がないんだ」

「詭弁《きべん》ですね。僕が殺してはいけない理由がまるで立っていない。そんな曖昧な言葉を並べて、僕を説得できるとでも?」


 微塵もなびく様子のない桜介。賢志郎は今にも雨の降り出しそうな顔をする。


「五ヶ所も刺されたんですよ、咲良は」


 瞳を揺らす賢志郎を横目に、桜介は怒りと悔しさをにじませた声で言う。


「どれほど怖かったか、どれほど痛かったか……想像を絶する苦しみの中、咲良はひとりきりで死んだんです。仮に犯人が死刑宣告を受けたとしても、実際に死刑が執行されるかどうかは法務大臣の裁量次第……天寿を全うするまで、刑務所の中で生き存《ながら》えるかもしれません。ご存じですか? 死刑囚の食費って、僕らの払う税金で賄《まかな》われるんですよ? そんなの、僕には耐えられない」


 紡がれる言葉と言葉の隙間から、憎しみの音が聞こえてくるようだった。


 桜介の復讐心を駆り立てているのは、犯人に対する激しい憎悪。姉を失い、自らの未来さえも失った彼は今、姉を殺した人間を殺すことだけを考えて生きている。


 それを〝生きている〟と表現していいのかどうか、賢志郎にはわからなかった。あるいは硲桜介という人間は、本人の申告どおり、本当に死んでしまっているのかもしれない。


「犯人には」


 再び、桜介が口を開いた。


「咲良の味わった痛みや苦しみを、そっくりそのまま感じてもらわなくてはならない。いえ、それ以上の恐怖や絶望を与えてやったほうがいいでしょう。一撃であの世へ送ってやるなんて慈悲深い真似はしません。耳を削ぎ、指を一本ずつ切り落とし、足の爪を一枚一枚丁寧に剥がしてやる……あぁ、目を潰すのは最後がいいですね。自らが傷つき、少しずつ人の形を失っていく様子を、きちんと見届けさせてやらないと」


 くっく、と桜介が喉の奥で低く笑う。賢志郎は息をのんだ。桜介の横顔は、もはや人のものとは思えなかった。


 ――悪魔だ。


 この人は人間じゃない。地獄の底から這い上がってきた、人の形をした悪魔。誰かの命を粗末にした者に対して怒りと憎しみの鉄槌を喰らわせる、死刑執行の代理人。


 眼鏡の奥の瞳を濁らせ、桜介はひどく歪んだ笑みを賢志郎に向けた。


「きみだって、許せないでしょう?」

「え……?」

「なんの罪もない杏由美さんを深く傷つけた人間ですよ? 憎いはずです。簡単に許せるわけがない。特にきみは、大切な幼馴染みの女の子が真っ赤な血を流している姿を目の当たりにしています。つらかったでしょう? 怖かったはずだ。そして今でも、きみはあの公園に立ち寄ると、事件当時の光景がフラッシュバックし、激しい吐き気に襲われてしまう……PTSDの典型的な症状だと思われます」

「PTSD?」

「心的外傷後ストレス障害。強烈な恐怖体験が原因で心が傷つき、正常な精神のバランスを保てない状態が長く続いてしまうという、心の病の一種です」


 心の、と賢志郎はかすれた声で繰り返す。


 ――俺が?


 あゆじゃなくて?

 俺が、病気……?


「いずれにせよ」


 桜介は眼鏡を押し上げる。


「それらはすべて犯人のせいじゃないですか。杏由美さんが傷つけられたのも、きみがその事件に囚われ続けていることも。一連の通り魔事件によって変わってしまったのは、被害者の人生だけではないんです。きみの人生だって、事件の日を境に狂ってしまった……違いますか?」


 賢志郎は下を向く。

 なにもかも、桜介の言うとおりだった。


 あの事件さえ起きなければ、あゆが声や笑顔を失うことなんてなかった。

 あの事件さえ起きなければ、大好きなバスケにためらいなく明け暮れているはずだった。


 ――そうだ。


 全部、犯人のせいだ。

 憎い。犯人が憎い。

 あの日、犯人があゆに襲いかかりさえしなければ。

 そうすれば、俺たちは――。


 ぴちゃん。


 心に、一点の黒い染みがこぼれ落ちる音がした。

 救いようのない漆黒が、少しずつ、じわりじわりと、胸の奥で広がっていく。


「ねえ、賢志郎くん」


 その声に、賢志郎はそろりと視線を向ける。運転席で、桜介がいかにも善人という顔をつくって口の端を上げていた。


「きみにもわかるでしょう? 僕の気持ちが」


 あの公園で賢志郎が言った台詞を、桜介はそっくりそのまま、賢志郎に突きつける。自信たっぷりに、否定など許さないという声色で。

 今の一言で、賢志郎はむしろ我に返ることができた。桜介の気持ちに、全面的に同意することができないと思った。


 首を横に振る。染みの広がりがストップする。

 賢志郎は、ずっと下げていた顔を上げた。


「わかんねえよ」


 精一杯、はっきりと口を動かした。


「確かに、俺だって犯人のことは憎いよ。一生許せないと思う。けど、それとこれとは話が別だ。どれだけ憎もうが、恨もうが、許せなかろうが、俺たちが犯人を殺していいっていう話にはならない。理由なんていらねえだろ。それが揺るぎない、正しい答えだ」


 どうしても、その一線だけは越えたくなかった。絶対に越えてはならないと思えている自分に、賢志郎は言いようのない安堵感を覚える。


 心に落とされた黒い染みが、少しだけ色を薄くする。


 桜介は間違っている。どれだけ犯人が憎くても、犯人が殺されるだけの理由を持っていたとしても、殺してしまえば桜介だって殺人犯だ。一線を越えた人間と、手前で踏みとどまれる人間との間には、目には見えない、高くて厚い壁が存在する。あちら側とこちら側では、見える世界がまるで違う。


 賢志郎の目の前で、桜介が今まさに、その一線を越えようとしている。壁をぶち破ろうとしている。


 止めなければ。賢志郎は強く思った。桜介の凶行を止めるのは、大切な人を傷つけられたという同じ苦しみを味わった自分の役割であるはずだと。


「甘いですね」


 賢志郎の決意を鼻であしらい、桜介は冷笑を浮かべた。


「杏由美さんが亡くなっていたら、あるいはきみにも、僕の気持ちが十分に理解できたかもしれません」


 鈍い光を宿す桜介の瞳が、今一度賢志郎の双眸をとらえた。


「邪魔はさせませんよ、賢志郎くん。なにがあっても、僕は犯人を殺します」


 必ず、と桜介は言った。

 どこまでも強く、太く、曲げようのない意思だった。

 賢志郎が桜介を止めたいと思う気持ちよりも、ずっと強く、ずっと固い。


 賢志郎は歯を食いしばる。桜介の覚悟を前に、脆くも決意が砕け散りそうだった。


 ――俺は本当に、この人を止められるのか?


 この人と同じように、犯人を憎んでいる俺に?

 この人が犯人をなぶり殺しにする姿を見て、俺はなにを思うのだろう。


 これでいいと、そう思ってしまうのではないだろうか。

 あゆを傷つけ、咲良さんを殺したヤツなんて、苦しみの果てに死んでしまうのが当たり前だと、そう思ってしまうのではないだろうか。


 目を合わせていられなかった。顔を伏せ、下唇を噛む。額に噴き出した汗が頬を伝い、顎からズボンへと滴り落ちる。暑いのか、寒いのか、賢志郎にはもはや判断できなくなっていた。


「そんな顔しないでください」


 困ったように、桜介は言う。


「無理をすることなんて少しもないんですよ? ルールなんて、事情に合わせて変えていけばいいんです」

「……変えていいルールと、そうじゃないルールがあるだろ」

「おやおや、ずいぶんと頑固ですね。まだお若いのに」


 意外です、と声を立てて小さく笑い、桜介は嫌味なほどのにっこり笑顔を賢志郎に向けた。


「気が変わったら教えてください。とどめは僕が刺しますが、足の爪の一枚くらいなら、きみが剥がしてくれてもいい」


 その笑顔を賢志郎は、笑顔だと認めたくなかった。

 こんなもの、笑顔でもなんでもない。目が全然笑ってない。


「狂ってる」


 狭い車内に、うつむいた賢志郎の低く出した声が響いた。


「狂ってるよ、あんた」


 震える心の小さな叫びを、桜介はやはり鼻で笑う。


「なんとでも罵《ののし》っていただいて構いません。僕の人生は、十年前に終わっていますから」


 答えた桜介を見ないまま、賢志郎は飛び出すように車を降りた。走り出した車のテールランプが横目に映るも、顔を上げることができなかった。


 しばらくの間、賢志郎は家の前でただじっと立ち尽くしていた。桜介との最後の会話が、耳にこびりついて離れない。


 桜介の言葉に惑わされている自分が許せなかった。

 人殺しが絶対悪だとわかっているはずなのに、揺れてしまった自分が許せない。


 黒い染みがまた少し、心の奥で存在を主張し始めた。じわり、じわりと、黒の面積が広がっていく。


「あゆ……」


 制服の胸もとをぎゅっと掴み、賢志郎は小さくその名を口にする。

 頬を叩く夜風の冷たさなど、少しも感じることはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。