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0.三船杏由美の後悔

 あの日以来、家に帰るまでの時間が十五分も二十分も長くなったように感じていた。


 実際は以前と少しも変わっていない。しかし、三船みふね由美ゆみにとって、一ヶ月前に高校へ復帰してからというもの、学校からの帰り道がまるで永遠に抜けられない真っ暗なトンネルのように感じられて仕方がなかった。

 たちの悪い妄想に取り憑かれているだけなのだとわかっていても、それを断ち切るすべを杏由美は持たない。どうすればこのトンネルから抜け出せるのか、自分ひとりでは、その答えにたどり着けそうもなかった。


「じゃあね、あゆ」


 自転車で隣を走っていた横山よこやまが、ハンドルから離した左手を軽く挙げた。


「気をつけて。なにかあったらすぐケータイ鳴らしてよ?」


 友達を心配する人のお手本みたいな顔をする夕梨に、杏由美はこくりとうなずいて返す。夕梨もうなずき、「また明日ね」と言って交差点を南に渡っていった。


 杏由美の小さなため息が、夕焼けの街に溶けていく。夕梨の渡っていった歩行者信号のエメラルドグリーンが、パカパカと点滅し始めた。


 杏由美と夕梨は同じ左座名さざな市内に住んでいて、隣の中学出身だ。ふたりの進んだ左座名西(にし)高校でともに女子バレーボール部に入ったことで友情が芽生え、今じゃかけがえのない親友同士。ちょっとおバカな夕梨のために杏由美が勉強を教えることもあるし、オシャレが得意な夕梨が杏由美のために洋服をコーディネイトしてあげることもある。高校生になっておよそ一年半、互いのいいところや悪いところ、強さや弱さをほどよく理解し合うふたりは、誰の目から見ても親友と言っていい間柄だった。


 だからこそ、と杏由美は思う。


 夕梨にあんな顔をさせたくなかった。あの日以来、夕梨はいつだって心配一色の目をして私を見る。私の知っている夕梨はもっと、真夏に咲くひまわりみたいに大きな笑顔がまぶしい子だったのに、と。


 待っていた信号が青になる。しかし杏由美は、走り出すことができなかった。

 右手でハンドルを支え、左手でそっと喉に触れる。「あ」の形で口を開いてみるけれど、音にはならず、ただ虚しく息が漏れるだけ。


 ――全部、私のせいだ。


 人知れず、杏由美は下唇を噛みしめる。


 あの日、雨が降っていなければ。電車に乗って帰らなければ。あの公園の前を通らなければ。下を向いて、スマホをいじっていなければ。


 この声を絞り出して、助けを呼ぶことができていれば。


 自分だけじゃない。あの日を境に狂ってしまったのは、周りのみんなの人生も同じ。杏由美はぎゅっと、逃げるように目を閉じた。


 セーラー服の胸もとを握りしめる。息苦しさで胸が押しつぶされそうだった。見知らぬ通行人に「大丈夫ですか?」と声をかけられ、ようやく現実に引き戻された。

 小さく頭を下げた頃には、渡ろうとしていた歩行者信号が点滅し始めていた。この交差点は、夕梨が渡っていった信号のほうが少し長い。


 また少し、家に帰るのが遅くなる。

 いつまでも変わらない赤信号をじっと見つめ、杏由美はハンドルを強く握った。ひとりになると、あの日の恐怖がじわりじわりと全身にまとわりついてくる。


 ――助けて、ケンちゃん。


 いつだって隣にあるその人の笑顔を思い出し、杏由美は湧き上がる恐怖を必死に抑え込んでいた。



 

 古くもなく新しくもない、家を建てるためだけに切り開かれた土地。

 それが杏由美の生まれ故郷である左座名市だ。


 ひとつ隣のしお市には、全国的にも有名な自動車メーカーの本社があり、潤沢な資金を存分にいかした街づくりが推し進められている。左座名はその影に隠れた閑静なベッドタウンで、市内各地に存在する住宅街のうちの一角に、杏由美の住む家はあった。兄の生まれた二十年前に建てられた二階建ての一軒家だが、四年前に外装工事をしたので、新築同様とまではいかずとも、見た目はそこそこ綺麗に整えられている。


「へっくしゅんッ!」


 車二台を停められる屋根付きの駐車場。少し奥まったところに父が手作りしてくれた駐輪スペースに自転車を入れていると、隣の家の駐車場から大きなくしゃみが聞こえてきた。

 おそらくはもう何百回と聞いたであろうその破裂音に誘われ、杏由美はひとつ東隣の駐車場を覗き込んだ。


「おー、あゆ」


 自転車のスタンドを立てながら、むずがゆそうに鼻をぐずぐず言わせているその人――川畑かわばたけん志郎しろうは、すぐに杏由美の存在に気づいて顔を上げ、にっこりと笑った。


「おかえり」


 やんちゃな印象を与える彼の大きな二重の瞳がわずかに細くなる。ただいまの代わりに、杏由美はこくりと小さくうなずいた。そして同時に、ほっとしたように息を吐き出す。彼の笑顔に、ようやく心の安寧を取り戻すことができた。


 賢志郎が二度目のくしゃみをした。杏由美は慌てて賢志郎に駆け寄り、リュックサックからポケットティッシュを取り出してサッと彼に差し出した。


「んあ、さんきゅ」


 手渡されたティッシュを受け取り、賢志郎はずびびと派手にはなをかんだ。その姿を、杏由美は心配そうな顔で見つめる。


 杏由美と賢志郎は、生まれながらにして幼馴染みとしての運命を決定づけられていたような関係だった。


 誕生日が二日違いで、生まれた病院も同じ。新生児室のベッドこそ隣ではなかったけれど、ふたりが今日まで育ってきた家はお隣同士だ。幼稚園から小学校、中学校、そして今かよっている高校まで、ふたりはこれまでずっと同じ道を歩んできた。


 些細なことで喧嘩をしても、時が経てば再び変わらない笑顔を向け合える。ふたり一緒にいるだけで、何気ない毎日を楽しく過ごすことができた。

 誰の目から見ても仲のよいふたりは、幼い頃、近所の人に「兄妹みたいね」と言われたことがある。賢志郎が「顔が似てねえから違う」と答えていて、そういうことじゃない、兄妹みたいに仲よしねって意味だと杏由美が反論したら喧嘩になった。ひとしきりもめたら仲直りして、また一緒になって遊び始める。それがふたりの日常だった。


 そんな日々が、これからもずっと続いていくのだと思っていた。

 あの事件が起きるまでは。


 ひゅうっ、と九月の澄んだ風が、セーラー服の青いリボンをなびかせる。杏由美はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで指を滑らせ、文字を打ち込んだ。


 ピロン。


 賢志郎のズボンのポケットで軽快な機械音が鳴った。賢志郎はひとまずティッシュを自転車のカゴに入れ、音の主であるスマホに届いたメッセージを確認する。


【風邪? 大丈夫?】


 賢志郎が視線を上げる。杏由美は胸の前でスマホを握りしめ、じっと賢志郎を見つめていた。


 口に出さなくても賢志郎の考えていることはだいたいわかるし、朝一番の顔つきを見れば、その日の体調や気持ちの浮き沈みのほどが伝わってくる。血のつながりなんてなくても、そばにいさえすれば血縁よりも深い関係になれるのだと、杏由美はひそかに、賢志郎を想い続けてきた。

 そして今も、「大丈夫だよ」と鼻をさすりながら答えた賢志郎の瞳の奥に別の想いが宿っていることを、杏由美はしっかりと見抜いていた。


だるさとか全然ないしさ。なんだろ、気温差ってやつ? ほら、ここ最近だいぶ風が冷たくなってきただろ? ついこの間まで暑かったから、からだがビックリしてんだよ、きっと」


 な? と笑って、賢志郎は杏由美の肩をぽんぽんと叩いた。


 ――違う。


 杏由美は静かにうつむいた。

 昔なら、こんな他人行儀な答えは絶対に返ってこなかった。「おまえにうつしたら元気になるぞ」とかなんとか言って、鼻水だらけのティッシュを押しつけてくる。それがいつもの彼の答えだったはずだ。

 こちらがどれだけ真剣に心配しても、賢志郎からは冗談まじりの答えしか返ってこない。それが彼なりの、杏由美へ心配をかけないようにするやり方だった。


 本当はすごく頭がいいのに、なんでもない顔をして飄々と、おバカで不真面目な男子高校生を演じてみせる。いつでも笑っていて、時には小さな子どもみたいにはしゃいだりして、一緒にいると、とにかくすごく楽しい。それが杏由美の知る幼馴染み・川畑賢志郎だったはずだ。


 それが今じゃ見る影もない。あの日……三ヶ月前に起きた事件の日から、賢志郎は変わってしまった。


 私のせいだ、と杏由美は思った。

 胸もとにスマホを押しつけ、杏由美はそっと息を吸い込む。もう一度、口を「あ」の形に動かしてみた。けれどやはり、こぼれ出るのはかすかな吐息だけ。


 ――この声さえ、失わなければ。


 そうすれば、誰の人生も狂わせることなどなかったのに。被害に遭った私だけが、苦しみを抱えて生きていけば済むはずだったのに。


 もう何度チャレンジしただろう。それでもこの喉は、ほんの小さな音ですら奏でられない。かすれた吐息だけがくうを切り、そのたびに、涙があふれて止まらなくなる。


「あゆ」


 賢志郎が、杏由美のからだを抱き寄せた。


「やめろ。無理しなくていい」


 されるがまま、賢志郎の左肩に顔をうずめる。このままでは濃紺のブレザーが涙でぐちゃぐちゃに濡れてしまうとわかっていても、杏由美は賢志郎から離れることができなかった。


 ――ケンちゃん。


 心の中でそう叫びながら、懸命に口を動かす。少しも声になっていないのに、賢志郎は「うん」と優しく答えてくれる。


「待ってろ」


 より強く、賢志郎は杏由美のからだを抱きしめた。


「俺が絶対、犯人を見つけてやるから」


 固く結んだ彼の決意が、背中に触れた手のひらから伝わってくる。揺るぎない彼の想いが、杏由美の胸を締めつける。


 ――違うよ。


 そうじゃない。犯人なんて、見つけてくれなくていい。


 こういう時、賢志郎はいつも自分だけで困難を乗り越えようとする。自分だけが無理をして、杏由美の意見には耳を貸さない。気づいた時にはボロボロになっていて、それでも杏由美の前では必死に笑っていようとする。


 いつだってそう。――ケンちゃんはすぐに、私のヒーローになりたがる。


 賢志郎のブレザーにしがみついている手に力が入る。犯人が見つかったら声が出せるようになるのかなんてわからないし、なにより、犯人捜しの過程で賢志郎が危ない目に遭ってはと気が気じゃなかった。

 スマホを通じて、何度もそう伝えたはずだ。それでも賢志郎は止まらない。犯人を見つけ出してどうするつもりなのか、怖くてとてもけなかった。

 



 今からおよそ三ヶ月前の六月十日。

 三船杏由美は、自宅近くの公園で、何者かに腹部を刺された状態で発見された。


 そして彼女の幼馴染み・川畑賢志郎は、いまだ確保の見込みが立たない犯人の行方を、ひとりで追い続けている。

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