表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

滅びのときまでおしあわせに

みんなハッピー

「我が国はゆるやかな滅亡を選択します」


 いったい何を血迷ったのか、日本が世界中に向けて滅亡宣言を発信してから、もう10年が経とうとしている。出入国の一切を禁じ、対外関係のすべてを断ち切り、鎖国時代へと逆行してしまった日本は、いかなる手段を用いても、中の様子を伺うことができないどころか連絡を取ることすらもできなかった。


「あの島国の中でいったい何が起きているのか?」


 人々の間には様々な憶測が飛び交った。


 ――非人道的なおぞましい実験が日夜繰り返されているに違いない。


 ――暴力がすべてを支配する混沌とした世界になっているのだろう。


 ――人間どころか草の一本すら生えない荒野が広がっているのかも。


 しかし、誰一人として日本国の現状について正確なことは知る者はいなかった。


 深海すらも制覇した人類にとっての新たな謎。第二のアトランティスになりつつある国。それが、日本であった。


 さて、かの国の大統領は自らの知的好奇心を抑えつけることができなかった。どうしても日本の現状を知りたかった彼は、自らが行使できるあらゆる権力を用いて、〝オーパーツ〟と呼ぶべきものを作り上げた。


 古き良き時代の象徴――諜報員である。


 そう。かの国の大統領は、日本へ諜報員を潜入させようとしたのだ。


 情報収集を行うにおいて、ドローンやアンドロイドを現地へ送り込むなど遥か昔の話。ナノサイズのカメラの散布というスマートかつステルス性の高い方法が主流の2XXX年、まさか諜報員を潜入させようとは!


 古典と呼ばれる映画でしか見ることのできない行為であったが、だからこそ効果があった。無人機の投入が実践的かつ効果的となった21世紀の後半から現在に至るまで、人間が行う諜報活動への防衛技術は、当時からまったく発展していなかったのである。


 作り上げられた諜報員の名前はサイトーといった。15歳からの10年間、彼はVRを用いた訓練を積み重ね、世界唯一にして最高の諜報員になった。


 ある日のこと、かの国の大統領はサイトーへ告げた。


「いよいよ明日から、お前は日本に侵入することになる。日本国内の内情を探り、どうして日本が自ら滅亡を選んだのかということを突き止めてもらうためだ。しっかり励めよ」


 任務の詳細を聞いたサイトーが、「日本ですか」と困惑した様子であったのも無理はない。


 ――日本。アジアの覇権を握ったのはすでにX00年以上も前。人口減少と少子高齢化の波に対応できないまま国力を落とし続け、あらゆる分野の技術競争で世界各国に後れを取り、辛うじて見出した慰安用セクサロイドの開発という道により、細々と食いつないでいた哀れな国。


 サイトーが日本へ抱いていたイメージはおおよそこのようなもので、そしてそれは間違いではなかった。


「不服かね?」と大統領に訊ねられ、サイトーは「いえ」と首を横に振った。

「ですが、今さらあの国を探ってなんの意味があるのかと。元々終わっていた国が、自滅を選んだだけという話です」

「あの中で苦しんでいる日本国民がまだいるかもしれんのだぞ。かつての友好国である我々には、彼らを助ける義務がある。それすらもわからんのか」


 大統領が単なる知的好奇心から命令を下しているであろうことを薄く理解しつつも、サイトーは「なるほど」と頷くしかなかった。

 国の所有物である彼に、運命の選択など贅沢なことは許されていない。





 翌日の深夜。サイトーは高高度降下低高度開傘という古典的方法を用いて日本へ潜入した。成層圏一歩手前の高度10000m上空から飛び降り、地上300m付近でパラシュートを開くというこの降下技術は、かつてかの国の特殊部隊においても一握りの人間しか成し得ない離れ業であったが、世界最高の諜報員である彼にとっては造作もないことであった。


 千葉の沿岸へ着地したサイトーは、朝がくるのを待ってから近くの街へ向かった。


 そこで彼を待ち受けていたのは、思いもよらない光景であった。


 公園に行けば、前時代的なフォークソングを路上で歌う冴えない男女のデュエット歌手がいた。バス通りに行けば、これから仕事に向かうらしいサラリーマンがいた。スーパーマーケットへ行けば、主婦らしき女性が買い物をしていた。


 普通の人々が普通に生活をしている。自ら滅亡を選択した国なのだから、経済活動なんて行われておらず、法や秩序なんてあって無いようなものだろうと勝手に予想していたサイトーは拍子抜けした。


 夕方になるまで一通り街を周り、「異常が無い」という点以外の異常が見受けられないことを確認したサイトーは、駅前のベンチに腰掛け、夕闇に染まりつつあるのどかな街並みを眺めながら思わず呟いた。


「どうなってんだ、こりゃ」


「どうされました?」


 ふと、背後から声が聞こえた。振り返って見てみると、細身の男が立っていた。上下ともに動きやすそうなジャージなのは、ランニングの最中か何かだったのだろう。


 急に声を掛けられたことにサイトーが戸惑っていると、男は「すいません」とはにかんだ。


「体調が悪いのかと思いましてね。思わず声をかけてしまいました」


「ああ、いや、そういうわけではないんです。……この国は本当に平和だな、と思いましてね」

「ええ、まったくもって。喜ばしい限りですよ」

「……どうして、日本はここまで平和なんでしょう」

「そんなこと決まっているでしょう。もう間もなくこの国が滅ぶからですよ」


 男はにこりと微笑むと、「それでは」と言って上機嫌な足取りで走り去っていった。


 その男のいかにもしあわせそうな後ろ姿が、サイトーの脳裏に強く焼き付いた。





 それから半年。サイトーの任務は難航していた。


 無理もない。〝滅亡宣言〟を発した当時の首相は行方知れず。政府もほとんど機能しておらず、国会議事堂なんて子どもの遊び場となって久しい。当時のデータはバックアップすら残されていない。滅亡の理由を探るどころか、利用価値のある情報を得るのすら困難な環境である。


 しかしそういった些細なことよりも、彼にとって任務遂行への障害となったのはなにより日本人の国民性であった。


 かつての日本人といえば、とにかく勤勉で馬鹿が頭につくほど真面目。薄い笑顔の裏に冷淡とも呼べる面を隠し、見知らぬ他人には干渉しないというのが共通認識であった


 しかし、まもなくやって来る滅びを受け入れた現在の日本人は違った。


 笑顔が絶えず、明るく朗らか。誰も彼も呆れるほど親切でお人好し。困っている人を見かけた時に手を差し伸べなければ、地獄に落ちると考えている節があるように思われる。


 つい数日前、サイトーが人通りの多いところでうっかりため息をついたら、「大丈夫ですか?」と声をかけてくる人が砂糖に群がる蟻の如く大勢集まってきて、彼はその人波に危うく押し潰されそうになったほどである。


 この時、サイトーは恐怖した。同時に、無性に寂しくなった。


 思えば、彼は日本に侵入してから、鏡に映る自分以外に負の表情を浮かべる人間を見かけたことがなかった。


 ――日本人がここまで他人に親切にできるのは、自分たちが心の底からしあわせだからだ。この国の人間は皆残らずしあわせなんだ。この国でしあわせでない人間は俺ひとりだけだ。


 他人のしあわせに囲まれて暮らす孤独な生活は、サイトーの精神を少しずつではあるが確実に蝕んでいった。


 そんなある日の昼下がり。都内にある喫茶店でコーヒーを飲んで小休止していたサイトーは、うっかりため息をついてしまった。また親切心に圧し殺されかけるようなことがあっては大変だぞと、慌てて手のひらで口を抑えながら周囲を見回した彼は、すぐ隣の席に座っていた女性と目が合った。


 瞬間、サイトーは彼女に心を奪われた。


 肩のあたりで切った、真っすぐでしなやかな黒髪。丸くて大きな瞳にツンと高い鼻。年齢はきっと彼と同じ程度か少し下ほどだろう。


 彼女はたしかに美人であったが、あくまで一般的な枠を出ない程度のものである。それでもサイトーがその女性に運命すら感じたのは、彼女が物憂げな表情を浮かべていたからという一点に尽きた。


 しあわせじゃない人間が俺以外にもいた! 俺はひとりじゃない!


 無論、使命を持ってこの国へ侵入した諜報員であるサイトーが、現地の女性と関係を持つなど御法度だ。到底、許されるべきことではない。そんなことは彼にもわかっていた。しかし、それでも彼は自分の心に抗えなかった。


「……失礼ですが、お名前は?」とサイトーは恐る恐る訊ねた。


「チハヤですが……」と彼女は困惑したように答えた。


 それが、ふたりの出会いだった。





 サイトーとチハヤは驚くほど早く打ち解けた。ぎこちなく会話していたのははじめの数分程度で、それからはまるで旧知の仲のように笑いあえた。


 お互いに古い映画の鑑賞が趣味という共通点があったこともそれを手伝ったが、なによりの要因はふたりの感性がよく似ていたことだろう。


 ふたりは、気兼ねなく微笑みを交わしあえる相手を持っていなかった。ふたりは、自分を取り囲む他人の笑顔にうんざりしていた。ふたりは、この国においてしあわせでない人間は自分だけだと本気で考えて、孤独感に苛まれていた。


 だからこそふたりは、お互いに惹かれ合った。


 時間が経つのも忘れて語り合ったふたりは、夜の8時を過ぎたころに別れた。「また明日」と恥ずかしそうに言って手を振ったチハヤの背中がだんだんと遠のいていくのを、サイトーは微笑みで見送った。彼がこの国に来てはじめて笑顔を見せたのは、この時のことである。


 翌日も、その翌日も――ふたりは毎日のように会い、共に出かけた。ひと月も経つころには互いの家を行き来するようになり、それから共に暮らし、肌を重ね合うようになるまではあっという間だった。


 ところで、この滅びゆく国においても、人口が多い東京とその周辺においては貨幣経済がまだ機能しており、すなわち生活するにはカネが必要になる。


 チハヤが地元の飲食店で週に4回ウェイトレスとして働く一方、自国から持参した活動資金が十分にあったサイトーはとくに働いていなかったのだが、チハヤが働きに出ている間、家で待っているだけというのは忍びなくて、彼もまた適当な仕事に就いてそこそこ金を稼いだ。チハヤと出会って以来、サイトーは自身に与えられた使命などすっかり忘れ、また自国に帰ろうなんてことも微塵も思わなかった。


 ある日の夜、ふたりは自宅で共に食事を楽しんでいた。食卓に並べられたミネストローネスープは、チハヤが得意にしている料理のひとつである。


 サイトーはスープを飲みながらチハヤへ話しかけた。


「チハヤ。この国が本当に滅ぶと思うかい?」

「イヤよ、急になんの話?」

「ふと考えちゃってさ。俺は君とずっと一緒に居たいから、国が滅ぶのなんて嫌だなって思って」

「そんなの、わたしだって一緒よ。あなたと一緒に居たい」


 少し潤んだチハヤの瞳を見て、鼻の奥に湿ったものを感じたサイトーは思わず呟いた。


「……なんで、この国が滅ばなくちゃいけないんだろうな」

「しあわせだから滅ぶってみんな言ってるけど……正直、意味わかんないよね。しあわせだからこそ、滅ぶのなんてイヤなのに」


 その時、テーブルに置いてあったチハヤの連絡用携帯端末が震えた。ディスプレイを見た彼女は、眉間にしわを寄せて小さく息を吐く。


「……ごめん。職場から呼び出しだ。急に人が足りなくなったんだって。ちょっと行ってくる」

「送ろうか?」

「大丈夫よ。子どもじゃないんだから」


 そう言ってウィンクしたチハヤは、携帯端末を持って家を出ていった。彼女を見送った後、食事を済ませてから食器を片づけていたサイトーは、テーブルの陰に置き去りにされていたものを見つけて苦笑した。それは、エプロン等チハヤの仕事道具が詰まったトートバッグであった。


「……子どもじゃないけど、忘れ物はするんだな」


 トートバッグのハンドルを指に引っ掛け、急ぎ足で家を出たサイトーは彼女の職場へ向かった。





 チハヤの勤める飲食店は家から歩いて15分程度のところにある。ナポリタンとオムライスが名物の、地元の人間に愛される店である。


 人通りの少ない夜の街を小走りで行くと、やがて赤煉瓦造りの小さな店が見えてきた。しかしなんだか様子がおかしい。通りに面した大きな窓からは光が漏れておらず、店は営業していないように見える。店に近づき、出入り口の扉を押してみたが、鍵が掛かっているらしく開きそうにもない。


 嫌な予感を覚えたサイトーは、警戒しながら店の周囲を歩く。すると、店の裏手にある狭い駐車場からチハヤの声が彼の耳へ微かに届いた。誰かと話し合っているようだが、相手はわからない。足音を立てないようさらに接近したサイトーは、物陰から声のする方をこっそり伺った。


 サイトーの視界に映ったのは、向き合って話し込むふたりの男女。女性の方は当然チハヤだが、もう片方は見覚えのない黒いスーツ姿の男だ。


 この時、サイトーが浮気の可能性を微塵も疑わなかったのは、その男の顔つきがどう見ても普通の世界に生きる者のそれではなかったためである。


 スーツ姿の男は厳しい口調でチハヤを非難する。


「いい加減にしろ、チハヤ。この程度の任務で、いったいどれだけ時間が掛かっている」

「しかし、この日本で有益な情報を手に入れるのは困難です。まだもう少しお時間を頂かないと――」

「よくそんなことが言えたものだ。あの男とのおままごとを続けたいだけだろう」


 チハヤが息を呑む小さな音がサイトーの耳にはっきりと聞こえた。


「知らないとでも思ったのか? まったく、これだから女というヤツは信用ならん。恋だの愛だのが先にきやがる」

「そんな……わたしは、わたしは……」

「黙れ。あとひと月だけやる。それまでにこの日本が自ら滅亡を選んだ理由を探ることができなければ……私は君を殺す」


 男は苛ついたように舌打ちをすると大股で歩き出した。息を潜めて男が去って行くのをしっかり確認したサイトーは、呆然と立ち尽くすチハヤに駆け寄り、彼女に優しく声を掛けた。


「チハヤ、大丈夫かい?」


 動揺で表情を引きつらせた彼女は、怖々とサイトーの方を向いた。見ている方が哀しくなってくるほど痛々しい表情だった。


「ち、違うの。これは――」

「いいんだ。それよりもチハヤ、よく聞いてくれ。実は、俺もそうなんだ」

「そうって、どういう……」

「俺も君と同じ諜報員で、君と同じように、この国が滅ぶ理由を探ってたんだ。君と出会ってからは、そんなツマラナイことなんて考えたこともなかったけど」


 サイトーはチハヤの手をきゅっと握る。彼の手のひらには優しい力とは裏腹に、確かな決意が込められていた。


「チハヤ、一緒に逃げよう。どこか遠くに」

「……でも、わたしと一緒にいたら、あなたまで危険に巻き込むかもしれないのよ。出来ないわ、そんなこと」

「馬鹿なことを言うな。俺達の仕事には危険は付き物だ。そうだろ?」


 そう言ってサイトーは微笑みを浮かべた。か細い声で「うん」と答えて頷いたチハヤは、涙に濡れた笑顔を彼の胸に埋めた。





 それから、2年余りの月日が経った。東京を出たふたりは、東北地方の海沿いにある小さな町で、自分達に与えられた任務を忘れてひっそりと暮らしている。人口の多い地域とは違って、貨幣経済が失われて久しいこの町では、なにかにつけて人と人との交流が欠かせなかったが、その煩わしさがふたりにとっては却って楽しかった。


 ふたりは、しあわせだった。他の日本国民と同じように。


 ある日の夜。チハヤ手製の魚と貝のスープを夕食に楽しみながら、サイトーは対面に座る彼女へ語り掛けた。


「なあ、チハヤ。俺達が出会ってどれくらいになるかな」

「なによ、急にどうしたの?」

「いいから。どれくらいになる?」

「そうね。……もう3年くらいになるかしら?」

「そう。今日でちょうど3年目だ」


 そう言うとサイトーは、ポケットから小さな箱を取り出してテーブルの上に置いた。緊張で震える指先で彼がその箱を開くと、中にはプラチナでできたシンプルなデザインのリングが現れた。


「チハヤ、結婚しよう。君と死ぬまで一緒にいたい」


 突然のプロポーズを受けて、チハヤは呼吸すら忘れたように固まった。サイトーは彼女の丸い瞳が涙で潤んでいくのをじっと見ながら、白い頬がだんだんと紅潮していくのを愛おしく思いながら、ただ返事を待った。


 やがて、チハヤは人差し指で目尻を拭いながら呟いた。


「……諜報員って、ウソが得意なんでしょ?」

「その通り。でも、たまには本当のことも言う」

「そう。それなら、信じてあげる」


 チハヤの答えを聞いたサイトーは、「よかった」と微笑み、彼女の左手をそっと取った。


「この国か、それともわたしたちか……どっちが先に滅ぶかわからないけど、それまではしあわせでいようね」

「ああ、もちろんだ」


 サイトーの手により、チハヤの左手薬指にゆっくりとリングが嵌められていく。



 永遠のしあわせの象徴が指元まで到達したその瞬間――急に糸が切れた操り人形の如く、チハヤはテーブルに上半身を預けるように倒れ込んだ。皿がひっくり返り、床にスープがこぼれる。


 一瞬、驚いたものの、嬉しすぎて気絶したというパフォーマンスだろうと考えたサイトーは、彼女の肩を優しく叩いた。しかし、彼女は起きようとしない。「もう降参だよ」と呼びかけてみたが、やはり同じ。


 さすがにおかしいと感じたサイトーが、テーブルから彼女の身体を起こすと、先ほどまで赤く染まっていた頬がまるで死人のように白い。まぶたは重く閉じ、開く気配が無い。胸に手を当てても鼓動を感じない。


 ――なんで、どうして――。


 床にチハヤを仰向けに寝かせたサイトーは、彼女の胸に手の平を何度も強く押し当てた。それから唇を重ね合わせ、彼女の肺に酸素を送り込んだ。それでも、彼女は指先のひとつも動かさなかった。


「チハヤ……チハヤ! 頼む……しっかりしてくれ。俺を、ひとりにしないでくれ……」


 涙ながらにサイトーが呟いたその時のこと。「落ち着くんだ」と背後から声がした。振り返ると、見知らぬ白髪頭の男が立っている。


 何者かはわからないが、不審者であることは間違いない。割れた皿の破片を片手に持ち、ナイフのように構えたサイトーは、敵意を込めた視線を男に向ける。


 男は両手をゆっくりと挙げて、自分に敵意の無いことをサイトーへ示した。


「落ち着けと言っただろう? 彼女は死んでいない。指輪を薬指にはめると、セーフティーがかかるようになっているだけだ。疑似恋愛にそこまで本気になられては困るからね。機能的な問題さ」


「……セーフティー?」


「その通り。……おっと、自己紹介がまだだったね。私はカジタニ。この国にしあわせを振りまいた張本人だ」





 ――もう20年近く前の話になる。慰安用セクサロイドを開発するわが社の売り上げは伸び悩んでいた。夜の相手はもちろん、人間的な会話から家事までこなす、セクサロイドという枠に留まらないわが社の製品は世界一だった! ……にもかかわらず、〝処理〟だけできればいいという温い信念しか持たない競合他社に一歩及ばず、わが社は長年業界二位の地位に甘んじていた。


 そこで私が提案した販売方法が〝運命の出会い〟だ。ターゲットとなる顧客のデータを個々に収集、分析し、それを元に外見や性格を細かく調整したセクサロイドを製作。偶然を装う形で顧客と接触させる。そして頃合いを見計らい、製品への情がすっかり移ったところで顧客へ接触し、購入を勧める。


 日本国内で実験的に行われたこの販売方法は想像をはるかに超えて上手くいった。人間ではないと知らないままセクサロイドに接触した顧客たちは、その出会いが本物の〝運命〟だと信じ込み、本物の愛情を持ったんだ。そしてその愛情は、セクサロイドという彼、彼女達の正体を知ってもなお変わらなかった。


 偽りの生殖機能しか持たないセクサロイドに対して愛情を持つことは推奨されていない。ただでさえ低い出生率がなお低下してしまうからだ。


 だが、それがどうした! どうせこの国は崩壊する。遅いか早いかの違いでしかない!


 私はセクサロイドの生産を拡大し、次々と出荷した。それぞれ個々の偽の記憶を植え付けられたセクサロイド達は、自らを人間だと思い込んだまま、人間の中で生活した。


〝運命〟は瞬く間に、日本中に感染した。


 老若男女、既婚未婚問わず、人々はわが社の製品の虜になり、そして……時が経ち、当時の首相からあの滅亡宣言が発表され、鎖国体制が敷かれた。正直、これは英断だよ。自国のみならず、他国にまで運命が感染すれば、人類はおしまいだ。


 出生率はもう何年も0%。この国はあと半世紀もしないうちに間違いなく滅ぶ。国民全員が運命の相手をパートナーに持つという、世界中のどの国にも見られないしあわせな状態の中でね。





 カジタニの話を聞いたサイトーはすべてを理解した。


 チハヤは人間ではないのだ。チハヤとの出会いはすべて仕組まれたものだったのだ。すべて、すべて作り物だったのだ。


 あの笑顔も、あの声も、あの肌のぬくもりも、すべて、すべて――。


 愕然とするサイトーの耳にカジタニの声が聞こえてくる。


「……チハヤもしあわせだったろう。君にとって彼女が運命の相手であるように、彼女にとって運命の相手が君だった。自らがセクサロイドであることも知らず、偽の使命を果たすためにこの国でひとりぼっちだった彼女は、ずっと君が来るのを待っていたんだ」


「運命……そうだ……運命なんだ、これは……」


「……さて、サイトーくん。君には選択肢がふたつある。ひとつ、今すぐここから立ち去って国に帰る。難しいことだが、君なら可能だろう。誰も止めはしない。この国の現状を君の国の大統領に伝えるがいい。まあ、その行動にたいした意味があるとは思えないがね。もうひとつの選択肢が、彼女のセーフティーを外すことだ。私ならば今すぐにでもそれができるが――」


 ふと途中で言葉を切ったカジタニは、嬉しそうに微笑みながら首を横に振り、チハヤの手を固く握るサイトーへ告げた。



「結婚おめでとう。滅びの時まで、おしあわせに」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 非常に素晴らしい作品だと思いました。 謎と空気感が非常にマッチしてなるほどと思えるお話でした。
[一言] 明らかになっていく国の真実と、サイトーとチハヤの恋が上手く噛み合わさっていて、とても楽しく読むことが出来ました。 これからも素晴らしい作品を生み出してください。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ