第90話
「へぇ~。最近遅いなぁとは思ってたけど、そういう事ぉ?」
その声が美夜に届いた途端に彼女の笑みは凍り付き、そして瞳から生気が抜けていくのを雷太はまじまじと感じた。
ただ、彼もまたあの間延びした調子と人を見下した様な声色に懐かしさと共に中学生の頃の記憶が一気に呼び戻された。
「なんだぁ。雷太が入学してるんだったらぁ、もっと早く言ってよぉ。」
「あ…そうだよね…ご、ごめんね、水華ちゃん。」
込み上げる嫌な予感を胸に抱えつつ、声のする方向へと振り返れば、そこには案の定、思い出したくもない姿がそこには居た。
瓜南 水華は何を隠そう、かつての美夜を苛めていた張本人である。
それが馴れ馴れしく美夜に話し掛けている姿を見た瞬間、雷太は無意識に立ち上がり体で美夜を隠した。
「…何の用ですか?」
あれほど桃に様々な悪戯を受けてきたにも関わらず怒らなかった雷太が水華と対峙した時には既に敵意を露にし、怒りも伴っていた。
「まあまあぁ、勘違いしないでよ、雷太ぁ。あたしたちぃ、仲直りしたんだよぉ。ねえぇ、美夜ぁ?」
「そんな嘘はどうだっていいんです、早くどっかに行って下さい。」
水華の余裕綽々といった具合に彼の言葉を受け流し、未だに粘りけのある笑顔で彼を見つめる。
そんな雷太の感情的な一面に桃は美夜に対し、改めて嫉妬が膨れ上がり、自分の入り込めない過去の因縁に歯痒く握り拳を作った。
「いや、あの、ね。雷太君。水華ちゃんの言ってる事…本当なの。」
美夜を想い、怒りをぶつけていた雷太にとって彼女の言葉は深く心に突き刺さった。
歯切れの悪い美夜の喋りはまるで脅されて言った様に聞こえるが、申し訳なさそうに話しているようにも聞こえ、彼は何度も美夜と水華を見つめ、理解し難い事態に体の芯から思いは冷めていった。
「本当に、あの時の事、きちんと謝ってくれたから、私ももう、良いかなって思って…。」
「そう、ですか。」
「本当に、偶々同じクラスになって、また苛められるのかって思ってたら、水華ちゃんの方からちゃんと謝ってくれて、悪気とかはないって分かったから…。」
「そう…ですか。」
美夜が事実を話す度に雷太の中で築き上げてきたものがガラガラと崩れていく様な喪失感が彼の覇気を弱らせ、次第には喋らなくなってしまった。
自分は一体、何の為に時間を費やしてきたのだろうか。
ほぼ二年間を美夜をイジメから守る為に尽力しが筈なのに、いつの間にかそれは無かった事にされていた。
それが勿体無いとか無駄だったとかでは無く、ただ虚しく悲しかった。
水華の心境の変化が何であったかは分からないが、あの時知っていれば、早々に解決出来たのではないかと考えると己の無力さとが顕著となり、気持ちを沈ませる。
「あ…あの、…雷太君?」
陰鬱とした表情が美夜の気持ちを不安にさせたのだろう、彼女は恐る恐る声をかけた。
「…ごめんなさい、美夜さん。ちょっと一人にしてもらって良いですか?」
無理矢理作り笑いをした雷太であったが、あまりの不自然さに美夜の表情はみるみる曇っていき、何か話そうにも彼の暗い顔色を見ていると、上手く声を出せず、パクパクと口を開いては閉じを繰り返し、とうとう彼女は水華を引き連れ教室へと帰っていった。
そんな様子が可笑しく、クスクスと嘲笑していた桃はここぞとばかりに雷太ににじり寄るも、落ち込んでいると言うより悔やんでいる様な険しさの残る顔付きで俯く姿を見たら、流石の彼女もそっとその場を離れた。
ついでにと、何時までも抱き付く未来をひっぺがした。
「らい君、辛そう。」
ふと、目の合った李に彼の状態を呟いた。
「普通、あり得ないっしょ?いじめっこといじめられっこが仲良くするなんて、何処の友情漫画だよって。」
李と談笑していた流は桃の呟きに反応するも返答は彼女の期待していたものでは無かった。
「ライが今まで積み上げてたものが結局、無意味になったからね。辛くなるのも当然じゃない?」
「…許せない。」
桃の瞳には再び敵対心を燃やし更には怒りと雷太の今までの助けを無下にした行動に復讐心さえ抱いていた。




