第71話
それは時が止まってしまった様に長く、それでいて夢見心地の様なフワフワとした気持ちの中、今までのいざこざを忘れてしまいそうな一瞬であった。
ただ、唇が触れ合った口付けであったのにあらゆる情報が一気に降りかかった時、雷太の朦朧とした意識を目覚めさせ慌てて美夜を引き離す。
その時の彼女の火照り艶かしく虚ろんだ瞳に引き込まれそうになりながらも、彼女の気持ちが単純な好意でない事を思い知らされた。
そうして仄かに笑い、その隙間から覗く白い歯を縫う様に舌は現れ、控え目に唇を舐める仕草が妙に色っぽく感じ、雷太の鼓動をより速く脈打たせ、彼の知らない美夜の大胆な一面に驚きを隠せなかった。
「…しちゃったね。」
美夜のあどけない一言と惜しむ様に唇を触る手と、再び伏し目がちに彼を見つめる瞳が良からぬ事を企んでる気がし。
「…はじ、めて、かな?」
狭いソファーの中、出来る限り美夜との距離を取ろうと後退する彼に美夜は身を乗り出し、片手は背もたれにもう一方は彼の脇腹を越えた座部に置き、逃げ場を失わせた上で彼の胸元まで迫り来る。
「そう…ですけど。」
雷太が顔の向きを変える度に美夜もまた角度を変え、徐々に近付き瞳の潤いは一層輝きを増していく。
「そっかー。私もだよ。ふふふ。」
あんなに内気な美夜がこうも大胆な言動を繰り返す様に雷太は次第に恐怖を感じ始めていた。
その恋に溺れる姿が桃と重なるせいだろうか、どう返事をした所で都合良く解釈されてしまう今までの経験が仇となり、彼は何も言えずただ固唾を飲み、彼女の蠱惑的な動きを見つめるしかなかった。
「なんでだろうね?好きって気持ちを伝えるのがこうも気持ちいいなんて誰も教えてくれないなんてさ。みんなズルいよね?」
堪らず美夜は彼の胸元へと飛び込み、ソファーとの隙間をぬい両手で力強く抱き締める。
彼女が動く度に広がるシャンプーと女の子の魅力的な香り、そして全身がマシュマロの様な柔らかな弾力、それらが雷太を襲った。
「み!美夜さん!」
驚きと欲を擽る甘い誘惑に彼は思わず、裏声混じりに叫び優しく解こうと試みるも、美夜はイヤイヤと身を捩れば当然、彼女のその柔らかさがいやと言う程、伝わってくる。
「なあに?雷太君。」
春の陽気に当たる猫の如く和み、砕けた喋り方の美夜に彼は少し照れた具合に頬を赤らめ、視線をさ迷わせながら答えた。
「ほら…大分落ち着いたみたいだし、厄災山に行きませんと。」
「ああ~。あれはもうどうでも良いよ~。それよか、雷太君とずっとこうしてた方が良いかな。」
むくりと起き上がり無邪気に笑いながら、既に氷の溶けたグラスを一瞥する。
「あ。ジュース入れ直してくるね。あと、何か摘まめるモノとか。それでそれで、色々遊んじゃお?ね?」
そう言い残し、ウキウキとした歩調で彼女は階下へと消えていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで雷太は動けず、見つめているしかなかった。




