第69話
桃と朝美が火花を散らしている事など露知らず、雷太と美夜は当然の様に手を繋ぎ、落ち着ける場所、つまりは彼女の父親が経営している軽食喫茶へと足を運んでいた。
大分、落ち着きを取り戻したものの恐怖心と共に苛められていた記憶が甦り、人込みさえ忌避したい程、美夜の心は大きく掻き乱され、朝美の作戦は失敗どころか傷跡を残してしまった。
意気込んで化粧をした筈の顔面は残涙や拭った跡により見るも無残なもので、美夜の袖や雷太のシャツにまでファンデーションは付着し、余計に彼女は俯き、身を縮み込ませる。
「もうすぐ、着きますよ。」
雷太は安心させようと声を掛けるも、小さく頷くだけで返事の代わりに鼻を啜る音が不安定な気持ちを表していた。
裏口から入り、美夜の父親に挨拶を済ませた後に先日使用した部屋へと彼女を連れていく。
「ちょっと、飲み物貰ってきますね。」
あのハート型のテーブルではなく、部屋の隅に置かれた小さなソファーに座らせ雷太は下へと降りようとその場を離れようとした時だった。
「行かないで!」
美夜は弱々しく叫び雷太を後ろから抱き締めた。
「一人は…怖いよ。」
精一杯力を込めて彼を抱き締めてる筈なのに、容易く解かれてしないそうな程、彼女の腕は震え孤独を嫌う焦りが、両腕で作られた円を歪に落としていく。
「…美夜、さん…。」
しまいに抱き締めていた両手はズボンの裾を握る所にまで落ち、これ以上の距離を取らせまいと非力ながらに引っ張っていた。
「ごめんね。いっつも迷惑ばっかり掛けちゃって。駄目な先輩だよね。」
「迷惑じゃないですよ。寧ろ僕から美夜さんに関わろうとしたんですから、迷惑を掛けてるのは僕の方ですし。」
雷太は踵を返し、狭いソファーに体を無理矢理押し込めた。
美夜はそのまま彼の手を握り、指を絡ませる。
「そんな事無いよ。最初は変な子に付きまとわれてるなって思ったけど、雷太君は純粋に私を助けようとする良い子なんだもんね。私、卒業する時にもう雷太君に甘えられないって頑張ろうとしたんだけど、結局今も甘えちゃって、ホント……いつも、助けて…貰って……頭では分かってるんだけど…やっぱり、怖くて、寂しくて、辛くて…。」
「美夜さん。僕は全然構わないですから、もっと甘えて大丈夫ですよ。」
「…好きなの。」
ふと、見上げる顔には幾つもの涙の筋が描かれるも、奥で光る瞳から強い意志を感じられる程、その真っ直ぐな視線で雷太を見据え、ポツリと呟かれた。
「雷太君の事、好きなの。」
薄々と雷太は気付いていたものの、どう返事をするべきか分からずに彼女の言葉を聞いていた。
「今だから、ハッキリ言えるの。私が卒業してからの一年間、ずっと私の心には雷太君がいて、挫けそうになった時も嬉しい時も雷太君の言葉を思い出して、行動してきたんだ。」
堪らず、美夜は照れ笑いを浮かべながら過去を懐かしむ。
「桃…ちゃんと一緒に居る姿を見ると胸が締め付けられる様な息苦しさがして、辛かったんだ。それで、私、雷太君の事が好きなんだ、って気付いたの。」
絡んだ指から美夜の体温と共に自身の想いを体現する力強さを感じ、じわりと汗を滲ませる緊張が伝わってくる。
「雷太君がそんなつもりで助けてないのは痛い程分かるよ。でも、私はあの時から、多分だけど雷太君に好かれたくて甘えてたかもしれない。…だ、だから断られても仕方ないのは理解出来るし、雷太君が困ってるのも私のせいなのも理解出来るの。」
美夜はゆっくりと雷太へと体を向け、ハッキリと彼を見る為に空いた手で前髪を少しかき分けた。
「桃、ちゃんとのいざこざもあるし、直ぐには答えられないよね。でも、もし無事に解決するんだったら桃、ちゃんみたいに私も予約して良いのかな?」
雷太を見つめていた瞳は物憂げに彼の唇へと視線を落とし、ゆっくり生唾を飲み込み、再び視線を上に戻す。
「最近、ずっと妄想してる事があるんだ。」
美夜は恥ずかしげに、でも何処か自慢気にはにかんだ。
「それはね、雷太君と二人で住む妄想なんだけど、色々設定とか考えなくても何の違和感も無く、頭に浮かび上がるんだよ。」
彼女はまたも視線を下げ、唇を一瞥する。
「目を閉じてね、その妄想に身を任せるんだけど、すごく満たされるって言うか、幸せって言うか。兎に角、充実してるの。こんな風に雷太君に触れたら良いなとか、もっと近い距離で喋れたら良いなとか。」
美夜はふと彼の頬に手を添えた。
徐々に詰まる二人の距離に比例して、彼女の視線は唇と瞳の往復を繰り返し、近付く程開かれていた瞳は薄目に閉ざされていく。
「全部…全部…雷太君のお陰…私、毎日が辛くもあるけど…楽しいんだよ。」
美夜の言葉を聞けば聞く程、雷太は迫りくる火照った顔を拒む余地が無くなっている事に気付けなかった。
それは単に考慮に欠けていたのではなく、甘く蕩けた雰囲気や彼女から漂う酩酊しそうな誘惑の香り、そして微かに芽生えた好奇心が雷太の動きを止めて止めていたのだ。
彼女の熱く甘い吐息が肌に触れる程近付き、瞳の潤んだ輝きがはっきりと見え、緊張と興奮で汗ばんだ肌や唇に塗られたグロスの淫らな光り具合、半開きとなる唇の隙間から覗く白い歯、大人しげな性格が却ってイヤらしく映える。
窓から射す太陽の光が二人を祝福するかの如く包み込む。
ふとした沈黙が訪れると同時に唇は重なりあった。




