第39話
「大家さんはもう帰ったんですかね?」
晩御飯を食べ終えた雷太はそのまま、流し台に積まれた皿を洗いながら、その傍らで調理場を掃除する朝美に尋ねた。
美夜とその父親で客席の片付けと掃除を行っているのだから投げ掛けた言葉は当然、朝美へと向けたのだが彼女は何も反応せず、一心不乱に綺麗に磨き上げる。
かと言って桃に確認を取るのも些か躊躇われ、それをしてしまえば同棲を認めてしまうのではないかとも考えた為に、店が閉まるまでズルズルと長居していた。
モヤモヤと不満ばかりが溜まり、不貞腐れながらも皿の汚れを落としつつ朝美が落ち着くのを待つも、忙しなく仕事を見つけてはこなしていく。
「お疲れ様、雷太君。」
額に汗を浮かばせ、少し息を荒くしながらも美夜は達成感からか笑みをして、声を弾ませて彼を労った。
「はい。美夜先輩もご苦労様です。」
そうして役者が揃ったのを見計らい、朝美はようやく沈黙を破り、妹に声を掛ける。
が、雷太は油断していた。
「美夜ちゃん。今日は雷太君と此処に泊まりなさい。」
「「えっ!?」」
両者共々、驚きの色を隠せないが美夜は次第に顔を真っ赤にさせ緊張により上手く表情を作れず、笑っているのか怒っているのか、よく分からない顔付きで朝美を呆然と見つめていた。
「雷太君、言ったろ?これは美月叔母さんの計画だって。計画通りなら、君の部屋で酒盛りしながら、桃ちゃんの相手をして貰っている。で、そのまま寝落ちして君の部屋を占領している筈だ。だから、君も今日は此処に泊まりなさい。」
「いや、そんな、まずいですよ。」
「まずくはないぞ。その理由としてまず一つ、君は美夜ちゃんを守らないといけない。強盗が此処に来ないとは言い切れないからね。二つ、美夜ちゃんはこのお店の物の配置を知っている。まさか、雷太君は知らない所の家具をあれこれ物色する訳にもいかないだろうしね。三つとしては、今帰れば、間違いなく美月叔母さんの絡み酒に付き合わされるからね。そして、最後は……父さんが最近家に帰ってないから帰らせたいのが一番の理由だね。」
簡潔に述べる朝美は帰り支度をしつつ、補足として美夜に注意点を伝えているのだが、雷太はどうにも納得がいかずに食い下がる。
「なら必要最低限の事を教えて貰えば、僕一人でも構わないですよ。」
「雷太君は何を言ってるんだい?君が家族なのであれば、任せるが違うだろ?いや、家族になって貰えるのであれば、任せるよ。ね、美夜ちゃん?」
そうだった、と彼は後悔した。
どんなに言い回しを変えても相手は朝美なのだ。
そこには必ず妹を関わらせてくるのだから、朝美がそう決めたのなら、そうなるように仕向けるに違いない事を彼は忘れていた。
「因みに美月叔母さんの絡み酒は正直、面倒臭いぞ。ねえ、美夜ちゃん?あの歳で独身なもんだから、君に対してのやっかみは酷いだろうよ。まあ、雷太君の好きにしたらいいさ。けど、美夜ちゃん一人では心細いなー。」
この根回しの良さは一体なんなのだろうか。
雷太の答えを聞く前に朝美とその父親は店を出て、今はこの静かな空間に美夜と取り残されてしまう。
蛇口の先から零れ落ちる雫の音が妙に響く中、男女独特の緊張感が二人を黙らせ、身動きさえ取らせない。
美夜の汗ばんだ首もとが灯りに照らされればそれは色気と変わり、彼の心を強く胸打つ誘惑へと成った。
好意があると知っているからこそ、僅かな挙動が艶やかさとなり、彼女の甘い香りがより濃厚に雷太の鼻腔に纏わり付き、正視出来ない程、二人きりという現況は誘惑に満ちている。
彼女の儚さが汐らしさと変容し、前髪の隙間から覗く瞳は優しく濡れ、上気した肌は林檎の様に艶かしく鮮やかに染まる。
美夜に対しての印象を逆転させ、雷太は戸惑いを隠せなかった。




