第107話
「おかえり、雷太君。」
この光景に違和感を覚えなくなったのは何時の事か、美夜が台所に立ち、夕食の準備をしているのを問い詰めようとするも食欲を奮い立たせる匂いがそんな些細な疑問を投げ捨てる。
そんな日々を過ごす内にいとも簡単に餌付けされ、今じゃそんな疑問が楽しみで仕方がないのだった。
「ただいまです。…あれ?桃は?」
何時もの出迎えに現れない彼女の姿に彼は単純に所在を聞いた。
素直な疑問に美夜は少し寂しげに顔を曇らせる、彼の性格が滲み出る気遣いに美夜が優位ではないのか、と勘違いしてしまう程、彼は優しすぎた。
「桃…ちゃんは疲れちゃったのか、机に突っ伏してるよ。」
美夜の言葉を聞きながら、雷太は美味しげに湯気を上げる鍋に顔を近付け、幸せそうに深く息を吐いた。
ただ、スプーンを下ろすだけで野菜が簡単に切れる程、時間をかけ煮込んだコーンクリームシチューとバゲット、と彼の好む様に作られる夕飯に悩みなど、吹っ飛んでしまう。
ただのシチューではない。
コーンクリームシチューなのだ。
シチューだけでも単純に美味しいものに更に美味しさを相乗させる為、クリームだけでなく、コーンも入っているのだ。
その素晴らしさたるやカレーうどんやつぶ餡とマーガリンにも引けを取らぬ組み合わせ。
美味しいものと美味しいものを組み合わせたら、もっと美味しくなる筈という、子供じみた発想でここまで認知させたその偉業を讃えたいとさえ、雷太は考えていた。
「いつもありがとうございます。」
充分、匂いを堪能した後、美夜に感謝を述べた。
毎日、献立を考え、雷太が好まれる為に創意工夫を凝らし、気付けば冷蔵庫の中身は彼女が買ってきたものばかり。
それを雷太に伝えるでもなく、さりげなく用意する辺り、彼女らしい性格でもある。
「そんな!お礼なんて!…何時も言ってるじゃん。私が好きでやってる事だから気にしなくて良いって。だから、食べて貰えるだけで充分、嬉しいから、ね?」
美夜の顔は調理の熱に負けでもしたのか、急激に顔を真っ赤にし、雷太の気持ちを安易には受け取らなかった。
勝手にやっている事なのだから、煙たがられたり、馴れ馴れしいと思われたり、身勝手だとか自己中心的だとか下心有りだとか、負となる印象を少しでも削ぎ落としたく、美夜はいまいち、大胆にはなれない。
「らいく~ん。おかえり~。早く、こっちに来て~。」
久しく訪れる初々しい雰囲気をぶち壊すのは何時だって、桃の役目。
その証拠に気だるく間延びした声色で、何度も彼を呼ぶが、姿は一向に見当たらなかった。
「…何、してるの?」
美夜に苦笑いを見せ、駄々っ子をあやすかの如く、彼女の元へと向かうも彼女は机を枕に寝ている。
そこまでは許容範囲ではあるものの、固さを和らげる為に敷かれた雷太の下着、数枚を重ね、更に彼の部屋着を何故だか桃が着ているのだ。
彼でも呆れる行動に桃は平然と目線だけを彼に向け、掲げる様に両手を広げる。
「らい君、疲れた。抱っこして。癒して。褒めて。結婚して。」
そして口をすぼませ、親鳥からの餌を待つ雛鳥の様に忙しなく動かし、広げられた両手もまた彼を捕らえるべく縦横無尽に動き回る。
端から見ればホラーな蠢きに雷太は冷めた目付きで彼女を見下ろし、Yシャツを上から広げ落とし、おざなりに隠す。
「らい君?…らい君の匂いがするよ?もしかして、エアコンで冷えた体を温める為に羽織ってくれたのかな?そんな優しさに触れちゃったら、この白黄桃、どんなお返しをすれば良いの?」
もっと匂いに包まれたいと、もっと体に密着させたいと、飛び出た両手をYシャツの中へと戻し、内側からぎゅっと掴んだ。
輪郭が浮き出る程まで握り締め、荒い呼吸音がYシャツ越しから漏れるにつれ、唇に触れている部分が濡れ始める。
そんなやり過ぎた行為を抑える方法の一つとして、最近分かった事があった。
「あんまりだと未来に言うよ?」
この魔法の言葉を言うと、桃の変態じみた行動はぴたりと止まり、ゆっくりと不満げにYシャツから顔を出し、机にだらけていた体を起こした。
「らい君、何時も思うけどそれは狡くない?」
桃にとって未来は良い抑止力となった。
雷太に対し並々ならぬ敵対心を抱き、対抗しているものだから、あまりに桃が彼に偏り始めれば桃も引く程、ぐいぐいアプローチをかけてくる。
その猛攻たるや猪突猛進とも言える向こう見ずでありながら、的確に彼女の精神を削り、反抗する気力さえ失わさせた。
「桃がまともになれば、僕だって真摯に対応するよ?」
桃は不貞腐れた様に、それでもYシャツは握り締めたまま寝そべり、納得いかないとばかりにゴロゴロと転がる。
「私は何時だって真面目だもん。それにらい君の部屋でしか、本当の私をさらけ出してないよ。…それさえも奪うなんて…らい君の鬼!悪魔!結婚して!」
我が儘を言う桃のその早業たるや、雷太でさえ目を疑いたくなるスムーズ且つ無駄の無い動きで自身のYシャツを脱ぎ、彼のYシャツを着込む。
結構、派手目な下着で目を奪われる訳でもなく、桃のしれっとした行動に彼は何も言えず呆然とするばかりで。
「何、らい君?もしかして、私の下着に興奮したの?」
と、あらぬ誤解を招き、桃は『ほれ、ほれ』と胸元を広げ、シミ一つ無い肌、そして綺麗な曲線を描く鎖骨の先に広がるロマン溢れるファンタジーを彼に見せ付けるのだった。




