1 時間と空間
言うまでもなく、この世界には時間という概念がある。
今、この時が現在。
今より前が過去。
今より先が未来。
過去から現在を経て、未来へ至る、すべての物質は通常、その流れを覆すことは出来ない。
だが、もしも俺に過去や未来へ往き来できる能力があれば、2年遡ればその時間にいる2歳若い俺に会えるし、または2年先に進んだ場合も、そこに2歳老けた俺をみつけることができる、はず――息災であれば。
だから、時間の流れ全体を俯瞰するなら、俺という人間は過去から未来へと、こう、びょーんと伸びてるし伸び続けてるように、見えるだろう、びょーんとね。
誰もがそう、自然に感じているに決まってる、考えるまでもない…とフツーに思っていた。
ところが……それは大いなる誤解であるらしい。少なくとも、彼女に言わせれば、だが。
「は?」
くれてやったアンパンを小さな口で頬張りながら、彼女は非常に手短に訊き返してきた。仕方なく、俺はまた、同じ質問を投げかけた。
「いや、だからぁ、えっと……これから、さらに過去へ行くわけでしょ、キミ。だったら、そこで当然、もっと小さい頃の僕に会ったりすることも、あるかもだし……」
俺が先ほどより懇切丁寧に、ゆっくり問い直すと、この女子、突然立ち上がり、飛び離れた。
「キモ……キッモ!!」
甲高い悲鳴をあげる。彼女、どうも「キッモ」が口癖らしいのだ。
ホント、ストレスフルだよ、これ。
「えぇぇ、何が?」
当然、俺は説明を求めた。
「やめてよ! あたし、マジェ苦手なんだから、そーゆーの!」
と、彼女は言う。
「マジェ?」
それ、未来で流行ってるのかな、ぐらいに、俺は思った。
「上流に行ったら、すでにあたしがそこにいて……こっち向いたかと思うと『いらっしゃあい』とかってニンマリ笑って――ギャーーーーッ! 怖いぃぃぃい!」
けたたましく、喚きたてはじめる彼女。
うるさ! 耳がきぃーんとなった。
周囲に誰もいないからいいものの……いや、駄目だ。俺の耳が死ぬ。
「ギャーーーーッ、ギャーーーーーーーァ!」
「ち、ちょっと、えと、イーヤさん、でしたっけ?」
堪りかねて、俺がたしなめようとすると――
「イーヤ?」
ピタッと、勝手に彼女は叫び回るのをやめ、俺に真顔を向けた。
「違う、の?」
「んんー、つかさぁ、それ、正確には違うから。さっき名乗ったマ・イーヤってのは、この時元宇宙の? チキューのニホンの? あんたの使う言語の発音に近づけたらそんなカンジってだけだから」
マ・イーヤは眉根のあたりに憐れみを浮かばせて言った。
「……………………」
あ! ちょっとだけ遅れたけど、自己紹介しよう。俺、万間未為也。間違いなく確定的に、どこにでもいる普通の普通科高校に通うキモくない高校生だ。
目の前にいる、どの角度から見てもとても風変わりな女子は、さっきマ・イーヤと名乗ったのだが、正確には違うそうだ。
彼女は……あー、彼女自身の話によると、「ジゲン下流域から、時間を超えてやって来た」ヒトで、「重大な案件で上流に向かっている」らしい。
上流、下流というのは、どうも時間航行上でいう過去や未来のことらしい。時間を遡る側が上流、時間の流れに乗って下る側が下流というわけだ……たぶん、きっと。
つまり、彼女は未来からやって来た未来人――タイムトラベラーというわけだ。
や! でも、これだと……やっぱ、補足する。このイーヤなる、高校生である俺と同じぐらいの年頃に見える女子は「住んでる場所がここより未来にある、ヒト型の異星人 (あるいは宇宙人)」で――要するに血縁上、遺伝子学上は地球人類とまったく関係ないらしい。
だからケモノ耳やシッポも本当に生えているのであって、別にケモナーを悦ばせるためのコスプレをしているわけではないのだそうだ。
ちょっとばかり露出度の高いドスケベな格好をした、未来の余所の星から来た、そーゆーエイリアンなのだ。
実は彼女、俺が帰宅途中、ふと見ると道端にうずくまってて……どうしたのか訊ねると、もう長いあいだ何も食べてないという。で、昼飯時に買ったけど食べなかったアンパンを提供してやったのだが、まあ、この際、その時の紆余曲折を詳細に話すのは控えておく。
面倒くさいから。
とにかく、概要としては、そういう出逢いを経て、俺は彼女に、ここへと連れて来られたわけで。
「で?」
俺が、じりっともせず我慢して黙って聞いているのに、イーヤも何も言わなくなるから、先を促した。
「で?」
ところが、彼女もそう返してきて、首を傾げるのみだ。なんか、挑戦的な目つきで。
「や、だから、はは、ほら、いまキミが過去の時間に僕がその、いないようなこと言ってたようだっ――」
俺が苛立ちを抑えて苦笑気味に詳細な表現で言い換えようとすると、イーヤはそれを遮って捲し立てた。
「あーー! っから、それは! 今から説明するに決まってんのに、なんで話の腰折るの!? 意味わかんない! だからこの時元の人間って!」
同時に、猛烈な勢いでアンパンも食らいきる。
「ご、ごめん」
俺があくまでも紳士的な物腰で頭を下げると、マ・イーヤは単純にも、すぐに機嫌を直した。
こいつ、本当に未来から来たのかな……にしては、あんま賢そうでないよなぁ。
え、関係ない?
「そーねぇ、えと……ここに川があると思いねえ」
「はっ!? なんで江戸っ子口ちょ――」
「こっちが上流ね! で、あっちが下流だから。山の天辺から海に向かって流れてんの、いい? こっちから、ドンブラコ…いや、ころころーって小石が流れているとします」
身振り手振り、まるでエアギター弾きのようにキビキビと、イーヤは動く。何も無い真っ白な部屋の真ん中にて、俺に川や山を想像させるために。
それが、時間を川に置き換えて説明しようとしてるのだけは、かろうじて伝わってくるのだが……
「……はあ」
「でね、でー、川の水に流されて、小石はそのあいだ、川底とか他の石とかにぶつかって、あちこち擦って少しずつさらに小さく、すべすべになりながらー……海にまで流れ着きました! だけど、その頃にはもう、小石ではなくなって、バラバラの砂粒になり果ててましたーー…ね?」
「いや、『ね』って言われても」
俺が戸惑うのも構わず、イーヤはどんどん続けた。熱を込めて。
「それで、上流まで戻ってみましたーーって、ここに、はあ、はあ…その、砂粒が小石だった頃の姿が、あると思う?」
イーヤは駆け足で、最初に「山」を表現した場所まで、真っ直ぐな「川」の岸辺を遡って戻った。辿り着いたそこをしきりに両手で示しながら、問いかけてくる。
川を流れた小石の話なら、そら、海まで流れ着いたあと上流の元あった場所に行ってみても、昔そこにあった石はもう無いだろう。
だが、時間を巻き戻せば、時間ごと遡れば……むしろ、そこにその小石がなければおかしい。
「……でも」
俺は返答に窮していると、イーヤの意地悪そうな目が、さらに凶悪な昏い輝きを帯びた。
「いやいや、『でも』じゃなくて! ここに、昔の小石があると思うかって訊いてんだけど!」
「……はは、これはだけど――」
例えが悪い、と俺は思った。
「も、話聞けって! あたしが今、説明したよね!? だか――おい!」
「いや、分かるけど、でも――」
「おいって!」
――――混乱タイム。
詳しい描写はあえて控えるが、なかなかの阿鼻叫喚が、そこに現出したとだけ、述べさせてもらおう。
と、言っても、俺はほとんど反撃しなかったけどな、紳士だからね。
いつ果てるともない暴力沙汰は、しばらく続いたが、やがてどちらからともなく、矛を納めた。お互いの性格を分かり合い、多少なりとも尊重しあうまでは、まあ、それなりの時間を要したのだった。
「ぜーー、ぜーー……ごほ! ごほ、がほ!」
肩で息しながら、咳き込むイーヤ。
「はあはあ……じ、じゃ、キミは時間を巻き戻しても、過去の世界なんて無いと言いたいの、ホントに?」
俺も正直キツかったが、すぐそばでへたりこんでる厨二病の暴力系女子をなんとか問い糾した。
彼女の例え話を俺なりに解釈すれば、そういうことになる。
「…無い。物理的にあり得ないから。そもそも『カコノセカイ』って何? 巻き戻すの意味が分かんないし…はー、っからこの時元の人間って」
「いまいち、ピンとこないんだけど……」
「それはこっちのセリフよ。なんかさー、時間ってものを根本的に誤解してない?」
イーヤは「信じられない」とでも言いたげだったが、それこそ、こっちの心境だった。
これだけ言葉が通じてるのに、「時間」について語る上でこれだけ意見が噛み合わないヒト、初めてだよ……
「だから……今、こうして、僕とイーヤとがいる、この時間、瞬間が、現在でしょ?」
言わずもがなのはずのことを、俺は、気むずかしい女子の機嫌をそこねないよう、渾身の注意力を払いながら口にした。
「……うん」
意外にも、イーヤは素直に頷いてくれた。
「僕が、道端でキミにアンパンをあげたのが過去、過去にあった出来事」
「はあ」
「で、僕はもうすぐ自宅に帰ることになるんだけど……それがこれから起きる、未来…の、出来事の、はずなんだけど」
「あーー……」
相づちだか何だか分からない声を上げ、イーヤは「はい、はい、はい」といったカンジで、しきりに何度も頷いた。そして――
「あんたさー、本っ気で言ってんの、それ? マジ、マジェ、マジョ!?」
などと、顔を寄せて凄んでくる。
マジョ?
「は?……い、いやぁ」
「はぁ、なんかおかしいと思ってたのよね、さっきから。あたし、賢いからすぐ分かっちゃったけど、要するに、あれだ。あんた、物理的な時間と、『現在』の積み重ねでしかない経過の記録を混同してるわけだ」
何?……なんだって?
イーヤは、ついていけてない俺に構わず言葉を続ける。
「時間ってのは、宇宙が誕生して以来、物理的に! 実在してるの! そしてあんたはその中を、小石のように流れてるだけの存在なのよ、時間という川の中をね」
「……あ、はい」
「つまり、あんたの言うカコは上流の時のごつごつした小石で、現在は流される途中のすべすべしてきた小石、ミライってのは砕けて砂になった小石ってことなの」
「…………あ、はい」
「砂になった後からね、上流に行ったって、小石だった頃のあんたなんかいないの! も、さっきから何度も説明してるから、これ! あんたは――ま、あたしもそうだけど、物理現象の一種でしかないんだから、そんな、燃えた紙が灰からまた紙に戻るようなさぁ、可逆性はないの! 分かった!?」
「つまり――」
俺は、なぜか躊躇いがちに、彼女の言う「物理的な時間」に対し、自分なりに理解したところの見解を述べた。
「時間は、宇宙誕生から川のように流れていて、流されている僕達には『現在』しかなくて、僕の言う『過去』や『未来』は実在しないって、ことだよね?」
彼女の言いたいことは、つまりそういうことだ。正確な意味では、時間の上流は過去ではなく、時間の下流も未来ではない。宇宙はただ、時間の流れに乗って微妙に姿を変えながら流されている、現在だけしかない存在ということ。
「ま、そーゆーこと」
イーヤは、目を逸らしながら肯定した。そして、俺の理解したことを補足した。
「時間の流れ――時元流は宇宙が誕生した場所、さっきの例えで言うなら水源からずっっと流れてんの。今、この時も、時間は水源から湧き出し、流れをつくり続けてる。あたしが生まれた宇宙は、この時元流のもっと下流にある。で、上流に行ったって、昔のあんたの宇宙なんてない。川の流れは絶えずして、しかも元の水に非ずってね――後から流れてくるのは、ここよりも新しい別の宇宙ってわけ」
…………こいつ絶対、未来人じゃないだろ、と俺は俺なりに直感したが、そんなどうでもいいツッコミをいれるのは我慢した。
しかし、イーヤはどうやって、俺と言葉を通じさせているのだろう。会話は成立しているが、ところどころ不自然なカンジがある。
おそらく、イーヤは、日本語を喋っていない。なんらかの不可思議な方法で翻訳して、喋っているように見せかけているのだ。
身に着けているエロい衣服のどこかに、翻訳機のようなものでも仕込んでいるか、もしくは、イーヤ自身にそのような超能力的なものが備わってるのか。口元を見ても、実際に発音しているようにしか見えないし、どのような仕掛けがあるのかはまったく想像できないが。
「上流や下流にある別の宇宙って、全然違うの?」
「まー、物理法則が同じだけで、まっったく違う。つーか、同じわけないじゃん」
「ちょっとずつ、微妙に違う宇宙が隣り合って、無数に連なってるんじゃないの?」
俺にとっての宇宙、そして時空とは、いわゆるタイムリープもののアニメなんかに登場する、多次元構造型の宇宙モデルのイメージだった。
この宇宙は誕生してから、無数に枝分かれを繰り返しながら、過去から未来へ続いているという、よく量子論の説明に使われたりもする、アレだ。
枝分かれは、起こりうる可能性の数だけ発生する。
たとえば、ひとりの少年が、ある日道端でつまずいて倒れたか、倒れなかったか?
たとえば、買い物に行った女性が、スーパーについてから買いたかった品をど忘れして、それを思い出せたか、出せなかったか?
たとえば、50パーセントの確率で開けたら死ぬ仕掛けがある箱に閉じ込められた猫が、その箱が開けられたときに死んだか、生きてたか?
そんな可能性による未来分岐ごとに、宇宙はどんどん分裂して膨大な数に増えてゆく……
これまでの人生、それを疑ったことは一度もない。
だから、俺が今いる宇宙の隣には、今日、昼飯でアンパンまで食べた俺がいる宇宙とか、アンパンは食べなかったけど、それをイーヤにあげずに無視して帰宅した俺がいる宇宙とか無数に存在しているんだと、マジで、科学的に真実だと信じていた。
「あんたさー、マジェ大丈夫なの? つーか、マジョ大丈夫?」
「マ、マジョ…」
だが、そんな俺が、未来人の少女に本気で心配されてしまっている、この宇宙――それしか、俺が存在する宇宙は、この世界には無いという。
俺は、なにふりかまわず質問を続けた。
「他の時間の人間は、みんな地球人と違うの?」
溜息まじりに、イーヤは答えてくれるのだった。
「…同じわけないじゃん。ちょっと考えたら分かるから、フツー。あたしだって、チキュー人にあわせて同じ姿してるけど本来は違うから。まー、人間――つか、知的生命体がいる時層なんか、数えるほどしか知らないけど」
「なら、過去に行って、現実を改変するなんてことはできない?」
「あんたの言うカコってのは、記録上の歴史ってことだから。歴史は歴史、時間は時間よ。現実の物理空間はそんな、ファンタジー世界じゃないから」
「未来から大人になった僕が、タイムマシンに乗って会いに来るなんてことも?」
「っから、やめてよ! そーゆーオカルト! ここにいるあんたが、ミライ…下流域にもいるわけないから!」
「ちょっとだけ違う人生を歩んでる僕が住む宇宙が、隣り合って無数にあって……」
「誰から聞いたの、そんなヨタ話? まさか科学的に、んなキモいことあり得るって本気で考えてんの? 仮想と現実、フィクションとノンフィクションの区別もつかないの?」
「…………」
俺は、けっこう長い時間、絶句して、それから項垂れた。
「ごめん、どうやらそうみたいだ……」
イーヤは、そんな俺をしばらく静観したようだった。それから、少し居心地悪そうにそわそわしながら、小さく咳払いする。
「まずさー、念のため言うんだけど、ベクトルって知ってる?」
訊いてくるので、俺は答えた。それは、中学校の理科の時間で習ったことだ。
「力の向きだよね? 物質に掛かっている運動エネルギーの方向というか……そんなカンジ」
「ベクトルの向きには、上か下か、右か左か、前か後ろか、ってあるよね?」
俺は、素直に頷いた。3次元における位置座標は、その3方向で成立する。
「ブーー! 本当はもうひとつありまぁす!」
俺の首がこくりと動いたのを見て、イーヤが高らかに行なう、勝利宣言。
だが、俺はおおよそ、そのリアクションを予想していた。
あー、やっぱり、イーヤはこれから、4次元空間の話をしようとしている、と。
「上下でも左右でも前後でも、もちろん前斜め右上から後ろ斜め左下とかでもない、人間には知覚できない4つ目のベクトル! 時間はそのベクトルを上流から下流に向かって流れてるの」
「えー、マジで?」
(棒)。
「その水流はあまりに強力すぎて、あたし達は微塵もそれに逆らえない。つーか、宇宙が誕生したときの大爆発によって、為す術もなく飛ばされてる途中だから。とにかく、その第4のベクトルでは、上流も下流も繋がってる。あんたの宇宙もあたしの宇宙も、その他の時元宇宙も繋がってるし、その全部ひっくるめて1つの世界しかないの、分かる?」
などと、下流から来たというエイリアン女子は得意げに供述しており……
これは、4次元の話なのか? 思っていた話とは、少し違う。
「分かったような……そうでないような……」
俺は疲労感の中、極めて慎重な答えを返す。
「分かんないのかよ!」
と、イーヤにあきれられてしまう。理解できないと言うより、気持ち的に受け入れづらかった。
イーヤが言う「真実」は、俺がこれまで信じてきたこととあまりに異なりすぎた。
「あのさー……言いたくないけどね、こんな、科学が遅れてる人類って、あんた達ぐらいだからね」
「はあ……」
「あんたの時層より、もっと…上流域の小さい宇宙にいる人達だって、そんなことないから」
「ごめん……」
「あたし、その人達に今、知らせに行く途中なの。全宇宙の危機だって」
「……ちょ!? 僕達は」
さらっと言われて、リアクションが遅れた。危うく聞き逃すところだった。
「僕達はどうするつもり? まさか見捨てる気とか?」
「残念だけどぉ、もう間に合わないから。ごめんね」
などと小憎らしくも、可愛らしく言う。
「いや、困るよ、そんな」
俺は内心、マジいらついていた。いや、マジョいらついていた。
「テクノロジーレベル低すぎて、対策法を教えたってどうにもなんないの」
「アンパンあげたよね?」
「それはそれ、これはこれよ! 無理なことは無理だから! つか、そんなに言うなら、今すぐ科学文明的ブレイクスルーを3回ぐらいしてみれっての! ほら、早く!!」
「いや、僕一人では……痛っ! 痛いから!」
イーヤがまた殴ってくるので、俺は頭を両手で庇った――あくまで、紳士的に。
「そ、そう言えば、宇宙の大きさって、時間で変わるの?」
苦し紛れにそんなことを訊くと、イーヤは暴力を止めた。うまく、気持ちを逸らせることに成功したようだった。
「そんなことすら知らないんだ。誕生した瞬間の宇宙って、豆粒より小っっっさいの。宇宙は上流ほど小さいし、下流ほど大きい――これからどうなるか知らないけど、今のところはね。だから、あたしんとこは、あんたのよりずっっっと大きいんだから」
大きさ自慢はどうでもよかった。
「そんなに大きさが違うってことは、イーヤの宇宙って、ここより1億年ぐらい経ってるってこと?」
自分の頭を撫でながら何の気なしに訊く。
すると、イーヤはまるで、野良スカンクにでも出会ったかのような顔になった。
「1億って、ガキくさ! バカじゃない? どっからそんな数字が出てくんの?」
などと悪態つきつつ、イーヤは腕に嵌めた某腕時計型スマホっぽい電子機器に向かって、何やら指で躍起になって突きだした。
操作して、計算してるのかな、と俺は推測した。
「えーっと、せいぜい…4649年ってとこ」
ほどなくして、やけに具体的な数字が飛び出してきた。
「そんな程度なんだ」
俺は率直に思ったことを口にした。
「そんなってね! つか、この宇宙が始まって終わるまで……あんたたちの計測単位で15億年ぐらいっていわれてるのに、1億も離れるわけないから!」
「いや、何が『わけない』のか、感覚的に……や、待って、15億年!?」
そのあまりに意表を突く数値に、俺は思わず、めっったくそデカい声で叫んだ。
それは正直、宇宙の危機を聞かされたときの驚きよりも、瞬間的には上回った。
「何よ」
イーヤが、びくっとたじろぐ。
「150億の間違いだよね?」
しょうがないなー、と言わんばかりに、俺は寛大に、その訂正を受け入れるつもりをあらかじめ示した。
イーヤは、むきになった。
「だっから! もー、あんたの時元宇宙なんて、まだたった8億100万年ぽっちしか経ってないのにさー」
悔しさのあまり地団駄を踏む子供のような様子の彼女を見ながら、8億100万年も8億100万4649年もたいして違わないだろ、と俺は思った。
「この宇宙が生まれて、だいたい138億年は経ってるはずなんだけど……詳しくは僕も知らないけど」
そう、どっかのサイトに書いてあった。
「へー、じゃ、あんたの宇宙ってあと12億年で終わっちゃうんだ」
言葉を返しながら、イーヤは長めの溜息をつく。
相手するのに心底疲れ果てた、とでも言いたげな、穏やかで力無い微笑みを浮かべて。
俺には、もうこのあたりで話を切り上げ、家に帰るという選択肢もあった。
だけど、何か危機的状況が迫ってるらしいし、やはりこのままイーヤを上流に行かせるわけには……
それにここは――そう言えば、説明まだだったかな。イーヤが乗ってきたという…なんだっけ? ジゲンコーコー……要するに、タイムマシン兼宇宙船というべき乗り物の中なのだ。大きさはシロナガスクジラぐらいあるが、内部構造はわりとシンプルで、部屋は今、俺とイーヤが座り込んでるこの部屋だけらしい。
1LDKだ。
窓はあるが、外は真っ暗。本当は無数の星が見えているらしいが、どの星も遠すぎて目を凝らしてもほとんど見えない。
そういや、入るとき外観も見たけど、いわゆるアダムスキー型UFOってやつに少し似てる。
ん? 目の前のケモ耳女子がわりと美少女でエロい格好をしてるので、このまま別れるのは惜しいんだろって?
いやいや、そういうのはないから。だが、しかし、俺はホモでもない。
「んーー……物質ってさー、質量が大きい物ほど硬くて壊れにくいのよね。いろいろ例外はもちろんあるけど、基本的には、よ?」
イーヤにはまだ、くどくどと説教じみた科学解説をするつもりと、気力が残っているようだ。
マジか……
「まー、そうだよね」
俺は、適当に、調子を合わせてみた。
「そして、大質量な物ほど、動かしにくい。つか、動くベクトルを変えにくい。それは、時間の流れにおいても、そうなの」
「ああ、一般相対性理論か」
聞きかじった言葉を言ってみた。
「あ、話の腰を折らないで。今、あたしが頑張って、あんたがどうにか理解できるように優しく説明してるとこだから、ね? で、大質量な、そして大きな物というのは、時間の流れを堰き止めちゃうの。さっきの例えで言うなら、川の中に大きな岩があると思いねえ。その岩にぶつかった川の流れは、岩の周囲を避けて流れる。ちょっとずつ、その岩を押し流しながらね。で、その岩のすぐ後ろの流れは、比較的緩やかになる」
「え、それは場合によるというか。普通は波立ったり渦を巻いたりして、緩やかにはならな――」
反射的に、俺が思わずツッコミをいれると、イーヤの形相が「クワッ!」となる。
「っっから! 今、あたしが喋ってるよね? いい、基本的には、緩やかになるの。科学的に物理的にはそうなの!」
「はい……」
まー、激流の勢いをそぐための堰ってあるよね。知ってる、知ってる。
だけど、このコ、やっぱ女子なんだなー。重力の話をしてるのに「重さ」って言葉使わないもんな。そのへん、神経質になっているんだろ。
「とにかく、大質量の物体にはね、自分が激しく時間にぶつかられる代わりに、周りの物体の時間を遅く進ませる力があるのよね」
そうなるわけかー、と、俺は心底感心してしまった。話に、一応は筋が通ってると感じた。
まー、俺達の宇宙が、そもそも時間の奔流の中にあるというなら、重力が光速か、それに類するスピードで伝わるというのも頷ける。
川の中の大きな岩が激流に耐え切れず砕け散れば、あるいはこの場合、ダムが決壊すればと例えたほうが分かりやすいかもしれないが、その下流にあるものは一瞬で、あっという間に押し流されてしまうだろう。
堰き止められていた力が解放されるだけなわけだから。
「時間が遅くなるってことはつまりー……なんだ、それだけ、一定時間あたりのエネルギーが少なくなって、その、とにかく失速して、小質量の物は大質量の物のほうに落ちていってしまうの。それで……そう! 大質量の物体の上の小質量な物体の時間は、本来のものより、ゆっくりになってしまうわけ。分かったぁ? ねえ!」
「え?」
俺は、たしかにその時、考え事をしていた。だが、誓って言うが、よく聞いてなかったわけではない。
なんか、いきなり念を押してくるから、答える心構えが出来てなくて……
――一悶着。
「ね、時間ってのは、物理的にはそういうもんなの。川の流れがそうであるように、時間の流れを遡っても、そこで昔あったことを追体験したりはできないの。上流に行ったって、そこには後続の時元宇宙が流れてるだけ。分かった?」
俺は、ボコボコにされた自分の頭やら顔を擦りながら、小さく答えた。
「うん……」
「返事してよ!!!」
「は、はい!」
二度目の返事は聞こえたらしく、イーヤは「ホントかなー」とでも言いたげなまま、独演を続けた。
「1度起きたことは2度と起きない。ミライにも、カコにもね。物理法則ってゆー無慈悲でいい加減で、人間に厳しい――この大自然が、わざわざちっぽけな人間のために詳細克明な記録を保存してくれているわけないから――ね?」
まーた、イヤらしく同意を求めてくるよ、この女子。
「ね?」
ウンザリしてる俺の気持ちを知らないでか、再度
同意を求めてくる、イーヤ。
だが、大人しく聞いていた俺には、そのとき、どうしても言いたいことがあった。
彼女に言わせれば、いわゆる歴史改変が不可能ということは、分かってはいた。
だが……あー、どうしよ。俺は、大いに躊躇ったが、やはりここは、勇気を振り絞って、反論するべきだろうと、決意する。
「記録してるもの、あるだろ」
声を押し出すと、イーヤは本気で驚いたのか、目を見張った。
「何が?」
「光だよ」
反問され、俺は即答した。
「は?」
「光には、過去に起きたことが克明に記録されてるはずだろ。ここから1億光年離れた場所から届く光は、1億年前のものなんだぜ」
それは、過去や未来へのタイムトラベルの話とはまったく無関係なことではあった。
だが、何か、とにかく言い返したいという衝動に駆られ、俺は言った。
イーヤは、目をまん丸にしたまま、しばらく言葉を失っていた。
やったか、と俺は期待した。
が、やがて――
「光なんて信じてんの、あんた?」
などと反攻してきた。
あ、これは……
「駄目だって、光なんか信じたら! 光で得られる情報なんてウソっぱちなんだから! いーい? ね、ちょ、聞いて! 光ってのは――」
迸るような勢いで、光について語り出す、イーヤ。
もーー……いい加減、帰りたいんだが。まだまだ、俺は帰宅できそうになかった。つーか、こいつ、帰らせる気あるのかな? 俺、もしやここで、解剖されたりして……いや、まさか。
とにかく、我慢して、長い話につき合うしかなさそうだった。目の前の好戦的なケモ耳女子の気が済む、そのときまで。