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死にたかったか、龍馬 その五

 「さて、話は戻って、江戸から帰ってきたばかりの二十二歳の若者・龍馬は、四国を訪れていた水戸藩士の住谷、大胡といった、いわゆる水戸学の勤王の志士と会談するわけですが、住谷からは好意的ながらも、かなり馬鹿にされています。住谷の龍馬評は、『誠実かなりの人物併せて撃剣家、事情迂闊何も知らず』であり、誠実でかなりの人物であり、剣士でもあるが、世の中の社会情勢に関しては何も知らない男である、と評されています。今風に言えば、剣術遣いで人間も真面目でありかなり良い若者であるが、世の中の動きに関しては何も知らない無邪気な田舎者である、ということでしょうか」

 

 「江戸には、最初が一年、二回目が二年、都合三年間も留学というか、遊学していたわけだけれども、安政の大獄の年なのに、社会情勢には疎く、剣術ばかり励んでいたのかねえ」

 小泉さんも少し呆れた顔をしていた。

 

 「でも、龍馬はかなりマイ・ペースの男ですよ。十九歳の頃に詠んだとされる歌があります。『世の人は

我を何とも ゆはばいへ 我が成すことは 我のみぞ知る』。血液型で言えば、B型の人だったかも知れません。でも、この歌はその後の龍馬の生き方を見事に象徴しているようにも思われます。武力討幕から大政奉還での無血革命を目指した龍馬の態度に怒った桂小五郎が討幕派へ戻るよう説得しようとしても、逆に桂に大政奉還の必要性を説き続けた龍馬はまさにこの歌通りの男でしたから。龍馬の豹変振りは多くの討幕派の怒り、顰蹙を買ったことだと思います。親友の中岡慎太郎も怒った一人で、近江屋で襲撃された時も激論して何かの弾みで刀を抜き合うのは宜しくないだろうと、龍馬・中岡共に刀を近くに置かず、遠ざけておいたのが、刺客に容易く斬られたしまった原因だ、と推定する歴史家も居るくらいです」


 しかし、この無邪気な若者、龍馬は段々変貌を遂げていく。


 文久元年九月二十五日(一八六一年十月二十八日)二十五歳、土佐勤王党に血判加盟

 文久二年一月十五日(一八六二年二月十三日)二十六歳、萩に久坂玄瑞を訪れ面談

    ※その後、京阪或いは九州巡歴の説あり

 文久二年三月二十四日(一八六二年四月二十二日)沢村惣之丞と共に脱藩


 「龍馬は二十六歳の時に、沢村惣之丞、この人は後に海援隊士・関雄之助と名前を変える人なんですが、この沢村と連れ立って脱藩します」

 「封建社会で、脱藩というのは立派な罪になる」

 「そうです。龍馬の場合は、二十一歳年長の兄がこの時点では家督を継いでいたわけですが、兄の権平は弟の脱藩を翌日、直属の監督者である福岡家に届けを出しています。また、その後、家伝の刀も紛失していることも届け出をしています」

 「この刀の紛失には、龍馬の次姉・栄が脱藩する龍馬に家伝の宝刀を渡し、その後、自刃した、という悲話もある」

 「しかし、その悲話は事実では無く、栄という姉は嫁ぎ先で早死にし、龍馬の脱藩云々とは無関係である、という説の方が現在は有力となっています」

 「案外、刀の方は三歳か四歳上の姉の乙女が国事に奔走すべく、生まれ育った国を捨てて旅立つ、可愛い弟への餞として渡したのかも知れないね」

 「さて、龍馬脱藩に際して、武市半平太のエピソードが残っています。土佐勤王党に名前を連ねておきながら、勝手に脱藩して土佐を離れる、ということは単純に言えば、血判まで押してひとたび加盟した党を無断で抜けることであり、同志の結束をも乱すことであり、武士としての信義上は許し難い暴挙という観点で勤王党のメンバーは龍馬らを非難したわけですが、武市は龍馬を庇って、追跡を許さず、黙許しています。その時言った言葉が残っています。『土佐にはあだたぬ奴なれば』、という言葉です。あだたぬ奴、というのは、土佐の方言で、包蔵することができない、とか、収容しきれぬ、といった意味です。つまり、土佐という狭い国には、到底収まりきれぬ男だ、ということでしょう。また、武市が詠んだとされる龍馬に対する詩文も残っています。『肝胆元より雄大にして、奇機自ら湧出す、飛潜誰か識る有らん、偏に龍名に恥じず』、という詩文です。英雄は英雄を知る、男は男を知る。男なら、このように言われてみたいものですねえ。武市という人物も爽やかでいいですねえ。後年、京都で岡田以蔵を使って佐幕派暗殺を頻繁に実行させた黒幕とは別人ではないかという印象すら持たせます。時代が人を変えてしまうのでしょうか」


 脱藩後の龍馬の足跡は以下のようになっている。


 文久二年四月一日(一八六二年四月二十九日)二十六歳、下関の白石(しらいし)正一郎(しょういちろう)方に現れる

   ※その後の消息は不明。単身、九州を巡歴し、薩摩への入国を図ったが叶わずとの説あり

  同年六月十一日(一八六二年七月七日)大坂に現れる


 「大坂で龍馬に会った人の証言では、この時、龍馬は刀の柄を手拭いで巻いていたということであり、訳を訊いたところ、柄頭を売ってしまったと語っていたとのことでした。余程、金に困って、路銀の足しに柄頭の金具を売ってしまったということなのでしょう。それにしても、困窮の至りですね」

 私の話に、小泉さんは笑って言った。

 「いかにも、ものにこだわらない龍馬らしくって、いい話じゃないですか。それにしても、武士の魂である刀の柄頭の金具を売って路銀の足しにするとは、ね」


  同年閏(うるう)八月二十二日(一八六二年十月十五日)江戸に着き、桶町千葉家に逗留

  同年九月或いは十月頃、越前福井藩主・政事総裁職、松平春嶽に謁見

  同年十二月五日(一八六三年一月二十四日)二十七歳、松平春嶽に再謁見


 「千葉周作が開いたお玉ケ池の千葉道場と区別する意味で、周作の弟の定吉が京橋桶町に開いた道場は桶町千葉道場と呼ばれ、この頃は定吉の長男の重太郎が道場を仕切っておりました。そして、重太郎は小千葉の若先生と呼ばれていたようです。龍馬より十二歳ほど年長ですから、この頃は三十八歳ぐらいになっていました。父の後を継いで、二年前に鳥取藩の江戸指南役に就任しておりますから、身分は鳥取藩士です。ちなみに、妹の佐那子さんは龍馬より二つ下の二十四歳になっています。龍馬が桶町千葉に入門したのが十七歳の時で、佐那子さんは十五歳ですから、かれこれ九年にもなるお付き合いと言えます。当時、二十四歳にもなって、お嫁に行かないというのも何か不自然な感じがします。龍馬を許婚と思っていたのではないでしょうか。まあ、龍馬と佐那子さんの仲を穿鑿するのはこの程度にして、龍馬はこの年の秋、越前福井藩の藩主である松平春嶽を訪ねています。これには、正直驚かされます。龍馬は土佐に居た時は、郷士ということでお城にも登城できない身分で、まして脱藩浪人の身で一国一城の主たる藩主を訪問するなどということは普通の考えなら、まさにあり得ないことですから。これには、勿論裏があります。千葉重太郎の存在です。重太郎は鳥取藩士でありながら、北辰一刀流の道場主ということで、福井藩の江戸詰めの藩士にも剣術を教えていました。その関係で、重太郎の紹介状を持参して龍馬は春嶽さんに面会を求めたのでしょうね。春嶽さんも藩主でありながら、一介の脱藩浪人に会ってくれる、凄いお殿様です。龍馬は土佐藩士の岡本健三郎を誘って春嶽さんを訪ね、面会を果たすのと同時に、ちゃっかり、勝海舟・横井小楠への紹介状も貰っています。春嶽さんもタイプは異なるものの、三年前の安政の大獄で刑死した橋本左内を思い、生きていればこの龍馬と同じぐらいの齢になると哀しみにも似た感慨を新たにしたのかも知れません。春嶽さんが龍馬を気に入ったのは間違い無い事実だと思います。龍馬とは八歳ほど年長ですから、当時三十四か、三十五歳の青年藩主でした。同伴した岡本健三郎は当時二十歳の少年に近い若者でした。脱藩浪人が堂々と自藩の藩士を連れて歩いていたわけです。この岡本はその後折につけ、龍馬のSP的護衛役を買って出ております。龍馬が暗殺された時も、暗殺者が訪れる直前まで近江屋に居た若者です。年長者である春嶽を魅了し、年少者である岡本健三郎を魅了し惚れ込ませ、自家薬籠中のものに仕立て上げてしまう龍馬の面目躍如といったところですね」

 「丁度、若い頃の秀吉といったところでしょうかねえ。天性のひとたらし、ですかね」

 小泉さんも感心したように、相槌を打った。


 『竜馬がゆく』を書いた司馬遼太郎は龍馬の魅力を次のように書いているような気がする。


 男から見た龍馬

  年長者の場合 やんちゃな弟のような男としての可愛さ(じじい殺し、か)

 同年輩の場合 頼もしい男としての魅力

  年少者の場合 尊敬してしまう兄のような頼り甲斐のある男

 

 女から見た龍馬 

  少し危険を感じ、どうしようもなく、母性愛を感じてしまう男

 

 司馬遼太郎は、龍馬は男にも女にも惚れられる男である、との見方でこの小説を書いたように思われる。

 また、下関では伊藤助太夫、長崎では小曽根英四郎という豪商の家にお龍共々居候するが、居候させている男たちをも魅了しているように思われる。

 抜け目のない一流の商人たちにもいい気持ちで面倒をみさせる男であると言ってよい。

 しかし、その反面、誰だったか名前は忘れたが、どうも龍馬は好きになれない、と言った作家か評論家も居る。

 龍馬に少し崩れた遊び人、遊興好きの男、言わば、遊蕩児のにおいを感じてしまい、どうも好きになれない、とその人は何かの座談会の席上、話していた。

 おそらく、こういう人は龍馬よりも中岡慎太郎のような清廉、謹厳実直を画に描いたような男が好みなのであろう。

 龍馬と慎太郎、性格も体格も違う面白い組み合わせであり、歴史は時々面白い組み合わせを図るものである。

 龍馬を好む人、慎太郎を好む人、それはどちらを生涯の友として選ぶか、という選択を強いることかも知れない。


  同年十二月九日(一八六三年一月二十八日)重太郎と共に、勝海舟を訪問


 「この時、龍馬は勝海舟の話に共鳴し、その場で勝に入門した、と伝えられている」

 「龍馬と勝の有名な出会いでしたね。後年の勝の話に依れば、龍馬と重太郎は俺を斬りに来たんだ、と話している出会いでした。実際の話はどうだったか。勝の法螺かも」


 同年十二月十七日(一八六三年二月五日)勝海舟に随行し、千葉重太郎、近藤長次郎と共に幕府軍艦・順動丸に乗船し、品川から兵庫へ

 同年十二月二十九日(一八六三年二月十七日)千葉・近藤と共に、兵庫滞在中の勝を訪問

 文久三年一月八日(一八六三年二月二十五日)大坂に勝を訪問

 同年一月十三日(一八六三年三月二日)勝に随行して、順動丸に乗船し、兵庫から江戸へ

 同年一月十五日(一八六三年三月四日)伊豆・下田に寄港

 同年一月十六日(一八六三年三月五日)勝海舟、下田・宝福寺に滞在していた山内容堂に面会し、龍馬の脱藩罪赦免を要請する

 同年一月二十五日(一八六三年三月十四日)幕府大目付・大久保忠寛(一翁)を訪問

 同年二月二十五日(一八六三年四月十二日)京都の土佐藩邸で七日間謹慎後、脱藩罪赦免

 同年三月六日(一八六三年四月二十三日)藩から航海術修行の藩命を受ける

 同年四月二日(一八六三年五月十九日)大久保一翁を再訪、松平春嶽宛の親書を託される


 「幕府の重臣、勝海舟の弟子となり、大目付の大久保一翁の知己も得て、越前に帰っている」

 「松平春嶽宛の親書を託されるまで信頼されていきました。また、勝海舟は前土佐藩主の山内容堂に龍馬の脱藩罪の赦免を願い、これは京都の土佐藩邸で一応七日間の謹慎を行うという形式的なことで赦免となりました。勝と龍馬の師弟関係の蜜月時代の幕が開きました」


 同年四月二十四日(一八六三年六月十日)幕府、神戸に海軍操練所の設立を決定

 同年四月二十七日(一八六三年六月十三日)勝は神戸在勤となり、私塾開設も認められる

 同年五月二日(一八六三年六月十七日)勝の使者として姉小路公知を訪ね、贈物を届ける

 同年五月十六日(一八六三年七月一日)勝の使者として越前に松平春嶽を訪ね、神戸海軍塾援助資金五千両の借金を申し込む


 「いよいよ、幕府の海軍操練所の開設となります。海の男、龍馬の誕生です。勝は私塾の開設も幕府により認可されましたが、先立つ資金が無く、横井小楠の周旋で松平春嶽公に借りようということになり、龍馬は越前福井に派遣されます。借金額は五千両です。一両を六万円とすれば、三億円となります。春嶽公はさすがに太っ腹で、この借金は認められます。翌日の十七日には横井小楠の案内で三岡八郎(後の由利公正)を交え、三人で炉を囲みて飲む、と記録している史料もあります。七月ということで別に寒い時期ではありませんが、囲炉裏を囲んで気の合った者同士で飲む酒はさぞかし美味しかったでしょうね。この時、龍馬が酔いに任せてかどうかは知りませんが、高らかに吟じた歌が残されています。『君がため 捨つる命は 惜しまねど 心にかかる 国の行末』と声調すこぶる奇に歌う、と記されています。いかにも、草莽崛起の勤王の志士的雰囲気が漂っている歌です。龍馬は二十七歳の血気盛んな若者でした」


 同年五月二十七日(一八六三年七月十二日)越前藩京都屋敷に中根靱負を訪ね、春嶽の上洛を要請する


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