चंद्र讚歌 -La L'inno per il Candra-
ファーストキス
●登場人物
カステヘルミ・ユスティーナ・テルヴァハルユ
Kastehelmi Justiina Tervaharju
領主テルヴァハルユの一人娘。
アスラク・ヨンネ・ニクラ
Aslak Jonne Nikula
カステヘルミの許婚。
エイネ
Eine
テルヴァハルユ家に仕えるメイド。
その日、カステヘルミ・ユスティーナ・テルヴァハルユお嬢様は朝から少々ご様子がおかしかったのですよ。エイネは語る。エイネはテルヴァハルユ家に仕えるメイドだった。夜、屋敷のキッチンで洗い物をしていた彼女は、上の階から恐ろしい叫び声と、何か重いものが床に落ちるような音を聞き、不思議に思って階段を駆け上がり確かめに行ったそうだ。部屋の扉を一つひとつ開けては恐る恐る中を見て回ることを繰り返し、ついにカステヘルミの部屋の扉をノックした。
「お嬢様、入りますよ」
はあい、と返事があった。カステヘルミの声だった。エイネはこれを聞いて安堵した。もしやお嬢様の身に何かあったのかもしれない、と心配していたからだ。エイネは扉を押し開けた。その途端、噎せ返るやうな臭いに思わず鼻を覆った。
「今思えば、異様に幻想的な光景でした。部屋の明かりは点いていませんでしたから、幽かな月明りに照らされて、お嬢様が窓際に座っていらっしゃるのが見えました。『ああ、お嬢様、ご無事で――』しかし、次に私の目に飛び込んできたのは、カステヘルミお嬢様のお口許に付いた真っ赤な血液と、そのお膝に抱かれていましたアスラク様、そして、お嬢様が血の海の真っ只中に座っていらっしゃったということだったのですよ!」
エイネは一気にまくしたてると、当時の状況を思い出したのか大きく身震いした。カステヘルミはエイネに見られても全く動じることなく、ただ微笑んだだけだったという。それからおもむろに口を開いて、斯う言ったそうだ。
「ねえ、エイネ、やっぱりファーストキスは血の味がしたわよ。甘い、血の味」
そして、抱きかかえていたその血塗れの顔にキスをした。
***
AAMU
その日、カステヘルミ・ユスティーナ・テルヴァハルユお嬢様は朝から少々ご様子がおかしかったのですよ。エイネは語る。
「ねえ、エイネ、世の中では時折『ファーストキスは甘いフルーツの味』なんて言ったりするけれど、本当にそうなのかしら」
カステヘルミはメイドのエイネにそう訊ねた。突然の質問にエイネは少したじろいだ。
「さあ、どうなんでしょうねえ。人それぞれだとは思いますが」
「きっと確かに甘い味なんだわ。でも、甘いと言っても、そう、愛する人の甘い血の味よ、きっと」
「まあ、血の味ですか」
このときエイネは少しぎょっとしたが、ただのおしゃべりだと思って特に気になかった。
ちょうどこの日の午後に、カステヘルミの幼馴染で許婚のアスラク・ヨンネ・ニクラがテルヴァハルユの屋敷を訪ねてくる予定で、アスラクはその通りにやって来た。領主テルヴァハルユ家とニクラ家との取り決めで、カステヘルミとアスラクは生前から既に結婚することになっており、二人は幼いころから一緒に育ち、エイネもアスラクのことをカステヘルミと同じように可愛がってきた。
また、ニクラ家には代々伝わる風習があり、男子は15歳になったら見聞を広げるために一人で各地を旅して回ることになっていた。当初、アスラクは許婚であるカステヘルミを連れて行きたがったが、それは『一人で旅すること』に反するのと、女性を大変な目に会わせるつもりかと窘められ、結局一人で旅に出たのだった。カステヘルミは当然寂しがった。いくらアスラクが、きちんと無事に帰ってくると約束したとしても、離れ離れの時間が長くなるほど気分は暗く沈んでゆくのが外から見ても明らかであった。そしてとうとう、この日、アスラクはおよそ一年ぶりに一時帰国し、カステヘルミに再会することになっていたのだ。
エイネは二人のためにお茶と菓子を出し、その後しばらくの間部屋を離れて二人きりにしておいた。そろそろお茶が切れる頃だろう時になってポットを持って二人の元へ行くと、ちょうどカステヘルミがアスラクに対して、朝彼女がエイネにしたのと同じ質問をしているところだった。
「ねえ、アスラク、よく『ファーストキスは甘い味』なんて言うでしょう? 実際はどんな味がするのかしらね」
エイネと同じように、アスラクも驚いたようだった。
「さあ、どうなんだろう、カステヘルミ、僕もキスをしたことがないからわからないよ」
エイネはこの後に発生するであろうイベントに心当たりがあったので、急に恥ずかしくなり、二人のカップに紅茶を注ぎ、そそくさとキッチンへ戻った。赤ん坊の頃から世話をしてきた二人が成長し年頃になったことを嬉しく思うと同時に、寂しくも感じるエイネであった。
***
ILTA
夕食後、エイネがキッチンで洗い物をしていると、不意に背後に気配がした。振り返ると、カステヘルミだった。
「どうかなさいましたか、お嬢様」
カステヘルミはふわふわした足取りで、夢遊病患者のような印象を与えた。心なしか顔も赤いようだ。
ああ、なるほど、とエイネは一人合点し、優しい眼差しをカステヘルミに向けた。
「エイネ」
「はい、何でしょう」
「久しぶりにアスラクに会って、私、少し舞い上がっているのかもしれないわ」
「あらあら。可愛らしいことではありませんか」
「私ね、心配だったの。アスラクが旅の途中で私以外の女性に靡いてしまうんじゃないかって。でも、ちゃんと帰ってきてくれた。だから、嬉しい」
「まあ。良かったですねえ」
アスラクが離れている間の塞ぎ込んだカステヘルミを知っているエイネは、この様子を見て安心した。
カステヘルミが自室へ引き上げて行くのを見送って、エイネは仕事を再開した。
それからしばらくして、そろそろ二人の就寝の準備をしなきゃと考え始めた時、上の階からぞっとするような叫び声と、ドスンという衝撃音が聞こえてきた。エイネは驚いて、上階へ急行し、カステヘルミの部屋の扉を開けた。
血の海の真ん中に座ってアスラクの上体を抱きかかえているカステヘルミの姿は、窓から差し込む淡い月明りに照らされて幻想的に浮き上がって見えた。傍にレイピアが転がっている。
「お嬢様、これは一体――?」
「エイネ、私、やっぱり耐えられなかったの。アスラクはこうして旅の途中で帰ってきてはくれたけれど、次に出掛けて行ったらまた同じように帰ってきてくれるかは分からないわ。その不安に押し潰されそうになるのは、もう嫌なの」
カステヘルミは憂いを湛えた表情で目を伏せた。エイネはその場の臭気と雰囲気と事実に圧倒されて気を失ってしまった。
「これでずっと一緒ね」
カステヘルミは、もう動くことはないアスラクの身体を愛おしそうに抱きしめ、そのままその場から一歩も動かず、食事も摂らず、枯れていった。その表情は、満ち足りたように優しく、美しかったという。
…My Firstкiss Tasted―