心の傷
結婚式は夜に始まった。
田舎の村において仕事とは一日たりとも欠かす事が出来ない。その為、日中は仕事をして、夜に結婚式を行うのだ。
新郎新婦が飯を振る舞う風習も、この夕方に結婚式を行うところからきている。
時間になるまでの間、暇を持て余したシンは本人の感覚では少し足を延ばして、一般的な感覚ではかなり遠くまで出かけて狩りを行った。
ただの暇つぶしであったが、獲物は振る舞いの飯には使えずとも、翌日以降の食卓の足しになる。宿代程度のつもりで大きめの鹿一頭を仕留めた。
新婦の父親ヨーゼフはシン本人よりも大きな鹿を見て腰を抜かしかけたが、獲物をタダで貰う訳にはいかないと肉代に銀貨を4枚ほどシンに握らせた。本当は皮や骨の代金も払いたがったのだが、手持ちが足りなかった事に加えシンがそこまで貰う気は無いと遠慮したのだ。新婚家庭が何かと入り用な事ぐらい、シンでも知っているのだ。
なおこの銀貨は隣国、つまり今いる国の物だったので、シンはようやく無一文から抜け出した形である。手持ちの銀貨は交換しないと使えないのだ。
「この村にまた新たな夫婦が生まれる。この村と、新たに夫婦の契りを交わした者たちの繁栄を願って! 皆、祝福の穂を掲げよ!!」
村長が結婚式を取り仕切る。
だから村長の音頭にあわせ、集まった村人が両手を天に向かって突き出した。
祝福の穂とは、万歳の事である。より多くの実りと、それがもたらす豊かな生活を願って万歳の事をそう呼ぶのだ。ちょうど、大勢が伸ばした手のひらが畑に実る小麦の穂先のようにも見えた。
祝福される側、新郎新婦は両親を背に村のみんなに囲まれて幸せそうに笑っている。
二人の格好は街であればそこいらで売っていそうな安物の服であったが、見て分かる程小奇麗な新品の木綿の服を着ていた。田舎では大体みんな着た切り雀で、替えの服などほとんど持っていない。新品の服など、こういった時にしか袖を通さない大事な一張羅である。
その服も、結婚式が終わったらみんなにもみくちゃにされてクシャクシャになるのだろう。それを着古した頃には子供ができて、どこにでもいるごく普通の夫婦になるのだ。それまであの服を着続けるのである。
「へぇ、貧乏のエドにしちゃあ良い飯を用意したじゃないか。美味いじゃないか」
「肉が入っているぜ。どこで手に入れたんだか。狩人のポパイが……って、そりゃないか。先に村長が買っちまうし」
「余所者から買ったらしいぜ。なんか馬鹿みたいにデカい鹿を持ち込んでたから間違いねぇ」
「そりゃあいい。俺らの取り分もあるならどれだけでも欲しいよな」
「どうやって買うんだよ。そんな金があるのか?」
「ねぇに決まってるだろ。お前もだろ?」
「そうだな。違いねぇ」
数人の村人が、振る舞い飯に入っている肉を見つけて騒いでいる。
この村では狩人がたまに獲ってくる獣の肉しか手に入らないのだが、それを口にする機会は思った以上に少ない。村長など一部の者が買い上げてしまうし、食べない肉を干し肉にして売ってしまうため、滅多に村民まで回っていかないのだ。
貨幣経済にもなれていない為に金銭はほとんど手元にないし、買おうにも金が無い。
ならば物々交換をすればいいのだが、穀物と肉では価値が違いすぎる。一食分の肉の為に数日分の穀物を持っていかれる為、年に何度も交換できないのだ。運よく口にできる時は、畑に害獣が入ってきて、それを仕留められた時ぐらいである。
シンから肉を買いそびれた村長は面白くないといった顔をしているが、それでも持ち込まれた鹿は村長にもある程度売却される事になる。多くを手に入れても塩が足りないのですべて干し肉に出来るわけでもないし、ある程度で我慢しておこうと打算を働かせている。
そんな祝福とは縁遠い連中を無視し、新郎新婦とその友人たちは笑顔でじゃれあっていた。
「ソフィアを泣かせるんじゃねぇぞ!」
「お前こそ、カミラさんをいつも困らせてばかりだろうが!」
「言ったなこいつ!!」
先輩風を吹かせる20歳ぐらいの友人に対し、18歳ぐらいの新郎が言い返して、同じぐらいの歳のまわりの連中が笑う。
小さなコミュニティでは人間関係が全てを決めると言っていいが、彼は上手くやっているようである。同じ世代の仲間たちと笑い合う所を見る限り、ちゃんと溶け込んでいるようである。
「初夜の作法は分かっているわよね」
「ちょ、声が大きいですカミラさん!」
「いい、相手に全部任せるようにしてもそれだけだと上手くいかないから、ほんの少し分かりにくい所で、腰を浮かせたり相手がやりやすいようにするのよ」
「だから、もう少し声を抑えて!」
「ソフィア、貴女の方が声が大きいわよ」
新婦の方も、奥様方から夜の助言など色々聞かされ、可愛がられているようだ。
ただ会話内容が気恥ずかしいのか、新婦の顔は真っ赤である。
周囲の笑顔を見る限り、こちらも存分に愛されているようである。
そんな大勢の様子を、シンは少し離れたところから眺めていた。
すでに出来上がった集団の中に混ざるのは難易度が高く、戦闘のように気負わずにいるのができなかったのだ。シンは気後れしてしまい、輪に加わろうとする事ができないでいた。
「今日は助かりました、お客人」
そんなシンに、新婦の父であるヨーゼフが声をかけた。
「気にしないでください。あれぐらい、大した手間じゃないから」
ヨーゼフは肉の提供について礼を言うと、シンは何でもない事だからと、心から大したことをしていないと思って軽く返す。
「あの子は、ソフィアは私にとって一番下の娘になります。
いつも上の子のお下がりばかりのあの子が、ようやく自分の為の服を着て、自分だけの伴侶を得て。そして自分だけの人生を歩み始めるのです。
その門出に充分な祝いの品を用意できたのは貴方のおかげなんですよ。
本当に、ありがとうございます」
ヨーゼフは自分の一番下の子よりもさらに若い男に対し、深々と頭を下げた。
その様子にシンは、自分の父親と見比べてしまい、自分がとてもちっぽけな人間であるかのように感じた。
親の愛情を注がれ育った娘と、親から疎まれた自分。
何が違うのか、どうすれば良かったのか。
シンはヨーゼフから感謝された事で、喜びよりも先に、泣きたいほどの惨めさを感じた。
幸せそうな新郎新婦が、心から羨ましかった。
シンは振る舞い飯と一緒に出された酒杯を空にすると、誰かに語りかけるようでもなく、吐き出すように自分語りを始めた。
「僕が12歳の時に村が襲われて、その時にいろいろあってそのまま戦場に駆り出される事になりました」
そんなシンの語りに、ヨーゼフは何も言わず聞き手に回る。
「それから4年。ずっと戦っていました。命の危険を感じる事はありませんでしたが、本当に戦ってばかりでした。
たまに家に帰る事も出来たけど、その時の父さんは僕の事を褒めてくれました。さすが俺の子供だ、と。誇りに思う、と」
シンはうつむき、顔を隠すようにしてから続ける。
「でも、全部駄目になりました。平民だから、それまで頑張ってきたのが全部無意味になりました。
父さんは、家族は僕を捨てました。好きになった女の子も、平民とは一緒になりたくないって、僕を捨てました」
シンの声に嗚咽が混じる。
「なんででしょうね。
一生懸命頑張って、言われた事もできるまで頑張って。
褒めてもらえた、認めてもらえた。そう思っていたのに!」
シンは王女に裏切られた日から何度も泣いていた。
しかし流れた涙では心の中の棘が抜けてくれず、ずっと傷口から血が流れるようにシンを苛んでいた。人の優しさは傷を隠してくれてはいたが、癒えてはくれなかった。
傷ついたままの心が、「どうすればいい?」と答えを探していた。
ヨーゼフは、そんなシンに年長者として一つの回答を示す。
「どんな事情があったかは分からないが、また、頑張るしかない」
シンは嗚咽をこらえ、返事ができない。
「せっかく耕した畑が大雨で流され、駄目になった事があった。
せっかく埋めた種を猪に荒らされ全部食われた事があった。
頑張ったからといって、報われる事ばかりじゃなかった。真正直に生きてきたが、悪さをする奴らの方が上手く世の中を渡っていると思った事は何度もある」
シンは確かに全てを失ったかのように見えるが、ヨーゼフに言わせれば、それが全てとは言わない。
16年の人生で見ればすべてに見えても、長い人生の中で見れば失ったものはほんの一部でしかない。
それに、シンはまだ生きている。
五体満足で生きているのだ。大きな鹿を狩る程の能力も持っている。
若いシンならいくらでもやり直せると、ヨーゼフは確信していた。
ヨーゼフはシンの肩に手を置き、若い夫婦の方に体を向けた。
新郎新婦、エドとソフィアは頬を朱に染め寄り添うようにしながら、まわりに向かって手を振っていた。
絵に描いたような幸せの光景がそこにはあった。
「頑張って、人に認めてもらって、嫁を貰い、子を為し、育て、次へと繋げなさい。
頑張るのは今からでも、きっと遅くない」
シンは顔を上げ、若い夫婦の姿を目に焼き付ける。
子供とか“次”というのは想像もできないが、それでもあの姿は自分が欲しい物で、目指す場所の一つだ。
忘れないように強く記憶に刻み込んだ。
シンはここで、道標を得たのだ。
「もしよかったら、この村で頑張ってみないかい?
最初は大変だろうけど、私も手を貸そう」
ヨーゼフがシンを村に勧誘したのは打算もかなり混じっている。シンの狩人としての優秀さを考えれば是非来てくださいと頭を下げるべき相手だと思えるほどに。
シンはそういった思惑を見抜く事ができるほど人生経験を積んでいなかったので、傷心につけ込まれたわけではないが、差し出された手を素直に取った。