広がる輪
“人と関わる仕事をする”
それはシンの世界を大きく広げた。
それまでは狩人として獲物をしとめ、男爵に売りに行くだけだった。あとはエド夫妻のところに遊びに行くだけである。
男爵は貴族なので使用人を雇ってはいたが、ここは人口300人に満たないポコリ村である。男爵の家にいるのは嫁と子供たちと使用人、全員を合わせてもたった六人しかいなかった。
エド夫妻の家の場合はエド夫妻と子供のスレイ、あとはその親達である。最大七人であるが、顔を合わせることがあるのはだいたいソフィアとヨーゼフ、そしてスレイなので実質三人(うち一人が赤子)であった。
たった九人。
はっきり言って、代わり映えしない顔でしかない。
ごくまれに兵士仲間が自宅での食事に誘うが、人の輪はとても小さい。
教師を始め、その輪に生徒となる者が加わった。
一度に教える人数は五人だが、村の若い者から順にほぼ全員が参加予定である。
参加しないのはごくわずかな老人ぐらいである。
参加費用として食料を出すという話もあったが、領主の方で一括して代金を払うという話になっているので、みんなタダなら試しに学んでみようという気になっていた。
たった一日で魔術の基礎を学び終えられるはずもないのだが、どこにでも才能がある者はいる。
さわりを学んだだけでコツを掴み、一つ二つではあるが魔術を行使してみせる者もいた。コップに水を満たす、火種を作る程度の簡単な魔術であったが、それが出来ると出来ないでは大きく違う。
“ポコリ村の魔術師”は徐々に名を広めていく。
そうすると他の村からも学びたい者が集まるのだが、一日五人では順番待ちとなり、彼らの望みがかなうのは先の話である。
ただ、それでもシンの影響は確実に広がっていく。
シンと、ポコリ村の男爵と、サイアプ国の国王と、村のみんな。彼らの想定をはるかに超えた場所で、影響が広がってしまった。
シンに対して何もしないとはいえ、サイアプ国ではその動向を監視するぐらいの事はしていた。
なので、魔術を教え始めた事も知っていたし、だからといって何かしようなどとは考えていなかった。
国内で他国の魔術を学べるとあっては王都の魔術師たちがうるさく「シンは王都に連れてくるべきだ」と進言をしていたが、国王はそれを拒否していた。
彼らの進言は小さな目で見れば正しいのだが、大きな目で見るとシンを制御できると言う事が前提条件の為、実質不可能であると国王が判断したからだ。
魔術師たちは「それを何とかするのが国王の仕事だ」と言い、国王は「それをどうにかする提案ができない限り採用はしない」と言い返す。
少なくとも、サイアプ国の魔術師たちは国王の手によって制御されていたため、こちらは問題なかった。
問題があったのは、そのほかの国である。
「ええい! 我が国の機密が漏れているではないか!! なんともならんのか!?」
「はい、さすがにあの国に攻め入るわけにもいかず……」
「何故だ! 奴らは我が国の勇者をかすめ取ったのだぞ!」
「サイアプ国からは「勇者など知らないし、もしいたとしても関与する気は無い」と返答を頂いておりまして……。
また、「もし魔術師が我が国の辺境にいた場合は穏便な交渉を持って王都に来ていただくが、その結果、クロッサス王国の魔術師と言う事が分かればそちらに引き渡す用意がある」とも言われておりまして。今、手出しするのは難しいです」
「あれは我が国の勇者だ! せめて遣いを出せ! 首に縄を付け連れて戻ってこい!」
サイアプ国の辺境にシンが居る事は、2年もあればさすがに周辺国家に知られていた。
平和ボケしたクロッサス王国の密偵であれ、鈍った腕を磨き直してシンの情報を持ち帰るまでになっていたのである。外交力の方も順調に回復しつつある。
そうして手に入れたシンの情報は国防の礎となる魔術の情報漏えいだというから、宮廷魔術師たちや彼らの支援を受ける騎士たちからは大いに不満が出ている。
中には勇者であるシンを道具のように考え、命令すれば戻ってくるなどと考える者まで出る始末だ。
辺境で戦っていたシンは、その圧倒的な強さとは無関係に、命令に対し忠実であった。王女の婚約者として大事にされ、特に理不尽な命令をされていなかった事もあり、無駄に逆らう気にならなかったのだ。
本人は騙されていたと知らなかった当時だけを見ればだが、そこそこ幸せな生活をしていたと考えている。
そのせいでシンの事を都合の良い駒と考える者が多いのである。暴れられれば危険であるとか、命令に従わないなどとは想像できないのだ。
これまで大人しく命令に従っていたのだから、これからも大丈夫だと無根拠にそう考えている。
彼らは、シンが脱走したという事実について考えを向ける事ができないのだ。
そして、そんな愚か者の中には、シンが二度と関わりたくないと思った女が混じっていた。
その女は、誰からも見向き去れなくなった女であった。
一度は栄華を極めたかのような幸せを手にした分、不幸が身に染みていた。罪に対する罰は非常に甘かったのだが、それでも手にした蜜の甘さを忘れられず、その幸せが手元に無いことに苦悩していた。
彼女は自らの不幸の元凶をシンであると考え、償いを求める事にした。
彼女にとって幸いな事に、国にとって不幸な事に、二年という歳月が彼女への監視を緩めており、国を出る事は難しくなかったのである。
同じように責任を取らされていたかつての仲間と共に、女は旅に出る。
全ては、彼女自身の幸せの為に。